哲学と知性 (三木 清)

哲学者にはまず良識が必要である。「良識」とは何であるか。私はこれを知性的な識別力と定義したい。良識というのは、ほんとのものと偽りのもの、善いものと悪いもの、永遠的なものと一時的なもの、かようなものを識別する力である。良識は特に識別的な力であるという点で単なる「常識」から区別されるであろう。

良識は常識のようなものである。しかし常識は習慣的なものになることによって、屡々識別力を失っている。識別力は批評力ででもあるが、常識にはこの批評的なところが少い。常識は、その性質上、実定的なものであるからである。良識は批評的であるという点で常識から区別される。或いはむしろ良識の識別力を含まない常識は真の常識でないということができる。

すべての感覚には識別性が属している。視覚は赤と青とを識別し聴覚は高い音と低い音とを識別する。識別することは感覚的な或いは直観的な作用である。良識は識別力としてこのように感覚的なもの、直観的なものである。しかしそれは感覚でなくて知性に属し、知性の直観的な作用である。

常識は感覚ではないが感覚のようにはたらくと同じく、良識も直観的にはたらく知性である。直観的な常識が実は経験的判断の堆積であるように、良識も知性の判断が直観として集中したものである。良識は感覚の如くただ生れながらに具わるものでなく、知性によって養い育てられねばならぬものである。社会における良識が健全な文化の基礎であり、その社会の文化の水準を決定する。

良識というような直観的な知性の存在することに注意することが大切である。知性の蔑視は直観と知性とを粗雑に分離し対立させることから生じている場合が少くない。直観のうちにすでに論理が含まれ、知性も直観的な仕方ではたらく。哲学は単に論理にのみ頼るものでなく、論理の地盤として直観的な良識がなければならぬ。哲学者も、あらゆる社会人、あらゆる文化人と同じく、良識を具えることが必要である。

知性とはまず良識のことでありインテリゲンチャ即ち知性人とは何よりも良識の人でなければならぬ。単に多くの知識を詰め込んで持っている人がインテリゲンチャであるのではない。真の知性人とは識別力を、批評眼を具えている人である。

批評に対する不信がこの時代の特徴になろうとしている。批評は強制をもって禁止されようとさえしている。しかし赤と青とを識別する力のない視覚というものが考えられないように、ほんとのものと偽りのもの、善いものと悪いもの、永続的なものと一時的なものとを識別する眼をもたない知性というものは考えられないであろう。識別するとは批評することである。眼がその機能を失わない限り、眼は赤と青とを識別することをやめないように、知性がその機能を失わない限り、知性は批評的であることをやめない。批評するとはまず識別することである。哲学における知性といっても差当り特別のものがあるのではない、それは識別力の鋭さと深さと広さとに関係している。

哲学が知性の産物であることは云うまでもないであろう。それが知性の産物であるということは、哲学が単に知性のみで作られるということを意味しない。哲学が生れるには直観も必要であろうし、情熱も必要であろう。しかしそれがどのようなものから出て来るにしても、それが哲学となるには知性の媒介を経なければならぬ。言い換えると、哲学は論理的であることを要求されている。

哲学は自分に直観が必要であるということですら、これを論理的に示さなければならぬ。哲学は自分が非合理主義を唱える場合ですら、その非合理主義の必然性を論理的に明かにしなければならぬ。直観的なもの、非合理的なものをそのまま投げ出しては哲学とはならず、哲学はどこまでも知性によって組織されるものである。直観と論理、非合理性と合理性との結合も論理的に捉えられなければならぬ。直観的といわれるものにおいてもすでに論理が認められないか、非合理的として放置されるものの中にもなお論理が含まれていないか、という風に、どこまでも論理を求めてゆくことが哲学者の態度である。

哲学は論理的であることによって一般性をもつことができる。それは単に主観的なものでなくて客観的なものでなければならず、その客観性を保証するものは論理である。例えば、哲学が国民主義を唱えるとする。それが真に哲学的に主張される場合、その国民主義の論理は単に或る一国に妥当するのみでなく、すべての国に妥当し得るものでなければならぬ。それは単にドイツのみでなく、日本にも、また支那にも通用すべきものである。即ち国民主義の哲学も哲学としては単に国民的なものでなく、却って世界的なものでなければならぬ。そこで自分の主張するような国民主義が世界のすべての国において行われたならばどうなるかということが考えられなければならず、従って国民主義も必然的に世界を問題にせざるを得なくなる。かように世界を問題にすることによって国民主義も知的になるのであり、単に自国の立場に止まっているような哲学は哲学とは云われない。哲学には常に世界的な、人類的な展望が必要である。この展望の広さを与えるものは知性である。

近年、日本的知性という言葉と共に知性の民族性が主張されている。確に、知性も現実的には誰かの知性であり、従ってまたいずれかの民族の知性であり、それ故に知性にも民族的特殊性があると考えられるであろう。それぞれの民族はそれぞれの哲学をもっている。しかし民族的な知性も知性である限り一般性を具えていなければならぬ。民族的な知性も知性である限り論理を含まねばならず、この論理によってその文化は民族を越えたものとなり得るのである。ギリシア哲学はギリシアの民族的な哲学であったが、それは同時に世界的な哲学であった。ギリシア哲学は論理的な哲学であったのであり、或いはむしろギリシア哲学が初めて論理というものを発見し、論理学を組織したのである。この頃日本の世界史的使命ということが云われるようになったが、世界史的な民族には世界的な哲学がなければならぬ。しかるに日本的知性ということが云われているに拘らず、この知性の論理がいかなるものであるかが未だ明かにされていないのは遺憾である。その論理が明かにされることによって初めて十分に日本的知性について語ることができる。

日本の哲学が日本民族の中から、その民族的知性によって生れて来ることは明かである。民族とはひとつの個性である。個性は特殊的なものであるが、しかし単に特殊的なものは個性とはいわれず、個性とは却って特殊的なものと一般的なものとの綜合である。日本的知性は特殊な知性として特殊な論理を含むであろうが、すでに論理という以上また一般的なところがなければならぬ。単に特殊的な論理というのは考えられない。

西洋的知性が論理的であるに反して日本的知性は直観的であると云われるかも知れない。しかしながら直観と論理とをむやみに対立的に考えることは間違っている。論理の最高法則について見ても、それは論証の基礎となるものであってそれ自身はもはや論証されることができず、却って直観的に捉えられるのほかない。直観的な知性にも、知性である以上、論理がなければならぬ。また特殊な論理は一般的な論理との関係において初めてその論理性を示し得るものである。言い換えると、民族的な論理があるとしても、それは人類的な、世界的な論理と論理的なつながりを持たねばならぬ。

人類とか世界とかは抽象的なものであって、民族のみが実在的であるというように考えることが流行になろうとしている。そうであるならば、我々は人類とか世界とかと云う代りに自然と云っても好い。ただこの自然を歴史的自然と考えさえすれば好いのである。人間が自然の一物として自然のうちに包まれていることは誰も疑わないであろう。この自然の実在性は誰も認めており、人間の実在性もこの自然から示される。同様に民族も自然(世界)のうちに包まれその実在性は自然(世界)において与えられているのである。そしてそのように、民族の論理は世界(自然)の論理から示されねばならず、民族的知性の論理性もまた世界的(人類的)知性の論理性とのつながりにおいて初めて証明されることができる。この証明を含まない哲学は真の哲学とは云い難いであろう。

今日の哲学はなによりも創造の哲学でなければならないが、知性は創造的であり得ないとも云われている。確に、知性のみでは創造し得ないであろう。しかしまた知性が加わらなければ創造はあり得ない。我々が経験を超えて知識を拡張することができるのは知性の力に基づいている。もし我々が知性を持たないならば、我々の知識は我々の狭い経験に局限されねばならぬ。経験の範囲を超えて新しい世界を開くものは知性であり、知性なしに我々は真に創造的であることができぬ。新しい世界は想像力によって見出されると云ってもこのような想像力はすでにそれ自身知的なものであり、またそれは知性によってその世界を拡め得るのである。

哲学はその時代の実体的なものの知識であり、思想的に把握されたその時代であるとヘーゲルはいっている。しかし哲学はヘーゲルのいうようにミネルヴァの梟の如く時代の黄昏に初めて飛び始めるものでなく、新しい時代の黎明を告げるものでなければならない。真の哲学者は現実に追随することなく、現実に立ちながら現実を見渡して先へ歩むものでなければならない。我々を現実の中に沈ませるものは本能であり、現実の中から新しい展望を開くものは知性である。我々の日本に対する愛が本能的なものに止まらないで、真に知的な愛になることこそ、今日最も望ましいことである。

(一九三八年四月)

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