哲学入門 (三木 清)

このように科学と常識とは異っている。もとより常識は科学化されねばならないし、また科学は常識化されねばならない。かくておよそ常識が科学的になるところに文化の進歩がある。けれども常識がいかに科学的になるにしても、常識と科学との間には性質上の差異がある。なぜなら両者の差異は単に知識の内容に関するのでなく、却って知識の在り方に関するのである。同じ内容の知識でも常識と科学とでは在り方が違っている。常識には単に「前科学的」といい得ぬ独自の性質と機能とがある。それをただ科学の前段階、低い程度の科学とのみ見ることは、いわゆる実証哲学もしくは科学主義の抽象的な見方に属している。科学は科学としてよりむしろ技術を通じて常識化されるといわれるであろう。科学は技術化されて日常生活のうちに入るに従って常識のうちに入ってゆく。電灯や電車が作られて電気は常識となり、電気について知らないのは非常識とされるようになる。常識はもと行為の立場における知識であり、科学も技術において現実に行為の立場に移されるからである。常識と科学とが在り方を異にするということは、科学の常識化が不可能であるとか無意味であるとかということではない。科学が常識化されることは、常識の進歩のためにも科学の発達のためにも大切であるが、ただそれには特殊な方法が必要である。科学が常識と異るからといって科学を尊重しないのは非常識であり、他方常識を科学によって残りなく置き換え得ると考えるのも非科学的である。

科学はしばしば抽象的であるといって非難されている。それは哲学に対してのみでなく、常識に比してすでに抽象的であるといわれるであろう。しかしながら抽象的なものの重要な意味を理解することが肝要である。抽象的なものに対する情熱なしにはおよそ文化の発達はない。直接に具体的なものは真に具体的でなく、却ってそれ自身抽象的である。真に具体的なものは抽象的なものに媒介されたものでなければならぬ。常識も科学に媒介されて具体的になることができる。科学が普遍的な立場に立って法則を求めるということは、それによって却って真に個人にも民族にも仕えることになるのである。また科学が一旦行為の立場を否定して純粋に理論的になるということは、それによって却って真に行為と結び付くことになるのである。個人にしても民族にしてもそれぞれ個別的なものであるが、単に特殊的なものでなく、同時に一般的なものである。個別性は特殊性と一般性との統一である。一般的な知識は個別的なものの認識にとって必要であるばかりでなく、つねに個別的な条件のもとに個別的な主体によって行われる行為にとっても必要である。科学が明かにする客観的真理に従うことによって、我々の行為は有意味にまた有効に行われることができる。科学は技術の基礎であり、科学の発達が技術の発達を可能にする。単に応用のみを目的とする場合、科学の発達はなく、従って技術の発達も不可能であろう。

しかしながら、科学が一旦行為の立場を否定するからといって、科学と行為とを全く分離して考えるという誤謬に陥ってはならぬ。科学も元来人間の実践的或いは技術的要求から生れたものである。科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれている。しかるに「自然は、それに服従するのでなければ征服されない」。科学は自然を支配するために自然についての客観的知識を求めるのであって、それが自己を行為の立場から分離するのも、主観的なものの混入を避けてひたすら客観的な知識に達するためである。しかしながら他方科学は、その客観的知識に達するために、却ってむしろそれ自身の仕方において行為的であることを必要とするのである。言い換えると、科学もそれ自身技術的で操作的である。技術にとって科学が基礎であるように、科学にとって技術は基礎であり、技術の発達が科学の発達を可能にした。望遠鏡や顕微鏡の発明なしには近代科学の発達は考えられないであろう。科学ももと環境においてある人間の生活の中から生れたものである、それは構成することによって適応する知性の産物である。それはすでに技術的な我々の経験の発展にほかならない。常識は経験のそれ自身の仕方における組織であったが、科学も同じく経験の他の仕方における組織である。常識においては経験は自然的に、無意識的に組織されるに反して、科学においては経験は意識的に、方法的に組織される。方法的に規制された経験が実験と呼ばれるものである。実験が科学の重要な方法であるということは、科学もその根柢において技術的であることを示している。科学は思惟の技術を必要とするのみでなく、更にすぐれた意味において技術的である。実験は行為的に知ることであり、その主体は操作的主体として行為的である、単に見るものでなく、働くことによって見るものである。知識の主体にしても、いわゆる主観の如きものでなく、現実の人間の存在である。知るということも、存在と存在との関係である。単なる意識に対してでなく、存在に対して初めて、存在は、その秘密を明かにするのである。経験や常識においては知識と行為が直接的に結び付いているに反して、科学の立場においてはそれが一旦引き離され、他方同時に自覚的に、方法的に結び付けられるのである。

科学が経験的ないし実験的であるということは、実証的であることを意味している。科学は実証的でなければならず、実証性は科学の欠くことのできぬ要素である。しかるに科学が実証的でなければならぬということは、現実のうちに我々が純粋に合理的に演繹することのできぬものが存在するということを前提している。合理的に思惟されるものは一般的なものである。しかるに現実のうちには特殊的なもの、非合理的なものが存在している。そこに非合理的なものが存在するところから、科学は実証的であることを要求されるのである。けれども現実が全く非合理的であるとすれば、実験することも無意味でなければならぬ。実験は現実が合理的であるということを予想し、その合理性の発見を目的としている。しかし科学の求めるものが合理的なもの、一般的なもの、法則的なものであるからといって、それが個々のもの、特殊的なものを全く無視するかのように考えることは正しくない。科学も実は個物の独立性を認めることによって成立するのである。唯一つの例外があっても法則は否定され改変されねばならぬということは、個物の力を示している。かように個物の独立性を認めるところに、近代科学の特色とされる実証性がある。それ以前の合理主義の哲学即ち一切のものが純粋に合理的に演繹され得るとする思想に対して、近代科学が経験を重んずるのもそのためである。もとより現実のうちに合理的な統一が存しないならば、実証的であるということも無駄である。かようにして現実が合理的であると同時に非合理的であり、特殊的であると同時に一般的であるというところに、科学的研究は成立する。それは科学が合理性と実証性、或いは論理性と経験性から成るということを意味している。科学性は合理性と実証性という相反するものの統一である。

さきに述べたように、経験は単に受動的なものでなく、受動的であると同時に能動的であった。経験の発展として、科学における実証性と合理性は、その受動性と能動性に相応している。経験は試みることとしてそこに既に自律的な知性が参加している。経験における試みが手当り次第の偶然的なものであるに反して、実験における試みは計画的であり、あらかじめ一定の思想、一定のイデーをもって臨むのである。そのことは合理性に対する要求を示している。イデーなしには実験することができぬ。一定の思想をもって現象に問いかけ、現象をしてこの問に答えさせることが実験である。そして与えられる答について論理的に思考し、これによって現象を合理的に把握してゆく。その場合、答は必ずしも最初の思想と一致しないで、むしろこれを否定することもあろう。そのときはそれに応じて我々の思想を変え、新しい思想をもって更に現象に問いかける。かようにして我々と現象との間にいわば問答が行われる。問はあらかじめ論理的に考えられた思想をもって臨むことである故に、合理性の側を現わし、これに対して答はいつでもその思想を否定し得るものとして実証性の側を現わすとすれば、合理性と実証性とは対立し、その間に対話が行われる。そのとき合理性と実証性とは弁証法的関係にあるといわれるのである。弁証法という語はもと対話を意味するギリシア語の「ディアレゲスタイ」に由来している。対話においては互に他を否定し得る独立な者が対立し、問答を通じて一致した思想に達すると考えられるが、そのように弁証法は対立するものの一致を意味している。科学性は合理性と実証性との弁証法的統一である。その合理性は実証性を離れてなく、その実証性は合理性を離れてない。科学的精神は合理的精神であると同時に実証的精神である。合理性と実証性とは対立するものである故に、科学的研究は一つの過程として運動するのである。新たに発見された事実を説明する法則を求めるために、或いは特殊的法則を包括する一般的法則を求めるために、研究が行われる。特殊的なものは科学を進歩させる力となっている。特殊的なものと一般的なものとの対立によって科学は発達する、或いは、非合理的なものを否定的媒介とすることによって科学はその合理性において発展するのである。かように科学が弁証法的構造をもっているということは、現実の世界が弁証法的なものであるということに相応している。合理的であることは演繹的であることであり、実証的であることは帰納的であることであると考えられ、科学は演繹的であると共に帰納的であり、帰納的であると共に演繹的である。演繹は一から多へであり、帰納は多から一へである。現実の世界は多にして一、一にして多であり、一即多、多即一という弁証法的なものであるところに、科学の弁証法的構造の根柢があるといわねばならぬ。

