哲学入門 (三木 清)

知識の相対性と絶対性の問題は歴史のうちにおいて捉えられねばならぬ。しかしかように考えるにしても、その歴史とはいかなるものであるかが問題であろう。もし歴史が単に客観的なものであるとすれば、人類が何時かわからない時において達し得ると想像される全体的真理は絶対的なものであり得るにしても、我々が現に把握する知識が絶対的意味をもつということは不可能であろう。また歴史の発展が純粋に内在的で連続的なものであるとしたならば、それぞれの時代の真理が絶対的意味をもつということは不可能でなければならぬ。しかるに絶対的意味をもたないものは真理とはいわれない。我々の捉え得るものが絶対的意味をもつのでなければ、我々が真理を探求するということには絶対的意味がなく、我々はただいつか後の時代に達せられるかも知れない絶対的真理のために道具となるに過ぎず、真理の探求も我々にとって人格的価値をもつことなく、その場合かような真理に従って行為することにも絶対的意味がないことになるであろう。客観的に見てゆくと相対的であるのほかないように見える知識の絶対性が示されるためには、主体的な見方が必要である。事実としても、知識の絶対性が問題になるのは主体的な立場においてであり、主体的な知識に関してである。客観的な知識に関しては、相対的であるのはむしろ当然のこととされ、それを率直に認めることが学者にふさわしい態度であるとされている。自己の説を絶対的と主張する科学者は疑いの眼をもって見られるであろう。しかるに哲学の如き、客観的に見ると最も多く異る思想が存在するものについて却って知識の絶対性が問題にされるのである。そのことは知識の絶対性が主体的に捉えられねばならぬことを示している。哲学は行為の立場における主体的知識である。主体的に見てゆくということは、歴史の外部から歴史を単に主観的に見るということではない、却って歴史はその本質において主体的に見られねばならないものである。科学の如き客観的な知識の探求も歴史的人間の行為としてはかように見られねばならず、それによってその探求に絶対的意味が認められる。客観的に見てゆくと相対的であることを免れないにしても、行為の立場に立てば、その時その状況において絶対的意味をもっているのである。行為の立場においては、永遠の将来が、その将来において初めて現われる絶対的真理が問題であるのでなく、まさに現在が、この現在の問題を解決し得る知識が絶対的な問題である。行為が必要とするのは抽象的に絶対的な真理でなく、その行為的瞬間において絶対的な真理である。真に絶対的なものとは抽象的に永遠なもの、無時間的なものではない。しかし瞬間といっても、普通に考えられる時間の点の如きものでなく、むしろ永遠の原子であり、時間と永遠との統一である。既に述べたように、行為は現在から起るが、この現在は過去から現在、現在から未来と表象される時間の現在でなく、却って過去現在未来がそこに同時存在的にあると考えられる現在であり、永遠の今である。一切のものはこの現在から生じ、この現在においてある。真に歴史的なものとは単に歴史的なものでなく、歴史的であると同時に超歴史的なものである。「おのおのの時代は直接に神に属する、そしてその価値は決してそれから生れ出るものに基くのでなく、その存在そのもののうちに、それ自身の自己のうちにある」、とランケはいった。それぞれの時代はそれぞれ絶対に独立なものとして非連続的であり、非連続的であると同時に連続的である。世界は多であって一である。それは歴史的にどこまでも動いてゆくと同時にどこまでも止まっている、動即静、静即動といわれるのである。一切のものは世界から作られ、世界を表現し、世界においてある。それらは多であって同時に一なるものとして表現的である。一切のものはそれぞれ独立でありながら互に他を指示している。表現的なものは多様の統一であり、一即多、多即一ということを原理としている。表現的なものは超越的意味をもっている。人間もまた世界の外にあるものでなく、世界の一物として世界においてある。認識というものも歴史的世界における歴史的物としての人間の表現作用の一つにほかならない。我々の行為は自己から起ると共に世界から起るのである。我々が自然を見る眼は自然が我々を見る眼である。それは表現的世界からび起される表現作用に属している。かようにして我々の認識は絶対性をもつことができるのである。もとより我々の知識に相対的なところがあることは争われない、しかし相対と抽象的に対立して考えられる絶対は真の絶対でなく、真の絶対とは却って相対と絶対との統一である。世界は歴史的創造的世界として、ヘーゲルの考えた如く、先験的に論理的に構成され得るものではない。我々の認識作用も歴史的創造的であり、既にある真理をただ発見するというのでなく、あたかも機械が我々の発明に属する如く、発明的なものである。

ところで知識と行為との関係を強調するものに実用主義(プラグマティズム)がある。実用主義は経験論の発展であるが、経験を行為的なものと見るところに特色がある。かくて実用主義は真理を動的過程的に把握するのである。それは発生的な見方に立っている。主知主義者が真理を本質的に固定的なもの静的なものと考えるに反して、実用主義者は先験的な原理、閉鎖された体系、いわゆる絶対者を認めない。「真理は真と成る、もろもろの出来事によって真となされる。それの真理性は常にひとつの出来事であり、ひとつの過程である、即ちそれが自己を実証してゆく過程、それの実証・過程である」、とジェームズはいっている。我々の観念はそれが喚び起す行為や他の観念を通じて我々を経験の他の部分へ導いてゆく。この結合と移動が一点から一点へと進行し、どこまでも調和と一致が存する場合、その観念は証明を得ることになる。かくの如く実証された指導が真埋・過程の原型である。我々は我々が言葉においてもっている知識の実際的効果を試さなければならぬ。真理というのはかような実際的効果、紙幣に対する正金の値である。或る観念もしくは理論の真理性はその論理的帰結によってでなく、その実践的帰結によって判定される。知識は解決であるよりもむしろ一層多くの仕事に対するプログラムであり、特に現存の存在が変化され得るような道への指示である。そこで理論は道具となる。実用主義は強張った理論をたおやかにして仕事に着かせる方法である。或る思想の意味を展開しようと思えば、我々はただそれがいかなる行為を作り出すに適しているかを決定しさえすればよい、その行為が我々にとってその思想のもっている唯一の意味である。実用主義は方法として、特殊な結論でなく、却って一定の態度である、第一の事物、原理、範疇、必然性から眼を背けて、最後の事物、結実、帰結、事実へ眼を向けるところの態度である。かくて実用主義の足場は経験である。それは経験が一の全体として自己包括的で他の何物にもり懸らないと考える。知るものも知られるものも共に経験の部分にほかならぬ。我々の経験の部分である観念は、我々を助けて我々の経験の他の部分と満足な関係に入らせる限り、真となる。我々が真とする思想は、まさに我々の経験の一契機である故に、経験の中で働くことができ、我々はその思想の指導によって経験の中に入り、このものと有利な結合をなし得るのである。そこで実用主義は現代の多くの「生の哲学」と共通の原理に立っている。生の哲学の根本原理は生を生そのものから理解することであると、ディルタイはいったが、あらゆる超越的なものを斥けて純粋に内在的な立場に止まろうとするのが生の哲学の一般的傾向である。実用主義にとっては認識もまた我々の生の機能の一つであり、その真理性はそれが我々の生にとって有用であるということにある。「真理は、普通に想像されるように、善から区別された、そしてそれと対等な範疇でなく、善の一種である」、とジェームズはいっている。しかるにかように超越的なものを排して生の内在的な立場に立つ実用主義は、真理を人生に対する有用性と考えることによって、知識そのものに関しては却ってその内在的基準を認めないことになるであろう。知識にはその論理性の如き内在的基準があるのである。そして知識は有用である故に真理であるのでなく、逆に、真理である故に有用なのである、といわねばならぬであろう。更に既に論じたように、経験にしても単に経験的なものでなく、経験的なものと先験的なものとの統一であり、単に内在的なものでなく、内在的なものと超越的なものとの統一である。純粋に内在的な立場においては行為というものも考えられない、行為は二重の超越によって可能になるということを、我々は繰返し述べてきた。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的であるというところに、人間的生はあるのである。しかるに生をただ内在的に見る実用主義にとっては、知識の有用性は単に心理的ないし生物学的意味のものとなり、従って相対主義に陥ってしまう。もっとも行為の立場においては、知識は何等か実用的なものと考えられねばならぬであろう。実用性を全く無視することは、知識を単に観想の立場において見ることである。真理は生産的なものでなければならぬ。けれども生産的ということは、歴史的に生産的という意味に解されねばならぬ。歴史は単に内在的なものでなく、単に心理的なものではない。実用主義に欠けているのは歴史的見方である。実用主義は今日、行為を環境における行為として捉えることによって次第に歴史的見方に近づいてきたが、なお真に歴史の意味を把握しないで止まっている。

しかしながら実用主義が知識を行為に関係付け、真理は発明されると考えたということには、正しいものがある。これまで、普通に、真理は既に存在するものとの一致と定義されている、しかるにジェームズは、それを未だ存在しないものとの関係において定義するのである。真理は、彼に依ると、既に存在する或るものを模写するのでなく、存在するであろうものを告知するのであり、将に存在せんとするものに対して我々の行為を準備するのである。哲学は真理が後方を見ることを欲するという自然的性向をもっている。しかるにジェームズにとっては真理は前方を見るのである。言い換えると、他の多くの説は真理をば、それを初めて定式化する人間の特定の行為に先立つ或るものと見ている。あたかもアメリカがコロンブスを待っていた如く、真理はそれを見出す人を待っていたかのように考えられている。真理は以前から存在するものであって、我々の仕事はただその隠されていたのを発見するというだけである。しかるに実用主義にとっては、あたかも我々が自然の力を利用するために機械を創造する如く、我々は実在を利用するために真理を発明するのである。新しい真理は発見でなくて発明であるというのが、真理に関する実用主義の根本的見解である。この見解には確かに正当なものが含まれている。しかしながら真理を発明と見ることは、それを真に歴史的に見ることでなければならぬ。発明といっても固より単に主観的なものであることができぬ。すべての発明は発見の要素をもっており、またすべての発見は発明の要素をもっている。即ち認識は主観的・客観的なものであり、かようなものとして右にいったように形成である。

六 知識の倫理

我々は既にしばしば知識と行為との関係について述べてきた。知識と行為とは単に外面的に結び付くのでなく、内面的に結び付いている。認識する主観そのものが行為的である。この見方は我々を知識の倫理の問題に連れてゆくであろう。

知識の倫理の問題は認識の根柢には意志があるという主張から導かれることができるであろう。この主張は認識は判断であるという説につながっている。それに依ると、本来の意味において知識であるのは表象でなく、判断である。判断のみが本来の意味において真もしくは偽といわれるのである。判断は表象でなく表象の結合である。しかし判断は表象の結合であるというのみでなく、判断には肯定と否定或いは承認と否認があり、このものが判断の特徴をなしている。ブレンターノに依ると、判断は表象の結合と同じでなく、表象にとっては認識とか誤謬とかは内的に無関係であって、判断に固有な承認もしくは否認に関して認識もしくは誤謬は存在するのである。もっともアリストテレスが考えた如く、真偽は本来は判断についてのみ語られるが、類比的には表象についても語られるとすれば、表象と判断との区別は、表象がそれ自身としてつねに単純に真であるに反して、判断は誤謬に陥り得るというところに認められるであろう。従って虚偽ないし誤謬の問題は知識の根本問題であり、いかにして誤謬は存在するかの問題が認識論にとって試金石であるとさえいうことができる。デカルトに依ると、誤謬は二つの原因の協同から、即ち知性と同時に意志が働くことから生ずる。知性のみによって観念を捉え、この概念について判断を下すとすれば、そこに誤謬は見出されない。意志の能力は或ることを為しもしくは為さぬことができるということ、或ることを肯定しもしくは否定することができるということにある。それは知性によって我々に供せられたものを肯定しもしくは否定するとき我々が何等外的な力によって決定されていないと考えて行動するという事実に存している。そして誤謬は、意志の及ぶところが悟性よりも広く、私が意志を悟性の範囲内に拘束しないで、私の理解しないものにまで拡げることから生ずるのである。かようにして判断に固有なものが肯定と否定、承認と否認にあるとすれば、認識は意志に関わり、そこに誤謬の根源もあるということになる。ベルクマンは、判断における肯定と否定を、主語と述語の間の単に表象された関係をば判断に化するところの、批評的態度と考えた。そこから彼は、判断を単なる理論的態度と見ないで、実践的性質を帯び、意欲的能力の共存する精神の発現と見なければならぬという結論に達している。ヴィンデルバントに依ると、真理はもと、言語的には文章において表現され、論理的には判断と称せられる表象の結合にのみ関わっている。しかるに判断は心理的過程として極めて特色ある構造のものであり、そこでは我々の心の全体が、その理論的機能並びに実践的機能が、最も判明に、最も完全に現われる。判断するというのは、単に表象を結合することでなく、この結合を妥当なもの或いは真として主張することであり、他方否定判断においては、この結合を偽として拒否することである。かようにして判断のうちには種々の内容を一定の関係において思惟する知的契機のみでなく、この関係を肯定もしくは否定する意志的契機が含まれている。意志決定なしには判断は成立せず、従って意志は認識に対して責任があることになる。認識の根柢には「真理への意志」がなければならぬと主張されるのである。

