省察 (三木 清)

またさらに、私は上述の第一の仕方で、すなわち商量せらるべきすべてのものの明証的な知覚に依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができないにしても、私はもう一つの仕方で、すなわちただ、ものの真理が私に明白でないたびごとに、判断を下すことを差し控えるべきであることを想起するということに依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができるのである。なぜなら、たとい私はつねに一つの同じ認識に堅く固執することができないという弱さが私のうちにあることを経験するにしても、しかし私は注意深いそしてしばしば繰り返された省察によって、その必要があるたびごとに、かのことを想起し、そしてかようにして過たない或る習慣を得るようにすることができるのであるから。

まさにこのことに人間の最大のそして主要な完全性は存するゆえに、私は今日の省察によって、誤謬と虚偽との原因を探究したのであるからして、少からぬものを獲得したと思量する。そして実にこの原因は私が説明したのとは別のものであることができない。なぜなら、判断を下すにあたって意志をば、ただ悟性によって意志に明晰に判明に示されるところのものにのみ及ぶように、制限するたびごとに、私が過つということはまったく生じ得ないからである。すべて明晰で判明な知覚は疑いもなく或るものであり、従って無から出てきたものであり得ず、かえって必然的に神を、私はいう、かの最も完全な、欺瞞者であることと相容れないところの神を、作者として有している、それゆえにかかる知覚は疑いもなく真である。また今日私は単に、決して過たないためには私は何を避くべきであるかを学んだのみでなく、同時にまた真理に達するためには何を為すべきであるかも学んだ。すなわち、もし私がただ私の完全に理解するすべてのものに十分に注意し、そしてこれを私のいっそう不分明にいっそう不明瞭に把捉する余のものから分離するならば、私はたしかに真理に達するはずである。かくすることに私はこれからは注意深く努力しよう。

省察五

物質的なものの本質について。そして再び

神について、神は存在するということ。

神の属性について、私自身のすなわち私の精神の本性について、私の探究すべき多くのことがなお残っている。しかしこれはおそらく他の機会に再び取り上げられるであろう。今は(真理に達するためには私は何を避くべきでありまた何を為すべきであるかに気づいた後)、過ぐる数日私の陥っていた懐疑から抜け出すことに努めるということ、そして物質的なものについて何か確実なものを得ることができるかどうかを見るということ、よりも緊要なことはないと思われる。

しかも、何かかかる物質的なものが私の外に存在するかどうかを調べるに先立って、私はこのものの観念をば、それが私の思惟のうちにある限りにおいて、考察し、そしていったいそのうちのどれが判明であり、どれが不分明であるかを見なくてはならない。

言うまでもなく私は量を判明に想像する、これを哲学者たちは普通に連続的なものと称している、すなわちこの量の、あるいはむしろ定量を有するものの、長さ、広さ及び深さにおける延長を判明に想像する。このうちにおいて私は種々の部分を数える、これらの部分に私は各種の大きさ、形体、位置、及び場所の運動を属せしめ、またこれらの運動に各種の持続を属せしめる。

また、単にこれらのものが、かように一般的に観られた場合、私にまったく知られていて分明であるのみではなく、さらにまた私は、注意するならば、形体について、数について、運動について、及びこれに類するものについて、無数の特殊的なものを知覚するのであって、その真理は極めて明瞭であり、また極めて私の本性に適合しているので、それを私が初めて発見するとき、或る新しいことを学ぶというよりはむしろ既に前に私が知っていたことを想起するかのごとくに思われる、言い換えると、つとにたしかに私のうちに存したが以前にはそれに精神の眼を向わせなかったところのものに、私が初めて注意するかのごとくに思われるのである。

そしてここに最も注目すべきことと私の考えるのは、たとい私の外にたぶんどこにも存在しないにしても、無であるとは言われ得ない或るものの無数の観念をば私が私のところで発見するということである。かかるものは、たとい私によって或る意味で随意に思惟せられるとはいえ、私によって構像せられるのではなく、かえって自己の真にして不変なる本性を有しているのである。かくて、例えば、私が三角形を想像するとき、たぶんかような形体は私の思惟の外に世界のうちどこにも存在せず、またかつて存在しなかったにしても、それにはたしかにそれの或る限定せられた本性、すなわち本質、すなわち形相があるのであって、これは不変にして永遠であり、私によって構像せられたものではなく、また私の精神に依存するものでもない。このことは、この三角形について種々の固有性が、すなわち、その三つの角は二直角に等しいということ、その最も大きな角に最も大きな辺が対するということ、及びこれに類することが、論証せられ得ることから明かである。これらの固有性は、たとい以前に私が三角形を想像したときには決して思惟しなかったにしても、今は欲するにせよ欲しないにせよ私の明晰に認知するところであり、従って私によって構像せられたものではない。

なおまた、私はもちろん三角形の形体を有する物体をときどき見たのであるからして、この三角形の観念はおそらく外のものから感覚器官を介して私にやって来たのであろうと言っても、ことがらには関係がないのである。なぜなら私は、いつか感覚を介して私のうちに忍び込んだのではないかという疑いの何らあり得ないところの他の無数の形体を考え出すことができ、しかもこれについて、三角形についての場合にも劣らず、種々の固有性を論証することができるから。これらの固有性はすべて、実に私によって明晰に認識せられるからして、たしかに真である、従ってまた或るものであり、純粋な無ではない。というのは、すべて真であるものは或るものであることは明かであり、また私が明晰に認識するすべてのものは真であることを私は既に十分に論証したのであるから。そしてまたたとい私がこれを論証しなかったにしても、少くとも私がそれを明晰に知覚する限りは、いずれにせよこのものに同意せざるを得ないということは、確かに私の精神の本性である。また私は、私がつねに、これより先、感覚の対象にはなはだしく執着していた時にさえも、この種の真理、すなわち形体とか、数とか、また算術もしくは幾何、あるいは一般に純粋なそして抽象的な数学に属する他のものについて、私が明証的に認知したところの真理をば、あらゆるもののうち最も確実なものと看做したということを想起するのである。

ところで今、もし単に、私が或るものの観念を私の思惟から引き出してくることができるということから、このものに属すると私が明晰かつ判明に知覚する一切は、実際にこのものに属するということが帰結するとすれば、そこからまた神の存在を証明する論証を得ることができないであろうか。確かに私は神の観念を、すなわちこの上なく完全な実有の観念をば、何らかの形体または数の観念に劣らず、私のうちに発見する。また私は、つねに存在するということが神の本性に属することをば、或る形体または数について私の論証するものがこの形体または数の本性にまた属することに劣らず、明晰かつ判明に理解する。従って、たとい過ぐる数日私の省察した一切が真でなかったにしても、神の存在は私のうちにこれまで数学上の真理があったのと少くとも同じ程度の確実性にあるのでなくてはならなかったであろう。

もっとも、このことはたしかに、一見してはまったく分明ではなく、かえって或る詭弁の観を呈している。なぜなら、私は他のすべてのものにおいて存在を本質から区別することに慣れているゆえに、神の存在もまた神の本質から切り離されることができ、そしてかようにして神は存在しないものとして思惟せられることができる、と私は容易に自分を説得するからである。しかしながらいっそう注意深く考察するとき、神の存在が神の本質から分離せられ得ないことは、三角形の本質からその三つの角の大きさが二直角に等しいということが分離せられ得ず、あるいは山の観念から谷の観念が分離せられ得ないのと同じであることが明白になるのである。それゆえに、存在を欠いている(すなわち或る完全性を欠いている)神(すなわちこの上なく完全な実有)を思惟することは、谷を欠いている山を思惟することと同じく、矛盾である。

けれども、私はもちろん谷なしに山を思惟し得ないごとく、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないにしても、しかし確実に、私が山を谷と共に思惟するということから、だからといって何らかの山が世界のうちに有るということは帰結しないごとく、私が神を存在するものとして思惟するということから、だからといって神が存在するということは帰結しないと思われるのである。というのは、私の思惟はものに対して何らの必然性をも賦課しないのであるから。また、たといいかなる馬も翼を有しないにしても、翼のある馬を想像することができるのと同じように、たといいかなる神も存在しないにしても、私はたぶん神に対して存在を構像することができるであろうから。

否、詭弁はここにこそ潜んでいる。なぜなら、谷と共にでなければ山を思惟し得ないということからは、どこかに山と谷とが存在するということは帰結しないで、かえってただ、山と谷とは、それが存在するにせよ存在しないにせよ、互いに切り離され得ないということが帰結するのみであるが、しかし、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないということからは、存在は神から分離し得ないものであるということ、従って神は実際に存在するということが帰結するからである。私の思惟がこれをこのようにするというわけではない、すなわち何らかのものに或る必然性を賦課するというわけではない、かえって反対に、ものそのものの、すなわち神の存在の、必然性が、これをこのように思惟するように私を決定するからである。というのは、馬をば翼と共にでも翼なしにでも想像することが私にとって自由であるごとく、神をば存在を離れて(すなわちこの上なく完全な実有をば最大の完全性を離れて)思惟することは私にとって自由であるのではないから。

なおまたここに、ひとは次のように言ってはならぬ、すなわち、神は一切の完全性を有すると私が措定した後においては、存在は実に完全性のうちの一つであるからして、たしかに神を存在するものとして私が措定すべきことは必然的であるが、しかし第一の措定は必然的なものではなかった、あたかもすべての四辺形は円に内接すると考えることは必然的ではなく、かえって私がこれをこのように考えると措定すれば、私は必然的に菱形は円に内接すると認めねばならないであろうが、これはしかし明かに偽である、ように、と。なぜというに、たといいつか神について私が思惟するに至ることは必然的ではないにしても、しかし第一のかつ最高の実有について思惟し、そして彼の観念をいわば私の精神の宝庫から引き出すことが起るたびごとに、私が彼にすべての完全性をば、たといその際私はそのすべてを数え上げず、またその箇々のものに注意しないにしても、属せしめるべきことは必然的であって、この必然性はまったく、後に、存在は完全性であることに私が気づくとき、私をして正当に、第一のかつ最高の実有は存在すると結論せしめるに十分であるからである。これはあたかも、私が何らかの三角形をいつか想像すべきことは必然的ではないが、しかし私が単に三つの角を有する直線で囲まれた図形を考察しようと欲するたびごとに、私がこの図形に、その三つの角は二直角よりも大きくないということを、たといその際私はまさにこのことに注意しないにしても、正当に推論せしめるところのものをば属せしめるべきことは必然的である、のと同様である。しかるに、いったいどのような図形が円に内接せしめられるかを私が考査するときには、すべての四辺形はこれに数えられると私が考えることは決して必然的ではない。否、私が明晰かつ判明に理解するものでなければ何ものも認容しようと欲しない限りは、私はかかることを構像することさえ決してできないのである。従って、この種の偽の措定と私に生具する真の観念との間には大きな差異がある、そして後者の第一のかつ主要なものは神の観念である。なぜなら、実に、私は多くの仕方で、この観念が何か構像せられたもの、私の思惟に依存するもの、ではなく、かえって真にして不変なる本性のかたどりであることを理解するからである。すなわち、まず第一に、ただ神を除いて、その本質に存在が属するところのいかなる他のものも私によって考え出されることができないゆえに。次に、私は二つまたはそれ以上多数のこの種の神を理解することができないゆえに。そして、今かかる神が一つ存在すると措定すれば、彼は永遠からこのかた存在したし、また永遠に向って存続するであろうということが必然的であるのを私は明かに見るゆえに。そして最後に、私は神のうちに、その何ものも私によって引き去られることも変ぜられることもできないところの多くの他のものを知覚するゆえに。

しかしともかく、私が結局どのような証明の根拠を使用するにしても、つねにこのこと、すなわちただ私が明晰かつ判明に知覚するもののみが私をまったく説得するということ、に帰著するのである。そしてたしかに、このように私が知覚するもののうち、或るものは何人にも容易にわかるにしても、他のものはしかしいっそう近く観察し注意深く研究する者によってでないと発見せられないが、しかし発見せられた後には、後者も前者に劣らず確実なものと思量せられるのである。例えば、直角三角形において、底辺上の正方形は他の二辺上の正方形の和に等しいということは、かかる底辺はこの三角形の最も大きな角に対するということほど容易にわからないにしても、ひとたび洞見せられた後には、後者に劣らず信じられるのである。ところで神について言えば、確かに、もし私が先入見によって蔽われていなかったならば、そしてもし私の思惟が感覚的なものの像によってまったく占められていなかったならば、私は何ものをも、神より先に、またはいっそう容易に、認知しなかったであろう。なぜなら、最高の実有が有るということ、すなわちただそのもののみの本質に存在が属するところの神が存在するということよりも、何がいっそう、おのずから明かであるであろうか。

そして、まさにこのことを知覚するために注意深い考察が私に必要だったとはいえ、今や私は単にこのことについて、他の最も確実と思われるすべてのことについてと同等に、確かであるのみでなく、さらにまた私は余のものの確実性がまさにこのことに、これを離れては何ものも決して完全に知られ得ないというように、懸っていることに気づくのである。

すなわち、たとい私は、何らかのものを極めて明晰かつ判明に知覚する間は、これを真であると信ぜざるを得ないがごとき本性を有するにしても、しかしまた私は、精神の眼をつねに同じものに、これを明晰に知覚するために、定著し得ないごとき本性をも有するゆえに、しばしば以前に下した判断の記憶が蘇ってくる、そして、どういうわけでそのものをかように私が判断したかの根拠に十分に注意しないときには、他の根拠が持ち出されることができ、この根拠は私をして、もし私が神を知らなかったならば、容易に私の意見を捨てさせるであろう、そしてかようにして私は何ものについてもかつて真にして確実なる知識を有することなく、ただ漠然とした変り易い意見を有するに過ぎないであろう。かようにして、例えば、私が三角形の本性を考察するとき、たしかに私には、もちろん私は幾何学の原理にいくらか通じているので、その三つの角が二直角に等しいということは極めて明証的に認められ、また私は、私がその論証に注意する間は、このことは真であると信ぜざるを得ないが、しかし私が精神の眼をこの論証から転じるや否や直ちに、たとい私はなおこれを極めて明晰に洞見したことを想起するにしても、もし実際私が神を知らなかったならば、このことは真であるかどうかを私が疑うようになるということは容易に起り得るのである。というのは私は、私が自然によって、極めて明証的に知覚すると私の考えるものにおいて時々過つがごときものとして作られているということをば、とりわけ後になって他の根拠にとって偽であると判断するに至らしめられたところの多くのものをしばしば真にして確実なるものと看做したということを想起するときには、自分に説得することができるから。

しかるに私が神は有ると知覚した後には、――同時にまた私は余のすべてのものが神に懸っていること、また神は欺瞞者ではないことをも理解し、そしてそこから私の明晰にかつ判明に知覚するすべてのものは必然的に真であると論結したゆえに、――たとい私がどのようなわけでこのことは真であると判断したかの根拠に十分に注意しないにしても、ただ単に私がこのことを明晰かつ判明に洞見したことを想起するならば、私をして疑うようにさせるいかなる反対の根拠も持ち出され得ず、かえって私はこのことについて真にして確実なる知識を有するのである。否、単にこのことについてのみでなく、また私がかつて論証したと記憶するところの余のすべてのものについて、例えば幾何学に関すること及びこれに類するものについても、さうである。というのは、今やいかなる反対の根拠が私に対して持ち出されるであろうか。私がしばしば過つがごときものとして作られているということででもあろうか。しかし既に私は、私が分明に理解するものにおいては過ち得ないことを知っている。それとも私が後になって偽であるとわかったところの多くのものを他の時には真にして確実なるものと看做したということででもあろうか。しかしながら私はかくのごときものの何ものも明晰かつ判明に知覚したのではなく、かえって私はおそらく、真理のこの規則を知らなかったために、後になってそんなに堅固なものでないことを発見したところの他の原因によって信じたのである。しからば、ひとはなお何を言おうとするか。私はおそらく夢みているのだ(少し前に私が自分に反対して言ったように)、すなわち、私がいま思惟するすべてのものは眠っているときに浮んでくるものより以上に真ではないのだ、とでも言うであろうか。否このこともまた何らことがらを変じない。なぜなら確かに、たとい私は夢みているにしても、もし何らかのものが私の悟性に明証的であるならば、このものはまったく真であるから。

そしてかようにして私は一切の知識の確実性と真理性とがもっぱら真なる神の認識に懸っていることを明かに見るのである、従って、私が神を知らなかった以前は、私は他のいかなるものについても何ものも完全に知ることができなかったであろう。しかるに今や私には、一方神そのもの及び他の悟性的なものについて、他方また純粋数学の対象であるところの一切の物体的本性について、無数のものが明かに知られているもの、確実なものであり得るのである。

省察六

物質的なものの存在並びに精神と身体との実在的な区別について。

なお残っているのは、物質的なものが存在するかどうかを検討することである。そしてたしかに私は既に少くとも、それが、純粋数学の対象である限りにおいては、存在し得ることを知っている、たしかに私はそれをかかるものとしては明晰かつ判明に知覚するのであるから。なぜなら、神が私のこのように知覚し能うすべてのものを作り出す力を有することは疑われないことであり、また私は、どのようなものでも神によって、それを私が判明に知覚することは矛盾であるという理由によるほかは、決して作られ得ぬことはない、と判断したからである。さらに、私が物質的なものにかかずらう場合にそれを用いるのを私が経験するところの想像の能力からして、かかる物質的なものは存在するということが帰結するように思われる。というのは、想像力とはいったい何であるかをいっそう注意深く考察するとき、それは認識能力にまざまざと現前するところの、従って存在するところの物体に対する認識能力の或る適用以外の何ものでもないことがわかるから。

このことが明瞭になるように、私はまず想像力と純粋な悟性作用との間に存する差異を検討する。言うまでもなく、例えば、私が三角形を想像するとき、私は単にそれが三つの線によって囲まれた図形であることを理解するのみでなく、同時にまたこれらの三つの線をあたかも精神の眼に現前するもののごとくに直観するのであって、そしてこれが想像すると私の称するところのものなのである。しかるにもし私が千角形について思惟しようと欲するならば、もちろん私は、三角形が三辺から成る図形であることを理解するのと同様に、それが千辺から成る図形であることをよく理解するが、しかし私はこの千辺を三辺におけると同様に想像すること、すなわち、あたかも精神の眼に現前するもののごとくに直観することはできないのである。また、たといそのとき、私が物体的なものについて思惟するたびごとに、つねに何ものかを想像する習慣によって、おそらく何らかの図形を不分明に自分のうちに表現するにしても、それがしかし千角形でないことは明かである。なぜならそれは、もし私が万角形について、あるいは他のどのようなはなはだ多くの辺を有する図形についてでも、思惟するならば、そのときにまた私が自分のうちに表現する図形と何ら異なるところがないし、またそれは、千角形を他の多角形から異ならせるところの固有性を認知するに何らの助けともならないからである。しかるにもし問題が五角形についてであるならば、私はたしかにこの図形をば、千角の図形と同じように、想像力の助けなしに理解し得るが、しかしまたこれをば、言うまでもなく精神の眼をその五つの辺に、同時にまたこの辺によって囲まれた面積に向けることによって、想像し得るのである。そしてここに私は、想像するためには心の或る特殊の緊張が、すなわち理解するためには私の使わないような緊張が、私に必要であることを明かに認めるのであって、この心の新しい緊張は、想像力と純粋な悟性作用との間の差異を明晰に示している。

これに加えるに、私のうちにあるところのこの想像の力は、それが理解の力と異なるに応じて、私自身の本質にとって、言い換えると私の精神の本質にとって必要とせられぬ、と私は考える。なぜなら、たといそれが私に存しなくても、疑いもなく私はそれにもかかわらず私が現在あるのと同一のものにとどまるであろうから。そしてそこから、それが私とは別の或るものに懸っているということが帰結するように思われる。しかも、もし何らかの物体が存在していて、精神がこれをいわば観察するために随意に自己をこれに向け得るというように、これに精神が結合せられているならば、まさにこのことによって私が物体的なものを想像するということは生じ得ること、従って、この思惟の仕方が純粋な悟性作用と異なるのはただ、精神は、理解するときには、或る仕方で自己を自己自身に向わせ、そして精神そのものに内在する観念の或るものを顧るが、しかるに想像するときには、自己を物体に向わせ、そしてそのうちに、自己によって思惟せられた、あるいは感覚によって知覚せられた観念に一致する或るものを直観する、ということに存すること、を私は容易に理解する。私は言う、もしたしかに物体が存在するならば、想像力がこのようにして成立し得ることを私は容易に理解する、と。そして想像力を説明するにいかなる他の同等に好都合な仕方も心に浮ばないゆえに、私は蓋然的にそこから、物体は存在する、と推測する。しかしそれは単に蓋然的にである。そして、たとい私が厳密にすべてのものを調べても、私の想像力のうちに私が発見するところの物体的本性の判明な観念からしては、何らかの物体が存在することをば必然的に結論するいかなる論拠も取り出され得ないということを私は見るのである。

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