知性人 (三木 清)

近来一部の者によって知性に対する排撃が執拗に繰り返されている。知性とは西洋的なものであると云う。実にあきれたことだと思う。日本人には、東洋人には、知性がないと云うのか。もし知性が単に西洋的なものであるとすれば、何故にそれをかくも執拗に排撃しなければならないのであるか。仏教はインドのものであり、儒教は支那のものである。けれどもそれらは日本人によって血肉化され、既に日本的な智慧になっている。もし純粋に日本固有のものを求めるならば、日本の文化は甚だ貧弱にならざるを得ないであろう。しかし日本人の血肉となっているものは凡て日本的なものである。そしてまさに、一部の者が今日かくも執拗に知性に反対しているという事実こそ、知性が仮に西洋的なものであるとしても既に日本人の血肉となっている証拠ではないか。それ故に知性は日本的なものである。かような簡単な論理を今なお繰り返さねばならぬことを私は日本のために悲しく思う。

我々には論理は必要でないと云われるかも知れない。なるほど、一家の内部、一部落の内部においては、論理なしにも互に理解し合うことが可能であるかも知れない。けれども社会が大きくなり異質的な要素が多くなるに従って相互の理解には論理が必要になってくる。世界が広くなり異質的な文化が相闘うことが文化の発達に必要な条件であるというのも、そのためである。仮に日本の内部においては論理なしにも互に理解し合うことができるとしても、外国人に対しては事情が異るであろう。新しい東洋文化は知性とその論理を無視して作られることができぬ。反知性主義者の言葉は一小部落の内部における方言に過ぎない。論理なしに思想の公共性はない。日本の文化は今大陸において試煉されつつあることに想到せよ。

この頃職業的思想家という言葉を見る。職業的思想家に対するものは夫れ失業的思想家か。大学教授もジャーナリストも職業的思想家である。我々は文を売って口に糊せざるを得ないことを遺憾に思う。けれどもこれは資本主義社会の通有性であり、この社会において職業的思想家ならぬ者は即ち失業的思想家である。或いは他の方面から考えれば、職業的思想家という言葉はあのマルクス主義時代に云われた職業的革命家などという言葉を連想させるものであって、かような言葉を知らず識らず好んで用いるいわゆる転向者は未だマルクス主義の影響から脱し切れぬものがあることを自証しているのではないかと疑う。それとも彼等は、彼等の職業的思想家と称するものを排撃することによって、ただ自己が代って就職せんことを欲しているのではないかと疑う。

Homo homini lupus est(人間は人間にとって狼である)──bellum omnium contra omnes(万人に対する万人の戦い)──これらの有名なホッブスの言葉が今日最もよく妥当するのは蓋し言論界であろう。一人は一人に反対し、万人は万人に対して異論を唱える。言論界ほど共同の乏しいところは稀である。言論の無力はこれに由来することなしとしない。時局を強く指導しようと欲するならば、言論人は結合しなければならぬ。そして若し政府が言論人の協力を当然必要とするならば、言論人に組織を与うべきであろう。但しこの組織は自主的なものでなければならない。言論の自由があって言論の共同によってその意義を発揮せしめよ。

その人を道徳的にしようとする者はその人を尊重することを知らねばならぬ。この一事こそ今日最も忘れられていることである──特に政治において。

(一九三八年九月)

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