哲学入門 (三木 清)

哲学に入る門は到る処にある。諸君は、諸君が現実におかれている状況に従って、めいめいその門を見出すことができるであろう。ここに示されたのは哲学に入る多くの門の一つに過ぎぬ。しかし諸君がいかなる門から入るにしても、もし諸君が哲学について未知であるなら、諸君には案内が必要であろう。この書はその一つの案内であろうとするものである。

哲学入門は哲学概論ではない。従ってそれは世に行われる概論書の如く哲学史上に現われた種々の説を分類し系統立てることを目的とするものでなく、或いはまた自己の哲学体系を要約して叙述することを目的とするものでもない。しかし哲学は学として、特に究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、この入門書にもまた或る統一、少くとも或る究極的なものに対する指示がなければならぬ。かようなものとしてここで予想されているのは、私の理解する限りの西田哲学であるということができる。もとより西田哲学の解説を直接の目的とするのでないこの書において、私が自由に語った言葉は、すべて私自身のものとして私の責任におけるものである。

すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気をび起すものでなければならない。本書を通じて私が特に明かにしようとしたのは真理の行為的意味である。哲学は究極のものに関心するといっても、つねにただ究極のものが問題であるのではない。我々が日々に接触する現実を正しく見ることを教え得ないならば、いかに深遠に見える哲学もすべて空語に等しい。この書が現実についての諸君の考え方に何等かの示唆を与えることができるならば、幸である。

本書の出版にあたって岩波書店小林勇、小林竜介両君並びに三秀舎島誠君に多大の世話になったことを記して、感謝の意を表する。

一九四〇年三月

三木清

序論

一 出発点

哲学が何であるかは、誰もすでに何等か知っている。もし全く知らないならば、ひとは哲学を求めることもしないであろう。或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生れる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。

哲学が現実から出立するということは、何か現実というものを彼方に置いて、それにいて研究するということではない。現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。我々はそこに生れ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である。或いは一層正確にいうと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。科学は現実を対象的に考察する。しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生れてくる。哲学は現実にいて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、場所として考える場合、現実以外に哲学の出発点はないのである。

哲学はしばしば無前提の学と称せられている。しかるにそれが現実から出立するというとき、現実というものが前提されるといわれるであろう。けれど哲学にしても空無から始めることはできぬ。いわゆる無前提とは前提がないということでなく、最も必然的な前提に立つということでなければならぬ。現実は任意の前提でなく、いかにしても逃れ得ない前提である。現実から遊離した哲学も、その遊離することにおいてなお現実に制約されているのである。現実に出発点を取るということは、哲学の一つの立場をあらかじめ取るということではない。それを立場というならば、それは哲学における唯一の立場である。対象としてでなく、基底として、場所として、現実はかような意味をもっている。しかしながら、かように必然的なものが単に必然的なものに止まる限り哲学はないであろう。哲学は基底の危機から生れるのであって、そのとき必然的なものの必然性は揺り動かされ、ひとつの可能性に過ぎなくなってくる。最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、必然性の可能性へのこの転換のうちに、哲学的意識は現われるのである。かようにして自己の前提であるものをみずから意識し反省してゆくことが、哲学の無前提性といわれるものの意味でなければならぬ。ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。

哲学的探求の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。全く知られていないものは問題になることもできぬ、問題になるというには既に何等か知られているのでなければならぬ。しかしそこにはまた何か知られていないものがあるのでなければならぬ、全く知られているものには問題はない筈である。かようにして知っていると共に知っていないところから探求は始まるのである。哲学者は全知者と無知者との中間者である、とプラトンはいった。全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう、哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するように、知識の愛である。それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、従って哲学することを措いて哲学はないのである。

