純粋性を揚棄せよ (三木 清)

純文学という語は我が国では全く特殊な意味をもっている。我が国にはまた西洋では見当らない意味をもった「純哲」というような語も用いられている。一般には純粋性ということが従来日本の文化のひとつの重要な特徴をなしていると考えられる。儒教でも仏教でも日本へ来て純粋化したと云われる。西洋哲学の場合についても同様に云い得るであろう。もちろん純粋というものが外国にないのではない。しかし我々の間ではこの言葉はそれとは違った意味をもっている。このような特殊な意味が何であるかを分析することは大問題であるが、ここでは差当り簡単なことから考えてみよう。

純粋性とは先ずひとつのポーズである。いつか大宅壮一氏が日本の文壇で大家と云われる人はポーズをもっており、ポーズをもっていない者はいつまで経っても大家らしく見えないという観察を下していたが、この場合のポーズを考えて見ると、我々のいうポーズの意味を理解する手懸りとなるであろう。昔から云われている文人気質なども、このようなポーズの意味を含むであろう。

いったいポーズとは身体的なものである。かようなものとして純粋性は生活、殊に日常生活における一定の姿勢を意味している。文学者や哲学者は、彼等が純粋であれば、その生活においても常人とは異るポーズをもたねばならぬと考えられる。もとより純粋性は文学や哲学に関わるものとして、これらのものにおけるポーズでもある。しかしポーズの根本的な意味は身体的なものであり、そして純粋性と云われる文学や哲学上のポーズの特徴は、まさにそれが身体的なポーズと一つに結び付いているというところにある。言い換えれば、そのような純粋性は実際的ということと離れ難く結び付いているのである。それだから純粋性を特色とする従来の日本の文化は同時に実際的ということを特色としており、また所謂日常性の文学、日常性の哲学等であった。このような実際性がプラグマティズムなどでいう実際性と全く違ったものであることは云うまでもなかろう。

かくて帰結することは、日本では文化を客観的な、それ自身において存在するものと見るような文化意識が発達しなかった。かような客観的な文化の代表的なものは事物の対象的把握である科学である。如何なる意味においても実際的であることは純粋でないという見方からすれば、逆に、日本の従来の文化は純粋でなかったと云い得るであろう。

科学は一定の立場に立ち、一定の見方をもっている。しかしこのような立場乃至見方はポーズと云うべきものでない。却ってポーズを踏み越えるところに科学の立場乃至見方がある。純粋性というポーズを保とうとする文学や哲学はかくして理論を蔑視するのがつねである。理論は抽象的だというのがその非難である。事実、理論は本質的に抽象的であるが、まさにこの抽象性において理論はその威力を有するのである。抽象の威力が認識されなければならない。

この頃の若い文学者はもとより昔の文人気質をそのまま認めないであろう。しかし彼等のなお多くが純粋性というポーズに支配されており、理論や科学を軽蔑する風はなかなかなくならないようである。新しい文学は純粋性というポーズを揚棄することから生れるであろう。

事実としても、古い純粋性は次第に揚棄されつつある。第一、生活上の特殊なポーズとしての純粋性は今日の社会生活の現実によって不可能にされている。文士は人間の屑だという杉山平助氏の議論も、そのようなポーズの現実の形態に対する非難の意味を含んでいるであろう。蓋し所謂文士的なポーズは現在の社会においては純粋に維持され得ず、それが維持されているように見える場合、そこには無理と虚飾とが存在し、打算もしくは頽廃の要素が混入している。文士的なポーズが毀れて、文学者も普通の社会人と同様に生活することを強いられるとき、彼等は文学者として、生活そのものの中から文学的生活を先ず抽象して来ることを要求されるようになる。従来の文学者にはかかる必要がなく、彼等にとっては謂わば既に最初から文学的生活が抽象されて与えられていた。従って生活と文学との関係は一義的で明瞭であった。然るに今日の文学者は先ず文学的生活を生活そのものの中から昇華させるという真剣な問題を課せられているのであって、このような昇華の努力が新しい純粋性の基礎でなければならぬ。生活からの生活の抽象が文学の現実性の条件である。政治と文学という幾度か論議を繰返された問題も、実は、政治という一般的生活の中から如何に文学的生活を昇華させるかという問題として重要な意味をもっている。文学的生活なくして文学のないことは明かである。併し文学的生活が先ず生活そのものの中から抽象乃至昇華されることが必要になった。問題はかくて、政治的生活と文学的生活と、文学的生活と文学と、いう二重の、従ってまた両義的な問題となっているのである。

次に純粋性の揚棄は、ひとつの実際的問題として、純文学作品の発表機関の現実における経済的困難によっても余儀なくされているようである。いかほど小説は面白いものだと自家宣伝をしても、現在の如き文学雑誌の経営が成功する見込は先ずないと云われている。そこで文学雑誌の概念を、例えば『セルパン』のようなものにまで拡張して考え直すことが必要だという意見も出て来る。かかる事情は、文学作品そのものに関しても、従来の純粋性の概念が揚棄されねばならぬことを示唆していると見られ得るであろう。

第三に、最近、作家乃至作品の無性格ということが著しい現象となっている。今日所謂プロレタリア作家と転向作家、それらと所謂ブルジョワ作家との間の区別はよほど不明瞭になって来た。それらの間には谷川徹三氏の云ったような平衡作用が種々の方面において見出される。観点を変えれば、無性格のうちに共通の性格が作られているのであって、我々はそこに純文学の概念の本質変化の道程を認め得る。中堅作家の新聞小説への進出も同様に考えられるであろう。今日多数の作家においてその立場や思想の差異が明確に区別し難くなったが、併し一つ確かなことは、彼等が今や一致共同して古い意味での純粋性の揚棄の方向を辿りつつあるということである。意識的な乃至無意識的なこのような努力は新しい文学概念の形成に向っているのであって、思想や立場の区別よりも先ずかかる共通の地盤の開拓が現在歴史的に意味をもったことである。それは思想や立場の相違がおよそ意味をもち得る前提であり、従って今こそ、かくして作られた共通の地盤の上において立場や思想が全く重要な問題となるべきことを示している。立場や思想が単に立場や思想としてでなく、まさに文学上の立場や思想として問題になるためには、先ず共通の文学概念が現実的に成立しなければならぬ。立場や思想に関する議論が従来抽象的もしくは不生産的に見えたのも、かかる共通の文学概念がなお十分に発達していなかったためであると云えるであろう。

このようにして伝統的な純粋性は到る処において揚棄さるべき運命にあるが、その揚棄と共に新しい純粋性が何処に求めらるべきであるかについては、なお一定した見解が存在しない。そこに現代の日本文学の混乱がある。この混乱は残存せる古い純粋性に対する謂わば本能的な執着によって一層甚だしくされている。

新しい文学概念の確立にとって最も基礎的なことは、文学者が真の文化意識を獲得するということである。そのために要求されることは、先ず文学を一つの客観的な事象として認識するということである。純粋性という特殊な身体的、精神的ポーズに支配されている限り、文学は「私」というものから離れず、文学の世界がそれ自身において成立する客観的な事象であることが理解されない。所謂純文学の概念を多かれ少かれ揚棄しながらも──横光利一氏によって有名になった「純粋小説」という語はこの事実の表現として特徴的である──、他方において文学者の私党形成が最近の如く盛んであっては、文学の世界の客観性が真に認識されているとは云えない。文化を客観的な事象、哲学者の所謂客観的精神として把握することは、かかる客観性を最も明瞭に示す科学というものが古来我が国では発達していなかったことによって、想像以上に困難にされていた。文学の世界の客観性が認められるならば、今度は文学上の立場や傾向の差異がこれまでとは違って重要な意味をもって来る筈である。然るに、私党は、立場や傾向の一致によって結び付いたものでなく、寧ろポーズの類似によって結び付いたものである。既に述べた如く今日作家が無性格になったことによって共通の文学概念の形成が準備されたとはいえ、そこに思想や立場が再び活溌な関心となるに至らなければ、それは却って私党化の土台となるのみであって、新しい文学概念が現実的に形成されたとは云えないのである。

次に文学の世界の客観性が認識されるに伴って、文学と他の文化の領域との間の親縁性が認識されねばならない。従来の純粋性においては、謂わば既に最初から、文学的生活が一般的生活に対して抽象されていたように、文学は他の文化領域に対して抽象されていた。かくの如き抽象性を示す一つの例として「局外批評家」という語がある。作家と批評家との区別が存在する限り、批評家は作家にとって凡て局外者であるとも云える。また局外ということが文壇に属しないという意味だとすれば、特殊なポーズによって結び付いた文壇というものが解消さるべきものだと考えられないであろうか。固より専門的な文芸批評家と然らざる者との区別は存在するが、局外という語はこれとは違った意味に用いられている。それは「純粋な」批評家に対して考えられ、純粋な批評家というのは、その評論が特殊なポーズを有し、論理的訓練を知らぬ文壇的方言で物を云う者ではないか。テーヌやブランデスなどの批評は如何に多くの「局外的なもの」をもっているであろう。凡て偉大な文学は種々の見地からの批評を容れるものである。局外批評家という語は文学と他の文化領域との間の親縁性の意識、従って真の文化意識の欠乏を象徴している。作家自身も文化意識を獲得して、文学を一層広い見地、一層広い連関において考えることを学ばなければならぬ。

文学の思想性とか社会性とかと云っても、かくの如き文化意識が先ず獲得されるのでなければ、十分に把握され得ない。文学と生活の問題も重要であるが、文学と他の精神的文化との親縁性の意識も特に我が国においては重要な問題である。かかる親縁性の意識に基く協同は今日のファシズム的情勢に対して政治的にも意義あることでなければならぬ。

(一九三六年六月)

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