哲学入門 (三木 清)

この自覚の意味は一層厳密に考えられねばならぬ。自覚というのは自己が自己を知ること、自己が自己を意識することである。しかしながら自覚の意味は単に自己が自己を意識するということに尽きるのではない。自己は自己を振返って見ることができ、この振返って見る自己を更に振返って見ることができる。かように自己は無限に自己を反省し得るというのは重要な事実であるけれども、もしそれが単に意識の内部において自己が自己に関係付けられることに過ぎないとすれば、それは純粋に内在的なことになってしまう。もしそれが純粋に内在的なことであるとすれば、何故にそれが、少くとも行為にとって、重要な関係をもっているのか、理解し難いであろう。自己が自己を知るという自覚の意味は、自己が自己を超えるということでなければならぬ。自己が自己を超えるというところに自己が自己を知るということもあり得る。自覚の事実は人間存存の超越性によって可能になるのであり、そこに真の主体性が成立するのである。自覚というのは単に自己が自己を知ることでなく、自己が自己を知ることに即して自己の根拠であるものを知ることである。もし自覚が単なる自己意識に過ぎないとすれば、その内容は単に自己であり、またそれはただ意識に関することと考えられ、かようにして自覚を基礎とする哲学は、従来しばしばそうであったように、内在論或いは意識哲学に終ることになる。それは自覚の事実がこれまで主として知識とその主観の問題の見地から見られたことにも関聯している。自覚の事実も行為の立場において捉えられねばならぬ。自覚の内容は自己であると同時に他者であり、そして自覚は単に意識に関わるものでなく、存在に関わるものである。単なる自己反省でなく、自己への反省が同時に他者への関係付けであるというところに、自覚の本質がある。他者とは自己の存在の根拠であるものを指している。伝統的な哲学の考えた如く、現実的存在においてはその存在と存在の根拠とが区別され、自己の存在の根拠が自己の存在に超越的であるということが現実的存在の根本的規定であるとすれば、人間に固有なものといわれる自覚は、自己の存在の根拠の意識であるのでなければならぬ。単なる自己意識でなく、自己意識が同時に根拠の意識であるというところに自覚の本来の意味があり、その根拠の意識によって自己意識も成立するのである。自覚は超越によって可能になるのであって、主体的とは、単に主観的ということでなく、却って自己の存在の根拠を自覚し、これと内面的な関係を含むということである。自己意識としての個人的自覚は人格の認識根拠となるにしても、その存在根拠であることはできぬ。しかも我の存在の根拠であるものは、同時に汝の存在の根拠であることなしに、我の存在の根拠であることもできない、我は汝に対して初めて我であるから。我々は我々の存在の根拠であるものから社会的に限定されてくるのである。かような存在の根拠が最も深い意味における世界にほかならない。主体的立場というのは個人的立場でなく、社会的立場であり、世界的立場を意味している。この世界は客観としての世界ではない。客観としての世界においては、主体である人間はその場所をもたない。見られた自己はその中に入っているにしても、見る自己はそれに対して何処か外にあると考えられねばならぬ。しかしながら、「世界は深い」とニーチェもいった如く、世界は主体である人間を内に包み、これを超えて深いのである。主体がそれにおいてある世界即ち絶対的場所は、どこまでも主体的なものでなければならぬ。それは主体である人間がそれに対しては客体と考えられるような主体である。それは「既に」そこにある世界でなく、却っていわゆる世界がそれにおいてある世界であり、真の現在である。哲学は対象的認識でなくて場所的自覚である。人間は世界から作られる、世界は創造的世界である。創造とは独立なものが作られるということである。人間は作られたものでありながら、独立なものとして、みずから作ってゆく。人間が作るのは、みずからも創造的なものとして、世界が世界を作るのに参加することである。人間は形成的世界の形成的要素である。我々が作るのは、世界が世界を作ることにおいて、そのうちに、作ることである。それ故に我々の行為は、我々の為すものでありながら、我々にとって成るものの意味をもっている。行為は同時に生成の意味をもっている。行為が出来事の意味をもっているのは、これに依るのである。人間の行為は世界における出来事であり、かようなものとして歴史的である。歴史とはもと出来事を意味している。主体的立場は歴史的立場であり、世界史的立場でなければならぬ。

