省察 (三木 清)

第三省察においては、神の存在を証明するための私の主要な論証を、私の見るところでは、十分に詳しく展開した。しかしながら、読者の心をできるだけ感覚から引き離すために、私はかしこでは物体的なものから藉りてこられた比較を用いることを欲しなかったからして、たぶん多くの不明な点が残っているであろう。しかしそれは、私の希望するところでは、後に駁論に対する答弁の中でまったく除き去られるであろう。中にも、例えば、いかにして、我々のうちにあるこの上なく完全な実有の観念は、この上なく完全な原因によらなくては存し得ないほど大きな客観的実在性を有するかということであるが、これは答弁において、その観念が或る工人の精神のうちにある極めて完全な機械との比較によって解説せられている。すなわち、この観念の客観的製作は或る原因、言うまでもなくこの工人の知識、あるいは彼にそれを授けた或る他の者の知識、を有しなければならないのと同様に、我々のうちにある神の観念は神自身を原因として有せざるを得ないのである。

第四省察においては、我々が明晰に判明に知覚する一切は真であるということが証明せられる。同時にまた虚偽の根拠が何に存するかが説明せられる。これは前に述べたことがらを確かにするためにも、後に続くことがらを理解するためにも、必ず知ることを要するのである。(しかしながら注意しておかねばらぬ、かしこで私は決して罪、すなわち善悪の追求において犯される誤謬についてではなく、ただ真偽の判別において起る誤謬について論じたのである、と。また私は信仰、あるいは処世に属することがらではなく、ただ思弁的な、そしてもっぱら自然的な光によって認識せられた真理を検討したのである、と。)

第五省察においては、一般的に見られた物体的本性が説明せられるほか、また新しい根拠によって神の存在が論証せられる。しかしこの根拠にもおそらく或る困難が生ずるであろうが、これは後に駁論に対する答弁の中で解決せられるであろう。そして最後に、幾何学的論証の確実性さえも神の認識に依繋するということの、いかにして真であるかが示される。

最後に、第六省察においては、悟性が想像力から分たれる。その区別の徴表が記述せられる。精神が実在的に身体から区別せられることが証明せられる。にもかかわらず精神が身体に、これと或る統一を成すほど密接に結合せられていることが示される。感覚から起るのを慣わしとするすべての誤謬が調査せられる。これを避け得る手段が開陳せられる。そして最後に、物質的なものの存在を結論し得る一切の根拠が提示せられる。それは、この根拠がまさに証明することがら、すなわち、世界は実際にあるということ、また人間は身体を有するということ、その他この類のことがらを証明するために、この根拠が極めて有益であると考えるからではない、かかることがらについては健全な精神を有する何人も決して本気に疑わなかったのである。そうではなくて、この根拠を考察することによって、これがかの我々を我々の精神及び神の認識に達せしめる根拠ほど堅固でも分明でもないことが認められるゆえである。従ってかの根拠は人間の智能によって知られ得る一切のうち最も確実で最も明証的である。ただこの一事を証明することを私はこの省察において目的としたのである。かるがゆえに私はその中でまたたまたま取扱われた他の種々の問題をここで枚挙しないことにする。

省察一

疑いをいれ得るものについて。

すでに数年前、私は気づいた、いかに多くの偽なるものを私は、若い頃、真なるものとして認めたか、またそれを基としてその後私がその上に建てたあらゆるものがいかに疑わしいものであるか、またさればいつか私がもろもろの学問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は断じてすべてを根柢から覆えし、そして最初の土台から新たに始めなくてはならない、と。しかしこれはたいへんな仕事であると思われたので、私は十分に成熟してこの業に着手するにそれ以上適当ないかなる時も後に来ないという年齢に達するまで待った。かようなわけで長い間延ばしてきたので、いまやもし私が実行するために残っている時間をなおも思案に空費するならば、私は過ちを犯すことになるであろう。そこで、幸に今日、私の心は一切の憂いから放たれ、独り離れて、平穏な閑暇を得たから、いよいよ私は本気にかつ自由に私のもろもろの意見のこの全般的顛覆に従事しよう。

ところでこれがためには、その意見のすべてが偽なるを示す必要はないであろう、かかることはおそらく私の到底為し遂げ得ないことである。かえって、すでに理性は、まったく確実でもなく疑い得ぬものでもないものに対しては、明白に偽なるものに対するに劣らず注意して、同意を差し控うべきだと私を説得するのであるから、もし私がその意見のいずれのうちになりとも何か疑いの理由を見出すならば、それでそのすべてを拒斥するに十分であろう。またこれがためにその意見の一つ一つを調べ廻ることを要しないであろう、かかることは際限のない仕事である。かえって、土台を掘りかえせばその上に建てられたものはいずれもおのずと一緒に崩れるのであるから、私はかつて私が信じたところの一切が拠っていた原理そのものに直ちに肉薄しよう。

実にこれまで私が何よりも真と認めたものはいずれも、感覚からか、または感覚を介してか、受取ったのであった。しかるにこの感覚は時として欺くということがわかった。そして一度たりとも我々を瞞したものには決してすっかり信頼しないのが賢明なことである。

しかしおそらく、感覚はあまり小さいもの、あまり遠く離れたものに関しては時として我々を欺くとはいえ、同じく感覚から汲まれたものであっても、まったく疑い得ぬ他の多くのものがある。例えば、今私がここに居ること、煖炉のそばに坐っていること、冬の服を着ていること、この紙片を手にしていること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身体が私のものであるということは、いかにして否定され得るであろうか、もし私がおそらく私を誰か狂った者に、その脳が黒い胆汁からの頑固な蒸気でかき乱されていて、極貧であるのに自分は帝王であるとか、赤裸であるのに緋衣を纒うているとか、粘土製の頭を持っているとか、自分は全体が南瓜であるとか、硝子から出来ているとか、と、執拗に言い張る者に、比較するのでなければ。しかし彼等は狂人であるのだが、もし私が何か彼等の例を私に移すならば、私自身また彼らに劣らぬ精神錯乱と見られるであろう。

いかにもその通りだ。だが私は、夜には眠るのをつねとし、そして夢において、その同じすべてのことを、いな時として彼等狂人が覚めているときに経験するよりもっと真らしくないことをさえ経験する人間でないとでもいうのか。実際、いかにしばしば私は、夜の夢のなかで、かの慣わしとすること、すなわち、私がここに居ること、服を着ていること、煖炉のそばに坐っていることを、信じているか、しかも私は着物を脱いで寝床の中に横たわっているのに。とはいえ現在私は確かに覚めたる眼をもってこの紙片を視ている、私が動かすこの頭は眠ってはいない、私はあらかじめ考えて、意図をもってこの手を伸ばしかつ感覚している。眠っている場合に生ずることはこのように判明なものではないであろう。それにしても私は他の時には夢のなかでまた同様の意識によって騙されたことを思い出さないとでもいうのか。かかることをさらに注意深く考えるとき、私は覚醒と夢とが決して確実な標識によって区別され得ないことを明かに認めて、驚愕し、そしてこの驚愕そのものは、私は現に夢みているのだとの意見を私にほとんど説得するのである。

それゆえにいま、我々は夢みているものとしよう。そしてこの特殊的なもの、すなわち、我々が眼を開くこと、頭を動かすこと、手を伸ばすこと、が真でなく、いな、またおそらく我々はかような手も、またかような身体全体も有するのではないとしよう。それにしても実際我々は、睡眠の間に見られたものが、あたかもかの現実にある物にかたどってでなければ作られ得ぬところの絵に画かれた像のごときものであること、従って少くともこの一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、また全部の身体は、或る空想的なものではなくて真なるものとして存在することを、承認しなければならぬ。というのは、実に彼等画家は、セイレネスやサチュロイを極めて怪奇な形で描こうと努力する場合でさえ、それにあらゆる点で新しい本質を付与することはできないのであって、単に種々の動物のもろもろの部分を混ぜ合わせるに過ぎないから。それとも、もし彼等がおそらく、およそ類似のある何物も見たことがない、従ってまったく虚構であり虚妄であるというほど新しいものを案出するとしても確かに少くとも彼等がそれを構成する色は真なるものでなければならないのである。そして同じ理由によって、たといまたこの一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、その他これに類するものが空想的なものであり得るとしても、少くとも或る他のなおいっそう単純な、かつ普遍的なものは、すなわち、それでもってあたかも真なる色でもってのごとく、この、真にせよ偽にせよ、我々の思惟のうちにある物の一切の像が作られるところのものは、真なるものであることは、必然的に承認しなければならない。