哲学の以前、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。哲学的探求は知っていると共に知っていないところから始まるということは、もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。ソクラテスの活動が模範的に示している如く、そこには知の無知への転換がなければならぬ。無知と知との中間といわれる哲学の道は直線的でなくて否定の断絶に媒介されたものであり、知の無知への転換を経た知への道である。それ故に哲学は懐疑から発足するのがつねである。しかしながら哲学は常識や科学を否定するに止まるのではない、それらとただ単に対立する限り哲学は抽象的である。それが常識や科学を否定することは却ってそれらに媒介されることであり、それらを新たに自己のうちに生かすことによって、哲学は真に現実的になり得るのである。

二 人間と環境

ところで現実というとき、先ず考えられるのは我々の生活である。この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。我々がそこにいて、そこで働くこの世界は、環境と呼ばれている。環境というと普通に先ず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。むしろ我々がそこにある世界は何よりも世の中或いは世間である。「世界」という言葉はもと自然的対象界でなく人間の世界を意味した。環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。

人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。人間は環境から作られるのである。他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、或いは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。人間が環境を作るのである。即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。社会は我々に働きかけて我々を変化すると共に我々は社会に働きかけて社会を変化する。人間は社会から作られ逆に人間が社会を作るのである。

人間は環境を形成することによって自己を形成してゆく、――これが我々の生活の根本的な形式である。我々の行為はすべて形成作用の意味をもっている。形成するとは物を作ることであり、物を作るとは物に形を与えること、その形を変えて新しい形のものにすることである。人間のあらゆる行為が形成的であるというのみでない、人間は環境から作られるという場合、自然の作用も、社会の作用も、形成的であるといわねばならぬ。もとより我々は単に環境から作用されるのではない。逆に我々は環境に作用するのである。環境が我々に働きかけるのは我々が環境に働きかけるのに依るということもできる。自己はどこまでも自己から自己を形成してゆくのであって、そうでなければ自己はない。しかし自己は環境において形成されるのである。生命とは自己の周囲との関係を育てあげる力である。一方どこまでも環境から限定されながら同時に他方どこまでも自己が自己を限定するという即ち自律的であるというところに生命はある。「生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」、とゲーテも書いている。我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。環境の形成を離れて自己の形成を考えることはできぬ。

人間は現実的存在であるというが、現実的なものとはそこにあるものである。そこにあるとは世界においてあるということであり、世界はさしあたり環境を意味している。しかし次に現実的なものとは働くものでなければならぬ。働かないものは現実性にあるとはいわれず、ただ可能性にあるといわれるのである。働くということは関係に立つということである。現実的なものはすぐれた意味においてあるといわれるのであるが、「ある」とは、ロッツェがいったように、「関係に立つ」ということであり、関係に立つとは働くということである。あるとは知覚されることであると考えられるとすれば、知覚されるということもまたかような関係の一つに過ぎない。しかるに物と物とが現実的に関係するためには一つの場所になければならぬ。人間は世界の中にいて、そこにある他の無数の多くのものと関係に立っている。

人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であって、環境は客観である。主観とは作用するもの、客観とはこれに対してあるもの即ち対象を意味する。主観と客観は、主観なくして客観なく、客観なくして主観なく、相互に予想し合い、相関的であるといわれている。しかしながら両者の関係をただ相関的であるというのは不十分である。私自身は私にとってどこまでも環境とは考えられぬもの、反対に私にとって環境であるものはどこまでも私自身とは考えられぬものである。客観からは主観は出てこないし、主観からは客観は出てこない、両者はどこまでも対立的である。人間と環境の関係を主観と客観の関係と看做みなすことにはなお種々の注意を要するのである。いま取敢えず次のことを記しておかねばならぬ。

従来の主観・客観の概念は主として知識の立場において形作られている。主観とは見るもの、考えるもの、客観とは見られたもの、考えられたものを意味するのが通例である。そこで主観といえば意識と解される、知るものは意識の作用であるといい得るからである。しかるに人間と環境との関係はもと行為の関係であり、行為の立場においては、働くものは単なる意識でなく身体を具えた人間である。行為は意識の内部におけることでなく、行為するとは却って意識から脱け出ることであり、我々が意識から脱け出るのは身体に依ってである。行為するとは身体をもって自己の外にある存在に働きかけることであるが、自己の外にあるというのは単に自己の意識の外にあるということでなく、自己の身体の外にあるということでなければならぬ。行為については、ひとは行為の主観とはいわず主体といっている。かように何よりも行為の立場において形作られる主体の概念は、従来の主観の概念とは区別さるべき理由があるであろう。我々は主体として単なる意識でなく存在である。しかるに従来の主観・客観の概念は意識と存在との対立を意味し、存在はすべて客観の側に追いやられ、主観はあらゆる存在を剥奪されている。もちろん、主体は存在であるといっても、その存在は客観的に或いは対象的に捉えることのできぬ主観的なものである。その存在は、客観化された場合、もはや本来の存在でない、それは反省的知識のために主体が自己を譲渡して対象としたものに過ぎず、主体そのものはどこまでも内面的な存在である。しかるにいわゆる主観には内面的存在性が欠けている、その存在は自己の譲渡によって自己が自己の前に投射した客観に専ら相対的であり、従って真の主観性を失っている。いわゆる主観は真の主観性ではない。従来の主観・客観の概念においては、主観は自我といわれ、これに対して客観は非我と呼ばれたが、非我は他我即ち他の人間でなくて物の世界のことであった。そこでは主として自然的対象界が問題であり、人間の世界、歴史的・社会的現実は問題でなかった。我に対するのは汝でなく、単なる物に過ぎなかった。しかるに単なる物に対する自己は真の自己であることができぬ、我は汝に対して初めて我である。更に従来の主観・客観の概念においては、自己は主観として存在でなく、一切の存在は客観と見られる故に、自己は世界の中に入っていないことになる、世界は自己に対してあるもの即ち対象界と考えられ、自己はどこか世界の外にあるものの如く考えられている。かような主観は一個の抽象物であって現実の人間ではない。現実の人間はつねに世界の中にいるのである。我は世界の中にいて他に対しているのであるが、我に対するものは何よりも汝である。我は汝に対して我であり、汝なしには我は考えられない、そして汝は単なる客観でなく主体である。即ち主体は主体に対している。主観は客観に対して主観であるに反して、主体は根源的には客観に対してよりも他の主体に対して主体である。そこに主観の概念とは区別される主体の概念の本来の意味がある。いわゆる主観は、それが個人的自己と考えられようと超個人的自己と考えられようと、どこか世界の外にあって孤立的であるに反して、主体は主体に対して主体であり、従って元来社会的である。

もとより主体は単に主観的なものではない。我々は身体を有するものとしてすでに単に主観的なものであり得ないであろう。身体は自然的なもの、客観的なものである。しかしまた身体は物体とは異る主体的意味をもっている。物が自己の外にあるというのは身体の外にあることである、さもないと行為というものは考えられない。主体は単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。それは客観に対する主観の如きものでなく、客観に媒介されたものとして主体である、客観を我が物とすることによって真に独立になったものが主体である。人間も世界における一個の物にほかならず、その意味において我々の最も主観的な作用も客観的なものということができる。人間の存在のかような客観性を先ず確認することが必要である。真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。

ところで環境は私に対してあるものとして普通に客観と看做みなされている。けれど翻って考えてみると、環境は私に対してあるというよりも私が環境の中にあるのである。環境は対象でなく、私がそこにおいてある場所である。環境のかような性質はその世界性格と称することができる。もっとも、環境は一面閉じたものの性質をもっている、私がそこに住む環境は、この町、この国、更にいわゆる世界にまで拡げて考えても、つねに閉じたものである。環境が主体を中心とする円の如く表象されるのもそのためであって、円はその周辺をどれほど拡げても開いたものとはならぬ。しかるに閉じたものは世界とは考えられない、世界の根本性格は開いたものということである。閉じたものと開いたものとの差異は量的でなくて性質的である。閉じたものが一点を中心とする円の如く表象されるとすれば、開いたものは到る処中心を有する円の如く表象されるであろう。環境は単に閉じたものでなく、その世界性格において開いたものの性質をもっている。即ちそれは閉じたものであると同時に開いたものである。環境は、私に対してあるのでなく私がその中にあるものとして、対象或いは客観とは考えられない。主観的なところを有する私の存在をうちに包むものは単に客観的なものであることができぬ。我々がそこにいる社会は単なる客観でなく、それ自身の意味における主体である。社会も身体を有し、風土的自然は社会の身体と考えられる。私に対してあるといわれるのは環境でなく、私と一つの環境においてある他のものである。それは私と同じく個別的なものであり、そして環境は一般的なものである。個物は個物に対し、一つの環境においてある。かような個物はすべて我に対する汝の性格を担っている。環境の意味での自然においてある個々の物も単なる客観でなく、むしろ汝の性格において我に対している。汝は我に対して独立なものである、客観とか客体とかといわれるのも、それが主体から全く独立なものであることを意味している。行為は独立なものと独立なものとの間に成り立つ、しかもかように関係するにはそれらは一つの場所においてあるのでなければならぬ。我々がその中にある一つの個別的社会、例えば民族とか国家とかも、主体として他の主体即ち他の個別的社会に対し、それらは一つの環境、いわゆる世界においてある。かような世界も歴史的なものとしてそれぞれの時代に個別的であるとすれば、多くの世界がそれにおいてある世界即ち絶対的環境、もしくは絶対的場所、もしくは絶対的一般者ともいうべき世界が考えられねばならぬ。世界は世界においてある。世界がそれにおいてある世界は絶対に主体的なものであり、一切のものはこの世界から作られ、この世界の表現である。主体的ないし主観的ということを直ちに人間或いは意識と結び付けて考えてはならない。それはすべて形成作用のあるところに認められる関係であって、形成作用は表現作用であり、表現はつねに内と外との、主観的なものと客観的なものとの統一という意味をもっている。一切のものは世界の主観的・客観的自己限定或いは特殊的・一般的自己限定として生じ、世界においてある。世界が世界においてあるという場合、その世界即ち無数に多くのものの総体としての世界と絶対的場所としての世界とは客体と主体というようにどこまでも対立すると共にまたどこまでも一つのものである。相対と抽象的に対立する絶対は真の絶対でなく、真の絶対は却って相対と絶対との統一である。かくて世界は多にして一、一にして多という構造をもっている。人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。作られて作るものというのが人間の根本的規定である。

三 本能と知性

人間は環境に適応することによって生きている。適応とは対立するものの間における均衡の関係を意味している。その適応の最も単純な仕方は本能である。動物は本能に生きるといわれるが、人間も多くの場合本能によって環境に適応しているのである。本能は身体的なものであり、身体の構造と結び付いている。同じ種の昆虫においても、幼虫、蛹、蛾と、身体の形が変るに従って、その本能も変るのがつねである。かように本能は身体の構造或いは形と結び付いているが、身体の構造は、近代の進化論が説く如く、生活する主体の環境に対する適応の結果として作られたものである。生物の形はただ偶然に出来たものでなく、その棲息する環境との関係から限定されたものである。水中に棲む魚は鰭を、空中に棲む鳥は翅をもっている。それらの形はそれらの生物の本能を表現すると共に、生活する環境を表現している。人間の身体の構造も同じように考えることができる。適応といっても単に受動的なものでない、ただ消極的に環境に適応してゆく場合、生命は萎縮してしまうのほかない。人間の環境に対する適応は作業的に、行為的に行われるのであって、身体の諸部分はそのための道具の性質をもっている。それらは器官と呼ばれ、器官とは道具のことである。身体は客観的なものであると共に単なる物体とは異る主体的なものであり、主観的・客観的なものとして道具と考えられるのである。

かようにして身体の構造はすでに技術的な意味をもっている。それはひとつの技術的な形である。生物の形は技術的な形であり、自然も技術的であるということができる。技術の本質は主観的なものと客観的なものとを媒介して統一するところにある。この統一は形において現われる。技術にはつねに道具があるが、道具は主観的・客観的なものとしてそれ自身また技術的に形作られたものである。技術において、客観的なものは主観化されると共に主観的なものは客観化される。人間は環境に働きかけてこれを変化し、客観的なものは人間化或いは主観化され、同時に人間の主観的な欲望ないし目的は環境化或いは客観化されるが、その媒介となるものが技術である。主体が環境から規定されながらそれに解消されることなく主体として自己を維持し得るのは技術によってである。技術的であることによって主体は客観を我が物として真に主体となるのである。主観的なものと客観的なものとの技術的な形における統一は先ず身体の構造において現われる。それは自己の保存とか種の保存とかという主観的な欲求と客観的なもの環境的なものとの統一を示している。本能は環境に対する適応の仕方の一つであり、身体の構造に結び付き、従って本能にしても決して単に盲目的なものでなく、むしろ本能は「自然のイデー」である。

しかしながら本能による適応には限界がある。動物は環境と有機的に融合的に生きるといわれるように、本能的な適応は、それが存在する限り、完全である。本能による適応は直接的である。しかるにそのために、環境に重大な変化が生じた場合、それはこれに対して十分に適応することができぬ。本能は環境を広く、遠く、自由に見ることができない。本能もすでに技術的であるといっても、それは身体の器官に制約され、身体は無限の形をとり得ず、一旦出来上って固定した形は我々の活動に対して桎梏にさえなるのである。また身体の器官は道具と見られ得るにしても、身体は我々の自己であって、この道具は主体から離れた独立なものではない。従って本能による適応は直接的であるが、主体と道具とは一つである故に、主体は道具に束縛され、人間は器官の奴隷となるのである。

本能のかくの如き制限を超えるものは知性である。知性も技術的であり、否、本来技術的であるのは本能でなくて知性である。知性は身体から自由になることができる。知性は自律的である。自律的とは他のものに制約されることなく自己自身の法則に従い、自主的或いは自発的であるという意味である。自律的なものは自由なものである。知性も環境に対する適応に仕えるものであるが、それは先ず自己に固有な手段によって自己の世界を構成する。知性は環境の作用から結果するのでない固有の構造を具えている。知性は生物学的環境の圧力の結果であるよりも遥かに多く新しい環境の存在の条件である。知性は自律的であることによって身体を道具として自由に使い、かくて身体の器官も道具の意味を発揮することができ、身体的欲望についても知性は本能よりも一層よく満足させることができるのである。しかし器官の技術のほかに固有な意味における道具の技術がある。そして技術的知性の特徴は、身体の器官とは区別されるかような道具を作るところにある。人間は「道具を作る動物」である、人間のこの特性は、人間が知性を有するということに基いている。固有な意味における技術は道具を作り、道具を用いて物を作る技術である。器官と道具との区別は、器官が有機的(生命的)なものであるに反して道具は無機的なものであり、器宮が身体と直接に一つのものであるに反して道具は身体の外に作られるものであり、器官がなお主体に属するに反して道具は客観的なものであるというところに認められるであろう。身体の器官もすでに道具と考えられるとすれば、技術的知性の特徴は道具を作る道具を作るという点にある。もっとも、道具は純粋に客観的なものでなく、人間の主観的な目的と物の客観的な法則との統一を現わしている。けれどもこの統一は客観的な物の形において実現され、かようにして道具は主体から独立なものである。道具を用いる技術によって我々の環境に対する適応は直接的でなく媒介されたものになる。本能による適応が直接的であるに対して、知性による適応は媒介的である。それは知性が身体に束縛されないで自律的であるところに由来している。知性とは構成されたものによって所与のものを超える力である。技術は与えられたものの上に新しいものを作る、技術は生産的であり、世界を革新しまた豊富にする。人間は技術によって新しい環境を作りつつ自己を新たにするのである。環境を変化することによって環境に適応するという人間の能動性は知性によって発揮される。知性は人間の行為のより高い形式を可能にするのである。

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