語られざる哲学 (三木 清)

私と哲学との関係は上に述べたことと関連してやはり三段階を経て発展した。よくあるように私も最初は哲学というものは非常に高遠で奇抜なもののように考え、そしてそのような深邃なもの新しいものを知ろうという好奇心と、そのような人が困難とするところのものを自分は理解し得ることを示そうとする虚栄心と、もっと根本的にはむさぼってあくことを知らない知識慾とから哲学に向った。およそ哲学と名のつくものは唯その名のためにたいへん偉いもののように思われた時代が私にも最初にやって来た。その頃私はなるべくたくさんの哲学者の名を暗記しようとしたり、またそれらの哲学者の書いた書物の題をできるだけ多く記憶しようとした。私は単に哲学者の名やその書物の題を知りもしくはその書物を買込み、高々それらについての簡単な紹介かあるいはその書物から断片的な章句を知れば、もうそれだけで自分もひとかどの哲学者になったつもりで思いあがっていたらしい。私はそれの正当な解釈も知らず、またそれが全体の哲学体系の中でいかなる位置と意味とを占むべき句であるかも知らないで、いたずらに先行思想家の言句を喋り廻った。スペンサーいわく、ミル曰く、ショーペンハウエル曰く、カント曰く、などということがたくさんにできれば私は得意であったし、またそんな断片的な知識で人を驚かすに十分であると信じていた。けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の真摯しんしなる労作である。私に哲学上の教養があったとするならば、それは“someone said”の哲学に関してであった。しかしながら貨幣の種類をたくさんに示し得る人が必ずしも金持ではない。

青春の日が爛熟して行って憂愁が重い翼を私の心の上に拡げた。捉え難い寂しさはめしいたる眼で闇の中をもなく見廻わそうとし、去り難い悩しさはえたる手でいたずらに虚空をつかもうとした。日の輝く広野の嬉戯よりも薄暗い小屋の孤独を欲するような頃がやって来た。私は多勢の人の手によって軽く頭を打たれるよりも唯一人の人の手によってしっかりと抱き締められることを求めた。私の活動性がいかに自己を忘れて外なるもの新しきものに向わせようとしても、私は私の裏に感ずる悩しい自我に対して全く無頓著であることができなかった。私は明るいものよりも暗いもの、知識的なものよりも意志的なものにいっそう多くの魅力を感ずるようになった。かようにして自我に執著してすべてのものに反抗する日は来った。明確なるもの、論理的なるもの、概念的なるものに興味を失って、非合理的なるもの意志的なるものに共鳴するようになった私が最初に得たのはショーペンハウエルの哲学であった。彼の書物から来る美しいけれど悩しい旋律せんりつは私の心を奪い去るに十分適していた。生の無価値にしていとうべきことを説きながら、自らは疫病を恐れて町を飛び出したり、ホテルでは数人前の食をとったり、愛人と手を携えてイタリアを旅した彼の哲学は、インド思想と共通な涅槃ねはんを説きながら、その基調においては悩しき青春の爛熟期の哲学である。私は幾夜彼の書の上に涙したことであろう。しかしながら私の自我は押し通されることを要求し、私の活動性は奮闘的であることを迫り、私の意志は反抗的であることを欲していたから、否定的、静退的を説くショーペンハウエルの哲学とは私は別れて行かねばならない運命をもっていた。私はいつとはなしにニイチエに移って行った。文学の方ではその頃イブセンを好んで読んでいたように思う。私はツァラツストラを説きブランドを叫び、超人をいい第三帝国を語った。いまから考えてみれば、私はその時分それらの事柄の正当な意味を捉えていなかったのであるが、私の全体の気持としっくり合うように思われたために、私はそれをかってに解釈して振り廻していたのだった。

当然来るべきはずの第三の時期はきわめて徐々としてではあるが確実にやって来た。けれどそれは、第二の段階に直接に連続しはしないで三ヵ年間に亘った永い切断の後にやって来た。高等学校へはいったとき、私はいよいよこれから正式に哲学の学徒として旅立つのだという嬉しさから、これまで親しんで来たものにいて絶縁しようとした。ニイチエやショーペンハウエルやは退けられて心理学や論理学の書物が傍に積まれた。文学や芸術の本は哲学史や哲学概論の書物によって置換えられた。その時分私の興味の中心従って読書の中心を占めていたのは心理学であって、あるときなどはまじめに心理学者になろうかなどと考えたことさえあった。心理学に対する私の興味はそれから後いまに至るまで続いて来ているのであって、高等学校を卒業する間際まで私が心理学を専攻するものだと思っていた人さえあったくらいである。

けれども曲げられたものはいつかは反撥して来るであろう。無理に絶縁されていた文学に対する私の愛は機会を得て猛然としてよみがえって来た。そしてその機会を作ったものは実に哲学における私自身の能力についての懐疑であった。私は疑った、「おまえの能力ははたして哲学に匹敵し得るか。おまえの粗雑な頭脳は? おまえの綿密でない思索力は? それよりもおまえの中に燃えていておまえが押え切れない情熱は?」実際私の情熱は私が冷静を装おうとすればするほど裏切る力を増してゆくように感ぜられて、私を限りなく苦しいものにした。そしてその頃私は哲学者の最大の条件は冷静ということにあると考えていたようであった。哲学者となろうとする私が自分の中に燃え上る情熱をいつわることができない強さをもって感じたときの寂しさは、ちょうど若い尼僧がこれまで完全に征服してしまったと思っていた情熱を日も夜も感ぜずにはいられなくなったときの寂しさに似ていたであろう。そして私は論理的思索力についても全く自信を失っていた。

かようにして哲学の方面において自己の力を少しも信頼することができないようになった私は、再び文学の方へ懐しげに帰ってゆこうとした。私は文芸批評家になろうかとも、あるいは創作家になろうかとまでも思った。しかし哲学に対する顧慮は、私の文学に対する愛をふしぎに臆病にさせた。哲学書から離れて臆病になっていた私は、文学書に触れたりペンをとったりすることをまるで悪事でもするように恐れていた。来る日も来る日も私は二つの愛の中に彷徨して悩しい時を送らねばならなかった。私の心は巷の刺戟を恐れるほど弱くなっていた。弱い心は静かな自然の抱擁を求めるほか道を知らなかった。私が武蔵野をうことはその頃からいよいよ繁くなって来た。自然はすべての不平と煩悶とを葬るにまことに適しき墓である。草原に寝転んで青い大空を仰ぐとき、雑木林にたたずんで小鳥の歌に聞き入るとき、私の憂いたる心もいつとはなしに微笑んでいた。

一方では自然にうちこむことによって私の心は次第に安静を得て来、他方では学校の学科の関係上倫理学や心理学や論理学やを勉強せねばならなかったが、それらのことは私にいま一度哲学的学科に対する興味を蘇らせる機会を与えることができた。初めは必要に迫られてやったことも後には自発的にやるようになり、また学問そのものに対する純粋な知的興味を私が感ずるようになったのもその頃からであったと思う。私が最も愛読した書物は西田先生の『善の研究』であったが、私はそこにおいてかつて感じたことのない全人格的な満足を見出すことができて踊躍ようやく歓喜した。もしこれが哲学であるならば、そしてこれが本当の哲学であるべきであるならば、それは私が要求せずにはいられない哲学であり、また情熱を高めこそすれ決して否定しないところの哲学であると私は信ぜざるを得なかった。それと前後して私が接する幸福な機会をもつことができたスピノザ哲学は、私の心に自然が与えると同じような、けれどもっと純化され透明にされた安静を与えた。以上のすべてのことによっての私の哲学的生活の第三の段階への準備に最後の完成を与え、またある意味では第三の段階そのものに属していたともいうことができるのは、私のカント哲学との接触であった。自己の衷なる理性、もしくは真の自己そのものの自覚、しかしてそれより生れる人格の品位に対する畏敬、これらのことを正しく私に教えることを得たことが、私をなにより先にカント哲学の学徒たらしめた。カント哲学は、哲学は自己を顧みない論理的遊戯であり、情熱を否定する概念的知識であるところにそれの本質を有すると考えた私の無智な誤解を一掃した。なぜならば、理性とは真の自己そのものであり、無限にして永遠なるものを憧がれ求める情熱の源となるようなものであるから。かようにして哲学的生活の第三の段階、すなわち真に正しき形而上学的要求にもとづいた哲学的生活は、自己の本源に還るところ、永遠なるものに対する愛を感ずるところにおいて初めて成立する。これらの事柄に関しては、しかし、これから後幾度となく考うべき機会をもつに相違ない。私はたぶん正当に、第一の段階を個性前の段階、第二の段階を心理的個性の段階、第三の段階を哲学的個性の段階と名づけ得るであろう。

私は私の過去の哲学的生活の簡単で殆んど形式的な回顧においてさえあまりに情熱的であったように思う。私の情熱が私をふしぎに寂しく悲しいものにする。私は外に向うべき眼をもって自己の内を見ているようだ。少くとも自分自身を説服しようという無邪気ならぬ心組から何物をも求めようという成心のなかるべき懺悔の心を失いつつあった。懺悔は内に翻された眼によって、そしてその眼は恐らく湿っているであろうが、しみじみと自己を眺めることである。それは他に対してはもとより自己に対してでさえ何物をも教えようとはしない絶対に謙虚なる心である。世のいわゆる哲学が集められ貯えられたる智恵に基礎をもつことを誇りげに語ろうとするとき、懺悔は自己が無智において成立する哲学であることをつつましやかに黙しつつ承認する。

けれど私はこの場合哲学がいかなるものであるべきか、厳密にいえば少くとも私の心が要求しまた私がそれを与える人でありたいと欲する哲学が、いかなるものであるべきかについて、二、三の考察を試みておくことが適当であると思う。

一般に哲学へのあり得べき正しき道として三つのものが指摘し得られる。第一は自己の深き体験から出て来、またそれに向う反省から哲学へ至る道である。私たちがふつう不注意と無感覚との中に投げ棄てている日常の瑣末さまつな出来事をさえも自己の魂の奥底へまで持来して感じ、人生において大切なことは「何を」経験するかに存せずして、それを「いかに」経験するかに存するということを真に知れる人はまことに哲学的に恵まれた人である。彼は多き経験とともに深き経験を欲し、しかして深き経験とは彼にとっては必然的に反省的なる経験である。彼の体験は自ら反省にまで発展し、彼の反省は必然に体験にまで還って来る。哲学への第二の道は哲学史の徹底的な研究の道を通してである。事物の外観に迷わされずしてそれの根柢へはいって行ってそれの精神を体験し得る人、哲学史上の偉大なる人たちは、起伏する波の頂点であると考えてそれの基底をなす潮流の中へ自らを沈めようとする人、そしてそれらの体験と沈潜とから得来ったものを自己の形式において生かそうとする人は、哲学に対しては選ばれたる人である。彼の胸には思想史上の天才に対する尊敬と愛とが波打っているが、しかもそれらの天才において何が永遠なるもので何が一時的なるものであるかを本能的な確かさをもって感ずることができ、しかして彼の頭脳は感得されたものに新しき統一を要求する。彼の魂は単なる客観に没頭して自己を忘れるためにはあまりに力強いのである。最後に特殊科学の究竟きゅうきょう的な研究は哲学への第三の道として私たちの前に開けている。一般の人ばかりでなく専門家たちが自明の真理として許容し前提する事柄をもう一度根本的に疑ってみる大胆と勇気とがある人、個々の知識に満足せずしてそれの根柢を究めようとする人は、哲学のよき学徒たる資格を十分に具えた人である。彼は子供のような無邪気さと聡明さとをもって問い、強迫観念病者のような執拗とともに明るい直観をもって研究し洞察する。彼は大地のうずたかい堆積や限なき永劫えいごうよりも一瞬の間にせよ闇黒の深さを破って輝く星の光を愛することを知っている。太初はじめにあり、神とともにあり、そしてすなわち神であるロゴスこそ彼がすべてのものを棄ててまでも求め出そうとするところのものである。しからばこれらの三つの道に共通なるものは何であるか。私は哲学に対して起りやすい二つの疑問に答え、また哲学について伴いがちな二つの誤解を正すことによって、この問題は適切に解決されるのではないかと考える。人々はいう、一体哲学などというものがあり得るか、あるとしてもそれは要するに空中楼閣に過ぎないのではないかと。いかにもそのとおりである。その体験が反省的な根強さも深さももっていない人、哲学史の知識を自己の博学を矜る具に供したり社交場裡の話柄に用いたりして得意気に満足しておる人、ないしは特殊科学の知識を単に実用に役立てる利口な人やもしくはどこまでも専門学者としてとどまろうという人、それらの人々にとっては実際哲学がないのが事実であり、またそれが空中楼閣に過ぎないかのごとく見えるのが当然である。哲学は知られるものでもなければまた教えられるものでもない。哲学はただ実際にフィロゾフィーレン(哲学思索)する人、事実哲学に生き哲学を生きた人にとってのみ存在する。厳密な論理を辿る学問でありながら他の特殊科学と異なる特質、もしそれに含まれやすい誤解を除いて考えるならば、哲学があらゆる学問の王であるゆえんは、実にこの点に存するのである。さらに他の人々は気遣わしげに問う、哲学が論ずるような普遍的なもの、論理的なものはわれわれの人生には没交渉でありなんらの影響をも与えないものではないかと。これもまた疑われるとおりである、もし彼が現実についての反省されない粗雑な観察や認識に満足してそれの根柢を究めようとしないとき、事実経験され感受されるもの以上に超越しようとする要求をもたないとき、彼にとっては論理的、普遍的を取扱う哲学は、むしろ有害なものであるか、高々無聊なる時間をやる閑事業であるかに過ぎないであろう。しかしながらこれに反して自分自らフィロゾフィーレンする人、すなわち論理的なるもの、普遍的なるものに関して苦しく力強き思索に実際生きた人にとってはこれらの疑問ほど無意味なものはない。彼らにとってはかかる論理的なるもの普遍的なるものこそ人生を生きるために、いやしくも人生を正しく深く美しく生きるためにはなくてはならぬものである。イデーに生きまたイデーを生かそうとする生活、イデーの力に対する希望と信頼、そこに哲学的生活の本質はあり、そしてかかる哲学的生活からのみ真の哲学は誕生する。真理の勇気と精神の力の信仰とは、へーゲルがいったように哲学の第一の条件である。

以上の二つの疑問に答える共通な一つの答、すなわち自らフィロゾフィーレンせよということは、以下の、前にあげた疑問に対応もしくは対立する二つの誤解を防ぐためにも十分であるであろう。私がここにいう二つの誤解の第一のものは、哲学をたいへんに高遠で深邃しんすいなことと考えて、かような哲学をちょっとでもかじることを非常に偉大なことと心得て思いあがる人々に属するものである。人々が幽玄とし迂闊とする哲学を知っておくことは自己を他の人々から標異せしめ、自己の虚栄心を満足させるために最もつごうのいいことだと彼らは考える。あるいは彼らは哲学の秀れた点は主として人々が高遠とし深邃として遠ざけるちょうどその点にあると思惟する。けれども哲学の貴い点はそれが自己の外に尋ね求められるものでなく、かえって自己の内に還り見出される点にある。語られる哲学の根柢は語られざる哲学にある。そして語られざる哲学は必然的に虚しくへりくだる心の純粋において成立するのである。Les grands pensées vient de coeur.(偉大な思想は心情から生まれる。 ヴォヴナルグ『省察』八七)真の生ける真理を与うる哲学は語る口に見出されずして語らざる魂において成長する。哲学に関する第二の誤解はこれとあたかも反対した側面からすなわちそれがあまりに人生の実際と接近して感傷的もしくは病的になって、われわれの論理的要求から遠ざかっておるという批難においてぶっつかるものである。この考えを懐く人たちの想像する哲学者は、蒼白なしかめ面をした、人生や自然におけるよきもの美しきものに無頓著な、すべての現実的に対して懐疑的もしくは厭離的になった人である。彼はやたらに涙を流す人かあるいは一滴の涙さえれ尽してしまった人かである。

しかしながら私の考えるところでは、哲学者にはいかにも感情が必要であるが、それは純化され透明にされない情緒ではなくして、永遠なる理想や価値や理念やに対する感激である。情緒と感激とは根本的に性質の異なったものであろうが、道徳を本能の一種と見做みなす心理学的立場から、それらが同一根柢にまで還元されることを許すならば、感激とは永遠なるものに関係する限りの情緒である。情緒はそれに伴う不安と焦躁とからわれわれを限りなき盲目的な運動にまで駆るに反して、感激はそれに随う安静ルーエと平穏とからわれわれを光に照らされた、限りある従って完全な活動にまでおもむかせる。それゆえに情緒の運動が自ら外部的、身体的であるに反して、感激の活動は必然的に内部的、精神的である。前者は濁れる涙を猛烈に外に注ごうとするに反して後者は輝ける涙をもって自己の魂を洗い浄めようとする。しかのみならず私が永遠なるものとよぶところのものに純粋に概念的にして論理的なる真理が含まれていることを思い、またかくのごとき純粋に知識的にして思弁的なものに対してもはなはだ高き程度の感激があり得ることを認め、もっと根本的には情緒と感激との正当な区別を誤らない人は、哲学が一方では私たちの感情的要求を決して排斥するものでなく、他方では私たちの論理的要求を否定するものでないという二つのことが必ずしも矛盾しないことを容易に発見し得るであろう。哲学はいつでもフィロゾフィーレンする人にのみあり、またフィロゾフィーレンする人によってのみ正しく理解され得るものである。

私がいま与えた解決にして誤っていないならば、私は真の哲学者の資格として次の二点を挙げても間違ってはいないであろう。第一、論理的思索力の鋭さと強さ。第二、永遠なるものに対する情熱の清さと深さ。このことと関係して私が哲学者と呼ばれておる人間を三つの型に分つとしても必ずしも虚妄として退けられないであろうと思う。すなわち頭のよい哲学者、魂の秀れた哲学者、および真に偉大なる哲学者がそれである。第一の型の人々を一体哲学者と呼んでいいのかどうか私は知らない。なぜなら彼らは真の哲学者の資格として私があげた第一の条件としての論理的思索力の鋭さと深さについて、単に鋭さを示すのみであって深さをもっていないからである。学校の秀才といわれるものの特質を担ったいわゆる講壇的哲学者には頭があっても魂がない。そして深さは、それが論理的、概念的に関係しておる場合においてさえ、いつでも魂にもとづいておるからである。彼らは声高く教えようとする、彼らはうずたかき文献を作ろうとする。論理の巧妙と引証の該博と討究の周到とは彼らが得意気に人に誇示するところである。しかし惜しいことには彼らにはそれらの秀れたるものを統一して生かしまた深める魂が欠けている。いわば彼らには積極的がない。彼らは人の驚きを買うことができても人の愛を得て人を感激せしめることができない。ファウストがワグネルをさとしたそのままの言葉がちょうど適当であるのが彼らの哲学である。

Doch werdet ihr nie Herz zu Herzen schaffen,
Wenn es euch nicht von Herzen geht.

(どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
人の肺腑に徹するものではない。)

(ゲーテ『ファウスト』第一部五四四―五 森林太郎訳 岩波文庫)

 彼らは人を教えもしくは説服しようという心に支配されていて、その根柢になくてはならない虚しくへりくだる心をもっていない。よき語られざる哲学の学徒のみがよき語る哲学の学徒たり得る。彼らの学問は恐らく地に這うかずらのように広く拡ることができても、天に向って雄々しく伸びてゆくことができないであろう。なぜならば学才を伸ばしもしくは深めることができるものはただ秀れた魂のみであることを私は信ずるのであるから。彼らが、しばしば起るように、堕落して、純粋な知的興味からでなく名誉心や好奇心から、あるいは少くとも習慣的に雑誌や書物の数を殖やしたり文献の量を増したりするようになれば、彼らは単にそれによって自己の魂を高めることができないばかりでなく、またそれがために後に出ずべき正しき研究の道を塞ぎもしくは同僚や後輩の有効に用いらるべき時間を浪費する。こうなれば彼らは意識せずして不道徳を行いつつあるのである。学者的良心はいかなる場合でも鋭敏でなければならない。

魂の秀れたる哲学者とは永遠なるものに対する情熱の深き人々である。彼らの心は永遠なる理想や価値、真によき宗教や哲学や道徳や芸術や学問の憧がれとそれらに対する努力とにおいて喜びにち溢れつつ悩んでいる。彼らは外に向う心よりも内に還る心、人を教えようという心よりも自ら求めようとする心が真の哲学の根柢として尊ぶべきものであることを知っている。彼らは語られる真理よりも語られざる真理をさらに重んずる。ただ悲しいことには彼らは論理的な思弁に短であるがために彼らの清く深い体験を概念的に組織し統一する力を欠いている。けれど彼らの正しき心は、「自己の能うことはどこまでも研究し、自己の能わないことは静かに尊敬する」ことを心得ており、正直と無邪気とを失うことがいかに悪いことであるかを知っておるから、彼らは自己の魂とともに他人の魂をも高めることができる人々である。教えようとしない心は最もよく教うる心である。へりくだる心は最も鋭く人に迫る心である。いかにも彼らの哲学は論理の厳密と連絡の緊密とを欠いているであろう。けれどもそれらのすべてにかかわらず、彼らの哲学はふしぎに人を感動させずには措かないものをもっている。規則正しい序列を作って寄せて来る数限りない波よりも突然の風に天に冲するばかり高まった唯一つの波がいっそう速にまた確実に巌を砕く力を具えているのである。

真に偉大なる哲学者とは、私が上にあげた二つの条件を円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人に与えらるべき名である。彼の厳密な概念の間には永遠なるものに対する無限の情熱がかくされている。彼の明るい論理の根柢には見透すことのできない意志がある。永遠なるものの希求に殆んど無意識に悩んでいる彼の意志は限りない闇と憂鬱ゆううつとの海を彼の性格の奥底にたたえておる。けれどその闇は絶対の無でなく積極的なるものに発展すべき運命を有するものとしての否定である。その憂鬱は持たざるものの憂鬱でなく生まねばならぬものの憂鬱である。あるいはヒステリーおんなの憂鬱ではなくて健康なはらの憂鬱である。すなわち彼の衷に秘められた闇と憂鬱とは光と快活とを生みそして育てるところの闇と憂鬱とである。そのアーヌングに充ちた闇の中から時に巨光が輝き出て広い行手を示す。その深い憂鬱の海から華かな大きな花が咲き出でる。かくのごとく深くして根強い魂が発展して、自らとった論理の精緻せいちや統一の完全こそ真に偉大なる哲学には決して欠けてはならないところの形式である。剛健な、それゆえに悩める魂の力強さが内面的に要求する論理は、いわゆる思想家と自称する人々が排斥するように哲学に不必要なものではなく、これがなくては真に偉大なる哲学があり得ないようなものである。かくて本当の哲学者は本当に夢みる人である。なんとなれば、彼の闇と憂鬱とは意識的にせよ無意識にせよ永遠なるものと関係しておるのであるから、その限り必然的に夢みずにはいられないような種類のものであるからである。無邪気さと純粋さとはそれがいかなるところにあろうとも、いつでも子供のように夢みている。世なれた利口な人たちは親切そうに私にたびたびいってくれた、「君はトロイメル(夢想家)だ。その夢は必ず絶望において破れるものだから、もっと現実的になり給え。」私は年も若いし経験も貧しい。けれど私の心は次のように私に答えさせる。「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつでも夢みるものだと思っています。」

私は私が観念し、そしてもし私が恵まれるならばそれでありたいような哲学者について語った。私はそれがはたして正しい真理であるか、また一般の人々が求めておるところのものであるか知らない。ただ私の要求するところを通俗な言葉で最も簡単に現わすならば、私が根本的に求むるものは哲学を知ることではなくして哲学を生きることである。

さて私がいま上に考えた哲学者の三つの型に相応して、私は哲学を現実的、浪曼的、古典的の三種類に分ち、それの特性をめいめい現実的、超越的、フマニスティッシュ humanistisch として考えることができるように思う。けれどこれらの形式的な分類や区別について立入った論議を試みることは、私の最初の目的でもなくまた私の現在の心の状態にも適しからぬことである。

私の哲学的生活の発展についてはすでに語った。私はいま私の芸術的生活の変遷に関して前と同様に短い思い出を書いてみたい。そのことがこの一篇の統一と調和とを破壊しはしないだろうか、これまでにおいてでさえ、あまりに多かった全体の発展を妨害しそうな挿入が実際それを妨害するまで増されはしないだろうか、という懸念が一度私を躊躇させた。しかしながら体系を求めるために私はこの一篇を始めたのではない。私の仕事の目的は私が何であり何でなくそして何でありたいか、もしくは私が何をもち何をもたずそして何をもちたいかを正直に考えてみることにある、私は連絡のある記述よりも、私のいまなしつつある仕事が私の生活を全く新しくしてくれることを望んでいる、これらの思想が再び私を大胆にした。そればかりでなく私が私の心の奥底で考えたり感じたりしたことのほか一切を書かないという正直をさえ失わないならば、そのことがたとえ外形上の統一を破壊するにしても決して精神上の統一を破壊することはないだろう。

私の芸術的生活は無論私の哲学的生活よりずっと以前に始った。確か高等小学の一年、今の制度にすれば尋常科五年のことだったと覚えている。自分ではひとかどの俳人のつもりでいた私のクラスの担任の先生が、作文の時間に俳句の作法を例をあげたりして説明して後、生徒に句作をさせて出させたことがあった。そのとき私が書いて出した句が中で俳句らしいものになっていたと見えて、次の時間にそれを黒板に写したりなんかして、私に「あなたには確かに才能がある。これから後しっかり勉強し給え。高浜虚子という俳人がいるが、その人の名はといってあなたと同じだから、あなたも同じ筆法で『怯詩』と俳号をつけてはどうか」などといった。その先生は俳号さえもてばそれでもう立派な俳人のように心得る種類の人であった。そしてその頃私は少年世界日本少年の投書欄の愛読者だった。私が先生からいただいた結構な俳号の「怯詩」は、私の友だちが私を呼びかけるときの綽名としてとどまって、私はかつて自らこの号を用いたことがない。その後中学の二年の頃私は友人に頼んで「柳蔭」という号をつけて貰ったが、それも私は用いることをあまり好まなかった。私自身が本当に文学に対して要求を感じ、そして時には自分で文学者になってみたいと考えるようになったのは、やはり同じ中学二年の時国語のT先生が副科に蘆花の『自然と人生』を読んでくださった時に始るといっていい。それと同時に私の乱読時代が始った。次第に深く目覚めつつある性的に伴う憂愁の悩しい活動がそれと結合した。T先生に親しんでいた友人があるとき、私にこういった、「T先生は君をたいへん有望なものに思っている。君はきっと立派な文士になれるといつも私たちに語っている。」自分の中に動く深い憂愁がある方向を求めようとするもののように、いたずらな活動に自らを苦しめているような状態にあった私は、その言葉に動かされずにはいられなかった。それに耽読たんどくしていた雑誌や新刊書が虚栄心をそそのかさずにはいなかった。私は創作家になろうと決心した。しかしながら統一のない衝動的な運動に限りなく駆ろうとしている盲目的な意志と、私の心の表面に明るく動く小賢こざかしい智恵とが、その時分私が創作を試みることを妨げていた。功名心の焔が輝いて私の性格の奥に宿っている闇の海への沈潜を征服してしまった頃、T先生は私の中学を去って鹿児島へ移られた。私の虚栄心が自分自身を試みることを欲していた。私は鹿児島へ手紙を書いて、私がはたして文学者となる資格があるか否かをいてやった。いまから思い廻らしてみれば、私はその手紙で私の大きな功名心が満足されることが確実であるかどうかを尋ねているにほかならなかった。T先生からさっそく返事が来て、私はこれまで大抵の場合には君と同様な問に対して「お止めなさい」といった、しかし君の場合に限って私は「おやりなさい」とお勧めする。君の才能と君の家の資産とが君を文学者にするに十分であると私は信ずるから、と書いてあった。

私の創作時代が始った。私は私の周囲にいくつかの廻覧雑誌を次から次へともって行った。文学好きの仲間が作っていた「サブライナ」の後をけて私が中心となった「海妖アヤカシ」が最初に生れた。四年級の者でこしらえたクラスの雑誌が次男であった。私たちの学友区で出した「南風」が三男であった。斑気むらぎな次男がまず死んで、剛情な長男が次にたおれ、意気地のない三男は神経衰弱にかかって活動を中絶した。けれど最初は三人の子供はともに豪い元気だった。私たちはただ文学が分り文学をやるということだけの理由で自分たちを何か特別に秀れた人間ででもあるように考えて、しきりに霊感インスピレーション早熟プレコシティとについて、それらをあたかも私たちが本当にもっておるものであるかのように語り合った。当時流行していた文学者の名とそれらの人々の著作とが秩序もなく私たちの話題に上った。世紀末の懐疑と頽廃とが私たちを誘惑した。私たちは古典的なるものの大さと深さ、健康と完全とよりも特性的なるものの珍しさと鋭さ、病的と奇形とにより多くの興味を見出した。心理的個性に目覚めてなにより第一に自我を他と異なったものとして感じまた主張する時代、自己の周囲に漂う雰囲気を真の自己と思い誤る時代、それらのことよりもいっそう根本的には虚栄心と功名心とが内向的な活動を忘れさせて限りを知らぬ外向的な運動に駆る時代が私の中学時代の後の二年間を占めていた。いわゆる近代人が私をひどく誘惑していた。けれどもそれにもかかわらず私が徹底的な近代人であることができなかったのは、もちろん私の魂の底に湛えた見透すことができない意志の憂鬱の本能的な感覚がそれらの特性的なものに全然の満足を見出し得ないことを感じたに因るであろうが、一面から見れば私の活動性が作った私の趣味の広さが私をその危険から救ってくれたのだともいうことができる。私は小説を書き、戯曲を試み、批評を草し、感想を物し、歌を作った。私はボードレール、ヴェルレエヌ、ワイルドなどとともにウォーズウォースやミルトン、マーテルリンクを読み、フローベルやモーパッサンのためにソフォクレス、シャックンタラなどを忘れなかった。しかのみならず、私の心は寂しく悲しくする意志と感情との強さのゆえにかえって明るく快活にする知識を求めずにはいられなかった。私は哲学的学科の書物ばかりでなく、自然科学上の述作をもあさっていた。H先生に一週一回ずつ漢詩の添削をしていただいていた私が、生命論に関する医学上の書籍を読んだといって何のふしぎもないはずである。私の情意の直観的な識別力と広袤こうぼうを求める私の知識慾の遠心力とが、ともすれば新しきもの奇らしきもの病的なるものと親しもうとする私の性格の雰囲気への耽溺と陶酔とを妨害することができた。最初はただアーヌングに導かれていた私の心が多少でも自覚的に健康なるものへ憧がれる時がきわめて緩かにやって来た。それと同時に私はその当時非常な勢いで流行していた自然主義や頽廃主義やの文学に対して反感を抱くようになって来つつあった。このときに乗じて私の哲学的要求が急に頭をもたげて来て、中学五年の末期には私を哲学志望にかえていた。あるいは事実をいうと、その時分のだらしのない私の生活が私をして自分自身を非常に嫌なものに感じさせ、私はどうにかしてその沈滞した気持から逃れなければ当然精神的に破産せねばならないような運命にあった機会を私の哲学的要求が利用して成功したのであったに相違ない。

いずれにせよ私は文学者志望を断念した。そして運命が本能的な確かさをもって選ぶことは決して誤らない。高等学校の入学試験の準備、一高の生活、東京との接触、それらのことは一部分は必要上から、一部分は広い世界に出てたくさんの新しいものに接したという理由から私の頽廃的な生活と沈滞した気分とを一新させ、私がいてまで求めていた世紀末の懐疑と頽廃とへの陶酔の余裕を奪ってしまって、私が正しき自覚に到達する準備をした。哲学的学科への没頭は私によき反省の機会を与えた。高等学校の寮生活は、最も感謝すべきことには私の浪曼的を解放させて、英雄的なるもの、剛健なるものに対する崇拝とともに非現実的なるもの、夢幻的なるものに対する憧憬を自由にのばしてくれた。私は初めて高踏的なもしくは超越的な気持を味った。どん底へ落ちてみようという心がいつしか非凡なもしくは夢幻的なものへの憧れに変って行った。センチメンタリストの涙が英雄的なものに感激する涙となった。小さい自我の周りに垣を作ってその中に蟄居ちっきょしようという心が、自己の中にある積極的なあらゆるものを自由に伸して湧き上る生命の泉に躍入ろうとする心に移って行った。要するに健康なるもの、自由なるもの、生命的なるものの豊かさに私は初めて目覚めさせられたのだといっていい。私はこれらのすべてに関して心からの感謝を一高に捧げる。やがて価値の転換と概念の改造とがすばらしい勢いで行われる時がやって来た。かつて新しいと考えられたものがかえって古いものとなり、かつて自由と思われたことがいまは窮屈として考えられるようになった。懐疑と憂愁とについて語った私が、夢と感激とを語るようになって来た。ロマンチストという言葉が、その頃の私を呼ぶに最も適しい名であったであろう。上にもいったように、哲学についての誤った概念に固執していたことと自己の哲学的才能に対して不安を感ずるようになったこととが、私をいま一度文学へ引戻そうとしたけれども、私はそのときでさえ文学において古典的なものを観念していた。哲学においてカントが私の師であったように芸術に関してはゲーテが私の師であった。私の中に次第に貯えられて来た音楽、絵画、彫刻などの観照が、私の芸術観の偏狭を少しずつ破ってそれを芸術的良心の源に尋ねることに貢献した。私はここに私の芸術論を試みることを必要だと考えない。けれど私がこれまでもしばしば用い、そして恐らくこれから後もたびたび用いるであろう「古典的」という言葉の意味について、簡単に考えておくことは必要なことだと思う。

古典的ということは、これまで種々に正しくまた誤って解釈されて来たが、私はそれの特質として内容と形式との完全な一致、大さと深さとの高き程度における調和などということのほかに、特にその内容と関係してフマニスティッシュということを挙げたいと思う。しかしてフマニスティッシュとはいやしくも人間が生きたまた生きつつある生活、考えたまた考えつつある思想、感じたまた感じつつある感情、欲したまた欲しつつある意欲は、それがいかなる種類もしくは性質のものであるにしろそれらに深き興味と愛とを感じて、それらをそれらの深き根柢にまではいって理解しようとする心である。人間性の徹底的な理解にもとづいた愛は、哲学たると芸術たるとを問わずいやしくもそれが真に偉大なる哲学または芸術たらんがためにはなくてはならぬ重要な精神であると思う。

私はもうこれ以上語ることを慎まなければならない。そして永い間断たれていた私の最初の思想との交りを、もはやなんらの迂廻もなく続けて行くべき時は来た。

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