この類に属すると思われるものは、物体的本性一般、及びその延長、さらに延長あるものの形体、さらにその量、すなわちその大いさと数、さらにそれがそのうちに存在する場所、及びそのあいだ存続する時間、その他これに類するものである。

かるがゆえにこのことから我々はたぶん正当に、物理学、星学、医学、その他すべて複合せられたものの考察に関わる学問はたしかに疑わしいということ、これに反して算術、幾何学、その他かようなもの、すなわち極めて単純でいたって一般的なもののみを取扱い、そしてそれが世界のうちに存するか否かをほとんど顧みない学問は、或る確実で疑いを容れぬものを含むということ、を結論し得るであろう。なぜなら、私が覚めているにせよ、眠っているにせよ、二と三を加えれば五であり、また四角形は四より多くの辺を有しないのであり、そしてかように分明な真理が虚偽の嫌疑をかけられることは起り得ないと思われるからである。

さりながら私の心には或る古い意見、すなわちすべてのことを為し能う神が存在し、そして私はこの神によって現に私が有るごとき性質のものとして創造せられたという意見が刻みつけられている。さすればしかし、この神が、何らの地も、何らの天も、何らの延長あるものも、何らの形体も、何らの大きさも、何らの場所も、まったく存在せずに、しかもこのすべてのものが現在とたがわず私には存在するごとく思われるように、為さなかったということを、私はどこから知るのであるか。否、むしろ、私はときどき他の人々が自分では極めて完全に知っていると思っていることに関して間違いをしていると判断するのであるが、これと同じように、私が二と三とを加えるたびごとに、あるいは四角形の辺を数えるたびごとに、あるいはもし何か他のさらに容易なことを想像し得るならそのことについて判断するたびごとに、私が過つように、神は為した、とさえ言うことができるであろうか。しかしおそらく神はかように私が欺かれることを欲しなかったであろう、なぜなら神はこの上なく善であると言われているから。しかるにもしこのこと、すなわち私を常に過つようなものとして創造したということが神の善意に反するとするならば、私がときどき過つことを許すということも神の善意と相容れないように思われる、けれどもこの最後のことはそうは言い得ないのである。

もちろん、余のすべてのものが不確実であると信ずるよりか、むしろそのように有力な神を否定することを選ぶ者がたぶんあるであろう。しかし我々はいまは彼等に反対せずにおこう。そして神についてここで言われた全部が虚構であるとしておこう。さりながら、彼等がどのような仕方で、運命によるにせよ、偶然によるにせよ、物の連続的な聯結によるにせよ、あるいは何か他の仕方によるにせよ、私が私の現に有るものに成るに至ったと仮定するにしても、過つこと思い違いすることは或る不完全性であると思われるからして、彼等が私の起原の創造者をより無力であると考えれば考えるほど、私がつねに過つほど不完全であるということは、ますます確からしくなるであろう。この議論に対して私はまことに何ら答うべきものを有しない。しかし私は、かつて私が真と思ったもののうちに疑うことを許さぬものは何もないこと、しかもこれは無思慮とか軽率とかによるのではなく、強力な熟慮せられた理由によるのであること、従ってもし私が何か確実なものを見出そうと欲するならば、この議論に対しても、明白に偽のものに対してと劣らず用心して、今後は同意を差し控えねばならないこと、を告白せざるを得ないのである。

しかしながら、これらのことに気づいただけでは未だ十分ではない、いつも念頭におくように心を用いなければならぬ。というのは、習いとなった意見は絶えず還ってきて、いわば長い間の慣わしと親しさの権利とによって己れに愛着している私の信じ易い心を、ほとんど私の意に反してさえも、占領するからである。また私がこの意見を、それが実際さうであるような性質のもの、すなわち、すでに示されたごとく、なるほど多少疑わしいが、にもかかわらずはなはだ確からしいもの、従ってそれを否定するよりも信ずることが遥かに多く道理に適っているもの、であると見做す間は、私は決してそれに同意しそれを信用する習慣を脱しないであろう。かるがゆえに、私が意志をまったく反対の方向に転じて、自分を欺き、そしてしばらくの間すべての意見が偽で空想的であると仮想し、かくして遂に、いわば偏見の重量を双方ともに同等のものとし、もはや曲った習慣が私の判断をものの正しい知覚から逸らせないようにしても、私は不都合なことをしてはいまいと思う。実際、かくすることから何らの危険も誤謬もその間に生じてこないであろうということ、また現在私は実行に関することがらではなくただ認識に関することがらに専心従事しているのであるから、いかに不信を逞うしても、それが過ぎることはあり得ないということ、を私は知っているのである。

そこで私は、真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。しかしながらこれは骨の折れる企てである、そして或る怠慢が私を平素の生活の仕方に返えらせる。そのさまは、おそらく夢の中で空想的な自由を味わっていた囚われびとが、後になって自分は眠っているのではないかと疑い始める場合、喚び醒まされるのを恐れこの快い幻想と共にゆっくり眠りつづけるのと異ならないのであって、そのように私はおのずと再び古い意見のうちに落ち込み、そしてこの睡眠の平穏に苦労の多い覚醒がつづき、しかも光の中においてではなく、かえって既に提出せられたもろもろの困難の解けない闇のあいだで、将来、時を過さねばならぬことのないように、覚めることを怖れるのである。

省察二

人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られるということ。

昨日の省察によって私は懐疑のうちに投げ込まれた。それは私のもはや忘れ得ないほど大きなものであり、しかも私はそれがいかなる仕方で解決すべきものであるかを知らないのである。かえって、あたかも渦巻く深淵の中へ不意に落ち込んだように、私は狼狽して、足を底に着けることもできなければ、泳いで水面へ脱出することもできないというさまであった。しかしなおも私は努力し、昨日進んだと同じ道を、もちろん、極めてわずかであれ疑いを容れるものはすべて、あたかもそれがまったく偽であることを私がはっきり知っているのと同じように、払い除けつつ、改めて辿ろう。そして何か確実なものに、あるいは、余のことが何もできねば、少くともまさにこのこと、すなわち、確実なものは何もないということを確実なこととして認識するに至るまで、さらに先へ歩み続けよう。アルキメデスは、全地球をその場所から移動させるために、一つの確固不動の点のほか何も求めなかった。もし私が極めてわずかなものであれ何か確実で揺がし得ないものを見出すならば、私はまた大きなものを希望することができるのである。

そこで私は、私が見るすべてのものは偽であると仮定する。また、私はひとを欺く記憶が表現するものはいかなるものにせよかつて存在しなかったと信じることにする。私はまったく何らの感官も有しないとする。物体、形体、延長、運動及び場所は幻想であるとする。しからば真であるのは何であろうか。たぶんこの一つのこと、すなわち、確実なものは何もないということであろう。

しかしながらどこから私は、いましがた数え上げたすべてのものとは別で、少しの疑うべき余地もない或るものが存しないことを、知っているのであるか。何か神というもの、あるいはそれをどのような名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのような思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのようなことを考えるのであるか、たぶん私自身がかの思想の作者であり得るのであるのに。それゆえに少くとも私は或るものであるのではあるまいか。しかしながら既に私は、私が何らかの感官、または何らかの身体を有することを否定したのであった。とはいえ私は立ち止まらされる、というのは、このことから何が帰結するのであるか。いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちにまったく何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。

しかし、いま必然的に有る私、その私がいったい何であるかは、私は未だ十分に理解しないのである。そこで次に、おそらく何か他のものを不用意に私と思い違いしないように、かくてまたこのすべてのうち最も確実で最も明証的であると私の主張する認識においてさえ踏み迷うことがないように、注意しなければならない。かるがゆえにいま、この思索に入った以前、かつて私はいったい何ものであると私が信じたのか、改めて省察しよう。このものから次に何であれ右に示した根拠によって極めてわずかなりとも薄弱にせられ得るものは引き去り、かくて遂にまさしく確実で揺がし得ないもののみが残るようにしよう。

そこで以前、私はいったい何であると考えたのか。言うまでもなく、人間と考えたのであった。しかしながら人間とは何か。理性的動物と私は言うでもあろうか。否。何故というに、さすれば後に、動物とはいったい何か、また理性的とは何か、と問わねばならないであろうし、そしてかようにして私は一個の問題から多数の、しかもいっそう困難な問題へ落ち込むであろうから。またいま私はこのような煩瑣な問題で空費しようと欲するほど多くの閑暇を有しないのである。むしろ私はここで、私は何であるかと私が考察したたびごとに、何が以前私の思想に、おのずと、私の本性に導かれて、現われたか、に注意しよう。そこに現われたのは、もちろん、まず第一に、私が顔、手、腕、そしてこのもろもろの部分の全体の機械を有するということであって、かようなものは死骸においても認められ、そしてこれを私は身体と名づけたのである。なおまた、そこに現われたのは、私が栄養をとり、歩行し、感覚し、思惟するということであって、これらの活動を私は霊魂に関係づけたのである。しかしながらこの霊魂が何であるかに、私は注意を向けなかったか、それともこれを風とか火とか空気とかに似た、私のいっそう粗大な部分に注ぎ込まれた、何か知らぬが或る微細なものと想像した。物体については私は決して疑わず、判明にその本性を知っていると思っていた。これをもしおそらく、私が精神によって把握したごとくに、記述することを試みたならば、私は次のように説明したであろう。曰く、物体とはすべて、何らかの形体によって限られ、場所によって囲まれ、他のあらゆる物体を排するごとくに空間を充たすところの性質を有するもの、すべて、触覚、視覚、聴覚、味覚、あるいは嗅覚によって知覚せられ、そして実に多くの仕方で、決して自己自身によってではなく、他のものによって、そのどこかに触れられて、動かされるところの性質を有するものである、と。すなわち、自己自身を動かす力、同じように、感覚する、あるいは思惟する力を有することは、決して物体の本性に属しないと私は判断したのであり、のみならずかような能力が或る物体のうちに見出されることに私はむしろ驚いたのである。

しかし現在、或る極めて有力な、そして、もしそういうことが許されるならば、悪意のある、欺瞞者が、あらゆる点において、できる限り、私を欺くことに、骨を折っていると仮定する場合、どうであろうか。私は、物体の本性に属するとさきほど言ったすべてのもののうち極めてわずかなものであれ私が有することを確認し得るものがあろうか。私は注意し、考え、また考える。私が有すると言い得るものには何も出会わない。私は同じことを空しく繰り返すことに疲れる。しからば霊魂に属するとしたものは、どうであろうか。栄養をとるとか歩行するとかいうことは? 実にいま私は身体を有しないのであるから、これもまた作りごと以外の何物でもない。感覚することは? もちろんこれも身体がなければ存しないものであり、また私は夢において、後になって実際に感覚したのではないと気づいた非常に多くのことを感覚すると思ったのである。思惟することは? ここに私は発見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る、私は存在する、これは確実だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。なぜというに、もし私が一切の思惟をやめるならば、私は直ちに有ることを全くやめるということがおそらくまた生じ得るであろうから。いま私は必然的に真であるもののほか何も許容しない、そこで私はまさしくただ思惟するもの、言い換えれば、精神、すなわち霊魂、すなわち悟性、すなわち理性である、これらは私には以前その意味が知られていなかった言葉である。しかし私は真のもの、そして真に存在するものである。だがいかなるものなのか。私は言った、思惟するもの、と。

著者: