性格とタイプ (三木 清)

ポール・ブールジェは小説を風俗小説と心理解剖小説とに分けている。何かこのような区別が認められてよいであろう。もちろん、あらゆる分類は形式的だ、然しそれだからこそそれは有益なのである。ブールジェによると小説のこのような区別は人間の捉え方の相違にもとづいている。凡ての人間は、或る側面から見れば、彼がそれを代表する環境及び階級の産物であり、──他の側面から見れば、この階級における孤独の人物、この環境における独創の人物である。風俗小説はその一方の側面から、分析(心理解剖)小説はその他方の側面から人間を捉えて描くのである。

小説を何かこのように区別するとして、いずれが本格的であるかということについては、いろいろ議論のあり得ることであろう。近頃の日本のいわゆる「本格小説」論は、よくバルザックが引合に出されるように、風俗小説をもって本格小説とする傾向がある。然るにブールジェは、彼自身の作家的立場からしても想像されることであるが、バルザックの出現及びその影響をフランス小説史における蝕のように見ている。フランスにおける最もフランス的なものはモラリストであり、フランス人は中世以来のあらゆる伝統によってモラリストでコントウルである。我々の国民的芸術の凡ての変遷にも拘らず、フランス語で書き、従ってフランス的に思考する人間が存在する限り、我々はつねにそれにとどまるであろう、とブールジェは云うのである。だからフランスにとっては心理解剖小説が寧ろ本格的だということにもなるであろう。尤も彼は風俗小説が不可能であるとか、無価値であるとか、と考えるのではなく、風俗小説と解剖小説との二つの形式は相並んで栄えることができ、また栄えるべきであって、一方の例は他方の起ち上がることを助けるものである、という風に見ている。宇野浩二氏であったかが先達せんだって強調して云われたように、日本の小説の優秀なものは伝統的に殆どみな心境小説乃至私小説であって、それが日本にとっては本格的なものであると考えることもできるであろう。国民性と芸術との関係は多くの研究を要する問題である。それにしても、近頃の本格小説論、バルザック風の風俗小説乃至社会小説の要求にも全く重要なものがあることは確かで、それが特に今日の文学の事情に痛切な意味を有するということも疑われない。

そこでブールジェによると、人間は一方では社会に属すると共に、他方では性格をもっている。いま作家が、或る人間をその群の他の見本と類似する側面から描こうとするか、それともその人間がその群のなかで区別される側面を描こうとするかに従って、手続の上に大きな相違がなければならぬ。第一の場合では、作家は平均的な諸人物──というのは彼等は一の環境の習慣を最もよく代表するから──を選び、これらの人物を沢山に出会われるような境遇におき、またその階級のヴァラエティを多様にするために人物を殖すということが必要である。これが風俗小説の規則であって、それはバルザックの『人間喜劇』の総序に言い表わされている、とブールジェは考える。即ちバルザックはジョフロワ・センチレールの理論を応用してそこで次の如く書いている。「唯一つの動物しか存在しない。……動物は、そこで発展するように定められている環境において、その外的形態、或いは、一層正確に云うならば、その形態の諸差異、をとる一原理である。動物学上の種はこのような諸差異から結果する。……私は、この関係のもとに、社会が自然に似ているのを見る。自然は人間から、彼の活動がそこで展開される環境に従って、動物学に諸々のヴァラエティがあるのと同じように沢山の異った人間を作らないであろうか。」と。然るにもし小説家が心情や性格のニュアンスを明かにし、激情の生成にあたり感情の争において行われる内的な活動を露わに示そうと思うならば、彼はかかる内面的生活が最も豊富であるような人物、その個性が環境よりもつねに強くあり得るような人物を選ばねばならぬであろう。彼は稀なる情況、特殊な危機を好んで選ぶであろう、なぜなら人間の奥底はその場合において最も完全に示されるから。彼は人物の数多いことを避けるであろう、なぜなら強い内面的生活というものは我々の感受性が甚だ少数の存在の上に集中されるということを予想するから。

かくの如くブールジェは、やや概括的であるにしても、風俗小説と心理解剖小説とにおける創作方法上の相違を説明した。私はもちろんかような問題に立入ろうというのでない。ただブールジェの説明からも知られる如く、小説には「タイプ」を描こうとするものと性格を描こうとするものとの区別があると考え得ることに注意したいのである。風俗小説は前者に属し、心理解剖小説は後者に属すると見られてもよい。尤も風俗小説と心理解剖小説との区別と云っても相対的だ。バルザックにモラリストの方面がないと云えば大きな間違いであろう。同じように、性格及びタイプの概念も、我々がいわば術語的に区別しようとするほど明瞭に、実際において区別し得るものでなく、寧ろ普通には二つの語は同じ意味に用いられていることが多い。それだからと云って、両者が区別され得ないわけでなく、またそれを区別することが無益であるわけでもないように思う。

例えばこの頃の心理小説である。このものはタイプを描いているとは云われないにしても、然しそれは十分に性格を描いている。新しい心理小説は、古い心理解剖小説において考えられたように、心理を行為の原因と見るのでない、寧ろ心理の根柢に「行為」を考え、この行為は外的行為のことでなく却って「無」とも云うべきものである。──「虚無と行為、これについて私たちはもう一度考え直さねばならぬときが来るであろうと思う」(横光利一氏)。──この行為は、云ってみれば、創造されたものの運動のことでなく、創造するものの行為、創造するものそのものである。心理を行為の原因と考えるのは正しくないことと思われる。なぜなら、我々の行為は意識的に行われるよりも遥かに多く「無意識」において行われ、従って動機──行為の動機は普通に心理と考えられている──なしに行われる、いわゆる「無動機の行為」である。そればかりでなく、もし心理が行為の原因であるとすれば、心理から行為が必ず結果せねばならぬに拘らず、実際はそうでなく、一の行為の原因は寧ろ他の行為である。然るにかくの如く行為と行為との因果を考えるならば、それは外的物体の「運動」の如きものと何等異らぬことになり、特に「行為」というものは考えられない。そこで次のように、普通にいう行為即ち外的行為の原因は、「無」とも云うべき内的行為であって、心理は両者を媒介するものと見られなければならぬ。外的行為というのは客体的なもの、内的行為というのは主体的なものであって、心理は客体を反映するばかりでなく、一層根源的には主体を表出する。人間心理は有を写すばかりでなく、寧ろ無を顕わにするのである。我々の心は深まれば深まるほどそこに無が開かれて来るのであり、無の力が示されて来るのである。形無きものの形を見ようとすることが我々の心の最も内的な要求である。ところで、ブールジェなどのように、心理を行為の原因と見るならば、その場合には心理を描くことがタイプを描くということになり得るにしても、新しい心理小説においての如く、心理がそのように見られず、また心理をそのように見ることが真でもないとすれば、心理を描くことはタイプを描くこととは別の、独立のことであり得る。然し心理はどこまでも性格的なものである。純粋に心理を描くとして、その場合タイプは描かれはしないが、性格は十分に描かれることができる。いな、純粋に性格を描こうとすれば心理を描くことによるほかないとも云える。

ところでタイプは如何であるか。タイプは外に見られるものである。従ってタイプを描くためにはいわゆる「観察の美学」が必要である。タイプという概念にも種々の意味が考えられる。先ず、ブールジェが述べた如き「平均人」というようなものがタイプであると考えられる。このようなタイプはもちろん観察によって見出されるものである。或る時代、或る社会の「風俗」を描こうという場合には何かこのようなタイプが描かれねばならない。然るに例えばギリシア彫刻はタイプを現わしているという風に云われる場合、それは平均人の如きものでなく寧ろ「典型人」乃至理想的人間を表わしていると考えられる。けれどもこの場合においてもそれはタイプとして決してただ観念的なものでなく、却って極めて現実的なものである。イデー的なものと云っても既に客体的なものである。観察の美学を除いてタイプは構成されず、そのようなリアリズムを離れて古典主義はないであろう。観察──ロゴス的意識──は高まるに応じて統一し組織する。ゲーテの云った如く、「我々は世界のうちへ注意深く眺め入る凡ての場合において既に理論している」のである。見ることの意味はタイプ的に見ることであると云われてもよいであろう。

けれどもまたタイプは単に観察によって作られるものでない。プロットの構成の如きものは我々はこれを「発見」と云い、然しタイプの構成は我々はこれを「創造」と呼ぶ。タイプは芸術家の創造するものである。ゲーテは彼のグレーチヘンを全然原物を観察することなしに自分で考え出したと言ったと伝えられている。そして、実際、彼は多分それを何等外部に見出さなかったであろう。彼の創造物が寧ろ原物であって、我々は時としてグレーチヘンに似た者を現実の少女のうちに見るように感じるのである。バルザックの描いた人物にしてもやはり単に観察によって発見されたものでなく、彼の創造したものである。ブランデスはバルザックを浪漫主義者としているが、そのような方面もあるであろう。

このようにしてタイプは一般的に云えば芸術家の観察とインスピレーションとの結合から生れる。その意味でタイプはどこまでも「構成」されるものである、性格は「叙述」されるとすれば、それに対しタイプは構成されるものである。言い換えれば、タイプはロゴスとパトスとの結合から生れるのであるが、しかもタイプの構成にあってはパトスは主体的意識でありながらどこまでも客観的なものに向おうとし、即ち希求的にはたらくと見られる。かように客観的なものに対するアスピレーションの意識(パトス)がエロスにほかならない。このエロスは宗教的な愛即ちアガペとは異っている。エロスは神の愛でなく、エロスは却ってデモンである。そして「デモンの協力なしには芸術作品は存しない。」(ジード)。タイプは一般には観察と希求との結合であるが、そのいずれか一方がまさっているに応じて平均人と典型人というようなタイプの区別が生ずるであろう。メーヌ・ド・ビランが云ったように、あらゆる自然のうちにはたらく「組織」と「結晶」という二つの作用が人間の生のうちにもはたらいているとすれば、観察(ロゴス的意識)のはたらきは組織であり、──ロゴスは語原的に「集める」という意味をもっている──エロス(パトス的意識)のはたらきは結晶である──スタンダールの恋愛論を比較せよ。かくしてまたタイプに組織的タイプと結晶的タイプという区別を考えてもよい。

性格は寧ろ自然的なものである。これに対してはタイプは形作られるもの、その意味で教養的、文化的また歴史的社会的なものである。性格は人間存在の諸々の可能性を表わす、然るにタイプはこのような可能性の限定されたもの、もしくは実現されたものである。性格は内的なものである、内的でないような性格はない。然るに単に内的であるようなタイプはない。性格がタイプに限定されるには、そのうちにテエヌの云った「主導的能力」(ファクュルテ・メエトレス)のようなものを考えることもできるであろう。芸術家は実際何かそのようなものを考えることによってタイプを構成している場合がある。けれどもまたタイプは具体的には環境において、社会において、歴史において形成されるものである。このことは決してタイプが量的意味において平均であることを意味するのではない。もし人間がただ環境からのみ限定されるものであるとしたならば、人間はタイプであることもできないであろう。タイプは単なる平均でなく、タイプ自身が個性であり、人間が真に個性的になることはタイプ的になることを含んでいる。性格は唯一つでも性格である、それだから性格を描くためにはただ自己をのみ追求することでも足りる。然し個性は他の個性に対するとき真の個性であるのである。「我々は未だ個性でなく、個性たらんと努めている。」とロマン・ロランが云っている。我々は既に性格である、我々が自然であるように。性格を形成することによって我々は個性に成るのである。タイプは形成された性格である。このような形成作用は組織と結晶とであって、このはたらきは人間の生そのもののうちに含まれている。

心境小説からの脱却という要求は性格を描くことからタイプを描くことへの要求であると考えることができる。それにしても問題は、組織的タイプか結晶的タイプかということであろう。

(一九三三年一一月)

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