かようにして哲学が主体的立場に立つというのは、要するに、現実の立場に立つということである。真に現実といわるべきものは歴史的現実である。人間は歴史的世界における歴史的物にほかならない。我々の一切の行為は、経済的行為の如きものであろうと、芸術的行為の如きものであろうと、或いはまた科学的研究の行為の如きものであろうと、すべて歴史的世界においてあるのである。主体的立場は行為の立場であるといっても、主知主義を排して主意主義を取るというが如きことを意味するのではない。行為の問題は、主観主義の哲学において考えられる如く、単に意志の問題ではない。いかなる物であろうと、物を作るということが、行為の根本的概念である。人間のあらゆる行為は制作の意味をもっている。それはすべて技術的なものであり、知識的でなければならぬ。主体的立場は形成的人間の立場であるが、人間は歴史的世界において形成されて形成するのである。歴史とは出来事であり、それは行為が同時に生成であることを意味している。従って行為の立場といっても、主観主義的な、いはゆる行動主義の如きものではない。我々の行為はつねに歴史的に限定されている、言い換えると、それは主観的・客観的なものである。主体的立場というのは単なる主体の立場でなく、却って主体を超えた主体の立場である。人間は「超越的人間」である、超越によって人間は人間であり、人間の一切の作用は可能になる。けれどもそれはいわゆる超越的意識或いは先験的意識と混同さるべきでなく、人間はその全体の存在において超越的であるのである。しかも超越的とは、世界の外にあるということでなく、却って「世界」に関係付けられているということである。そして主体と客体とが抽象的に対立するのでないように、超越は同時に内在であり、内在的超越であると共に超越的内在である。かようにしてまた、哲学は対象的認識でなく場所的自覚であるといっても、その主体的な見方は客観的な見方に媒介され、これを内に含むのでなければならぬ。場所的自覚とは現実の中で現実を自覚することである。

ところで科学の主観もすでに行為的であった。科学も行為の立場を予想するにしても、それを主体的に自覚してゆくということは、科学のことではない。科学は世界をどこまでも客観的に見てゆくのである。その主観が行為的であるのも、客観的知識に近づくためであった。科学の与えるのは世界像であって世界観でなく、しかるに哲学の求めるのは世界観である。世界像は客観的な見方において形作られるものであるに反して、世界観は主体的な見方において形作られるのである。前者は世界の対象的把握であり、後者は世界の場所的自覚である。世界観は科学よりもむしろ常識のものである。常識は行為的知識として、論理的反省を経ていないにしても、或る世界観をもっている。日常の生活において我々は多くの場合、常識的世界観によって生活している。格言や俚諺の如きものは、かような常識的世界観を言い表わしている。世界観は世界の主体的な自覚である故に、そこには情意的な見方の含まれるのがつねである。哲学において知るものは人間の全体的存在である、哲学は「全体的人間」の立場に立っている。自覚はあらゆる作用がそれによって可能になる超越と一つのものとして、意識の作用のうちの一の作用に過ぎぬものでなく、むしろ「作用の作用」として、そこでは悟性も感情も意志も結び付くことができる。世界観は我々の知的要求と共に我々の情意的要求を満足させるものでなければならぬ。常識が哲学に求めるのはかような世界観である。そして常識が哲学に対して知識や理論よりも哲学者とか賢者とかという人間理想を求めるということは、哲学を行為的知識として理解しているからである。哲学は生の立場に立つことにおいて常識と同じである。しかしながら哲学はまた学でなければならぬ、それは飽くまでも論理的でなければならぬ。哲学は学の要求において科学と同じであり、科学の媒介が必要である。科学の客観的な見方は哲学の主体的な見方に対立するが、かように自己に対立するものを自己の否定の契機として自己に媒介し、これを自己のうちに生かすことによって、哲学は真に具体的な知識になり得るのである。哲学の仕事は、新カント派が考えたような意味での科学批判、即ち単に科学の論理的基礎を明かにするという形式的な仕事に尽きるのでなく、科学的世界像に媒介された世界観を樹てることを究極の目標としている。もっとも、科学の哲学への媒介は科学批判を通じて行われねばならぬであろう。批判というのは、その前提であるものを反省してそれに基礎をおくこと、いわゆる基礎付けであり、基底付けである。そして科学の基礎付けも基底としての世界からなされ得るのである。知識の問題を存在の問題から分離することはできぬ。学的であるべき哲学は論理的でなければならぬが、論理といっても、抽象的に形式的に考えられるものでなく、論理は現実の構造のうちにあるのである。最も具体的な現実は歴史的現実である。同じ歴史が繰返すと考えるとき、そこに自然があり、自然とはいわば習慣的になった歴史である。哲学の論理は根本において歴史的現実の論理でなければならぬ。哲学はどこまでも現実の中になければならず、その点において常識を否定する哲学は却って常識と同じ立場に立っている。哲学は科学の立場と常識の立場とを自己に媒介することによって学と生との統一である。