ところで科学が行為の立場に立つことは、客観的な知識に達するために必要なことであった。単に見るのでなく、働くことによって、我々は真に客観的に見ることができるのである。しかし科学は直接に物を作るのでなく、物を作るのは技術である。技術的に作られたものはすべて形をもっている。技術においては、先ず客観的な法則の知識、次に主観的な目的があり、両者の統一が求められるが、この統一は物を変化して新しい形を作ることにおいて実現される。科学の理念が法則であるに対して、技術の理念は形である。形は主観的・客観的なものであり、また抽象的一般的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一として具体的なものである。科学的精神が用心深く、試験的で、自由を尚び、つねに批判的で、進取的であるに反し、技術的精神には何か固定的で保守的なところがある。技術は習慣的になり、習慣的になることによってその意味を発揮する。言い換えると、技術は制度的になるという性質をそれ自身においてもっている。技術の存在の仕方には常識の存在の仕方と類似するところがあるであろう。科学は技術化されるに応じて常識のうちに入ってゆく。科学において自然と対立した人間精神は、形のある独立なものを作る技術を通じて自然に、歴史的自然に、還るともいわれるであろう。人間の技術は自然の技術を継続する。科学と技術とは、科学も行為的であり技術も知識的であるにしても、なお理論と実践として対立している。しかもすでに論じたように、両者は抽象的に分離され得るものでなく、却って一つに結び付いている。理論の発達によって実践は発達し、実践の発達によって理論は発達する。そこに対立するものの統一、理論と実践との弁証法的統一が存在する。そしてそれは、科学と技術においてのみでなく、すべての文化と行為において見られる関係である。

七 哲学

科学と哲学との区別は、普通に次の如く理解されている。先ず科学は原因の知識であった。哲学も科学性をもたねばならぬ以上、原因或いは理由の知識でなければならぬ。ところで科学は物の原因を研究するにしても、自己自身の拠って立つ根拠は反省することがない。それは物の因果関係を研究するか、およそ因果性とは何かということについては反省しないのである。因果性とか空間とか時間とかという如きものは、科学は前提するに止まっている。かようにして科学の前提となっているものを究め、その根拠を明かにするのが哲学である。即ち哲学は科学批判に従事するのである。批判というのはそのものの拠って立つ根拠を明かにし、その基礎を置くことである。しかしながら、科学の根拠を明かにすることはそれ自身科学の仕事に属するといわれるかも知れない。科学者は自己の研究の過程において自己の原理であるものについておのずから反省し始めるであろう。もっとも、その場合、科学者はもはや科学者としてでなく哲学者として研究しているのであると考えられる。けれども何故に、科学の根拠について研究することが科学者の仕事に属しないのであろうか。それは科学的研究の発展にほかならないといわれるであろう。かようにして、科学の根拠を明かにすることが哲学の仕事であるとすれば、それには何か科学の科学としての立場においては不可能であるというものがあるのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって肝要なのである。

次に科学は存在を種々の領域に分ってそれぞれの領域について研究する。科学は存在を全体として考察するのでなく、その特殊部門を研究する。物理学は物理現象を取扱い、生物学は生命現象を取扱うというように、科学は分科的であり、専門的である。それが特殊科学とか個別科学とかといわれるのもそのためである。しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察するのである。しかしながら、科学もつねに全体を目差しているといわれるかも知れない。科学者も世界を包括的に統一的に説明しようとしている、彼等も世界についての全体的な観念、即ち世界像というものを与えようとしている。物理学者は物理的世界像を、生物学者は生物学的世界像を形作ろうとしている。生命現象は物理的に説明されず、更に心理現象は生物学的に説明されないとしても、それら物理的、生物学的、心理的現象を一定の関係において統一的に説明し得る科学的世界像を求むべく努力されている。従って哲学が全体の学であるということは、ヴントなどの考えたように、単に諸科学の綜合という意味であることができぬ。諸科学の綜合はむしろ科学自身の理念に属している。それ故に哲学が全体の学であるとすれば、存在の全体というものには科学の科学としての立場においては遂に捉えられないものがあることを意味するのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって大切なのである。

第三に科学は価値の問題について中立的である。それはただ記述し或いは説明することに努め、価値判断はそれの外にある。それは感情的な主観的な評価を排して、物を飽くまでも知的に客観的に把握しようとする。科学は単に記述するのみで説明するものでないというのは、言い過ぎであるにしても、それは決して目的の言葉において説明するものではない。「何故に」ということが、もし物の意味ないし目的を問うことであるとすれば、科学は「何故に」ということに答えるものでなく、単に「いかに」ということを明かにするのである。科学の示す新しい事実、新しい観念、環境支配の新しい可能性をもって何を始めるかは、それを用いる人間の意欲に依存し、そしてこれは彼のもっている価値の尺度に依存する。行為の目的に対して科学は手段或いは道具を提供するに過ぎぬ。しかるに哲学はまさに価値とその秩序に関わっている。哲学の問題は価値の問題であるといわれるのである。しかしながら、科学も価値に無関心であるのではなかろう。それは何よりも真理に深く関心している。真理は価値であり、従って知識もそれ自身のうちに価値の問題を含んでいる。また価値の秩序をいかに考えるかということは、知識に依存するところが多いのである。理論と実践、観念と行動を全く分離することはできぬ。科学が価値判断を排するのは主観的なものの混入を防ぐためであるが、哲学もまた、価値を問題にするにしても、単に主観的であることは許されない。もちろん、純粋に客観的な立場においては評価はなく、物の意味も理解されないであろう。けれども意味とか目的とか価値とかも、単に主観的なものであり得ず、そしてそれが現象のうちに客観的に現われる限り、価値も科学の対象となるのである。道徳学、芸術学、宗教学等の存在はそのことを示している。従って哲学が価値を問題にするという場合、その取扱いは科学におけるそれとは異り、しかも価値そのものの本質が哲学的な見方を要求しており、更にこれが単に主観的な見方でないということがなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって重要なのである。

それでは、知識、存在、価値等、すべての問題について、科学と哲学とはその見方においていかに相違するのであろうか。科学的な見方のほかに、およそ何故に哲学的な見方が要求されるのであろうか。

科学は物を客観的に、対象的に見てゆく。科学の求めるのは客観的な知識或いは対象的な認識である。しかるに物を知るには知る作用があり、そこに知られたものと知るものとが区別される。認識には作用と対象とがある、対象は客観であり、作用は主観に属している。科学はひたすら客観をそのものとして知ることに努力するのである。もっとも、科学も知るもの、知る作用即ち主観或いは主体について研究するといわれるであろう。けれども科学が知るものについて研究する場合、知るものは対象として、客観として捉えられるのであって、そこに更にこれを知るもの、知る作用がなければならぬ。見られた自己はもはや見る自己ではない。主体はいかにしても客観化し得ぬものである。それは対象的存在でなく作用的存在であり、ラシュリエの言葉を借りると、判断の述語としての存在でなく繋辞としての存在である。主体をそのものとしてどこまでも主体的に見てゆくというのは科学のことでなく、そこに哲学がある。科学が客観的な見方に立つに反して、哲学は主体的な見方に立っている。主体的に知るというのは、対象的に知ることでなく、自覚的に知ることである。そこで翻って主体とか自覚とかの意味を考えてみなければならぬ。

主体とは働くものである。知るということにおいて、知られたものに対して知るもの、知る作用が主体のものである。それは意識であり、主体とは意識にほかならぬといわれるであろう。しかしさきに論じたように、知識の主体も行為的である。行為の主体は単なる意識でなく却って存在である。存在といっても、それはもとより客観的なものでなく、客観的にどこまでも捉えることのできぬところがあるから主体といわれるのである。その際、存在が先ずあって、それについて作用が考えられるのではない。かように考えることはすでに客観的な見方に属している。そこではむしろ作用と存在とが一つである、存在があって作用があるというのでなく、作用があって存在があるというのでもない。意識の起原にしても行為の立場から理解され得るのである。主体が環境の抵抗に逢って、これを支配し自由になるに従って、意識は発達する、意識の発達には、環境の刺戟に対する主体の反応の自由が現われ、主体の運動が単に反射的でなく自発的或いは自律的であることが必要な条件である。ベルグソンのいう如く、意識の範囲は生命の自由な活動の範囲と一致している。主体的なものは行為的なものである。主体的立場とは行為の立場にほかならない。そこで我々は行為について一層深く考えてみなければならぬ。

行為は運動である。しかしそれは水が流れるとか風が吹くとかという運動と同じに考えることはできぬ。それらの運動は客観的に捉え得るものであるが、行為は、それをどこまでも客観的に見てゆく限り、行為の意味がなくなってしまう。行為は単に客観的に捉え得ぬ主体的意味をもっている。行為の対象であるもの即ち客体は、私が何を為すにしても、つねに既にそこにある。私が今この手帳を取ろうとする、そのときそれは既にそこにある。かように客体はつねに「既に」という性格を担っている。客体の担うこの過去性は、普通にいう過去と同じでない。この手帳は現にそこにあるのであり、現在そこにあるものをも「既に」そこにあるものとするのが行為の主体的立場である。また未来に属するものも、見られたもの、考えられたもの、知られたもの即ち一般に客体としては、既にそこにあるということができる。このようにして客体はすべて或る根源的な過去性を担い、いわゆる過去現在未来に属する一切を既にそこにあるものとしてこれに対するのが主体である。主体はいかにしても既にそこにあるとはいい得ぬものであり、真の現在である。この現在は、過去現在未来と区別される時間の秩序における現在でなく、それを超えた全く異る秩序のものである。この現在においてあることによって、過去も未来も現在的になる。過去や未来が我々に働きかけるというのも、この現在においてである。それは過去現在未来が同時存在的にそこにおいてある現在である。行為は既にそこにあるといい得るものでなく、既にそこにあるのは為されたものであって為すものではない。行為はつねに現在から、普通にいう現在とは秩序を異にする現在から起るのである。行為が主体的なものであるというのはそのことである。かくして行為は過去をも未来をも現在に媒介する、そこに行為の歴史性があるのであって、我々のすべての行為は歴史的である。

ところで行為が現在から起るというところに行為の超越性が認められるであろう。行為の超越性というのは、それが過去現在未来を超えた全く異る秩序の現在から起ることを意味している。人間の運動は特に行為といわれ、かようなものとして人間は超越的である。人間の主体性はその存在の超越性を離れては考えられない。超越は人間的存在の根拠であり、超越があるによって人間は人間であるのである。超越は先ず人間における客体から主体への超越である。これによって我々は単なる客体でなく主体である。しかるに人間における主体への超越は同時に人間に対する客体の超越の根拠である。我々の環境にあるすべてのものは我々に対して超越的である。言い換えると、それは我々の全く外にあり、我々はそれに対していわば距離の関係に立っている。我々は自己に対してさえ距離の関係に立ち、かようにして自己をも客観的に捉え得る。我々に対して客体が超越的である故に、我々はそれを客観的に認識し得るのである。物に遠いことが却って物を近く捉え得る所以である。客体の超越は、我々が主体として超越的であることによって可能になる。我々における主体への超越は同時に我々に対する客体の超越であり、超越はかように二重であって一つである。人間の存在は客体を全体として超越している故に、存在するものの一切を全体として把握することも可能になる。我々が主体として超越的でなければ行為はなく、また対象が客体として超越的でなければ行為はないであろう。行為は二重の超越によって、しかもそれが一つであるによって、可能になるのである。

さて主体は単なる意識を意味しないが、しかし意識において主体は主体的になるのである。主体の主体性即ち行為の自発性と意識の発達とは伴っている。主体が主体的に表現される所は意識である。行為はもとより客観的に表現される、けれどもそれが主体的に表現される所は意識を措いてないのである。自己意識或いは自覚によって、主体は真に主体的になるのである。デカルトが「私は考える、故に私は在る」といった如く、我々は自己の存在を意識し、意識する自己を意識することができる。もっとも自覚はデカルトの考えた如く単に知的な事実であるのではない。「我々は存在し且つ存在することを知る、そしてこの存在と知とを愛する」とアウグスティヌスがいった如く、我々の自覚存在には感情が伴うのがつねである。人間は「考える蘆」であるというパスカルの言葉は、情意的自覚を現わしている。デカルトの「私は考える、故に私は思惟する物もしくは実体である」ということに対し、メーヌ・ドゥ・ビランは、「私は行動する、私は意欲する、即ち私は私において行動を意識する、故に私は原因であることが知られる、故に私は原因もしくは力として在る、即ち現実的に存在する」ということを原理とした。彼はこれを内的感覚の原始的事実と称した。自己意識は主体の自発性の意識である。「意欲は精神の単純な、純粋な、瞬間的な作用である、それにおいて、もしくはそれによって、この知的にして能動的な力は外部に現われ、且つ自己自身に内面的に現われる」、とまたメーヌ・ドゥ・ビランが記しているように、行為は外部に表現されると共に内部に表現される。かように二重の表現を有するということ、単に外に現われるのみでなく同時に自己自身に内面的に現われるということが、主体の特徴である。人間は外的人間であると共に内的人間である。行為は外に経験されるのみでなく内に経験される。経験を外的経験とのみ考えたところに、いわゆる経験論の制限があった。外的感覚のほかに、メーヌ・ドゥ・ビランのいったような内的感覚がある。人間は自覚的存在である。自覚的なものであって真の主体であり、自覚によって真に主体の主体性は成立するのである。

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