選択の必要 (三木 清)

選択の必要は、読書の場合などにおいては恒にいわれている。濫読を避け、本を選択して精読せよということは、読書法における初歩的教訓である。また実際この教訓は守られて好いものである。

かように選択の必要を説く意味は、読書において自主的であれということでなければならぬ。どのような濫読家も世の中のすべての本を読むことができず、そこにおのずから選択が行われているわけであるが、かような選択には自主性がないから選択とはいわれないのである。自主的であって初めて選択であり、自主的な人間は何事でも選択して行うのである。

ところでこの頃警視庁の騒音取締から考えることだが、読書の場合には絶えず選択の必要がいわれているにも拘らず、ラジオの聴取についてはそのことが殆ど全くいわれていない。朝から晩までラジオをかけっ放しにしている家さえよくあるのである。「プログラムは選択してお聴きを願います」と、毎日放送する必要がないであろうか。音の統制の上からいっても、人々が選択して聴取するようになることが希望されるわけである。ほんとに選択して聴くことになれば、この頃のラジオのプログラムのうち果していくつ聴くべきものがあるであろうか。

一冊の本の人間は恐ろしいという諺がある。彼は恐るべき独断家であるからである。しかし徒らに多く濫読する人間は更に恐ろしい。彼には自己というものがなくなり、自己のない人間は恐ろしいのである。ところで毎日ラジオを無選択に何でも聴いている人はどうであろうか。彼は濫読しながら結局一冊の本の人間と同じであり、最も恐るべきではないであろうか。かくして「自己のない独断家」という奇妙な「新しいタイプ」の人間が製造されているように思われる。

自主性がないから無選択に何でも聴く。そして何でも無選択に聴くことによって益々自主性を失うことになる。選択の必要は自主性の必要である。我々は読むことにおいても聴くことにおいても驚くべく健啖であるといわれる。その健啖が自主性のないことの現われでないように望みたいのである。

自主性といえばまた直ちに自由主義だといって非難されるかも知れないが、自主的な人にして自分の行為に責任をもち、誰もが信頼し得る人間であるのであって、そのような人間が個人としても社会としても最も必要なのである。善い国民とは国策の実現を助ける者である、しかしまた善い国民とは国策を作ることを助ける者のことである。

(一九三九年八月)

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