第一章 知識の問題

一 真理

知識はいかにして成立し、いかなる性質のものかということは、哲学における一つの重要な問題である。この問題を研究する哲学の部分は認識論と呼ばれている。認識というのは知識というのと同じである。ただ認識論という名称は、他の多くの名称と同様、一定の歴史的含蓄をもっている。認識論は近世においてロックやヒュームに始まり、カントによって確立されたといわれ、現代の新カント派は、認識論と哲学とを同一視し、認識論のほかに哲学はないと主張した。しかしながら特定の立場を離れて考えると、知識の問題はギリシア哲学以来絶えず研究されてきたのである。この問題に関する哲学的考察はまた知識学とも知識哲学とも称せられている。更にそれは論理学の名のもとに論ぜられることがある、思惟の学としての論理学は実質的には認識論でなければならないと考えられるのである。認識論は「知識の起源、本性並びに限界」に関する研究と定義されている。

知識の問題の中心をなすのは真理の問題である。知識とは真なる知識のことであって、偽りの知識は知識ともいわれない。知識は真理であることを要求している。真理は知識の価値を意味し、これに対して虚偽は反価値である。真理と虚偽とは理論的領域における価値と反価値との対立を表わす言葉である。真理とはいかなるものであろうか。

知識は個人的なものでなくて一般に認められるものでなければならぬ。ただ自分はそう考えるというのでは単なる意見であって、知識ではない。自分にとってはそうであるが他の者にとってはそうでないというものは真理とはいい得ない。真理はあらゆる人によって承認さるべき要求を含んでいる。或る時にはそうであるが、他の時にはそうでなく、或る処ではそうであるが他の処ではそうでないというものも真理でなく、真理は時と処を超えて通用するものでなければならぬ。知識はかような性質をもつべきものであって、普遍妥当性といわれるのがそれである。真理とは普遍妥当的な知識にほかならない。普遍妥当性とは、時と処に拘わらない普遍性、またすべての人が必ず承認しなければならぬ必然性を意味している。一般に価値とはかように普遍妥当的なものをいうのである。普遍性と必然性、或いは普遍妥当性は真理の徴表である。

ところで知るということは一つの心理的事実であるが、かようなものとして見ると、知識はつねに普遍性と必然性をもっているとはいわれないであろう。或る者が真理として主張するものも、他の者は承認しないことが多い。真理はしばしば万人に反対して叫ばれるのである。すべての人に承認される真理というものはむしろ存在しないのが普通である。個人としても、昨日まで真理と確信していたものに対して、今日は懐疑的になることがある。一つの知識も、或る人には一層多く必然的と思われ、他の人には一層少く必然的と思われるであろう。かように、心理的事実としては、知識はつねに普遍性と必然性をもっているとはいえない。そこで知識の普遍妥当性は、カントの言葉を借りていうと、事実の問題でなくて権利の問題であると考えられるのである。それは知識が事実として普遍性と必然性をもっているか否かに関わるのでなく、すべての知識は権利として普遍妥当性を要求することをいうのである。真理は、実際は何人も承認しないにしても、あらゆる人によって承認さるべき権利をもっている。真理のこの要求は、事実いかんに拘らず、厳粛である。権利の問題は事実の問題でなくて当為の問題である。それはつねにそうあるという意味でなく、つねにそうあるべきであるという意味である。存在(ある)と当為(べし)とは区別されねばならぬ。価値は普遍的に妥当するものであるが、妥当するということは存在するということと全く違ったことでなければならない。そこに心理主義に反対する新カント派の論理主義の主張がある。心理主義は物を心理的事実の立場から見てゆくに反して、論理主義はそれを論理的意味の立場から見てゆこうとするのである。

いま右のように考えることによって明かにされたのは、形式的真理概念である。真理の形式的概念は普遍妥当性である。いわゆる論理主義は形式主義にほかならぬ。それは知識が形式的にはいかなるものであるべきかを明かにするにしても、実質的にはいかなるものであるかを明かにすることなく、却って知識の問題から存在の問題を駆逐することになるであろう。真理は普遍妥当性であり、これは当為或いは価値を意味し、価値は妥当するものであって存在するものでなく、妥当の領域と存在の領域とは全く別のものであり、知識が普遍妥当性をもつためには、判断において承認もしくは否認される認識の対象は、存在でなくて価値でなければならぬと主張された。しかしながら真理の意味を実質的に規定しようとするとき、存在の概念は欠くことができないであろう。知識は存在に関係付けられたものとして知識である、何等かの存在との関係を含まないような知識はない。そこで伝統的な定義は真理を、物と観念との一致と規定している。カントもこれを認めなかったのでなく、彼もまた、真理は「認識とその対象との一致」であるといっている。認識とその対象或いは存在との一致が認識の客観性或いは対象性を形作る。しかるに他方から考えると、知識が客観的なものでなければならぬということは、それが主観的個人的なものでなく、普遍的必然的なものでなければならぬことを意味している。かようにして、知識の客観性或いは対象性は二重の意味に解されることができる。即ちそれは、一方知識の普遍妥当性を意味すると共に、他方知識が客観或いは存在に関係付けられていることを意味している。そこでもし後の意味を離れて前の意味をのみ強調すれば、形式的な論理主義における如く、存在の概念から抽象して真理の概念を規定することも可能であろう。しかしながら知識の客観性はむしろ言葉通りに知識が客観或いは存在に関係付けられていることと理解されねばならぬ。存在との関係を含まないような知識はあり得ない。知識の客観性は、カントのいった如く、「客観的実在性」のことでなければならぬ、従ってそれは存在に関係付けられているということでなければならぬ。知識が主観的でなく普遍妥当的であるということも、それが客観に関係付けられることによって可能になるであろう。

しかるに客観に関係付けられることによって、知識に客観性或いは普遍妥当性が与えられるためには、客観が超越的なもの、言い換えると、主観から独立なものであることが必要である。対象の超越なしには知識の普遍妥当性はない。このように考えてゆくと、真理の基準は対象にあることになり、進んでは、真理と称すべきものは第一次的には我々の観念でなく存在であり、この存在に関係付けられることによって、我々の観念はむしろ第二次的に真理といわれると考えられるであろう。真理は知識に属するよりも先ず存在に属している。知識が真理であるのも、存在の真理に関係付けられることに依ってである。実際、人々は普通に、真理のもとに知識の真理よりも物の真理を理解している。「真理を知らねばならぬ」というとき、真理とはあるがままの存在、物の自己自身においてある存在を指している。真理とは存在の在り方、それがそのものとして顕わであるという在り方を意味するのである。真理を単に知識に属する性質と考えることは問題の正しい把握を妨げ易いであろう。スコラ哲学者は、物の真理或いは存在における真理と、知性の真理或いは知識における真理とを、区別した。真理を存在の真理というように考えることは、超越的真理概念である。知識における真理は仮に内在的に考えられ得るとしても、存在における真理は超越的に考えられるのほかない。一層正確にいうと、存在は客観として超越的であることによってそのものとして顕わであること即ち真理であることが可能である。かように超越的なものに関係付けられることによって知識の真理も可能になる。真理の問題は超越の問題であり、それは先ず客観或いは対象の超越に関わっている。

真理についての自然的な見方は模写説と呼ばれている。模写説は、観念と存在との一致が真理であると考える。もっとも人々の自然的な見方は、真理を必ずしも先ず知識について考えるのでなく、むしろ存在について考え、真理はもと存在のうちにあると見ているのである。模写説に依ると、心の外にある物が心に写され、それが物と一致しているとき真理である。模写説は超越的真理概念をとっている。即ちそれは、意識を超越して独立に存在するものを認め、これとの一致において真理を考えるのである。模写説に対しては、我々がどれほど真面目に我々の表象と物との一致を確かめようとしても、つねにただ表象と表象との一致が知られるのみで、表象と物の一致は決して知られないという非難がある。我々は直接体験の表象と記憶表象或いは想像表象とを比較し、両者を同一の対象に関係させることはできるが、この対象そのものと表象とを比較することはできないといわれている。そこで超越的なものを排して純粋に内在的に考えてゆこうとする内在的真理概念が現われる。それはひとえに表象相互の一致として真理を規定しようとするのである。しかしながら超越的真理概念は極めて執拗なものであって、内在的な見方のうちにも隠されて横たわっている。この場合、二つの表象が相互に一致すべきであるという要求は、両者が共に同一の対象に関係しているということに基礎をもたねばならない。二つの表象が相互に等しいとされるのは、それらが第三の、それ自身は表象ならぬものに等しい故でなければならない。科学において形作られる表象は経験によって得られる表象と一致すべきであるというとき、そこにはその根柢として、両者において同一の実在が精神に現われている筈であるという思想が働いている。かように超越的真理概念は到る処その影をとどめている。真理が内在的なものと考えられぬことは論埋主義者も認めているのであって、彼等が心理主義を排斥するのは実は認識の対象の超越性を主張するためである、その際彼等が認識の概念から存在の概念を駆逐することになったのは、存在を意識に与えられた観念と見る彼等の主観主義的前提の結果であり、かようにして彼等は、認識の対象は存在でなく超越的価値であると考えるに至ったのである。

真理は知識の真理として、存在においてでなく思惟においてあるものとして、一定の構造と性質のものでなければならぬといわれている。すでにアリストテレスは、本来の意味における真及び偽は、結合と分離もしくは肯定と否定に関わり、従って判断にのみ属すると考えた。表象とか直観とかは本来の意味においては真或いは偽と語られないのである。またライプニッツは、真理の本質は主語と述語の連結のうちに横たわり、その結合は主語のうちに述語が含まれることであると論じている。しかるに、真理である言表或いは命題の構造と性質がいかに考えられるにしても、命題の真理は一層根源的な真理即ち存在的真理に根柢をもたねばならぬ。真理はただ判断に属するというのでなく、却って判断が存在と一致する限りにおいて判断に属するのである。我々が汝は色が白いと語ることが真である故に、汝は色が白いのでなく、却って汝は色が白い故に、かく語ることによって我々は真を語るのである、とアリストテレスもいっている。真理とは存在がそのものとして顕わであることである。しかるに存在がそのものとして顕わであるためには、存在は超越的でなければならぬ、言い換えると、私から独立であること、私に対して距離の関係に立っていることが必要である。客観の超越なしには真理は考えられない。

しかるにさきに述べた如く、客観の超越は主体の超越によって可能になるのである。物が客観として超越的であるのは、我々自身が主体として超越的であるためである。我々における主体への超越が同時に我々に対する客体の超越である。物が客観として超越的であるのでなければ、我々は物を客観的に認識することができず、我々が主体として超越的であるのでなければ、物は客観として超越的であることができない。主体は内において自己が自己を超えることによって真の主体となる。超越は人間の作用のうちの一つの作用に過ぎぬという如きものでなく、却ってそれによって他の一切の作用が、従って認識の作用もまた、可能になるところのものである。超越は主体の本質であり、主観性の根本構造である。主体というものが先ずあって、それが他の作用と並んで一つの作用として超越をもなすというのでなく、そもそも主体であるということが超越においてあることである。人間存在の超越性によって、一切の存在するものをそのものとして顕わにすること即ち真理が可能になる。物から遠くあることによって物に真に近づくことができる。認識主観はかように超越的な主体でなければならぬ。知識は客観性をもたねばならぬ故に、主観は単に個人的なものであることができない。そこでカントは認識主観を意識一般と考えた。意識一般というのは超個人的な主観、超個人的な我のことである。それはひとつの抽象物に過ぎず、現実の我、現実の主観ではないといわれるであろう。そこで意識一般は当為であるとか規範であるとかと答えられる。けれども主観という以上、それは働くものでなければならぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実の人間は超越的なものとして、内において自己が自己を超えるということがあり、超個人的といわれるような意味をもつことができる。主体の超越において認識主観としての意識一般も考えられるのである。かようにして根源的には主体の超越によって初めて存在はそのものとして顕わになるとすれば、真理は本来知識の真理を意味するということもできるであろう。

物を知るためには我々は誠実でなければならず、さもないと真理は知られない。誠実とは己れを空しくすることであり、それによって存在はそのものとして我々にとって顕わになる。己れを空しくするとは内において自己が自己を超えることであり、それによって自己は却って真の自己となる。誠実或いは真実は物のまことに対して人間のまことのことである。人間のまことは物のまことを知るための条件である。しかるに人間のまことは、まこととして、それ自身において積極的にひとつの真理概念を現わしている。それは主体が自己を隠すことなく顕わであることであって、客観的真理に対する主体的真理を意味している。客観的存在の真理があるのみでなく、主体的存在の真理がある。主体は単に客観的に知られ得るものでなく、主体的自覚によって知られるのであるが、その真理は客観的真理とは区別されねばならぬであろう。真理を単に客観性と同じに考えることは正しくない。客観的真理と主体的真理とは、その対象においても、その認識の仕方においても、異っている。ハイデッゲルの語を借りて、前者を存在的真理、後者を存在論的真理と称することもできるであろう。自覚は超越によって可能になるのであるから、主体的真理も超越を根拠としている。純粋に内在的な真理というものはなく、外に一致すべきもののない知識も内において超越的なものとの関係を含むのでなければならぬ。対象的認識でなく場所的自覚である哲学の真理はそこから考えられるのである。客観的真理が世界についての真理の問題であるに反して、主体的真理は世界における真理の問題である。

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