哲学入門 (三木 清)

三 経験的と先験的

すべての知識が経験に始まるということは明かである。そこで我々は経験の問題に戻って考えてみよう。知識はすべて経験から来るという説は経験論と呼ばれている。ところで前に述べた如く、経験論の哲学は経験を主観的なもの、心理的なものにしてしまった。経験は主体に関係付けられて経験といわれるのであるが、その主体が心或いは意識と考えられたのである。経験するとは意識に与えられるということであった。しかし経験論の哲学はもと、経験を重んずる近代科学の影響のもとに興ったのであって、経験において客観的なもの、実証的なものを見るのでなければならぬ。かようにしてそこでは感覚とか印象とかが重んぜられるのがつねである。経験論に対する合理論においてはこれに反し知識の源泉が理性に求められる。経験論者ロックに依ると、我々の心は白紙の如きものであり、一切の観念は経験から来るのであって、我々の知識はただそのような観念に関係し得るのみである。肯定判断においては一致せるものとして、否定判断においては一致せざるものとして、相互に関係させられるものは、ただ我々の観念であり得るのみである。その一致もしくは不一致の把捉が知識であるが、この把捉は判断であり、すべての判断は言葉において命題として表わされる。かような命題の真理については、その言葉がそこに思念された観念相互の間にあるのと同じ肯定的もしくは否定的関係にあるとき、真であるということができる。しかしそれは名目的真理に過ぎず、その判断の実質的な真理性は何処にあるかと問われるであろう。この問に対しては、我々の観念と我々の心の外に存在する物とが、言葉と観念との間にあるのと同じ関係におかれ、観念の結合は、観念によって現わされた物の結合と一致しているとき、真であると答えられるであろう。ロックは観念は「物の記号或いは代表」と考えた。このいわゆる代表説は心の外に物の存在を前提する模写説の一変形である。しかしながら、もしも観念が心に直接に現われる唯一の対象であるとしたならば、いかにして我々は我々の観念とその原物とを比較し、かくして我々の観念と物の実際との一致を確かめ得るであろうか。「心は知覚以外の何物をも自己に現前するものとして有せず、そして恐らくはそれと物との結び付きの何等の経験にも達し得ない」、とヒュームはいっている。実際、もしも物があるということが経験されることであり、経験されるということが意識に与えられることであるとすれば、存在は観念のほかの何物でもないということになるであろう。バークリの有名な言葉に依ると、「存在するとは知覚されることである」。桜の実はその色、香、味、等の表象複合に過ぎず、その存在は知覚されるということと同じである。「実に物と感覚とは同一のものである」、とさえバークリはいっている。しかるに知覚するのは私の心であるとすれば、この観念論即ち存在を観念と見る立場は、ひとり我のみが存在し、他のものはすべて我の観念に過ぎぬという独我論に終らねばならぬ。バークリがなお自我という心的実体を認めたのに対して、ヒュームは、一歩を進め、バークリが桜の実についていったことは自我についてもいわれ得ると考えた。我々の内的知覚も自我の実体について教えるものでなく、ただその活動、状態、属性を示すのみであり、これらのものをすべて取り去るならば、そこには自我について何物も残らない、自我もまた「観念の束」に過ぎぬ。しかるにかようにして一切が観念であるか観念の複合であるとすれば、この純粋な内在論にとって知識の客観性の基準はないということになるであろう。

経験論は知識の普遍性と必然性を基礎付けることができない。知識が経験からのみ来るものとすれば、それは単に蓋然的なものになってしまう。我々は太陽が東から出て西に没することを経験的に知っている。それは従来の経験においてはいつもそうであったにしても、明日も必ずその通りであるとは経験の立場からはいい得ないのであって、ただ我々は明日もそうであろうと習慣的に信じているだけである。このようにヒュームは物の因果関係の知識も習慣に基く信仰に過ぎぬと論じた。我々が経験するのは甲の後に乙が起ったということである。それだけでは甲が乙の原因であって、甲によって必ず乙が起るということはできない。しかるにその場合甲によって乙が起ると我々が考えるのは、甲の後に乙が起ることを我々が繰返して経験するところから、習慣によって甲の後には必ず乙を表象し期待するように内的に強要されているためである。一つの表象が他の表象をび起すこの心理的必然性が実在的必然性として把捉されたものが因果の観念である。もしそうであるとすれば、物の因果関係についての我々の知識は主観的なもの、蓋然的なものになってしまう。かようにして普遍的な必然的な知識はないということになり、経験論はヒュームにおいて懐疑論に陥ったのである。

カントにとってもその認識論の根本問題は経験であった。彼はヒュームによって独断の眠から醒まされたと告白している。彼もすべての認識が経験と共に始まること、またそれが経験の制約のもとに立たねばならぬことを認めた。しかるに、「我々のすべての認識は経験と共に始まるにしても、だからといってそれはすべて経験から生ずるのではない」、とカントはいっている。もしすべての知識が経験から来るものとすれば、普遍的な必然的な知識の存しないことは、経験論が教える通りである。知識の普遍妥当性の根拠には何か経験から生ずるといわれないものがあるのでなければならぬ。このものは、経験から生ずるものがア・ポステリオリ(後天的、経験的)といわれるに対して、ア・プリオリ(先天的、先験的)と称せられる。カントに依ると、知識の内容は経験的なものであるが、その形式は先験的なものである。知識の形式は主観に具わるものである。しかし合理論において考えられる如く、思惟はそれ自身によって知識を生ずるのでなく、経験に関係付けられなければならない。たとい思惟は経験の範囲を越えてそれ自身の認識を自由に拡張し得るにしても、かような知識は真の知識でなく、知識は経験の制約のもとに、従って感覚の制約のもとに立たねばならぬ。カントが先験的というのは経験を超絶したものでなく、却って経験を基礎付けるもの、言い換えると、普遍的な必然的な経験を可能にするものである。すでに述べた如く、カントに依ると、我々は対象を構成することによって対象を認識する。経験の対象は、直観に与えられた多様なものを主観がその先験的形式によって統一するところに生じたものである。因果の範疇の如きもかような先験的形式に属する故に、我々の経験における因果の認識は普遍性と必然性をもつことができる。我々は経験を因果の範疇で構成することによって経験における因果関係を認識するのである。「我々の経験のうちにはその先験的起原をもたねばならぬ認識が混合している」、とカントはいっている。経験は単に経験的なものでなく、却って経験的なものと先験的なものとの綜合である。かようにしてカントの立場は経験論と合理論とを綜合するものと見られるであろう。彼の立場は批判論と呼ばれているが、批判というのは、事実の問題と権利の問題を区別し、いかにして普遍妥当的な知識は可能であるかを明かにすることである。カントは知識の普遍妥当性の根拠を主として知識の形式の先験性に求めたのであって、その批判論は先験主義であり、従ってまた合理的色彩が強いといわれるであろう。知識の先験的形式はそれによって直観に与えられた内容を統一する主観の形式である故に、彼の批判論はまた主観主義である。カントの主観はもとより個人的な経験的自我でなく、超個人的な先験的自我であり、その根本的な作用は先験的統覚と呼ばれている。あらゆる表象は我の意識に属する以上、「我考う」ということに伴われ得るのでなければならぬ。我考うということがあらゆる我の表象に伴うというのは我が自覚的であるということである。その自覚は我は我であるという分析的統一でなく、与えられた多様な内容に即して成立する綜合的統一である。直観の多様はこの先験的統覚のもとに範疇によって統一され、我にとって対象として現われる。「意識の綜合的統一は、従って、あらゆる認識の客観的制約である。しかもそれは単に客観を認識するために、私自身が必要とするばかりでなく、あらゆる直観が私に対して客観となるために、そのもとに立たねばならぬ制約なのである」。先験的統覚は客観が客観として私に対して現われる条件である。言い換えると、自我は客観をその存在に関して可能ならしめるのでなく、その客観性に関して可能ならしめるのである、自我は存在を産出するのでなく、その対象性を成立させるのである。かようにして客観がその客観性において顕わになるには主体の一定の条件が、まさにその先験性或いは超越性が必要であることを明かにしたのは、カントの功績といわねばならぬ。ただ彼の自我はすべての人に共通なものと考えられた抽象的な形式的な自我にとどまっている。

カントの批判論は経験論の懐疑論的帰結を克服しようとするものであるが、なお経験論と同じ前提に立っていると見られるところがある。彼においても、経験論においてと同様、経験は何よりも知識の問題として知識の立場から捉えられた。そこで彼においても認識の主体は意識と考えられ、経験に与えられるとは意識に与えられることであった。カントにおける不可知論といわれるものも、これに関聯している。即ち彼に依ると、意識に与えられるものは、先ず空間と時間という直観の形式に入るものでなければならぬが、かようなものは現象であって、現象の背後にある本体というべき物そのもの、いわゆる物自体は空間と時間の形式を脱している。我々の認識は経験の制約のもとに立たねばならぬ故に、物自体は認識にとって限界をなし、我々はそれを知ることができないと考えられるのである。なるほど我々が物の本体を知っているかどうかは、単なる知識の立場においては決定し難いことであるかも知れない、けれど行為の立場においては明瞭である。我々のもっている知識に従って我々が物を変化し物を作ることができるならば、我々は物そのものを知っているのでなければならぬ。そこで実践が真理の基準である。「総体の、生ける、人間的実践が認識論の中へ押し入り、真理の客観的基準を提供する」、といわれている。知識は実践においてその真理性を証するのである。自然に対する人間の働きかけの範囲が広ければ広いほど、自然に関する人間の知識も一層広く、一層正しくあることができる。「単なる自然としての自然でなく、人間による自然の変化こそ、人間の思惟の最も本質的な、最も重要な基礎である」。マルクスは、感性も単に直観としてでなく、実践的な人間的感性的活動として捉えられねばならぬと書いている。もっとも、真理の基準を単に実践に求めることは、知識の内在的な基準を否定し、その自律性を否定することになるであろう。知識はそれ自身の基準をもっており、行為と対立している。しかし両者はまた統一をなしている。経験というものがまさにそのことを示している。経験論の偏見を離れてみると、経験は単に知識の事柄でなくて行為の事柄である。経験するとは働くことによって知ること、知ることによって働くことである。近代科学における実証的精神というものの本質もそこにあるのであって、その実験的方法は経験の自覚であるということができる。

さきに述べた如く、カントは自己の哲学的方法を自然科学における実験的方法に比較した。彼が経験のうちに先験的要素を認めたのも、それに関聯して考えることができる。実験において我々はただ偶然に経験するのでなく、方法的に、組織的に、計画的に経験するのである。その場合我々は一定の観念をもって臨み、この観念に従って現象を意識的に作り出すことによって、現象を観察する。即ち実験は単に経験的でなくて先験的な要素を含むといわれるであろう。先験的とは経験から超絶して経験と無関係なもののことでなく、却ってそれによって経験が可能になるものである。「だからこの自然研究者を真似た方法は、純粋理性の諸要素を実験によって証明されもしくは反駁され得るもののうちに求めるところにある」、とカントは書いている。理性の先験的な要素は実験によって証明されもしくは反駁され得るもの、即ち経験のうちに含まれているのである。経験は単に経験的なものでなく、同時に先験的なものである。単に経験的であることは真に経験的であることでなく、単に実証的であることは真に実証的であることではない。しかるに実験は操作であり、認識の主体もすでに行為的であるといわねばならぬ。実証的知識は一定の操作によって獲得されるものであり、概念はその獲得のうちに含まれる操作と当値であって、操作的概念と称せられる。例えば一メートルという長さの概念は、この長さの測定を離れてなく、その測定と同義である。ブリッヂマンは物理的概念は操作的概念であるといっている。操作は客観的に知ることを目的としているが、操作はまた主観的に制約されている。知識は主観的・客観的なものである。それが操作的に得られるというのは技術的に得られるということである。認識も形成作用の一種である。概念は操作的概念として形成されたものである。実験に依るといわれない認識においても、認識の対象は認識の方法に制約され、逆に認識の方法は認識の対象に制約され、方法と対象という対立物の統一として認識は形成される。先験的と経験的、合理的と実証的、構成的と模写的、主観的と客観的というように対立したものは認識において形成作用的に、弁証法的に統一されるのである。カントの先験的方法は実験的方法を真似たものであるにしても、認識の静的な分析にとどまって、その現実的な歴史的な過程を明かにするものではない。

カントの批判論は、経験を主として知識の問題として捉えることにおいてのみでなく、直観に与えられたものをばらばらのものと考えることにおいて、経験論に類似している。ヒュームは観念を原子の如く分離した個々非連続的なものと見て、かような要素の機械的な法則による結合から複雑な心理現象を考えた。同様の前提がカントにも附き纏っている。彼においても、直接に与えられたものは「直観の多様なもの」、「現象の雑沓」である。もしそうであれば、我々の知識の関心する普遍的なもの、統一的なものは、我々に与えられたものそのもののうちにはなく、我々自身がそれに与えたものと考えられねばならない。「我々は物についてただ我々自身がその中へ入れるもののみを先験的に認識する」、とカントはいっている。統一的なもの、普遍的なものはすべて主観の側に帰せられることになる。カントの批判論が構成説であり、主観主義であり、先験主義である理由がそこにある。もちろん、主観の形式である範疇も対象に適用され得るものとして範疇であるから、その限りカントの範疇も主観的・客観的なものといわれ得るにしても、そのものとしてはどこまでも主観に属している。これは直観に与えられたものを単に多様なものと見る立場においては必然的なことである。しかるにジェームズはヒュームの原子論的見方に対して、単に要素のみでなく、要素間の関係そのものもまた経験されるといい、その立場を「根本的経験論」と名付けた。分離と共に結合が、非連続と共に連続が経験される。表象というものも一において多を表現することである。直観において我々に与えられたものは「盲目的」なものでなく、それ自身すでに表現的なものであり、意味をもったものである。意味というのは単に主観的なものでなく、客観的なもの超越的なものである。我々の認識作用は全く無意味なものに対して始まるのでなく、表現的なものに対して始まるのである。あたかも画家があらゆる任意の対象を画くのでなく却って芸術的意味を表現するものとして彼に呼び掛けるものを画くように、物理学者もあらゆる任意の対象を研究するのでなく却って物理的意味を表現するものとして彼に呼び掛けるものを研究する。ラッセルがいった如く、物理的認識において「有意味の事実」というものは重要な関係をもち、何が有意味の事実と考えられるかは歴史的に変化している。それは一定の物理法則に関して表現的な事実をいい、物理学者は主としてかような事実について研究するのである。表現的なものの呼び掛けに応えて起る主体の活動が一般に表現作用であり、芸術的活動のみでなく、我々のすべての行為は表現的であり、認識も表現作用の一つにほかならない。我々の行為は単に自己から起るのでなく、世界からび起されるのである。理性はただ主観のうちにあるのでなく、却って物のうちにあるのであり、客観的表現的なものが理性である。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものである。ロゴスは理性を意味すると共に、言葉を、客観的表現的なものを意味する。科学も元来環境において生活する人間の行為として起ったものであり、環境としての自然は単なる客観としての自然でなく、表現的な世界である。我々は表現的世界のうちにあり、我々の行為はこの世界から喚び起される、認識作用もまたかくの如きものである。表現作用は表現的なものに対して起る。認識が表現であるということは模写であるということでなく、構成であるということでもない。表現作用は形成作用であり、主観的・客観的な作用である、それは模写的であると同時に構成的であり、構成的であると同時に模写的である。認識を形成と考えることは、それを単に主観的なものと考えることではない。却って客観は操作的な主体に媒介されることによって自己の本質を顕わにし、真の客観性において示されるのである。すべての技術は物をしてその本質を発揮させる、認識も形成としてかようなものである。認識が主観的・客観的な形成作用であるということは、認識が発見或いは発明であることを意味している。主観的と客観的との統一はその際生産的である。真理は単にあるものでなく、歴史的に発見或いは発明されるものである。論理の如きものも歴史的に発展してきたのである。我々が機械を創造するように、我々は真理を発明するともいい得るであろう。かようにして認識が形成であるということはそれがもと表現的な歴史的な世界におけるものであることを意味している。

四 物 関係 形

現象を説明するにあたって先ず二つの方向がある。一は物概念による説明であり、他は関係概念による説明である。物概念と関係概念とは思惟の方法或いは思惟の理念における二つの根本的な方向を現わしている。そして古代的思惟から近代的思惟への推移は、物概念から関係概念への推移であるということができる。

物とは何であるか。物は一定の性質、一定の量を有し、また一定の関係に立っている。性質や量、関係等は物そのものでなく、物に附帯してあるものである。物とはそれら性質、量、関係等の基底に横たわるものである。かようにその基底に横たわるものは哲学上の言葉で実体といわれる。物概念は実体概念である。実体は性質等が変化してもつねに同一にとどまると考えられるものである。アリストテレスに依ると、実体とは「第一次的な存在」である。性質とか量とかの範疇で現わされるものはそれ自身において独立に存在するものでなく、実体に附帯して存在するに過ぎぬ。性質とか量とかは実体があって初めてそれについて語られるのであって、実体は性質、量、状態、関係等よりも本性上より先なるもの、第一のものである。実体概念によって考えるというのは、このように第一次的な存在が何であるかを明かにすることであり、実体とこれに附帯するものという秩序において考えることである。かような考え方は我々の自然的な考え方、日常的な世界像に一致している。そして認識論上の模写説がまたかような自然的な考え方に一致しているのである。認識が模写であるというのは、どのようなものの模写でもが認識であるということでなく、物の実体的本質の模写が認識であるということでなければならぬ。例えばプラトンに依ると、真の知識はただ真の存在(彼のいうイデア)についてのみ成立し得るのであって、これに反し存在と非存在との混合である現象の世界については単に意見があり得るのみである。

ギリシアにおいて形成されたいわゆる形式論理において、概念とはかような物の本質、実体を現わすものである。概念は我々の感覚に与えられた個々の特殊的なものから、それらに共通に属するものを取り出すことによって作られる。その場合思惟の機能は感覚の多様なものに対して、主として、比較すること、区別することである。特殊的な対象の間を往来する反省は抽象作用に導き、これによって特殊的な対象における類似の要素は他のすべての類似ならぬ要素の夾雑物から解き離されて純粋にそれだけとして抽出される。概念は感覚的実在に対して無関係なものでなく、この実在そのものの一つの部分をなしている。それは感覚的実在のうちに直接に含まれているものが抽出されたにほかならぬ。かようにしてこの概念構成によっては我々の自然的な世界像の統一は何処においても妨げられることなく、危くされることがない、その点に形式論理における概念構成の固有の長所があるといえるであろう。

近代のいわゆる認識論が実体概念の批評をもって始まったということは特徴的である。ヒュームはそれを次の如く批評した。物というものを分析すると、種々の観念に分解されてしまう。そこには色の観念とか大いさの観念とか堅さの観念とかがある。それらの観念とは別に物というべきものはない。従ってヒュームに依ると、物とは観念の束に過ぎぬ。しかるになお物というものがあるかのように考えるのは、或る一定の観念が繰返し結合して経験されるところから、習慣によって我々はそこに物というものがあるかのように信じているのである。もしこのように物が観念結合の習慣に過ぎないとすれば、その知識は普遍性も必然性ももたないことになるであろう。実体は観念の結合であるにしても、その結合は普遍的で必然的なものでなければならぬ。しかるに経験論は観念結合の普遍妥当性を明かにすることができない。そこでカントは実体を一つの範疇、言い換えると思惟の先験的形式と考えたのである。物とは直観に与えられた多様なものが実体と属性という範疇によって構成されたものにほかならず、我々は物を構成することによって物を認識するのである。カントのいわゆる先験論理は経験構成の論理である。それは経験の対象を可能ならしめると共に対象の認識を可能ならしめる論理であった。

ところで既にいった如く、カントの構成主義の認識論は近代の自然科学的思惟に影響され、これに相応している。アリストテレスにおいては、実体が先のものであり、関係は性質、量、状態等と共に実体に附帯するものとして従属的な地位にある。関係は本来の本質概念に対して依存的なものにとどまっている。概念構成についてのアリストテレスの説における指導的な見地は、属性に対する実体の優位の関係のうちに存している。しかるに自然科学的思惟においては実体概念に代って関係概念が指導的な地位を占むるに至った。実体概念と関係概念との間に想定される価値関係の相違に従って、アリストテレス的論理とカント的論理との二つの典型的な形態が区別される。自然科学的見方においては物は関係から構成されるのであり、諸関係の網のいわば結び目である。

近代自然科学に特徴的な認識論はカント主義者であったヘルムホルツの記号説において見ることができる。知識は記号であるというとき、記号は物的な類似でなくてただ双方の側の構造の函数的対応を要求するのである。記号のうちに捉えられるものは記号された物の特殊な固有性でなく、それが他の類似のものに対して立っている客観的な関係である。我々は我々の表象によって現実そのものをその孤立した自体において存在する性質において認識するのでなく、現実がそのもとに立ちそれに従って変化するところの規則を認識するのである。我々が一義的に見出し得るのは現象における法則であり、この法則は函数概念において現わされる。関係概念によって考えることは函数概念によって考えることである。法則性は我々にとって現象が理解され得るものになる条件であり、法則性は我々が物そのものに移し得る唯一の属性である。かようにしてカントのいった如く、自然とは「現象の、その現存在に従っての、必然的な規則即ち法則に従っての聯関」にほかならず、言い換えると、空間と時間とにおける現象の規則性である。物は諸関係に分解され、諸関係、諸法則から認識されるのである。ここに物概念或いは実体概念に対する関係概念或いは函数概念の優位が成立する。そこで精神についても、従来の心的実体を考えた心理学に対していわゆる「心のない心理学」が唱えられ、また物理学においても「物質は消滅した」とさえいわれるようになった。しかしながら自然科学からあらゆる物的要素を排除し得るかの如く考えることは間違っている。関係概念的見方は、我々はただ存在要素の間の関係をのみ思惟的に把握し得るという意味でなく、我々はただ関係の範疇を通じてのみ物の範疇に達し得るという意味である。

しかるに現代に至って、自然科学的認識に対する歴史的認識の特殊性が注目され、両者における概念構成の相違が主張されるようになった。自然科学の認識目的が法則であるに反し、歴史学の認識目的は法則でなくて個性であるといわれる。ヴィンデルバントは自然科学と歴史学との区別を論じて、自然科学が法則定立的であるに反し、歴史学は個性記述的であると述べている。個性というのは個人のことばかりでなく、社会にしても文化にしても個性をもっている。すべて歴史的なものは個性的である。自然科学においては個々の特殊的なものは一般法則の例としてそのもとに包摂される。しかるに個性は一般法則の例に過ぎぬようなものでなく、それぞれ他に換えることのできぬ独自性を具えている。また自然現象は繰返すと考えられるに反し、歴史的なものは一回的なものである。更に自然科学が対象を意味とか価値とかから離れて取扱うに反して、歴史的なものはすべて意味とか価値とかに関係して考えられる。生理学の対象としては仮に天才と狂人とは同じであるとしても、文化価値に関係させて見れば全く違い、天才は芸術的価値というが如き文化価値の見地から歴史学の対象となるが、狂人はそうでない。かような個性は法則に対して何かといえば、形であると一般に答えることができる。すべて歴史的なものは形をもっている。ここに形というのは単なる形式のことでなく、内容を内から生かしているもの、内容そのものの内面的統一をいうのである。しかし形は、もとより単に内的なものでなく、外に現われたもの、表現的なものである。表現的なものとは内と外とが一つのものである。それは意味をもったものであるといっても、その意味は単に内的なものでなく、物の形において現われたものでなければならぬ。形はそれぞれ特殊的なものである。けれどもそれは単に特殊的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一である。個性といっても単に特殊的なものでなく、特殊的であると共に一般的なものであり、その統一は具体的には形において与えられている。歴史学の認識しようとするのは個性でなく、型(タイプ)であるともいわれている。型は或る一般的なものである。けれどもそれは形式論理における類概念の一般性とは異っている、型はむしろそれぞれ個性的なものである。型というのは歴史的な形にほかならない。或いは歴史科学は単に個性を捉えようとするのでなく、却って法則、例えば、歴史の発展段階の法則の如きものを求めるのであると主張されている。しかしかような法則も、歴史の法則として、形の変化に関わっている。古代社会には古代社会の、封建社会には封建社会の、近代社会には近代社会の、形がある。歴史とは形の変化にほかならない。歴史的範疇というものも法則でなくて形である。普通に歴史と考えられるのは人間の歴史であって、自然は人間の歴史の舞台であるといわれているが、自然は人間の歴史的行為にとって環境である。歴史的なものはすべて環境においてある。環境としての自然は自然科学において考えられるような客観としての自然でなく、それ自身すでに歴史的なものであり、表現的なものである。我々は環境から作られ逆に我々が環境を作ってゆく。人間は環境を変化することによって自己を変化する、環境を形成してゆくことによって自己を形成してゆく。形は主体と環境との作用的聯関から作られてくるものであり、従って変化するもの、歴史的なものである。環境における人間の行為はすべて技術的であり、形は技術的に作られてくるもの、技術的な形である。ここに環境というのは、単に自然のことでなく、社会や文化も我々にとつて環境である。

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