もしかくの如くであるとすれば、認識にもその倫理がなければならぬということは明かである。それは認識論において主知主義をとるか主意主義をとるかということとは差当り無関係である。主知主義のデカルトにおいても、我々が誤謬に陥るのは我々が意志を悟性の明晰判明に理解するもの以外に拡げて判断を下すことから生ずると考えられるのであるから、我々の意志を悟性の範囲内に拘束するということが知識の倫理として要求される筈である。かように意志を制限することが知識の倫理であると考えるところに認識論上の主知主義の特色が認められるであろう。知識の倫理の問題はまた認識の主体が単に表象的・思惟的なものでなく全体の人間であると主張する立場とも差当り無関係である。認識が思惟の作用に属することは争われないにしても、思惟は現実において人間の他のもろもろの心的活動と結び付いて存在することが明かであるとすれば、思惟が完全に働き得るためには、他のもろもろの心的括動が一定の状態におかれることが必要である。それは主知主義者の考える如く他のもろもろの心的活動がすべて鎮静に帰せられねばならぬということに限られない。或る一定の心的活動は抑止されねばならぬにしても、他の一定の心的活動はむしろ活発にされねばならぬと考えることもできる。かようにして我々の心のうちに一定の秩序の生ずることが認識にとって必要であり、徳とはまさにかくの如き心のうちにおける秩序を意味している。また客観主義の立場において、認識することは対象に純粋に身を委ねることであると考えても、主観のかような態度は決して単に投遣りの態度でないことはもちろん、単に受動的な態度でもなく、道徳的な心の準備を必要とするのである。更にヴィンデルバントのいう如く、本来の認識である判断には知的契機と共に意志的契機が含まれるとすれば、意志の一定の状態ないし態度が認識のために要求される筈である。いわゆる真理への意志は知識の倫理の問題でなければならぬ。

いま古代及び中世の哲学を振り返って見ると、近世哲学におけるのとは異り、知識の倫理について極めて熱心に説かれているのが見出されるのである。しかるに近世におけるいわゆる認識論の特色は、知識の問題からその倫理の問題を抽象しているところにあるといい得るであろう。ソクラテスは克己と愛とを真の知識を得るための道徳的条件と考えた。かような愛の思想はプラトンにおいて発展され、彼の形而上学的認識の説と深く結び付けられている。プラトンに依ると、哲学者は愛によって、生成消滅の世界に執着する人間の自然知から永遠な存在即ちイデアの世界についての真知へ高められる。そこには「魂の翼の運動」がなければならず、「魂の転向」がなければならぬ。この転向は単に知的な意味のものでなく、全体の人格に関わるものである。またアリストテレスにとっては、知識はまさに「知性的徳」として人間の生活の最高の形態であり、この徳に至るためには段階的に「倫理的徳」即ち魂の非理性的な部分に対する理性的部分の支配と秩序付けが前提されるのである。中世のキリスト教的哲学が、最高の認識は神の認識であるとする立場において、知識の倫理を重んじたことはいうまでもない。認識の道徳的条件が考えられ、真の認識に達するためには一定の徳が必要とされ、禁欲等の道徳的行為が勧められた。神の認識そのものが直ちに道徳的意味をもっていたのである。かようにして古代及び中世の哲学者たちは、認識の道徳的制約について絶えず語っている。

その際最もしばしば愛と認識との関係が問題にされた。そして主知主義的なギリシア哲学では愛は根本において認識に依存的な機能であったのに反し、キリスト教では認識に対する愛の優位が説かれた。この差異は、前者においては、愛は真の存在に対する非存在的存在の、自己自身は愛することのないイデアに対する人間の、希求を意味したのに対し、後者においては、愛は根本においてより高いものがより低いものに、神が人間に降りてくること、身を卑しめることを意味したところから理解されるであろう。愛の優位の思想はアウグスティヌスによって心理学と認識論のうちに展開された。すべての知的作用及びそれに属する形象並びに意味内容は、最も単純な感性知覚から最も複雑な表象や思惟の構成物に至るまで、単に外的対象及びそれに由来する感官刺戟に結び付けられているのでなく、そのほかに、関心をもつという作用及びこれに規定された注意作用に、そして究極は愛憎の作用に本質的に必然的に結び付けられている。この作用は、アウグスティヌスにとって、既にあらかじめ意識に与えられた感覚内容、知覚内容等に単に附け加わってくるに過ぎぬものではない。或るものへの関心、或るものに対する愛は最も根源的な作用であり、一般に我々の精神が可能なる対象を把捉するあらゆる他の作用を土台付ける作用である。かようにして先ず、或るものについて関心をもつことがなければ、そのもののいかなる感覚も、表象も存在することができぬ。次に客観的に知覚され得る対象の範囲からそれぞれの場合に事実上何が我々の知覚に入ってくるかの選択は、その対象に対する我々の関心、従って愛によって導かれる。即ち我々の表象や知覚の方向は我々の愛憎の方向に従うのである。更に対象が我々の意識に現われる直観や意味充実作用の高昇は対象に対する我々の関心や愛の高昇に依存する結果である。「ひとは愛するもののほか知らない、知識がより深く、より完全になるべきであるならば、愛、いな激情は、より強く、より烈しく、より活発にならねばならぬ」、とゲーテも書いている。しかしかような見解は、認識を主観化し人間化してしまうことになりはしないであろうか。アウグスティヌスは彼の心理学に彼の創造説並びに啓示説と結び付いた存在論的基礎を与えている。愛と関心によって、例えばすでに単純な知覚の如き知的作用のうちに形象が現われるということは、彼に依ると、ただ出来上った対象のうちに侵入する認識主観の活動であるのでなく、却って同時に対象そのものがそれに応じて答えること、対象が自己を与えること、自己を顕わにすること、即ち対象の自己啓示である。それはいわば愛の問に対して世界が答えることであり、これによって世界は自己を開示してその完全な存在と価値に達するのである。かくてアウグスティヌスにとって世界の「自然的」認識は、その対象的制約の側から見れば、ひとつの啓示の性格をもっている。この「自然的啓示」は究極においては永遠の愛であるところの神のひとつの啓示である。すべての主観的な作用が愛によって土台付けられているのみでなく、認識された物そのものもこの愛に応える自己啓示において初めてその完全な存在と価値に達するのである。そこでアウグスティヌスは、例えば植物は人間から見られ、見られることにおいてその特殊的な、自己に閉じ込められた存在からいわば救済されるという傾向性をもっていると語っている。マルブランシュは関心や注意を「魂の自然的な祈り」と呼んだ。この場合にも祈りという言葉は、主観的な人間精神の活動の意味のみでなく、関心と愛をもって見られた対象の自己開示のうちに存する答を一緒に体験することを含んでいる。そこでパスカルは、「愛と理性とは同じものである」、といっている。

しかるにかように知識の倫理が問題になるのは、そこに求められた知識が、マックス・シェーレルの区別に従えば、救済の知識ないし教養の知識であって、仕事の知識でないためであるといわれるであろう。シェーレルは、コントが人知は神学的段階から形而上学的段階へ、更に実証的段階へと順次に進歩してきたと考えたのに反対し、宗教的・神学的認識(救済の知識)、形而上学的・哲学的認識(教養の知識)、実証的・科学的認識(仕事の知識)は、知識の発達の三つの歴史的段階でなく、人間精神そのものの本質と共に与えられた持続的な三つの精神の態度であり、認識の形態であって、そのいかなる一つも、他に代置されることも他を代表することもできないと主張した。それらは認識する精神の三つの違った作用、違った目的、違った人間の型に属するのである。

まことに近代科学は知識を世俗化した。そしてそれに伴って哲学も世俗化された。そしてそれと共に知識の倫理はもはや問題でなくなったように見える。しかし知識の世俗化によって知識の倫理がなくなったのでない。その世俗化そのものが実は近代の初めにおける知識人の情熱であり、彼等の知識の倫理であったのである。しかるにすべてが世俗化してしまった後には、世俗化がひとつの倫理であったことが忘れられ、それと共に知識の倫理そのものも問題にされなくなったのである。科学はどこまでも客観的に認識してゆく。そのためには自己の主観的な観念や意図に束縛されないことが必要であり、そこに倫理的態度がなければならぬ。すべての研究者は良心的であることを要求されており、そこに知識の倫理がある。知識を求める者には真理に対する熾烈な愛がなければならぬ。この愛は人生の幸福についての高い見方を必要とする。真理は個人にとって必ずしも有利なものでなく、人間を不幸にする場合さえ多いからである。そこでまた人間はしばしば真埋を蔽い隠そうとする。それ故に真理を知ろうとする者は真実でなければならぬ。そして哲学的認識における如く、単に客観的に捉えることのできぬもの、主体の自己開示に俟たねばならぬもの、かようなものの認識は特に倫理的でなければならぬであろう。

認識のあらゆる場合において我々はつねに良心的であることを要求されている。良心は人間の客観に対する関係でなく、主体に対する関係である。倫理は主体の主体に対する関係のうちにある。良心的でなければならぬということは知識の倫理にほかならない。カントは良心を人間における内的法廷の意識と称した。しかるに良心と呼ばれる根源的な、知的で道徳的な素質は、その仕事が人間の自己自身に対する仕事であるにも拘らず、彼はそれを或る他の人間の命令で行うものと見るように彼の理性によって強要されている。なぜならその仕事は法廷のそれであるが、良心によって訴えられている者と裁判官とが同一の人間であるということは法廷の観念に適しないからである。しかしいかにして一人の人間のうちにかように二重の人格を考え得るであろうか。カントは現象と本体とを区別する彼の認識論に相応して、そのような裁判官を経験的人間に対する本体的人間と考えた。良心は単に内在的なものではない、それは人間の主体的超越性を現わしている。しかし単に内に超越的なものを考えることは神秘主義に終るか、我々を偶像崇拝者にすることである。真に内に超越することは外に真に超越的なものを認めることでなければならぬ。良心的であるということは単に内なる呼び掛けに応えることでなく、外なる呼び掛けに応えることである。外なる呼び掛けが内なる呼び掛けであり、内なる呼び掛けが外なる呼び掛けであるところに、良心がある。物が表現的に我に臨むということは、主観的な我を否定すべく我に迫ることである。知るということも、もと物的表現の世界からび起されることである。主観的な我を否定して物をそのものとして認めるところに、対象の要求に従うところに、認識がある。知るということは認めるということである。知ることが認めることであるのは物が元来表現的なものであるためである。対象がリップスのいわゆる「対象の要求」をもって我に臨むというのは、それが表現的なものであるからである。そして我々が良心的であることによって物は我々に対して真に表現的に顕われるのである。

もとより認識にとっては単に良心的であるということだけでは足りないであろう。知識を得るにはその能力がなければならず、従って有能性が問題である。有能性は技術的意味のものである。知識を得るには方法的でなければならず、方法なしには学問はない。学問とは方法的に得られる知識である。方法は一方主観的なものである。対象は方法によって規定される。しかし方法はまた対象から規定される。方法は対象に適した方法でなければならないからである。即ち方法は主観的・客観的なものであり、かようなものとして技術的である。有能性とは方法における練達、優秀な技術を意味し、これを欠いては知識の倫理は抽象的なものに止まるであろう。しかし方法或いは技術は悪用され、真理に達するために用いらるべきものが却って真理を歪曲するために用いられることができる。そこに欠けているのは良心である。認識もあらゆる表現作用の如く形成的であり、技術的である。技術は物をしてその本質を発揮させるものである。植物は見られることによっていわば救済されるとアウグスティヌスのいった如く、物は認識という形成作用によってその真の存在と価値に達するのである。しかし更に、真理は表現的なものとして我々を行為に動かし、自己と世界とを実践的に変化させるものでなければならぬ。表現的なものからび起された認識は、それが我々の実践的な形成作用を通じて存在のうちに実現されることによって真に表現的になるのである。真理に従って行動するということが我々の倫理である。真理は知識の問題であると同時にかような倫理の問題であるところに、知識と倫理との究極の結合があるのである。

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