古典の研究 (三木 清)

瞬間の享楽のための見せ物でなく、永久の財産──嘗てツキジデスはこのような言葉をもって、彼自身の歴史書が人類の歴史そのもののうちに於てもつべき位置をみずから指し示したのである。我々はそこに無邪気な誇を見る。しかもこの告白の中に現われた傲慢なとも云われ得る期待は、二千年余の経験によって事実として証明された。批判的な歴史学の建設者としてのツキジデスの名は恐らく不朽である。そして我々は彼の言葉が凡ての偉大なる古代人の場合に当て填まることを知っている。

キリスト教が津浪のように世界を席捲したとき、この新しい宗教の火の如き帰依者達は、従来の支配的な古典的文化の没落を予言した。その当時、我々に伝われる書簡の中で、ギリシアの修辞学者リバニウスは、彼の博識な友人で且つ基督者であったところの、後の教父カエサレアのバシリウスに向って、この人が聖書に対して古典的教養を軽蔑したのに答え、次のように書いている。「君はただ安んじて──君の云うところでは──より悪い形式のものだがより価値のある内容をもった著作を守っているのもよかろう、誰が君にそれを拒むことを欲しよう。併しつねに私のものでありそして以前にはまた君のものでもあった教養の根は、君のうちになお持続し、君が生きている限り、持続するであろう。そしてたとい君がそれに水をそそがずとも、如何なる時もそれを滅すことがないであろう。」その後の歴史の発展は彼のこの確信に充ちた告白を正当なものとした。固より彼の保護者ユリアヌス皇帝の希望は実現されなかった。古典的文化の最高の価値の反省によってローマの国民的再生を計ろうとする夢は一の幻想に過ぎないことが分った。併しながらこの崩壊の時に於て、「永久のローマ」の滅すべからざる信仰の中から、古典的教養の復興は生長し、そしてそれがキリスト教的・西欧的文化の誕生の時となったのである。教会は古代の精神的体系を破壊しなかったばかりでなく、却ってその中へ這入って行って、千年に向って自己の抵抗力ある建築を打ち建てた。中世のローマ的・ゲルマン的諸民族の国民的詩及び風習の上に古典的文化の伽藍は聳え、ゲルマンの征服王達は恰も鷲のようにローマ帝国の遺物のうちに巣くい、彼等の国家を古い帝国の基礎の上に、ローマ法の体系の容器のうちに組織した。

一五〇〇年の頃、キリスト教と古代との中世的結合がゆるみ、ヨーロッパの大部分にとって再びそのこれら二つの根源的な要素が分解した。この分解を現わす名は、人文主義と宗教改革と、である。即ち超世界的な原始キリスト教的信仰の復活に対する努力と、古代の世俗的文化の再生と、が平行して行われた。十七─十八世紀のフランス的・イギリス的啓蒙思想、十八世紀の終に於ける古典的ドイツ観念論並びに新人文主義、これが近代ヨーロッパの文化の発展に於ける二つの主要段階であり、共にルネサンスの子供であると見られ得る。

ここに於て我々は同時にこの方面から現代に於ける文化の問題が人々によって何処にあると考えられているかを知ることが出来よう。一方に於て近代的世界はひとつの不幸な出発点をもっていたと云われ得る。中世に於けるキリスト教的要素と古代的要素との統一とは反対に、近代文化はこれら両要素の分離から出発した。エラスムスとルッターとが一つの人格に於て結合していなかったところに近代文化の悲劇の根源がある。そこで現代の課題はそれら二つの要素の統一を再び恢復するところにあるとも云われ得る。最近に於ける中世的カトリック的思想の復興の著しい現象はかかるものとしても眺められるであろう。併しながら他方から見れば、近代文化はいずれにせよ古典的文化の圧倒的勝利を意味する。啓蒙思想とドイツ観念論とがそれの主なる精神的産物であり、そして前者が反キリスト教的であることは言うまでもなく、後者と雖もキリスト教の根源的な信仰を古代的なもののうちに溶解することによって発達したものと見られ得る。「近代の教父」とも呼ばれるシュライエルマッハーがこの傾向を代表している。かくて現代の課題は、キリスト教の見地からすれば、自己の根源的な信仰の内容がそのうちに沈んでしまった人文主義の中から再び浮び出て、これを超越して純粋にその内容を獲得することにあるとも考えられよう。現代の新教のうちに於ける新しい傾向、所謂弁証法的神学はかかる目的をもっている。

私はここに現代の文化的課題が何であるべきかについて立入って論評しようとは思わない。いずれにせよ古代的文化の持続性については争うことが出来ぬ。単に百年昔の人々、シラーやラシーヌが我々にとって何となく古風に感ぜられるに応じて、ホメロスや悲劇詩人が若返るのを感ぜざるを得ないのは、いとも不思議な経験である。カントがその曲りくねった文章のために啓蒙時代の子供であったことの感ぜられるのに対して、プラトンの哲学的芸術が現代により自由な関係をもって現われるのは、不思議な経験である。

併るに古代的文化といっても、その中にギリシア文化とローマ文化とを区別することが出来るとすれば、両者の我々に対してもち得べき関係もまたそれぞれに区別されねばならぬであろう。疑もなく、我々の感覚にとってローマの著述家達の方が心理的に一層面白いのである。時間的に一回的なものの、個人的なものの秘密に対する隠されざる感覚、しかも豊かな感情の高低をもって甚だ特性的に自身を表現するローマの著述家達は、我々に対して内的により近く立っている、それだからまた我々は彼等に対して場合によってはより容易に厭悪の情を抱かせられるのでもある。千々に切れたる心臓の感情の深みから生れたカトゥルスの詩に現代人は共鳴を感ずることが出来よう。唯物論的自然観並びに人生観の教に充ちたルクレチウスの詩は、その芸術的効果によって、我々の心を捉えて離さぬであろう。今日の文芸家と雖もセネカの哲学的論文を読んで一日を愉快に過すことが出来、また我々は同じ室で食卓についている場合のように何の窮屈も感ずることなしにホラチウスやペトロニウスと談話することが出来るであろう。たしかにローマ人はギリシア人よりも心理的に一層親しく我々に接近している。

ローマ人は明かに年代的にも我々により近く立っている。否、彼等はいわば我々と同じ地盤に立っているのである。なぜなら彼等こそ実際最初の人文主義者としてギリシア人に対して我々と同様な状況にあったのである。彼等の文化的綜合の複雑さ、前へ推し進むギリシアの精神性と自身の現実的な歴史の意識及び健全な国民的保持力との模範的な混合は人々をつねに新たに驚歎せしめるであろう。ローマ人自身或るひとつの典型的な古典の解釈の仕方と吸収の仕方とをもっていた。この特殊な仕方のために彼等はまさにみずから古典的ともなり得た。その仕方が何であったかに深く探り入ることは我々にとって最も興味あり且つ利益ある仕事であるであろう。

その後の発展に於てそれぞれの時代はまたそれぞれの仕方で古典的文化──ローマ文化を含めて、なぜなら歴史は二つのもの、ローマ的「伝統」とギリシア的「理念」とである──を解釈し、吸収した。このようにしてまた古典の解釈吸収の仕方そのものが歴史的であり、それ自身の歴史をもっている。古典文献学史の研究はかかる歴史の研究にまで進んで行かなければならない。我々は他の方面ではアルベルト・シュヴァイツァーの『エス伝研究の歴史』というような好著をもっている。同じように我々は例えばプラトン解釈の歴史というが如きものが纏められることを希望しなければならない。

私は今我々の古典解釈の仕方が如何なるものであるべきかについて詳論するわけにゆかない。ここではただ近代に於けるそのクラシシズムとリアリズムとについて一言しておくにとどめよう。

古典解釈のクラシシズムの典型を我々は例えばフリードリヒ・シュレーゲルの『ギリシア人及びローマ人の研究の価値について』なる論文のうちに見出すであろう。クラシシズムは古代人の諸作品を美の永遠なる模範として、形式及び内容の絶対的なる規範として見る。それは古代の現実的生活の歴史学という我々の意味に於ける古代学をなお知らなかった。それは専ら古代の美術、詩、哲学の偉大なる精神的産物の理念的世界に生き、そして無意識的にこれらの領域の理念性を古代人の実際的生活について人々が形造った形象のうちへ移入した。それの特徴は精神の生産物をこれがその中から生産された地盤から全く分離することであった。

シュレーゲルは云う。古代史と近代史とは二つの全く異った法則の上に立てるそれぞれの全体である。人間性のうちに於ける二つの異る能力、即ち表象的能力と努力的能力との何れが教養に対して第一の規定的な刺戟を与えるかに従って、それが区別せられる。前者は「自然的な」文化であり、後者は「技巧的な」文化である。そして時間の順序に於て後者が前者に随わねばならぬことは明かである。シュレーゲルによれば、古代史は「円環行程の体系」をなし、従って「完全性」を表わし、これに反して近代史は「無限なる前進の体系」をなす。無限なる前進ということは不完全性の象徴であり、そしてシュレーゲルはかくの如き近代文化の不完全性を就中文化の個々の部分の孤立化ということのうちに見たのである。彼は云う、「一民族の歴史はその民族自身の考え方に従って説明される、円環行程の体系は単に最も偉大なるギリシア及びローマの歴史家の見解であったばかりでなく、却ってその民族の一般的な考え方であった。」

然るにかく現実の生活から分離して観念の歴史を理解すること、或いは後者を前者のうちに移入して前者を観念的に理解することは永くは続かなかった。十九世紀に起った古代学は深い現実感をもって現実の古代を再び新たに発見した。我々はこれを古典解釈のリアリズムの傾向とも呼び得よう。この新しい見方が同時代の芸術家達に如何なる影響を与えたかを見るのは、興味あることである。アナトール・フランスは『エピクロスの園』の中で書いている。「私は時間と空間とから離れて美を理解し得ない、私は精神の産物について、私がそれと生活とのつながりを発見したとき、初めて喜びをもち始める、且つそれが私をひきつける結合点である。ヒサルリックの粗野な土器が私をしてイリアスを一層多く愛せしめる、私は、十三世紀に於けるフロレンスの生活を知っているために、よりよく神曲を味う。私は芸術家のうちに人間を、そしてただ人間を求める。最も美しき詩は遺物以外の何であろうか。ゲーテは『唯一の永続力ある作品は折にふれての作品である』という深い言葉を語った。然るに結局は一般にただ折にふれての作品があるのみである、なぜならあらゆる作品はそれが作られた場所及び瞬間に依存しているからである。ひとはそれを、若しその起原の処、時及び条件を知らないならば、理解ある愛をもって理解することも愛することも出来ない。自己充足的な作品を作ったと信ずるのは傲慢な弱さに属している。最高の作品はただ生活に対するそれの関係によってのみ価値を有する。この関係をよく捉えれば捉えるだけ、私は作品に対して愈々興味を感ずる。」ここに十九世紀の古代学のリアリズムの立場がクラシシズムに対して鮮かに言表わされたのを見る。そして我々はこの二つの立場がクラシシズムとリアリズムなる文芸の二つの時期に相応し、これに対して古典がそれぞれ特殊な仕方で影響したのを決して忘れてはならない。さて我々自身の古典研究の立場が何であるかが最も問題である。

(一九三一年四月)

著者: