語られざる哲学 (三木 清)

語られざる哲学の正しき出発点として反省をとるべきことは前にいったとおりである。しからば反省とはいかなることであるか。反省とは自分自身を知るということである。「汝自らを知れ」という古い昔から幾度となく繰返された、けれどそれを身に徹して行うことは非常に困難である一句を、いやしくも自分自身において深く生きようとするものは、まず何よりも謙虚な心とならなければならない。教会で説教する牧師の心よりも人無き所で祈る者の心こそ彼に望ましき心である。彼は功名心にあおられて真理の探求に向う心よりも大地に平伏ひれふして懺悔ざんげする心を心としなければならない。ふまじめと傲慢とにおいてではなく、真摯と謙虚とにおいて自分自身は初めて知られ得る。

しかしながらへりくだる心はまた必然的に強き心である。いかに深い闇の中に落されて行っても少しの眩暈げんうんをも催すことなく瞬きせざる眼をもって自分自身を見詰めて恐れない強い心において正しき自己認識は可能となるのである。反省は知れりということを知らず、弁解することはもとより説明するということを知らない、絶対に無智にして貧しき心の智恵である。それは闇を恐れもしくは避ける論議し証明する学問の知識ではなくて、むしろ闇そのものの真理である。語られざる哲学に関係しては厳密を失う概念的な言葉をもってすれば、反省は知的興味からではなく道徳的もしくは宗教的な要求からなされる真理の探求である。それゆえに反省は私たちの知識慾が満足するような知識を与えるのではなくて、私たちの意志が要求するような生ける真理の認識を与えるところにその本質を見出す。心理学者は自己の意識の表面に去来する精神現象を分析して明るみへ持来すことによって満足するでもあろうが、反省は自己の奥底に潜む闇の中へどこまでも深く落ち込んで行って闇そのものを認識せずにはかない。すなわち一は知的認識にして他は意的認識、一は外延的にして他は内向的である。心理学者が具体的な意識現象を抽象的に分析して認識しようとするに反して、反省はそれを具体的な意味と実在との結合としてあるいは象徴的として認識する。反省の対象となる心理現象は私たちが実際知り、感じ、欲するところの生きた心理現象である。それは個々の感覚、表象、感情、意志などの単に平面的な横の関係を知ろうとするのみでなくまたそれらの立体的な縦の関係を究めようとする。けだし私たちの精神現象は、それがいかに表面に浮んでいるがごとく感ぜられても、それは必然的に縦の関係を辿って内奥に潜めるものの象徴として考えらるべきものである。私たちが経験する個々の感覚、観念、感情、欲望などはすベて神の象徴でありまた悪魔の象徴である。要するに反省はセンチメンタリストの放蕩でもなければジレッタントの遊戯でもなく、謙虚なそしてそれがために勇敢な心のまじめな労作である。

さて私の反省する心の前にはいかなる光景が展開されるであろう。いやしくも真に生きようとする人が自己の衷に見出さずにはいられない二つの心の対立もしくは矛盾の体験を語るものとして、私がしばしば引用したことのある二つの尊き書物からの章句をいままたここに掲げることは、少くとも私自身の反省にとっては非常に有益なことであると思う。ロマ書第七章においてパウロはいう、「われ内なる人については神の律法おきてを楽しめどもわが肢体に他ののりありてわが心の法と戦い我をとりこにしてわが肢体の内におる罪の法に従わするを悟れり。ああわれ悩める人なるかな。この死の体より我を救わんものは誰ぞ。」またファウストを読む人は誰でも次の句を何の感動をも受けることなしに読み終ることは出来ないであろう。

Zwei Seelen wohnen, ach! in meiner Brust,
Die eine will sich von der andern trennen;
Die eine hält, in derber Liebeslust,
Sich an die Welt mit klammernden Organen;
Die andre hebt gewaltsam sich vom Dust
Zu den Gefilden hoher Ahnen.

(あゝ。己の胸には二つの霊が住んでいる。
その一つが外の一つから離れようとしている。
一つは荒々しい愛惜の情を以て、章魚たこの足めいた
からみ附く道具で、下界に搦み附いている。
今一つは無理に塵を離れて、
高い霊どもの世界に登ろうとしている。)

(ゲーテ『ファウスト』第一部一一一二―七 森林太郎訳)

 私は今湿うるおえる心をもってしみじみと自己の姿を眺めなければならない。私の頑健な肉体が限りなく私を不幸にする。私の眼は鷲のように漁ろうとし、私の口は虎のように貪ろうとし、私の手は獅子ししのように捕えようとする。私の肢体をとおしてあくことなき活動を求める私の強い盲目な本能と情緒とが私を憂鬱なものにしてしまおうとしている。敬虔な人々の断食と祈とについて読んで感動されて、一般に食をとるということ、殊に私のように余分に贅沢な食をとるということを深い罪のように意識した私は、一時間もたないうちに友人に誘われるままにレストーランで馬のように食っていた。あるとき一人の聖者の伝を目にして感激のあまり私は寮を飛び出して、広い武蔵野を限りもなくさまよった。私はたたずんだり寝転んだり仰いだり俯したりしながら、到る所私の過去の生活の罪の意識にめ苦しめられつつ、ただ何ということもなしに自然ひとりでに祈っていた。秩父の山に落ちる赤い夕日が一面に野を染めて木々の梢には安静が宿るとき、私は魂の故郷ふるさとへの旅人のような寂しいけれど安らかな気持につつまれて小さい声で祈の言葉を口にした。その夜美しい月は生の悩みをあえぐ地を明るく照らした。朝飛び出したまま少しの食事もしていなかったが、私はその夜は徹夜して野をさまよいつつ私の罪の浄めに従おうと決心した。とある小川の橋の上に立止ったとき、私は川に映る月の影を見て何と思ったか、それから十五分間ばかり大声で叫んでいたことをいまに至ってもはっきりと思い起すことができる。けれどサタンの誘惑はやって来た。私の当途あてどもない彷徨が餓えかつえる私を田舎いなかの小さい料理屋の前に導いたとき、私は一本のサイダーを求めようとした。中から出て来た女が私を無理に腰をおろさせさらに座敷へ上らせた。疲れていた私は初めは疲労を回復する心組でその誘惑に従ったのであるが、サイダーの代りに持って来られた酒が私の体を酔わすとともに私の魂をも麻痺させずにはおかなかった。無理やりに飲まされた二本目の酒が終ったとき、私は自ら進んで三本目の酒を求めていた。ついに酔い崩れて前後不覚にその場に倒れてしまった。けれども世界に光を齎らした日の出が私の心には光明を持来して私の眼からは悔恨の涙がとめどもなく流れた。私はかつて夜のなかばを海に向って自己の醜悪を嘆いた。あるときは小室に閉じ籠って終日を自己の心の分析に費した。しかしながら私の生活はそれらにかかわらずしてメフィストフェレスによって導かれることをやめなかった。私の健康な肉体は一方では私を悩しく醜い活動にまで追いやるとともに、他方では私の純粋な魂がなそうとする活動を妨げようとする。私の太い血管を勢いよくめぐる血の快さが、私の清く正しき心に気持のよい寝床を与えている。

私は傲慢な態度をもって他の人々を蔑みつついった、「君たちは虚栄心に支配されている。金銭や名誉が何になるのだ。本当に自分自身に還って生きない生活は虚偽の生活に過ぎない。」なるほど、私のいうことは言葉どおりには正当である。けれども私の言葉にはそれを生かす魂の純粋が欠けていた。「たといわれ諸〻の人の言葉および天使の言葉を語るとも、もし愛なくば鳴銅なるかねや響くのごとし」といわれたように、それがいかに正しく、よく、美しき言葉であり忠告であったにしても、もしそれが謙虚な心と愛とから出たのでなかったならば、結局無意味なことであるに相違ない。

しかしながらさらに悪いことは、そういう私自身がいっそう強く虚栄心に燃えていたことである。他人の眼にある塵を見て自己の眼にあるうつばりを見ないのか、私はこう自分自身に向って叫びたい。財宝や栄爵を虚栄として退けた私は、自分の書物が広い世界において読まれ、永い時代に亘って称讃されることを求めはしなかったか。華美な住宅、贅沢な衣服、賑かな交際、騒しい娯楽が私が耽ることを好んだ空想の中に織り込まれることはなかったか。金銭や爵位やを卑んだ私の言葉の間には、自分がそれらのものを得る能力がないという自覚から生れた嫉妬の心がひそかに潜んではいなかったか。否、否、自分の知らないことを知っているかのように語ったり、自分の感じないことを感じているように話したり、自分の欲していないことを欲しているように告げたりすること、要するに自己の魂の奥底において体験しないことを口にするのがそもそも虚栄を求める心ではないであろうか。おまえの良心がおまえを叫ばさせずにはおかないまでおまえの唇に迫るまで、おまえはへりくだり虚くして待つがいい、そのときこそおまえは権威ある人として語り出でることができるであろう。

私は殊に多く愛について自ら考えまた人に教えた。けれど私の利己心や他を憎む心が私が愛から出たものとして考えた行為の裏においてさえせせら笑いをしていなかったか。猜疑と嫉妬とが私の心から全然放逐されていると保証してくれる人があるであろうか。へつらう心から生れた親切や同情やを私自身において経験しなかったといえようか。人にあまえるような愛、人にいるような愛、人を弱くしようとする愛、人をたかぶらせる愛、それらが私の生活になかったといえるか。私が最も純粋な愛としたものにおいてさえ、それが自己の優越の感じにくすぐられようという動機によって濁らされていなかったと誇り得ないではないか。純粋で従って快活でありやすい友人や隣人に対しての愛において、すでに利己心や憎悪心や諂諛てんゆや傲慢がそれの明るい拡りゆく自由さを失わせていたとすれば、婦人に対する愛や交りが本当に純潔であろうなどとは誰も信じないことである。私は二人の女において恋愛の関係に立ち、数人の女に対してそれに近い気持を味って来た。私の性的が動いて暗い影をそれらの恋愛や交際に蔽い被せた。かつて私を支配したデカダンがそれらにおいて頽廃の飽満を求めた。私の気紛れ、芝居気、皮肉、洒落しゃれが強いて作った快活さが、エロティッシュの気味の悪い微笑ほほえみや悩める本能の醸した暗く寂しい憂鬱と混って、非常に複雑な醜悪をそこに合成した。愛するものによって自己の魂を高めもしくは愛するものの魂を純粋に成長させてゆこうとする心よりも、愛する者によって自己の醜い心に媚びもしくは愛するものを誘惑して自己のところまで引きおろそうとする心が私の中に勝ってはいなかったか。常に否定する精神メフィストが私を征服して走せ廻ってはいなかったか。引込思案な臆病、小賢こざかしくて功利的な知恵、それよりも根本的には私を善良な青年とみていた世間の評判が、ただ私を不道徳の実行者にならしめないのみであった。

けれども積極的に善をなさないのは必然的に消極的には悪をなすことではないか。世のいわゆる悪をなさずまた積極的に善をなすこともない無気力で怠惰な精神よりも旺盛な心をもって悪に向って活動する精神の方が秀れているとはいえないだろうか。悪魔は怠け者より神に近いに相違ない。ただ悪魔が神になれないのは彼は悪をほこって、へりくだる貧しき心を欠いているからであろう。私は幾度となく娼婦の姿を胸に抱いたのではなかったか。十八の夏初めは正しい動機から退けていた女に盲目的な本能のために近づけられて、夫ある女と通ずるという最も忌わしい罪悪にまで陥ろうという危機をやっと脱することができたのは誰であったか。

虚栄心や利己心や性的本能が、あるときは私を呵々大笑させ、あるときは私を沈黙と憂鬱とに導きつつ私の生活を落着のない、流るるような自由と快活とを失ったものにしていたのは事実であるが、他方においては傲慢な心から発した弁解する心と神を試みる心との二つの心が私の生活を激越な、安静のないものとした。煩悩具足の私たちは罪を作らずにはいられないような状態にいる。いかに熾烈しれつな善を求める心でもこの世界では悪を全く避けることができないような有様である。私たちは本当に弱い葦のようなものだ。Es irrt der Mensch,so lang er strebt.(人は努めている間は、迷うに極ったものだからな。 ゲーテ『ファウスト』第一部三一七 森林太郎訳) しかしながら真に罪悪といわるべきものは、私たちの悲しい運命が私たちを陥れずにはおかない罪悪そのものよりも、かかる罪悪を小賢こざかしい智恵を弄して弁護し弁解しようという傲慢な心である。メフィストフェレスが人間を嘲笑あざわらっていった言葉、

Er nennt’s Vernunft und braucht’s allein,
Nur tierischer als jedes Tier zu sein.

(人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかというと、
どの獣よりも獣らしく振舞う為めに使うのです。)

(ゲーテ『ファウスト』第一部二八五―六 森林太郎訳)

は、かくのごとき弁解するこましゃくれた智恵を指していったものであろう。何故に私たちは私たちの罪を素直にそのまま受け容れることをしないで、それを見苦しいざまをしながら弁解しようなどとするのだろう。なぜ素直な心の安静をすてて傲慢な心の焦躁を求めているのだろう。自己の行為の騒々しい弁解は、それが正当になさるべき権利をもっておる場合においてすら、決して相手を十分に説服することができないばかりでなく、自分自身の心にも平和を持ち来たすことは不可能である。それに多くの場合私は自己の思いあがっている自負心を傷つけないために、他人によく思われたいという虚栄心を損わないために、もしくはどんな行為でも弁解するような知識を示そうというために、自分自身の行為を弁解していた。しかしながら弁解は知能や弁舌においてではなく、ただ精神と行為とにおいてのみ成功するところのものである。絶対にへりくだる心とそれから出たよき行為とのみが雄弁に弁解することができる。

私は傲慢にも神を試みようとはしなかったか。私はいて罪悪に身を委せようとする偽悪家を気取ったことはないか。自己の性格の強さを試さんがために私は好んで誘惑に近づいたことがなかったか。好奇心や敵愾心てきがいしんから無理に苦い酒に酔ってみようとはしなかったか。しかるに神を試みようという傲慢な心は、自ら求めて接触した悪魔の誘惑に反抗する剛健な心であることができたろうか。

かようにして私は私がかつて経験したまた現に経験しつつある一々の感覚、観念、感情、意志のすべてを、詳細に吟味して行くに従ってそれのあるものは立派に神の装をしておるにかかわらず悪魔の象徴であることを発見した。あらゆる明るさが闇への方向を含んでおり、あらゆる色彩が黒への傾向を示しておるように、私の一切の経験がことごとく悪によって染められておることを発見した。しかしながら罪を感ずる心はまたやがて神を求める心でなかろうか。罪悪深重、煩悩熾盛しせいの私たちがあればこそいよいよ仏の大悲大願のほども知られるのではなかろうか。闇を闇として感ずる心は光を見た心である。罪を罪として知る心は必ず神を知れる心でなければならない。私たちの魂はイデアの世界に生れてイデアの世界を知っておればこそ、身は肉体の牢獄の中にありながらイデアの世界を憧れ求めることもできるのである。私の中に失われないであるすべてのものに驚き得る心、現実の憂愁の間にはるかなるものを微笑みつつ夢み出すことができる心、白髪の長く伸びた苦悩の中に生きている快活な幼な心、それらは悉く神の姿の象徴、少くとも神への憧憬として考えることができないであろうか。私たちが経験する世界にあまり多く存在する不合理や罪悪のゆえに私は神の存在を信ぜざるを得ない。私は自己の衷に深く感ずる必然の運命のゆえに永遠なるものを希求せずにはいられない。寂しみや悲しさや運命などということが結局征服されてしまうことができるか否かを私は知らない。唯一つ私が知っているように思うことは、寂しみや悲しさや運命ということが本当に何を意味しているかは、私たちが生血なまちの出るようなまじめな努力をしてそれらを滅ぼそうとした後において初めて理解されることである。単なる概念についてではなくそれらの本質に関しての論議はそれから後になされなければならない。

現実にあくまで執著しようとするものとそれを超越して永遠なるものを把捉しようとするものとの二つの魂の対立に関係して、私は私の衷に外へ拡ろうとする心と内へ掘ろうとする心との対立を感ぜずにはいられない。一は私の中に住む詩人であり他は私の中に宿る哲学者である。私の詩人はどこまでも延びて行って感覚の美しき戯れの観照に酔おうとしている。私の哲学者はあくまで深く掘り下げて行って闇そのものの真理を認識しようとする。前者は感覚的なるもの、特性的なるものの美しさに憧れ、後者は意志的なるもの、普遍的なるものの真理を求める。一は快活であり他は憂鬱である、一は冗舌であり他は沈黙する。私を知れる人は私についていろいろ異なったもしくは全く反対した判断を下した。一人はいう、「君は学究である、君から最初受ける感じはどうしてもプロフェッサーだ。」他の人はいう、「君の根本の素質は詩人だ。」あるいは一人は私を理性的だといい他の人は感情的だという。あるいは一人は私を利口な男だと考え他の人は向不見むこうみずだと思っている。また次の人はいった、「君は本当に伸び伸びと素直に育っている。」さらに他の人がいった、「君は全くフライ(自由)な人だ。」私は私に関してなされたこれらの多くの判断について、どれが正しく、どれが誤っているか、いずれがお世辞であっていずれが正直な批評であるかを区別することができない。そのどれでもが正しいようでもあり、またその悉くが誤っておるようにも思われる。ただ私が知っていることは、一個の個性はパラドキシカルな言葉を用いるならば一人の人間であって、同時に数人の人間として互に相対立し矛盾し衝突する心をもっておるものであること、個性はこれを分析したり抽象したり記述したり定義したりするときは、それの個性としての特質を失ってしまうこと、それゆえに個性の説明は終局は「AはAである」という同一命題以上に出でることができず、個性の評価はそれの全体に向い得る直観においてのみ正当になされるということである。かようにして個性と個性との理解は、語られる点においてではなく語られざる点において深き根柢を見出すがごとき理解である。

心情の純粋を貴んで体系の完全を尊ばないこの一篇にもなんらかの統一と連絡とが必要であるため、私は最初この一篇に三つの問題を特に重要なものとして課しておいた。すなわち、第一、語られざる哲学の出発点は何であるか。第二、いかにしてよき生活は可能であるか。第三、よき生活とはいかなるものであるか。第一の点についてはすでに考えた。もし語られざる哲学があらゆる問題が遺さるることなく論ぜられ、しかしてそれが十分な連絡をなすことすなわち体系の完全を求めるのであるならば、もしまたそれが精密な論理と証明とによって人を説服しようというのであれば、私がいまここに考察しようとしておる第二の問題、すなわちよき生活の必然的制約としての形式の問題は、最も厳密な論証をもって詳細に論議されることを要する問題であるかも知れない。

しかしながら語られざる哲学が、概念的知識においてではなくてよき生活においてそれの枢軸を見出し、またそれは巷に売らるべきものではなくて自己の中に蔵せらるべきものであるとしてみれば、私はこの問題について長い論述を試みることはさほど重要なことではないと思う。なぜならば第一に私は、歴史上多くの思想家によってしばしば互に反対し批難しつつ論ぜられたこの困難な問題に関して、すべての人が承認するか否かを問わないにしても、私自身の主張をそれらの反対や批難の唯中に持来して立入って論ずることは、勢い私を抗弁的ならしめて私の態度を不純にしはしないかを恐れるからである。しかのみならず第二に私は、この問題の解決は結局は合理的にではなく非合理的において、あるいは論理にではなく信仰において与えられ、しかしてかくのごとき生ける信仰は単なる概念的思惟によってではなく、実際によき生活を生きることによって得られるものであることを確信するがゆえに、私のように貧しく醜く生きて来た者がそれに関して長々しい論議をなすことは、畢竟ひっきょう無意味なことでもあり、また不遜なことでもあると考えるからである。私は私の病的なるものの中に微笑む健康への憧れのよきアーヌングに従ってへりくだる心を保ちつつ、つつましやかに私の思想の最も簡単な叙述を試みたい。私と異なった立場が可能であるか、また私と別な考え方があり得るか、私はそれを知らない。もし実際に可能であり、あり得るとしても私はそれに対して反対したり、私の思想を弁護したりする権利も自由も少くとも現在の私はもっていないことを最初から承認する。

よき生活を可能ならしむる必然的制約は、私の信ずるとおりであれば、二つに別つことができる。第一、永遠なる価値の存在。第二、完成の可能。しかしてそれらと関係してそれらに安定を与える第三のものとして、もしくはそれらを抱合する唯一つのものとして、私は、絶対者の存在を挙げることができると思う。

永遠なる価値の存在の信仰にして虚妄であれば私たちのよき生活はあり得ない。私たちの驚嘆と畏敬とを喚起せずにはいない偉大なる科学者、芸術家、徳行家、哲学者、宗教家たちが日も夜も求めてやまなかった真や善や美や聖にしてもし妄想に過ぎないとするならば、私たちの生活も努力も畢竟ひっきょう無意味でなければならない。それに対する愛の純粋と熱誠とから、私たちにとっては驚異であり奇蹟であると感ぜられる天才者が、毒薬をあおぎ、十字架に懸けられ、焚刑に処せられ、追放にい、貧困に苦しめられ、病魔に責められて顧みなかったところの永遠なる価値にして存在しないならば、私たちがそれらの天才者を尊敬し憧憬するということ、また彼らがなした事業、新しき真理、美しき芸術、高き思想、尊き宗教に感激し欣幸きんこうするということもすべて滑稽な戯れとして終らなければならないであろう。もしまたそうであるとすれば、私たちが私たちの中に感ぜずにはいられない自己の無価値や弱小や罪悪の意識ほど笑うべきものはないであろう。

完成の可能の希望は、これなくては私たちのよき生活が不可能であるようなところのものである。私たちは私たちの中および周囲において限りなき不合理と罪悪とに遭逢せずにはいられない。悲しみや寂しさは私たちの運命には必然的なものであって、私たちはそれを単に自己の表面において感受するばかりでなく、自己の本然に還って行ったときにおいてすらそこに見出さずにはおられないようなものである。まことに人生は涙の谷であって人間はその谷に生うる弱き葦である。意志が自由であるか否か、私たちは全く運命に支配されているものであるかどうかの問題は永い論争の歴史をもっておる。しかし概念上の解決が最も困難な問題が必ずしも実践上の解決が最も困難な問題であるというのではない。決定論と非決定論とのかまびすしい論争は、よき生活を実際に生きた人の体験においてはなんら疑うべき余地もないほど明瞭にまた容易に解決されておるのである。それは終局は語る論理においてではなく、語らざる魂において解決を求めねばならぬデリケイトな問題である。ところが意志が自由であるとするならば、その自由な意志の活動によって、もしまたそれが決定されておるとするならば、その決定から救済するものにすがることによって、私たちが終には絶対の完成に到達し得るという希望が空しいならば、私たちのよき生活もまた無意味もしくは不可能とならなければならない。自己の精進によるにせよ、他力の救済によるにせよ、もしくは聖道しょうどうの難行によるにせよ、浄土の易行によるにせよ、私たちの魂が最後の完成に至ることができないとすれば、私たちの活動や生活は全く意義を失わなければならない。

永遠なる価値を憧れ求める文化的生活は、それがいかに永い過程を経なければならないにしても、結局は自然的生活を全然征服するかもしくは自己の中に抱擁してしまわなければならない。生活への意志は最後には文化生活への意志にまで転生しなければならぬ。自然を駆逐しもしくは包摂して自己の領域を次第に拡げてゆく文化の歴史は、つまりは文化の絶対の支配への到達を可能ならしめるようなものでなければならない。美しき魂の憧憬とそれへ向っての精神とは決して空しくして終ることができない。もしそれらのことにして本当に不可能であるとするならば、私たちの生活は破壊され否定されてしまうのである。自由の完成、あるいは救済の完成は一般にそれがなくては私たちの生活もあり得ないところのものである。

けれど私たちの永遠なる価値の信仰と完成の可能の希望とが空しくないためには、それらに最後の安定を与えるものとしての絶対者が存在しなければならない。絶対者とは、けだし、永遠なる価値の創造者にして支持者であり、また私たちの生活においてまたによって自己を顕現し私たちを最後の完成にまで可能ならしめるところのものである。かくのごとき絶対者をあるいは神とよびあるいは仏とよび、理性といいあるいは価値意識というは人々の自由である。ただかかる絶対者にしてなんらかの意味において存在していないならば、すべては虚妄として、従って私たち自身も私たちの生活も、学問や芸術や道徳も虚妄としてとどまらなければならないのである。それゆえに信仰は単なる好奇心や虚栄心や遊戯本能や社交慾などからなさるべきものではなくて、私たち自身と私たちの生活と、そしてまた私たちが愛する学問や芸術や道徳などとがいたずらで終らないためにはなくてはならぬから必然的になされねばならぬようなものである。

あたかもそれが論理の正確をほこるものでもあるように、概念的な言葉によって現わされた上の思想が、真実は純粋な心情にもとづけらるべきものであることを示すためにも、それらの概念的な言葉を私が好んで用いる美しい言葉によって書き換えることはあながち不必要なことでもないであろう。第一の思想を私はという言葉で現わそう。永遠なるものの存在を信ずる心はやがて夢みる心である。夢とは永遠なるものに酔う心である。不合理や悪に充ちた現実に満足せず、それを超越したしかもそれが到達すべき永遠なるものの存在を信じてそれに向って憧れる心のみが本当に美しい夢を見ることができる。第二の思想を私は素直という言葉で現わそう。素直とは謙虚なそしてそれゆえに剛健な心の特質である。そして運命の前にどこまでもへりくだって絶対に他を信頼する心、自由の獲得のためにはあくまで戦って大死一番して後甦るの工夫を忘れない剛健な心、それらに対してのみ救済の完成と自由の完成とは存在する。安静と活動との美しい調和は素直な心においてのみ成就する。第三の思想を私はという言葉で現わそう。愛とは主客の完全な合一である。しかるに私たちが絶対者を抱きまた絶対者が私たちを抱いてそこに深い合一が成立するときに初めて、私たち自身と私たちの生活とは完成に達することができ、私たちの憧れる永遠なる価値も支持者を得ることができるのである。あるいはまた絶対者は私たちと永遠なるものとの愛の媒介者である。かようにして夢と素直と愛とはよき生活が可能なるがために欠くことができない三つのものである。しかし私はもうこれ以上それらの点について語る必要はないと思う。

著者: