哲学入門 (三木 清)

しかし道徳は外的なものでなく、心の問題であるといわれるとすれば、そこに更に心の技術というものが考えられるであろう。心の徳も技術的に得られるのである。人間の心は理性的な部分と非理性的な部分とから成っているとすれば、理性が完全に働き得るためには非理性的な部分に対する理性の支配が完全に行われねばならぬであろう。この支配には技術が必要である。人間生活の目的は非理性的なものを殺してしまうことにあるのでなく、それと理性的なものとを調和させて美しき魂を作ることであると考えられるとすれば、技術は一層重要になってくる。心の技術は物の技術と違って心を対象とする技術であるにしても、それは単に心にのみ関係するものではない。この技術もまた一定の仕方で環境に関係している。即ち物の技術においては、技術の本質であるところの主観と客観との媒介的統一は、物を変化し、物の形を変えることによって、物において実現される、そこに出来てくるのは物である。心の技術においても環境が問題でないのでなく、ただその場合主観と客観との媒介的統一は、心を変化し、心の形を作ることによって、主体の側において実現される。かくして「人間」が作られるとき、我々は環境のいかなる変化に対しても自己を平静に保ち、自己を維持することができるのである。その人間を作ることが修養といわれるものである。修養は修業として技術的に行われる。しかしながら心の技術は社会から逃避するための技術となってはならぬ。身を修めることは社会において働くために要求されているのである。修業はむしろ社会的活動のうちにおいて行われるのである。我々は環境を形成してゆくことによって真に自己を形成してゆくことができる。いわゆる修業も特定の仕方において主体と環境とを技術的に媒介して統一することであるにしても、心の技術はそれ自身に止まる限り個人的である、それは物の技術と結び付くことによって真に現実的に社会的意味を生じてくるのである。

技術的行為は専門的に分化されている。そして自己の固有の活動に応じて各人にはそれぞれ固有の徳があるといわれるであろう。大工には大工の徳があり、彫刻家には彫刻家の徳がある。徳とは自己の固有の活動における有能性である。しかるにかようなそれぞれの徳が徳といわれるのは、その活動が社会という全体のうちにおいてもつ機能に従ってでなければならぬ。各人は社会においてそれぞれの役割を有している。人間はつねに役割における人間である。各人が自己の固有の活動において有能であることが徳であるのは、それによって各人は社会における自己の役割を完全に果すことができるからである。無能な者はその役割を十分に果すことができぬ故に、彼には徳が欠けているのである。かようにして徳が有能性であるということは、人間が社会的存在であることを考えるとき、徳の重要な規定でなければならぬ。ひとが社会において果す役割は彼の職能を意味している。自己の職能において有能であることは社会に対する我々の責任である。物の技術において有能であることも、社会に関係付けられるとき、主体に関係付けられることになり、道徳的意味をもつに至るのである。

各人が専門に従って有する徳はそれぞれ異っているであろう。しかるに徳はかように特殊的なものでなく普遍的なものでなければならぬと考えられている。大工が大工として有する徳が徳であるのでなく、むしろ彼が人間として有すべきものが徳である。かような徳は、彼の専門の活動がいかなるものであろうと、すべての人間に共通である。例えば、正直であることは、大工にとって必要であるばかりでなく、商人にとっても必要である。そこに技術的徳と固有な意味における徳とが区別される。徳は人間性に関わるもの、普遍人間的なものと考えられる。それは各人の固有な活動に関わるものでなく、人間の人間としての固有な活動に関わるものでなければならぬ。プラトンが技術的徳に対して「魂の徳」といったのはかようなものである。道徳は主体的なものに関係し、人間性というのもかようなものでなければならない。枝術的徳から区別して魂の徳というが如きものを考えることには或る重要な意味がある。しかしながらまたそれぞれ固有の活動に従事する人間を離れて人間一般を考えることは抽象的である。大工の人間は彼の大工としての活動を離れて考えられず、芸術家の人間は彼の芸術家としての活動を離れて考えられない。各人の固有な徳から抽象して人間性一般の徳を考えることは無意味であろう。技術的徳とは別に徳そのものを考えることは、道徳を単に意識の問題と見て、行為の立場から見ない抽象的な見方に陥り易いことに注意しなければならぬ。ゲーテが考えたように、技術は人間に対して道徳的教育的意味をもっている。ひとは彼の技術に深く達することによって人間としても完成されるのである。

しかしながら他方、それにも拘らず、職能的専門家と人間とが区別され、技術的徳と魂の徳というが如きものとが区別されねばならぬところに、道徳の一つの重要な根拠があるのである。そのことは道徳の根拠が抽象的な人間性一般にあるということではない。人間はすべて個性である。そして専門家として技術的徳を具えることによって、各人の個性は形成され発達させられるということは事実であろう。しかしまた自己の専門は自己の個性に応じて自己みずからが決定し得るものである。そして個性の意味は専門家の意味に尽きるものではない。言い換えると、人間の人格は役割における人間の意味を超えたものである。役割における人間の意味を超えた個性が人格といわれるものである。人格といっても、すべての人に抽象的に共通なものがあるのではない。人格はつねに個性的である。ただそれが単に役割における人間とのみ見られない超越的意味をもっているところに人格があるのである。人間が主体的存在であるというのはその意味である。人間存在の超越性において人格が成立する。人格が或る超個人的意味をもっていると考えられるのも、そのためである。そこに技術的徳とは異る魂の徳というが如きものも考えられるのであって、それは人格的徳のことでなければならぬ。人間の主体性の自覚においてペルソナ(格人)とは異るペルゼーンリヒカイト(人格)が成立するのである。ペルソナはもと俳優が自己の演ずる役割に従って被る面を意味し、従って役割における人間のことである。人間は単に役割における人間でなく、人格である。人格として人間は単なる職能的人間を超えたものである。専門家として通達することによって彼の人間は作られるといっても、彼が単に専門家に止まっている限りそれは不可能であって、そこには専門にありながら専門を超えるということがなければならぬ。そのことは人間存在の超越性を示している。そしてそのことはまた、技術が人間の作るものでありながら人間を超えた意味をもっているということ、即ちそれが単に人間的なものでなく世界的・歴史的意味をもっているということを示している。人間の技術は自然の技術を継続するというのも、そのことでなければならぬ。そこでまた人間は形成的世界の形成的要素と考えられるのである。

かようにして人間は役割における人間であると同時に人格である。道徳は人格的関係であるといっても、人格的関係は役割の関係から抽象して考えられず、逆に役割の関係は同時に人格的関係であって道徳的である。役割における人間として我々は有能でなければならず、人格として我々は良心的でなければならぬ。しかも二つのことは対立でありながら統一である。我々の役割は社会的に定められている、役割はつねに全体から指し示され、全体と部分との関係を現わしている。職能的人間として我々は社会から規定されている。従って人間を単に役割における人間として見てゆけば、社会と個人との関係は全体と部分との単に内在的な関係となり、個人の自由は考えられないであろう。その場合、個人は社会にとって有機体の器官の如きものとなり、単なる手段として存在するに過ぎなくなるであろう。しかし人間は人格である。人格として人間は自由である。彼の自由は彼の存在の超越性において成立する。人間は社会に単に内在的であるのでなく、同時に超越的である。我々は社会のうちにありながら社会を超えている、我々が単に民族的でなく同時に人類的であるというのも、その意味である。社会からいえば、社会は個人に対して単に超越的であるのでなく、同時に内在的である。社会は我々の外にあるのでなく我々の内にあるということができる。しかしながら、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ、それは外なるものよりもなお外なるものとして真に内なるものであるのである。我々の内なる人類というものは単に主観的なものでなく、真に外なるものとして最も客観的なものでなければならぬ。それは抽象的普遍的なものとして考えられた人類でなく、却って人間の存在の根拠としての世界でなければならぬ。従って我々は人格として社会を超えるといっても、個人的非社会的であるということではない。我は汝に対して我であり、我の存在根拠であるものは同時に汝の存在根拠であることなしには我の存在根拠であることもできぬ。しかも真に内なるものは真に外なるものであり、外なるものを離れて内なるものがあるのではない、現実の世界とは別に世界があるわけではない。世界は自己形成的世界である、世界は世界を作ってゆく、人間は創造的世界の創造的要素である。我々の役割は単に社会から書いて与えられているのでなく、他方我々自身が自由に書き得るものである。言い換えると、それは社会的に定められていると同時に我々自身の定めるものである。我々は社会から限定されると共に、逆に我々が社会を限定する。我々は社会に働きかけ社会を変化することによって自己の役割を創造してゆかねばならぬ。我々の職能は固定的なものでなく、歴史的に、言い換えると、主観的・客観的に形成されるものである。役割における人間として我々は社会にとっての手段であるとすれば、人格として我々は自己目的である。人間は自己目的であると同時に手段であるという二重の性格のものである。

さて右に述べたように徳と技術とが結び付いているとすれば、徳と知との結合はおのずから明瞭であろう。すべての技術は知識を基礎としている。行為が技術的である限り、行為における発展は知識における発展によって可能にされる。徳と知とを分離的に考えることは、行為を技術的・形成的行為として根本的に把握しないところから生ずるのである。ここに技術というのは、もとより単に自然に対する技術をのみ意味しない。むしろすでにいった如く、社会に対する技術が今日極めて重要な問題となっている。とりわけ政治はアリストテレスが考えたようにアルヒテクトニッシュな意味をもっている。即ちそれはあらゆる技術の目的となるような技術、他の技術に対して総企画的にその位置と関係を示す指導的な技術である。アリストテレスにおいて政治学と倫理学とは一つのものであった。人間は本性上「社会的動物」であるとすれば、政治学と倫理学とは離れたものであることができぬ。アリストテレスにとって政治の目的は、いかにして「善い国民」であることと「善い人間」であることとを統一するかということであった。人間は「善い国民」の意味において社会にどこまでも内在的である。従って仮に自己の属する社会が悪いとしても、その社会において与えられた役割を果し、その社会に仕えることが彼の義務であるといわれるであろう。しかしながら人間は同時に「善い人間」の意味においてその社会を超えたものである。自己の自発的な行為によって自己がその中にいる社会を善くしてゆくことが人間の義務であるといわねばならぬであろう。我々は社会から作られたものであると共に社会は我々が作るものである。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。かように矛盾があるところから形成的発展ということがあるのである。善い国民であることと善い人間であることとが統一されてゆくに従って、民族は世界的意味をもってくる。それによって同時に世界は世界的になってゆく。世界が世界的になるということが歴史の目的である。世界は開いたものとして到る処中心を有する円の如く表象されるように、世界が世界的になるということは無数の独立なものが独立なものでありながら一つに結び付いてゆくということである。それによって個別的なものがなくなるのではない。却って「形の多様性」は自然の、歴史的自然の意志である。

三 行為の目的

行為には目的がなければならぬと考えられている。行為は意志に基いて起り、意志は目的をもっている。そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。

