認識論 (三木 清)

二 直観と判断

ギリシア人は既に人間の知的な作用を感性(aisthesis)、悟性(dianoia)及び理性(nous)の三つの種類に区別してゐる。これらのうち感性知覚は言ふまでもなく直観的であり、理性も思惟ではありながら直観的なものと考へられた。ひとり悟性的思惟は直観的(anschaulich)でなく、却つて比量的(diskursiv)である。このやうな見方は後の哲学の歴史を絶えず支配してきた。ところで模写説と呼ばれるものはいつでも、なんらかの意味での直観的な作用を特にすぐれた認識の作用として取り上げることを特色としてゐる。合理論は知性的な直観を、経験論は感性的な直観を、かやうな優越な作用であると考へる。そしてこれらの作用はそれぞれ認識の源泉であると看做されてゐる。しかるにかやうな考へ方は近代の認識論の或るものによつて非難されるところのものである。それは要するに認識の起原の問題にかかはり、そして認識の起原の問題は畢竟心理的発生的な問題であつて、認識の本質にはかかはりのないことであるといはれる。しかしながら我々はこのやうな認識の起原の問題が実に認識の本質の問題に密接に関係してゐることを認めざるを得ないであらう。なぜならそこで問題になつてゐるのは、我々の如何なる作用が特に優越な認識の作用であるかといふことであり、そしてこれは如何なる存在が特にすぐれて認識の対象と見られるかといふことと内面的に結び附いてゐることであるからである。

知性的な直観を優越な認識の作用と見た人々が認識のための道徳的条件について語つたことは、さきに記しておいた通りである。しかるに近代の認識論はもはやかやうな条件について何事も考へようとはしない。このことは、それが一方では直観的ならぬ作用を、そして他方では直観的なものを考へる場合にも感性的な直観を、特にすぐれた意味における認識の作用と看做すことによるのである。けれども今日知性的な直観を優越な認識の作用と考へる場合にもなほ道徳的条件を認識のために必要な前提として考へないといふことは何によるであらうか。我々はこの場合デカルトの哲学の劃期的な意義に思ひ及ばなければならぬ。デカルトにおいて有名なのは彼の懐疑である。すべてのものについて疑ふべきである(de omnibus dubitandum)といふことを彼は方法とした。懐疑といふのは動かし難いものを揺り動かし(eversio)、迫り来るものを押しやる(remotio)ことである。私は極めて自然に私の周囲の物が現実に存在することを知つてゐる。感官を通して受け容れられる世界は私の意志の左右し得ぬものである。いま私が煖炉に近づくとき、私は欲するにせよ欲しないにせよ熱を感じなければならず、従つて熱の感覚が私とは違つた物体、私の前の煖炉から来ると考へざるを得ない。同じやうに私はこの煖炉に向つてゐる私の存在することをいはば自然的衝動によつて信じてゐる。懐疑は我々の自然的な態度において動かし難く思はれるこのやうな現実の存在を揺り動かさうとする。懐疑は、しばしば誤つて解されるやうに、定立に対する反定立もしくは肯定に対する否定ではない。むしろそれは、デカルトによると、ひとつの仮定(suppositio)であるに過ぎない。私は私の単純な、原始的な体験に現はれる世界に対して、そのあるがままに任せておきながら、しかもその固有の力を失はせることができる。そのために私は暴力を用ゐることを要せず、それの虚偽であるのを示すことも不要である。むしろ私は私に力をもつて迫つて来る存在をそのままに押しやつて、これに対して同意することを差し控へねばならぬ。ところで懐疑が方法的意義を得るためには、懐疑は一般的に遂行されなければならない。しかし次に懐疑はまた秩序をもつて遂行されなければならない。方法的な懐疑は、疑はしく見える個々のものを一々吟味するといふ如き報いられぬ仕事をやめて、かやうなものの基礎と原理とに向ふことを我々に要求する。更にこれらのものについても我々を段階的に導いてゆかなければならない。デカルトは驚くべき確かさをもつてこの段階を辿つてゐる。彼の懐疑の最初の対象となつたのは一般に感官と関係する存在、一は感官から(a sensibus)直に受け取られるもの、他は感官を通して(per sensus)あるものである。前者は音や色の如きものであり、後者は中世の学者が imagines と呼んだもの、記憶像の如きものである。デカルトは感官と関係する特殊(particularia)の存在を疑つた後に、懐疑を一般(generalia)の存在に向けた。例へば、私がいま眼を開き、頭を動かし、手を伸してゐるといふ特殊な事実が真でなく、私がこのやうな手や体をもつてゐることは仮幻であるに過ぎないとしても、ちやうど画家がサティルを描くにあたつてそのすべての部分を全く新しく作ることは不可能であり、却つて彼は現実に存在する動物の肢体を組み合せてあの怪物を作らねばならぬやうに、少くともこの一般、眼や頭や手そのものの存在は確実らしく見える。デカルトはかやうな一般の存在を押しやつた後に、懐疑の次の段階へ登つて尋ねた。たとひ画家が彼のサティルを実際の動物になんら類似することなく全く空想的に描き出すとしても、彼は少くともまことの色を用ゐて制作しなければならぬやうに、これらの一般、眼や頭や手などが仮幻的なものであるとしても、我々の意識の中にあるこれらの心像を作り出すために欠くことのできぬまことの色ともいふべき普遍(universalia)は真実に存在するものと考へらるべきではないであらうか。ここに普遍といふのは、物体の普遍的な性質、延長、形状、数、空間、時間などである。従つて複合的な物体を考察する物理学、天文学、医学などの学問が疑はしくあるとしても、最も単純で最も普遍的な対象を取扱ふところの、算術や幾何学の如き学問は確実であると結論され得ないであらうか。デカルトは最後に数学の教へる命題もまた一般的な懐疑のうちへ引き入れられねばならぬと考へたのである。

ここに我々はデカルトの懐疑の目的がどこにあつたかを知ることができるであらう。第一に、彼は懐疑を物の超越的存在に向けた。知覚や記憶はこれらの心像に類似し相応する物が我々の意識の外に実在するかのやうに我々に告げる。デカルトは我々のこのやうな自然的な考へ方を押しやるために夢の仮説を用ゐてゐる。私はしばしば夢において私が現に見たり触れたりする事実と同じ事実を同様に明かに意識することがある。そして仔細に考へると、私は夢と現とを分つべき確かな指標を知らないのであるから、私は私の生涯の現実がひとつの夢幻でないといふことをあかしするすべを知らない。もしさうであるなら、我々の自然的な態度において確実に見える心の外の存在は十分に疑はるべき理由をもつてゐる。かやうにしてデカルトの懐疑の目的の一つは超越的なものを排してすべてを内在的に考察し得る如き立場を発見することにあつた。第二に、デカルトは懐疑を数学的対象にまで拡げる。このとき夢の仮説はもはや用をなさぬ。算術や幾何学の対象は私の心の外にあるものでなく、むしろ私の意識に生具してゐるものである。私は数学を考へるとき、私の取扱ふ対象が自然的現実のうちに実在するか否かを問はない。それのみでなく、二と三との和は五である、などといふ命題は、私が眠つてゐるにしても私が覚めてゐるにしても少しも変らないのである。かやうな命題を揺り動かすために、デカルトは有名な悪魔の仮説を用ゐた。仮に万能で、しかも悪意をもつた悪魔がゐて、私を誤らせるために全力を使つてゐるとしたならば、私が二と三とを加へる毎に、自分では完全な認識をもつてゐると信じてゐるにも拘らず、そのたび毎に私をつねに誤らせてゐないとは保証し難いであらう。何故にデカルトは悪魔の助を借りてまで、我々に自明のものと見える数学的認識を懐疑の中へ引き入れたのであらうか。数学の命題が確実であるといふことは我々にとつて先づいはば事実であつて、我々はこの一般的な事実についてその根源を問はねばならぬ。懐疑は事実を否定するのではなく、事実の根源に関する問を可能にするために、事実を揺り動かすのである。そこで我々はデカルトの求めるものが単なる真理ではなく、基礎附けられた真理であるのを認めることができるであらう。我々はあの夢の仮説をもこの意味に解することができる。かやうにしていはゆる懐疑論者としてのデカルトはどこにも見出されない。彼は真理の存在を疑つたことはなかつた。むしろ我々は彼が懐疑の存在によつて真理の存在を論証してゐるのを見出すのである。私が疑ふといふのは何物かが私に欠けてゐるためである。しかるにもしそれとの比較において私の欠乏を知る如き完全な実在の観念が私のうちにあるのでなければ、私は自己が疑ひ、従つて自己が欠けてゐることを知り得る理由はない、と彼は論じてゐる。完全な実在といふのは神であり、神は真理の宝庫である。

デカルトは懐疑によつて発見された原理を「私は考へる、故に私は在る」(cogito ergo sum)といふ命題で現はした。この場合コギト(私は考へる)といふのは単に思惟することではない。表象し、思惟し、感情し、意志するすべてが含まれてゐる、一言でいふと意識することである。またそれは私が考へる故に私が存在するといふ推理でもない。意識するもの(res cogitans)としての私の存在がそこに自証されるのである。私が散歩に行くといふことは私が夢に空想してゐることかも知れない。しかしそれを私が意識してゐるといふことを私は単に空想することができぬ。なぜなら空想もそれ自身意識の一種であるからである。同じやうに、私が疑ふとしても、疑ふといふ意識は私にとつて確実である。かやうにしてデカルトのコギトは二つのことを意味するであらう。第一、それはあらゆるものを内在的にする存在の領域である。私は意識されたものを意識する(ego cogito cogitationes)といふ関係がそこにあるからである。これに関聯して、第二に、それは彼の言葉を用ゐると明晰判明に(clare et distincte)知られる存在の領域である。デカルトは意識の存在の確実性を統一的な基本的な真理と考へた。そして私の自己意識のやうに明晰判明に知られる一切のものは真でなければならぬ、といふことを彼は学問的方法の原理として据ゑたのである。

デカルトにおけるコギトの発見によつて我々はもはや認識の道徳的条件について語ることを要しないやうに思はれる。なぜならそれは方法的な懐疑によつて見出されるものであるからである。フッサールはデカルトのコギトは彼のいふ純粋意識(reines Bewusstsein)の領域にほかならないといつてゐる。この領域を見出すための方法をフッサールは現象学的還元(phänomenologische Reduktion)と呼ぶ。この還元が行はれるためには、先づ自然的な態度(natürliche Einstellung)が排去(ausschalten)されねばならぬ。超越的な事実はそれによつて直接な意識に内在的となる。次にまた超越的な事実ばかりでなく、超越的な本質が内在的とならなければならない。本質といふのはこれまでイデアといつたものである。フッサールは現象学的還元のもとに超越的自然のみでなく、超越的本質をも、従つてこの本質を研究の対象とする本質学をも引き入れる。我々はそれが如何にデカルトの方法的懐疑に類似してゐるかを見遁し得ないであらう。フッサールは還元を古代の懐疑論者の用語に従つて現象学的エポケー(判断中止)とも称してゐる。

意識の本性は志向性(Intentionalität)にある。フッサールはこの考へをブレンターノから得た。ブレンターノは精神現象が独自の領域をもち、自己を物理現象から区別する特性を求め、これをスコラ哲学に倣つて、対象の志向的内在(intentionale Inexistenz eines Gegenstandes)として規定した。即ち精神現象はなんらかの対象を指示し、或るひとつの内容に関係することをもつて特色とする。我々はすべての心的作用において或るものが対象としてそのうちに含まれてゐるのを見出す。ブレンターノはこの関係を内在的対象性(immanente Gegenständlichkeit)とも名附けた。即ち、表象においては或る物が表象され、判断においては何物かが是認もしくは否認され、愛においては愛される何物かを、憎みにおいては憎まれる或る物を、慾望においては欲せられる対象を、我々はそれぞれの心的作用において見出すのである。フッサールはこのやうな思想を承けて純粋意識のノエシス・ノエマ的構造を明かにしようとした。これは何をいふのであらうか。我々はすでにフッサールが現象学的還元を行ふために先づ自然的な態度を排去することを述べた。しかるに彼においてはこのやうな排去は同時に積極的なものに対する準備の意味をもつてゐる。このものは本質化作用(Ideation)である。これは本質の直観であり、本質の直接的で具体的な把捉を意味してゐる。本質は個物の中にあつてしかもこれを超越する。事実は本質化作用によつてその本質または形相(Eidos)にまで還元され、ここにフッサールのいはゆる本質的還元或ひは形相学的還元(eidetische Reduktion)が行はれる。しかるに本質は一種の超越的なものであるから、更に現象学的或ひは先験的還元によつて内在的なものとされねばならない純粋意識の領域はかやうな二重の還元によつて得られるものである。それはイデアの純粋内在の世界である。フッサールはプラトン以来イデアと結び附いてゐるヌース(理性的直観)の語をとつて、純粋意識をノエシス・ノエマ的構造のものとして規定した。ブレンターノのいふやうに、意識の志向性が認められるならば、如何なる意識の作用にも必ず対象が含まれてゐる。ノエシスとノエマとはひとつの意識においてかやうな主観的側面と客観的側面とを構成する。如何なる意識についてもつねにこの二つの側面が見出され、この二つのものはつねに相関的な関係を保つてゐる。このやうな相関性は意識のノエシス・ノエマ的構造の第一の原則である。その第二の原則とも見らるべきものは、それと関聯して、ノエマ的側面のどのやうな低度の変化にも必ずノエシス的側面において一々これに照応する要素が認められるといふことである。

我々はフッサールの現象学においてあの生具観念の問題が巧妙に解決されてゐるのを見るであらう。ここに模写説的な考へ方の本来の意図が、模写説に陥ることなしに顕はにされるに到つたと見ることもできるであらう。この場合次のことが注意されねばならない。第一、そこでは真理の基準は明証(Evidenz)に求められる。デカルトが既にこの道をとつてゐる。彼は明晰にして判明なる知覚(clara et distincta perceptio)をもつて真理の標準とした。明晰とは精神にとつて直観的に現前するもの、判明とはそれ自身において明晰にして、且つ判然と限定されてゐるものをいふ。この意味において明晰判明であり、その明証がいかなる他のものからも導かれるのでなく、専らそれ自身において基礎附けられてゐるものが元来、彼の生具観念と称するものであつたのである。第二、明証をもつて真理の基準とするのは根本的には知覚説として特色づけられることができる。しかるにここにいふ知覚はもとより感性知覚のことではない。デカルトは知覚に二つのものを、感性からの知覚(perceptio sensu)と知性による知覚(perceptio ab intellectu)とを区別した。明証を伴ふのは明かに後のものであつて、それはギリシア人がヌースといつたものにほかならぬであらう。アリストテレスはヌース即ち理性は知覚の如きものであるといつてゐる。かやうな理性的な知覚において事物の本質即ちイデアは十全に与へられ(adäquat-gegeben)、かやうなものにして初めて明証的に措定されることができ(evident-setzbar)、そのやうなものが真理であるのである。いはゆる合理論的な模写説の本来の意味はここにおいて明かであらう。

経験論的な模写説も一種の知覚説であることには変りはない。しかしここでは知性的な知覚でなくて感性的な知覚が問題になる。それは二つの場合において問題となつてゐる存在が異るためである。一はあの叡智的世界を、他は感性的世界を認識の対象として定立する。先に述べたやうに、ヒュームは諸印象が直観的な確実性をもつてゐるとした。これは経験論的な認識論の根本前提であらう。しかるにこの根本前提が既に疑はしい。なぜならそこでは純粋に内在的な立場に立つことが許されてゐないからである。それのみでなく、感性的な直観において与へられるのはつねに個々のものであり、しかるに我々の知識はつねに普遍的な、必然的な関係の把捉を求めるのである。このものは何処から来るのであるか。感性知覚において与へられる諸内容と共におのづからまたその一切の関係が与へられると考へるならば、経験論は感覚論(Sensualismus)となる。感覚論はあらゆる認識はただ外的な、感性的な知覚からのみ由来すると説く。それは意識における諸要素の単なる共在から認識においてこれらのものの間に存在するすべての関係をも導き出さうとする。それは諸内容の間にどのやうな関係が妥当し得また妥当すべきであるにしても、このものはどこまでもそれらの諸内容に依存するといはうとするのである。けれども感覚論に反対してひとはいふことができる。最も原始的な関係、例へば比較或ひは区別の如きでさへ、個々の内容のいかなるもののうちにも、またその和のうちにも与へられてをらず、むしろそれは与へられた諸内容に対して或る新しいもの、他の種類のものとして附け加はるのである。それだからロックの如きも諸要素を関係づける諸活動、記憶、区別、比較、結合等のものを精神の諸能力(faculties)と称し、これらの精神みづからの機能の仕方は感覚によつてでなく、反省によつて意識されると考へた。しかしロックは経験論者としての制限のために、これらの諸活動をも受動的なものとし、感覚の内容に束縛されてゐると見た。

ロックが精神の諸能力に帰したものに我々は自己活動性を与へねばならぬやうに思はれる。このやうな自己活動的な能力は直観に対して普通に思惟と呼ばれてゐる。しかもここにいふ思惟はギリシア的なヌースでなく、むしろディアノイア即ち比量的な悟性(Verstand)としての思惟である。かやうにして思惟をもつて特にすぐれた認識の作用と見る思想が現はれる。カントの如きはこれに数へられることができよう。カントにとつても認識の対象として問題になつたのは経験的な存在であつた。直観は彼においても主として感性的な直観を意味する。そして彼は感性を受容性(Rezeptivität)として特性附ける。これに反して悟性は自発性(Spontaneität)を本質とするといはれる。悟性のはたらきは何よりも判断である。そこでカントの如きも判断をもつて特にすぐれた認識の作用と考へた。

認識は判断であるといふ思想は現代の新カント学派によつて継承されてゐるところである。判断は表象とは異るものである。判断においては表象においてよりも音が一層明瞭に、一層鋭く表象されるといふのではない。或る音曲に聞きとれてゐる場合、私の全努力はその音の何物も聞き落すまいとするけれども、その音について判断を下す必要は必ずしもないのである。それのみでなく我々が判断を下すと、判断された内容は明かるさと鋭さとにおいて却つて減退するのがつねである。また我々は極めてぼんやりした微弱な音についても、強い、確かな、はつきりした音についてと同じやうに判断を下すことができる。二つの音が相継続すると判断される場合に我々の表象する音と音との関係は、判断を下すことなしに音の相継続するのを聞くときのそれと、なんの変りもない。この事実は、判断においては、表象された音に、その表象から判断を構成すべき何物かが加はらねばならぬことを証してあまりあるであらう。しからば判断を形作るこの新しい要素とは何であらうか。多くの人がかやうな新しい要素のなければならぬことを注意してゐる。判断は一般的にいふと主語表象と客語表象との結合である。ロッツェによると、判断においては主語と客語との関係の上に、この関係の妥当如何を言ひ表はすべき第二の判断が存在しなければならない。この第二の判断といはれる要素がそれ自身表象的なものであつてはならぬことは明かである。なぜならもしこの副判断にして単に表象された関係しか含まないとすれば、その妥当性を言ひ表はすべき新しい第二の判断が更に必要となり、かくて副判断の無限の系列がなければならないからである。ベルクマンは判断における肯定と否定を、主語と客語との間の単に表象された関係を化して判断となすところの批評的態度であると考へた。この見解から彼は判断を単なる理論的態度と見ないで、実践的性質を帯び、意欲的能力の共存する精神の発現と見なければならぬといふ結論を引出してゐる。またウィンデルバントは判断(Urteil)と価値判断(Beurteilung)とを区別する。判断といふのは価値判断によつて初めて真偽が判定されるところの純理論的な表象結合である。我々の思惟にして認識を、従つて真理を目差してゐる限り、我々の判断はすべて価値判断のもとに従属する。認識の命題はつねに判断と価値判断との或る種の結合を含んでゐる。それは表象の結合ではあるが、その真理価値は肯定または否定によつて決定される、とウィンデルバントはいつてゐる。ところで判断の本質に関するこれらの見方がなほ幾分心理学的であるのに対して、リッケルトは判断の本質を純粋に論理的に考察するには、判断をもつて問に対する答と見れば最も適当であると考へる。問に対する答は、その問の答へられることが可能であり、延いては求められた判断が可能であるときには、必ず肯定または否定の形をとつて現はれる。判断の論理的本質は問のうちにある表象的要素の肯定或ひは否定なしには考へることができない。いま認識は判断であり、判断の本質は肯定と否定であるから、認識するといふことは、その論理的本質において見ると、肯定または否定することである。ところで肯定或ひは否定において我々はつねになんらかの価値に対して態度をとつてゐる。純粋な理論的認識の場合においてもなんらかの価値に対してとるべき態度が問題になつてゐるのである。しかるに苟も認識の名に値する判断は必然的な、普遍妥当的な判断であるべき筈であるから、ここに問題となつてゐる価値も単なる快楽の如き個人的なものでなく、超個人的な、永遠なものでなければならない。それは時間的な心象として終始するところの個人的意識内容に属することができず、これを超越すると考へられなければならぬ。かやうな超越的価値こそ、リッケルトによると、判断の対象であり、そしてそれが認識の対象なのである。認識の対象であるかやうな価値は如何なる意味においても存在するといひ得るものではない。それはなんらか物理的な或ひは心理的なものではない。またそれはなんらかの形而上学的存在でもない。或るものが存在するといふことを我々は如何にして認識するのであるか。判断によつてでなければならぬ。しかるにあらゆる判断の真理は肯定のうちに是認された価値にもとづき、専らこの価値の肯定に存するのであつて、存在の認識を含む判断も、この例に漏れることができない。それ故に価値は論理上存在に先行すべきである。価値は存在するものでなく、却つてロッツェがプラトンのイデアを存在することなくただ妥当(gelten)するものと解したのに倣つて、妥当するといはれ得るのみである。価値は妥当の国に故郷をもつてゐる。これは感性的世界と叡智的世界とのほかにあつて、いはゆる第三帝国を形作つてゐる。

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