認識論 (三木 清)

三 主観と客観

ライプニツはその『人間悟性新論』(Nouveaux essais sur l’entendement humain)においてロックのイデオロギーを一歩一歩批評した。ロックが生具観念の説を攻撃した諸論拠の中には、精神のうちにはそれについて精神が知らぬところの何物もあり得ないといふことがあつた。彼はこの原則をまた他の側から言ひ表はして、精神はつねに思惟するものでないともいつてゐる。これによつてデカルトの res cogitans としての精神、言ひ換へると自己の内容をつねに明晰判明に意識してゐるといふ精神は疑はしいものにされたやうに見える。ライプニツは彼のモナドロジーの思想をもつてロックとデカルトとの間に立つて独特の位置を占めてゐる。彼が世界の実体と考へたモナドは表象する力であつた。それだからモナドはそのあらゆる瞬間において表象(perceptions)をもつてゐなければならぬ筈である。しかるに一切のモナドは、従つて物質を構成するところのモナドも、心的なものであるとすれば、これらの表象がすべて明晰にして判明であるといふことは不可能である。そこでライプニツは微小表象(petites perceptions)の説を持ち出した。微小表象といふのは意識されぬ表象である。あらゆるモナドは心的なものとしてつねに表象をもつてゐる、けれどもつねに意識された、つねに明晰判明な表象をもつてゐるわけではない。しかしその生命は、無意識的から意識的への、闇冥にして混雑せる表象から明晰にして判明なる表象への発展にある。かやうにしてライプニツは精神が単に諸表象をもつてゐる状態と精神がそれらのものを意識してゐる状態とを区別した。前者を表象(perception)といひ、後者を統覚(apperception)と称する。従つて統覚は無意識的な、闇冥な諸表象が明晰にして判明な意識に高められ、かくて精神によつて自己自身のものとして認識され、自覚によつて占有される過程である。ところでライプニツによるとモナドは窓をもたない。モナドには窓がない故に、感性知覚を物の心に対する作用と解することは許されない。感性表象はむしろ精神が予定調和(harmonie préétablie)によつて、即ち諸実体の間には調和が予定されてゐて、モナドの各々はただみづから活動しつつもそのあらゆる瞬間においてすべての他のモナドと完全に相互に一致してゐるといふ原理によつて、闇冥にして混雑せる仕方で微小表象として展開するところの活動と考へられねばならぬ。そして感性表象について行はれる変化はただそれの明晰化、自覚への摂取、統覚と見られ得るのみである。

このやうにして感性と悟性との区別は、ライプニツにおいて、明晰性と判明性との種々の程度といふことと合致するであらう。両者は同一の内容をもつのであつて、ただ一は他が明晰に判明に所有するものを闇冥に混雑に表象するといふだけである。精神のうちへは何物も外部から入つて来ない、それが意識的に表象するところのものは既に前に無意識的にそのうちに含まれてあつたものである。精神はその意識的な表象においてもともとそのうちになかつたものをなんら作り出さない。かやうにしてライプニツは、或る意味では、即ち無意識的には、あらゆる表象は生具するものであり、そして他の意味では、即ち意識的には、人間の精神にはなんらの表象も生具してゐないと考へた。感性と知性とはこのやうにして結合される。ライプニツによると、悟性即ち関係附ける思惟の一般的命題も知覚のうちに微小表象として含まれてゐる。既に感性的表象のうちに、後には一般的根本命題として悟性の把握の明晰性と判明性とに持ち来されるところの精神の活動諸形式は、不明晰に混雑して隠されてゐる。感性と知性とのかやうな結合を表現してライプニツはいふ、知性そのものを除いて、先に感性のうちになかつたところの何物も知性のうちにない(Nihil est in intellectu quod non antea fuerit in sensu nisi intellectus ipse.)と。

カントもまた悟性と感性との、従つて叡智的世界と感性的世界との結合を企てた人と見ることができるであらう。もとより我々はカントとライプニツとの間の根本的な差異を見逃してはならない。ここに先づ二つのことを注意しておかう。第一に、ライプニツは感性と悟性との結合を考へながら、彼において問題になつてゐるのはなほどこまでも悟性の真理であり、叡智的な存在であつて、ただこのもののためにその結合を考へたのである。物質も彼にとつては心的本質のものにほかならなかつた。彼が永久真理(vérités éternelles)と事実真理(vérités de fait)とを区別したことは有名である。前者は無時間的な妥当性を、後者は一囘的な妥当性をもつてゐる。両者に共通であるのは、それらが共に直観的に、言ひ換へるとそれ自身において、なんらか他のものからの演繹によつてではなく、確実であるといふことである。故にそれらは第一真理(primae veritates)とも呼ばれる。ライプニツは第一真理の二つの種類、合理的真理と経験的真理とに、デカルトの明晰及び判明の概念を結びつける。これらの概念は二人の哲学者において多少違つた意味で使はれてゐる。ライプニツの規定によると、明晰な表象とはすべての他のものから確かに区別され、その対象の再認に役立つものである、判明な表象とはその個々の要素に至るまで、このものの結合に至るまで、明晰であるところのものである。いま永久真理もしくは幾何学的乃至形而上学的真理と呼ばれるものは明晰にして且つ判明である。これに反して事実真理は明晰ではあるが判明ではない。第一のものにはその反対は不可能であるといふ確信が結びついてゐるけれども、第二のものにおいてはその反対が考へられ得る。前者においてはその直観的確実性は矛盾律にもとづき、後者においてはその事実的現実性によつて保証された可能性はなほ充足理由律に従つての説明を必要とする。ところでライプニツはこのやうな差別はただ人間悟性の不完全にのみ関係すると考へた。合理的真理においては我々はその反対の不可能を明視する、経験的真理においてはさうでなく、我々は現実の認定に満足しなければならない。しかし後者にしても物の本性のうちに(in natura rerum)あるのであつて、神の悟性にとつてはその反対は不可能であるやうに基礎附けられてゐるのである。このやうな考へ方とは違つて、カントにとつては固有の意味において認識といはるべきものは経験的認識であつた。彼は数学的認識の如きもいまだ十分な意味においては認識とはいひ得ぬとした。なぜならそれは経験に関はるものでないからである。彼の認識論の問題の中心は経験にあつたのである。第二に、そして最も決定的なことは、次のことである。カント以前の思惟は、ライプニツも含めて、すべて世界の思惟であつた。それは自我無き世界哲学(Welt-philosophie)であつた。神を把捉しようとする試みでさへ、神を一の自我無き実体、一の存在するイデアとすることに到達したまでに過ぎぬ。それは神を自我の深みに求める代りに、神をひとつの世界に、此方の世界の外にあるとはいへ、なほ彼方の世界においたまでである。シェリングがライプニツの神の概念についていつてゐる、ライプニツにおいてはそこにあるすべてのものは非我である、一切の否定以外のあらゆる実在性を結合してゐるところの神ですらがさうである、批判的体系に従へば、自我がすべてである、と。まことに批判的体系といはれるカントの哲学の中心は自我であつた。ここに世界哲学との対立において自我哲学(Ichphilosophie)が生れた。自我を自我ならぬすべてのものに対立させることはカントによつてなされたのである。自我はもはやなんらかの実体(Substanz)ではなく、主観(Subjekt)である。主観に対するものは客観(Objekt)である。自我はあらゆる意味で客観ならぬもの、却つてあらゆる客観の根柢である。

カントの認識論の中心問題は、如何にして認識が対象または客観に関係し、対象性或ひは客観性を得るかといふことにあつたのである。このことは次の二つの前提のもとにおいてはいづれも不可能である。第一に、もし対象が主観の外にそれ自体において独立に存在し、我々の認識がただこれに従はねばならないのであるとすれば、我々の認識は到底対象性をもつことができない。なぜならこの場合認識は対象の模写を意味するほかなく、しかるに主観における模写が客観そのものと一致してゐるか否かといふことを確かめ得るところの基準はこのとき見出されない。我々は単に表象と表象とを比較してその間の一致または不一致をいひ得るのみである。ひとつの表象と物そのものとを比較することは、物そのものがまたひとつの表象でない限り不可能であらう。第二に、もし我々の認識がすべて経験から(a posteriori)来るものであるとすれば、我々の認識は対象性或ひは客観性をもつことができない。なぜなら経験は単に然かあるといふことをその場合について教へ得るだけであつて、あらゆる場合に必ず然かなければならぬといふことを示し得ない。即ちただ経験にのみもとづく認識は蓋然性を有し得るにとどまり、普遍性と必然性とを有し得ない。しかるに認識の対象性或ひは客観性はその普遍性と必然性とを意味してゐる。かやうにしてカントの認識論は右の二つの前提をくつがへさうとしたのである。

綜合の概念はカントにとつて最も重要な意味を有するものの一つである。綜合とは多様の統一をいふ。既にライプニツはモナドを多様の統一として規定した。各々のモナドはそのあらゆる状態において、一切の爾余のものを表象し、そして表象の本質にはつねに多様の統一化が属してゐる。カントにおいても認識とは多様の統一である。その統一において統一される多様は感覚の多様である。これは認識の内容をなすものであつて、感性によつて与へられる。認識の内容に対してこの内容を一定の関係に秩序づけて統一するには統一の形式がなければならない。ところでカントによると、感覚内容が与へられるとき、このものは既に一定の形式において与へられるのである。直観には直観の形式がある。空間と時間とがそれである。これらのものは物に具はつてゐる性質ではない、従つて経験的直観にもとづくものではない。ライプニツは空間がつねに物体の知覚において現はれることを知つたが、彼はデカルトなどのやうに空間または延長を物体そのものと同一視しなかつた。物体の実体は彼にとつてむしろ力であつた。そこで彼は合理的な、明晰且つ判明な認識は物体を力として把握するに反して、闇冥にして混雑せる、感性的な認識はそれを空間として把握すると考へた。空間は実体ではなく、むしろ心における存在(ens mentale)として現象ではあるけれども、諸実体の力の生産物としてよく基礎附けられた現象(phaenomenon bene fundatum)である。時間についても同様にいはれ得る。このことから物体のこの空間的な現象の仕方に関係するところの力学の諸法則はなんら合理的な、幾何学的な真理でなく、却つて偶然的な、事実的な真理であるといふことが帰結されねばならぬ。カントはライプニツのやうに考へては算術、幾何学、力学などの認識の普遍性と必然性との根拠は明かにされ得ないことを知つた。空間及び時間は経験的直観ではなくて純粋直観(reine Anschauung)であると彼はいふ。その意味はそれらが直観の形式として先験的(a priori)なものであるといふことである。従つて認識の内容となる直観そのものが既にカントにおいてはひとつの綜合概念であると見ることもできる。即ちそれは二つの全く相異る要素、感覚素材とこれを結合する時間並びに空間の形式、一は経験的なもの、他は先験的なものから成立つてゐる。

カントによると認識は本来論理的なもの即ち判断である。判断は思惟または悟性の作用にもとづく。カントは、我々が直観の多様のうちに綜合的統一を作り出すとき、我々は対象を認識する、といつてゐる。判断の能力である悟性がかやうな統一を作り出すのである。この統一において統一されるもの即ち認識の内容は思惟みづからの作り出すものではなく、直観に俟たねばならぬ。しかし直観のみでは認識の内容が与へられるのみであつて、認識はない。認識はこの内容が悟性の形式によつて統一されたとき初めて成立するのである。かくてカントの有名な言葉がある、内容なき思想は空虚であり、概念なき直観は盲目である、と。直観の多様を綜合的統一において思惟する悟性の諸形式をカントは純粋悟性概念(reine Verstandesbegriffe)或ひは範疇(Kategorien)と呼んでゐる。このものは先験的なものである。もしさうでないならば、我々の認識の客観性即ち普遍性と必然性とは保証されることができない。ここに我々は経験論にいふ経験とは根本的に異るところのカントにおける経験の概念を理解することができるであらう。カントの認識論の中心問題も経験であつたのである。カントはいふ、経験一般の可能性の諸条件は同時に経験の諸対象の可能性の諸条件である、と。カントの理論哲学の核心をなすこの命題は、存在の諸条件と認識の諸条件とが相互に一致するといふことを言ひ表はしてゐる。これは何を意味するのであらうか。カントは知覚判断(Wahrnehmungsurteile)と経験判断(Erfahrungsurteile)とを区別したことがある。知覚判断といふのはただ諸感覚の空間的時間的関係が個人の意識にとつて言ひ表はされるところの判断である。これに反して経験判断はこのやうな関係を客観的なものとして、あらゆる認識する意識にとつて妥当するものとして、言ひ換へると、対象のうちに与へられたものとして主張するところの判断である。両者の認識論的相違は、経験判断においては諸感覚の空間的或ひは時間的関係が範疇によつて、即ち概念的な聯関によつて規則附けられ、基礎附けられてをり、しかるに知覚判断にはこのことがないのによるのである。かやうにして例へば、二つの感覚の継起は、その一が他の原因であるといふことによつて基礎附けられてゐるものとして思惟されるとき、対象的となり、客観的或ひは普遍妥当的となる。ところで因果の概念は範疇の一つである。諸感覚のあらゆる個々の空間的時間的綜合態はこのやうな悟性の形式によつて規則的に結合されるとき初めて対象となる。経験の対象は思惟によつて構成されるものである。それだから対象の経験或ひは認識は可能である。我々の概念的綜合の諸形式が自然そのものを規定してそれを初めて自然として成立させる諸条件である故に、自然についての我々の普遍的にして必然的な認識は可能である。我々の認識が対象に従ふのでなく、対象が我々の認識に従ふのである、とカントはいつてゐる。かやうにしてすぐれた意味での経験は、諸感覚の空間的時間的綜合が悟性の形式によつて規定されてゐるところの体系である。

ところでこのやうに経験的対象界を構成すると考へられる意識は個人的な意識であることができない。もしさうであれば、認識は対象性即ち普遍性と必然性とをもつことができないからである。カントはそのやうな意識を意識一般(Bewusstsein überhaupt)と称してゐる。これは自我とも呼ばれ、超個人的なものである。このやうな自我の概念は人間の存在についての一定の解釈の仕方を予想して成立するであらう。それはルッターの宗教改革の精神の上に立つてゐるものと考へることができる。ルッターは神を人格の最も内面において見出した。人間が神と自由に、密接に交通し得るのは彼の人格の核心においてである。ひとは神を外に求むべきではなく、自己のうちに求むべきである。自己の精神のうちに神は宿つてゐるのである。個人の本質をかくの如く神的な超個人的なものとして把握するとき、自我は初めて対象界の構成者と看做されることができるであらう。尤もカントの自我は直ちに神と同一視さるべきではない。人間的認識の唯一の対象は彼にとつて経験である。経験を超越するところの物自体(Ding an sich)の認識は我々にとつては不可能である。蓋し認識はいつでも内容と形式との綜合であつて、形式は思惟の自発的な活動に属するけれども、内容は思惟みづからの生産するものでなく、却つて思惟はこれを直観に仰がねばならぬ。しかるに直観は我々においてただ受容的感性的である。いまもし感性的ならぬ種類の直観があるとすれば、このものにとつては範疇の助けによつてまた他の種類の諸対象が存在するであらう。しかしながらかかる人間的ならぬ直観の諸対象は、この直観がまた与へられた感覚諸内容をなんらかの仕方で秩序づけるにとどまる如きものであるとすれば、物自体ではなく、どこまでも単に現象であるであらう。しかるにもし受容的ならぬ種類の直観、それ故に単に形式ばかりでなく、内容をも綜合的に生産するやうな直観があるとすれば、このとき直観の諸対象はもはや現象ではなく、物自体でなければならぬであらう。かくの如き能力はカントによつて知的直観(intellektuelle Anschauung)或ひは直観的悟性(intuitiver Verstand)と名附けられた。それは人間においては分離して現はれるところの二つの認識力、感性と悟性との統一である。知的直観は人間のものではなく、ただ神のものである。もとより感性と悟性とは人間において分れてゐるにせよ、さきに示されたやうに、両者はここでも互に他を指し示し合ふことによつて、その隠された共通の根源を暗示してゐる。かやうにしてカントにとつても、既にプラトンやデカルトなどについて述べておいた如く、人間は一個の中間的存在である。人間は叡智的なものと感性的なものとの中間者である。ただカントにおいては神は深く内面化されてゐる。人間を神そのものの位置にまで進めたのは、或ひは神そのものを自我として、絶対的自我として敢て把握するに至つたのは、フィヒテやヘーゲルの哲学であつた。かくて彼等においては、カントのばあひ人間的認識の限界の外におかれた物自体はもはや解消されてしまふことができた。彼等の哲学は、一言でいふと、知的直観乃至直観的悟性の哲学である。

カントの哲学は現代に対して最も決定的な影響を与へた。新カント学派の有力な諸傾向はそれを主として認識論上の論理主義(Logizismus)の意味に徹底して解釈して自己の哲学を立てようとした。いまかかる哲学の帰結をひとつの例をもつて示しておかう。前にいつたやうに、リッケルトは認識の対象を価値であると看做した。カントにおいては認識の対象はどこまでも経験であり、従つて存在であつた。しかるにリッケルトは存在の概念を全くぬきにして認識の対象を規定する。カントのいふ認識の対象性は、一方そして根源的には、認識は存在としての対象に関係するといふことを、そして他方その論理的意味として認識の普遍性と必然性とを意味した。従つてそれは単に論理的な意味のものでなく、却つて存在論的な(ontologisch)、むしろ論理的・存在論的な(logisch-ontologisch)意味のものであつた。カントが自己の哲学的立場を名附けたところの先験哲学(transzendentale Philosophie)といふ語は、根源的にはギリシア語の ontologia(存在論)のラテン語訳なる philosophia transcendentalis と関係してゐる。しかるにリッケルトは対象性といふものを全く論理的な意味に解する。そして主観の概念についても同じことが行はれる。リッケルトは主観の概念を三様に区別してゐる。これに客観の三様の概念が相応する。第一に、我々は普通に外界を客観と看做してゐる。外界とは、我々の理解するところでは、自己以外の空間中にある世界を意味する。そしてこの外界に対立させられるものは我々の身体である。ここにいふ身体は、その中にはたらくと考へられる精神をも含めていふのである。それだからこの場合には我々の精神をも包括する身体が主観であり、この身体を囲繞する空間的世界が客観となる。第二に、更に身体と、これを我々に意識させる表象とを区別してみると、我々の身体もまた外界に数へられることができる。かくて自己の意識から独立に存在すると考へられる一切のもの、即ち全体の物理的世界及びすべて他人の精神生活などは外界に含め得る。この場合外界に属しないものと見られるのは自己の精神的自我があるばかりである。このとき自己の意識とその内容とが主観となり、客観とは自己の意識内容以外の、或ひは意識そのもの以外のすべてである。第三に、更に第二の場合において主観そのものであつたところのものを主観と客観とに分析することができる。ここにいふ客観とは自己の意識内容、即ち自己の表象、知覚、感情或ひは意欲等のものであり、この内容を意識するものが主観となるのである。ところでリッケルトは真に認識主観と考へらるべきは第三のものをどこまでも推し進めたものでなければならぬとした。それは客観となし得るものは尽くこれを客観となし、如何にしても客観とすることのできない最後の主観である。それは如何なる意味でも存在でなく、むしろ単に一の概念、一の限界概念(Grenzbegriff)である。リッケルトはカントの意識一般をかく解した。それは純粋に論理的主観であり、リッケルトによつて判断意識一般(das urteilende Bewusstsein überhaupt)として規定される。我々はここにカントにおける自我の内面性或ひは精神性が全く失はれてしまつたのを見出すのである。

ついでながら我々はカントの自我或ひは意識一般をフッサールのいふ純粋意識の如く解することを避けねばならぬ。純粋意識はフッサールにおいて超個人的なものでなく、また全く形式的なものでもなく、内容に充てる個人的主観性である。そして彼によると、世界の客観性はかかる純粋意識のただ一個によつて還元し尽すことはできぬものであつて、これを残りなく還元するには多数の主観の共同的還元に俟たなければならない。かかる多数主観への還元をフッサールは間主観的還元(intersubjektive Reduktion)と称してゐる。なほカントとの差異は次の点にも認められる。フッサールの説はもと知覚説である。これに反してカントは認識は判断であると考へる。そこで前者においては純粋な受動性が、後者においてはむしろ純粋な能動性が重んじられてゐる。またこのことと関係して、前者において問題となつてゐるのは主として、あのライプニツの区別に従へば、永久真理の世界であるに反して、後者においてはむしろ事実真理の世界が問題となつてゐるのである。カントの関心は事実真理の普遍性と必然性とを基礎附けることに存したのである。フッサールでは永遠な本質存在(Sosein)が問題であるに対して、カントでは経験的な現実存在(Dasein)が問題であつた。

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