行為の目的は快楽であるとするのは快楽説である。それとつながって、行為の目的は幸福であるとする幸福説がある。幸福は何等かの快楽を意味している。ところで快楽は主観的なものであり、各個人によって快楽とするものは異る故に、快楽を目的とする場合、道徳は客観性のないものになるであろう。そこに何等か客観的な標準を求めようとすれば、快楽というものを量化して考えねばならなくなる。もし快楽に肉体的快楽と精神的快楽というような性質的差別を認め、我々の求むべきものは肉体的快楽でなくて精神的快楽であるというように主張するとすれば、それはすでに道徳の基準を快楽以外のものから取ってくることになる。快楽を無差別にただ量的に考えるのでなければ快楽説は純粋でない。しかるに心理現象は本来すべて性質的なものであって、量的に考えることを許さないのである。功利主義者ミルの如きも、幸福な豚になるよりも不幸なソクラテスになることを選ぶといっている。しかしもしかように考えるとすれば、それは快楽説の自殺でなければならぬ。次に我々は快楽を求めて快楽を得るのでなく、むしろ一時の快楽を否定することによって、真の快楽に達するというのが普通である。しかもこのように考えることも純粋な快楽説にとっては不可能でなければならぬ。なぜなら快楽説は元来あらゆる超越的なものを認めない内在論であるから、従って快楽説にとっては刹那主義が当然の帰結である。一時の快楽を否定して後の一層永続的な快楽を求めるということは、すでに行為に何等かの超越的な目的を認めることであり、少くとも快楽に性質的な差別を認めることである。更に我々の行為が身体的なものである限り、それが快楽を離れないことは当然であると考えられるけれども、身体というものも物体とは異り、どこまでも主体的なものである。我々の身体もまた超越的意味をもっている。人間が超越的であるのは単にいわゆる精神においてでなく、却ってその全体の存在においてである。人間の感性はどこまでも人間的であって、単に動物的であるのではない。即ちそれはデモーニッシュな性質をもっている。かようにして我々はつねに快楽を求めて行為するというのでなく、むしろしばしば悲劇的なもの、快楽や幸福を否定するものを求めてさえ行為する。この点において快楽説は、抽象的なオプティミズム(楽天説)に立っている。また更に快楽は多くの場合我々自身に依存するのでなく、我々の外部にあるものに依存している。それは自己の外部にある物に依存し、或いは他の人間の存在に依存している。従って快楽を目的とする行為は自律的でなくて他律的でなければならぬ。かような行為は自由であることができぬ。自律的でないところに自由はないからである。もと内在論の上に立つ快楽説においては自由は認められない。自由の根拠は人間存在の超越性である。

快楽は生命に対する功利的価値を意味している。そこで快楽説は功利主義的であるのがつねであり、功利主義はまた快楽説的であるのがつねである。我々の生活は環境における生活であるとすれば、我々の行為が何等か功利性を目差しているということは疑われず、その限り功利主義は理由をもっている。しかるに我々にとって環境であるのは何よりも社会である。我々は本質的に社会的存在であるとすれば、我々はもと唯ひとり幸福になることができぬ。社会のうちに不幸な人間が存在する場合、我々は真に幸福になることができないであろう。従って快楽とか幸福とかというものも社会的に考えられねばならぬであろう。功利主義者ベンサムは最大多数の最大幸福ということをもって道徳の原理としている。快楽説は個人的快楽説から社会的快楽説になった。ところで先ず最大幸福という観念は、幸福を単に量的に見るものである。それはすべての快楽を量的に見る機械的な合理主義に立っている。次に最大多数という観念は、真に社会的な見方に立つものでなく、社会を個人の和と見る個人主義的な見方を基礎としている。すべての個人がめいめい自由に自己の幸福と考えるものを飽くまでも追求するとき、そこに自然に社会全体の幸福が結果すると考えるのがベンサムの社会的快楽説である。従ってその根柢には予定調和の形而上学のオプティミズムが横たわっている。

ところでカントは、快楽とか幸福とかを道徳の原理とすることは、道徳の原理を内容に求めるものとして排斥した。道徳は普遍妥当的なものでなければならぬ。しかるに意志の内容は普遍的なものであり得ず、従ってそれを原理とするとき、道徳の普遍妥当性は基礎付けられない。快楽説や功利主義などは相対主義に陥らねばならぬ。そこで道徳の普遍妥当性は内容にでなく形式に求められねばならぬとカントは主張した。知識の場合、その普遍妥当性の根拠が思惟の形式に求められたように、道徳の場合にも、その普遍妥当性の根拠が意志の形式に求められたのである。道徳の形式は意志の形式として主観に属するのであるから、形式主義は主観主義である。かような主観主義は、道徳においては実際にどうあるかということが問題でなく、何を為すべきかということが問題であり、道徳は事実にでなく当為に関わると考えられる故に、この場合、知識の場合におけるよりも一層理由を有するように思われる。道徳は命令の性質を具えている、その命令は絶対的でなければならぬ。しかるに内容を顧慮すれば、しかじかであるならばしかじかのことをせよというように、命令は仮言的になり、断言的であることができない。そこで道徳の命令が絶対的即ち断言的であるためには、形式主義の立場に立たねばならぬ。カントはかような断言的命令として、「汝の意志の格率がいかなる時にも同時に普遍的な立法の原理として妥当し得るように行為せよ」ということを掲げた。カントの形式主義は、快楽や幸福が行為の動機となることを一切斥けて、道徳的行為は純粋に義務のために義務を行うものでなければならぬと考えるのである。そこでカントの倫理説は厳粛主義と称せられている。これによってカントは道徳における心情の純粋性を要求する。「この世においても、またこの世のほかにおいても、無制約的に善と呼ばるべきは、善なる意志のほかにはあり得ない」、と彼はいっている。彼の倫理は「心情の倫理」であるといわれるであろう。

心情の倫理が絶対的であるのは、それが超個人的な普遍的な理性を基礎とすることに依るのである。カントに従うと、実践理性は自律的であり、自己が自己の立法者である。我々の行為は理性の普遍的法則に対する尊敬の感情から出なければならぬ。しかるに、もし道徳の基礎がかように抽象的一般的なものであるとすれば、我々が道徳法に合致すればするだけ、我々は個性であることをやめ、従って人格でもないということになるであろう。人格はどこまでも個性的なものである。それが超個人的意味をもっているということは、理性という抽象的一般的な本質に依るのでなく、却って人間がその全体の存在において超越的であるためである。善なる意志に基いてなされる行為が内容的な動機を含まず、無動機であるかのようであるのも、人間存在の超越性に依ってである。ただ主観的な動機からでなく、客観的な命令に従って行為することが道徳的である。己れをなくするとき、表現的なものはそのものとして顕わになり、我々に命令的に働きかけてくる。表現的なものが命令的なものであるのは、それが超越的意味をもっているからである。かようにして外からの命令に従って我々が働くということは、単なる外的強制に従うということでなく、却って真に内から働くということである。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものでなければならぬ。主観的な自己を殺してこのものに生きることによって、我々は真の自己となるのである。

然るに行為は単に意識の内部における現象でなく、行為するとは却って意識から脱け出すことである。行為するには身体が必要である。我々の自己は身体的な自己である。従って快楽とか幸福とかという感性的なものも、行為にとって無視することのできぬ要素である。パスカルのいった如く、すべての人間は幸福を求めており、それには例外がない。幸福を軽んずる者も、それ自身の仕方で幸福を求めているといえるであろう。内容をもたぬ単に形式的な意志というものはあり得ない。我々の行為はつねに環境における行為であり、環境に適応してゆくことによって我々の生命は維持されるのである。それ故にすべての行為は生命価値をもったものであり、功利的なものである。スピノザのいった如く、すべての個体はその存在において能う限り持続することに努めている。我々の行為は一定の環境における行為として、単に形式的なものであることができず、内容的なものでなければならぬ。我々の意志は抽象的一般的なものでなく、現実的に歴史的に限定されたものでなければならぬ。

ところで行為は意識の外部に出るものである以上、それはつねに社会的に結果を生ずるであろう。我々は社会的存在として我々の行為の結果に対して責任を負わねばならぬ。行為を単に動機からのみ見て、動機さえ善ければ行為は善であると考える動機説は、主観主義、個人主義であって、行為を本質的に社会的なものと考えないところから生ずる誤謬である。自己の行為を完全に為し能うために知識をもたねばならぬということも、我々の社会的責任として我々に要求されているのである。倫理は「心情の倫理」に止まることなく、「責任の倫理」でなければならぬ。責任の倫理は自己の行為の結果に対して責任を負うことである故に、それは知識を欠くことができないのである。我々は知識によって我々の行為の社会的結果をできるだけ予見して行為しなければならぬ。責任の倫理は行為の結果を重んずるのであるが、それは単に結果さえ善ければ行為は善いと考えるいわゆる結果説であってはならぬ。結果説には人格的な見方が欠けている。それは自己をも他をも人格として認めないところから却って最も無責任なことともなり得るのである。人格とは或る内面的なものであり、内面性なくして人格はない。結果を考えることを他律的として排斥するカントの倫理学において重んぜられたのは、人格の内面性である。人格は自由なもの、自律的なものであり、かようなものとして人格は真に責任の主体であることができる。我々は我々の行為において社会に対して責任をもっていると共に自己自身に対して責任をもっている。自己の人格を尊重するということは、自己が自己に対して責任をもつということでなければならぬ。倫理は心情の倫理と責任の倫理との統一である。

しかし我々の行為は単に我々自身から起るものでなく、環境からび起されるものである。それは単に主観的なものでなくて客観的なものである。環境が我々を喚び起すというのは、それが表現的なものであるからである。環境においてあるものが表現的であるということは、我々が主観的に、例えば感情移入の作用によって、その中へ意味を投入したというが如きことではない。表現的なものの表現する意味は単に心理的なものでなく、超越的なものでなければならぬ。かようなものとしてそれが我々に呼び掛けるということは絶対的な命令の意味をもっている。その呼び掛けに対する答として我々の行為は客観的な意味をもっている。表現的なものに呼び掛けられることによって生ずる我々の行為はそれ自身表現的なものである。しかるに表現作用は形成作用である。我々は我々の行為によって我々の人間を形成してゆくのである。人間は与えられたものでなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。「地の子らの最大の幸福は人格である」、とゲーテはいった。我々の人格は我々の行為によって形成されてゆくのであるが、それは単なる自己実現というが如きことではない。道徳は自己実現であると考えるいわゆる自己実現説は、一個の内在論にほかならぬ。実現とは自己のうちに含蓄的にあったものが顕現的になるということを意味している。人間には超越的なところがあり、人格というものも人間存在の超越性において成立するのである。また我々は単に自己自身によって自己を作るのではない、我々は環境から作られるのである。その環境はしかし逆に我々の作るものであり、我々は環境を形成してゆくことによって我々自身を形成してゆくのである。

我々の行為は客観的表現から喚び起されるものとして、主体的に見ると、どこまでも無目的であるということができる。己れを空しくするに従って客観は我々に対して真に表現的なものとなるのである。しかし客観的に見ると、我々の行為はつねに限定されたものに向うものとして目的をもっている。我々の行為にはつねに歴史的に限定された目的がある。目的というものは、主体が作為して作ったものではなく、現実そのもののうちに、その客観的表現のうちにあるのである。従ってそれは客観的に認識することのできるものである。我々は現実を科学的に認識することによって、我々の行為の目的を捉えねばならぬ。それは歴史の必然的な発展の方向のうちに与えられている。しかし歴史は単に客観的なものでなく、また単に客観的なものは目的ということもできないであろう。歴史は我々にとって単に与えられたものでなく、我々がその中にあって、その形成的要素として、我々の作るものである。しかし我々は勝手に歴史を作り得るものでなく、我々の目的は客観的なものでなければならぬ。形成的世界における形成的要素として、我々の行為は本来つねに職能的な意味をもっている。その世界の我々に対する呼び掛けが我々にとっての使命である。職能は使命的なものであり、使命はまた職能に即して歴史的・社会的に限定されたものである。しかし単に客観的なものは使命とは考えられない。外からの呼び掛けが内からの呼び掛けであり、内からの呼び掛けが外からの呼び掛けであるところに使命はある。真に自己自身に内在的なものが超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己自身に内在的なものであるというところに、使命は考えられるのである。かような使命に従って行為することは、世界の呼び掛けに応えて世界において形成的に働くことであり、同時に自己形成的に働くことである。それは自己を殺すことによって自己を活かすことであり、自己を活かすことによって環境を活かすことである。人間は使命的存在である。

著者: