通俗性について (三木 清)

評論、文学、また哲学においても、もっと一般人に分り易いものにするということが問題になっている。いわゆる通俗性の問題である。通俗性の問題は、今日、読者の側から要求として出ているというのみでなく、作家、批評家、思想家の側においても次第に真面目に考えられるようになってきた。

この問題は差当り表現、いい換えると、文章の問題である。文章の問題は、実際、軽視さるべきものでなく、また決して容易なものでもないのである。文章において最初の問題は、その要素としての語の問題であろう。そしてこの点については、なるべく漢語を少くし、むしろ日本の古典的な雅語を活かして使うこと、なるべく特殊な語即ち術語の如きものを減じ、世間一般に行われている語即ち俗語の如きものを活かして用うること、等々のことがいわれている。それらの教訓はもとより有益である。しかしながら語は孤立したものでなくて有機的に結合さるべきものであり、文章の中において機能を営むものである。従って文体が決らなければ語の使用法も決らない。いかなる語が用いられるかは、文体に関係し、文体に規定されるのである。表現の通俗性は文体の問題である。

文体についても、一般人に分り易くするために、平明に書けとか、直截に書けとか、種々の規則が示されている。かかる文章読本式な規則も、もちろん有用であろう。しかしながら何を平明といい、何を直截というかが、すでに簡単な問題でない。論理的文章は心理的文章よりも分り易いかといえば、反対の場合も考えられる。文章の通俗性のために思考の厳密性が妨げられるとすれば、ほんとに分り易いとはいえないであろう。しかも文体は一般的なものでなく、各人のものである。それはまた各人の個性的な表現の様式であるのみでなく、各人の個性的な気質、思考の仕方である。文体は思考の様式と表現の様式との統一である。明晰な思考なしに明晰な文章を書くことは不可能であろう。

かくて通俗性の問題は文体の問題であるとしても、それが単に文章読本式の問題でないことは明かである。むしろ文体の秘密を知ることは著作家の全秘密を知ることである。著作家は皆自分の文体を求めて苦しむ。文体の完成する時は作品が完璧に達する時である。この意味に於いても真の通俗性は作品の完璧性と別のものでないといい得るであろう。著作家は常に自分の気質、思考の仕方に適した文体を捜している。彼の文体はおのずから習慣的に出来てくるものである。然るに文体が出来てくると、今度はその文体が自分の思考を支配するようになる。そして著作家はいわばマンネリズムに陥る。ところが多くの場合分りやすいといわれるのはそのようなマンネリズムの状態に入った文章である。通俗性が主として文章の問題であるかの如く考えられるのも、思考と文章との比重において文章が重くなった状態であるためである。そのとき思考もまた習慣性に陥っている。若い人の文章よりも老人の文章が概して分り易いとされる理由もそこにある。かように通俗性がマンネリズムに関係するところにその危険性もあるのである。

通俗性が文体の問題であり、そして文体は各人のもの、個性的なものであるとすれば、むしろ文体を放棄することが一般人に分り易くなるゆえんであると考えられるであろう。事実、現在分り難いといわれている文章にはあまりにスタイル的であるものが少くない。通俗的になるために自分の文体を放棄せよという意見にはある真理が含まれている。もちろんその場合、通俗が俗悪となる危険はある。文体を放棄することは文体だけの問題に留まるものでなく、自分自身の思考の仕方を放棄することであり、常識的な考え方に身を委せることである。しかしながらひとは真に自分を活かすためには自分を殺さねばならぬ。自分の文体を放棄することも真の文体を発見するために必要である。また現在スタイルのゆえに難解と称せられる文章にしても、ほんとのスタイルでなくて単にポーズといって好いものがあり、文章及び思考の上にあまりにポーズが多いゆえに一般人に分り難くなっている場合が稀でない。文章及び思考において「常識的」になるということも真の「良識」を得るために必要なことであり、良識は真の通俗性の基礎である。

表現の通俗性の問題は表現の本質に還って考えられねばならぬであろう。表現するとはつねに他に対して表現することであり、表現はこの関係によって規定される。いい換えると、表現とは著者と読者との間の対話(ディアレクティク)である。この関係が生きて働いているとき分り易いものとなり、反対に独語(モノローグ)的な文章は分り難いものである。読者を念頭におくことによって、その文章が分り易いものになるのみでなく、その思考も客観的になり、社会的になり、かくしてまた分り易いものになるのである。

ひと或いはいうかも知れない。我々は読者のために書くのでなく自分自身のために書くのである、と。まことにそのとおりである。真の著者はすべて自分の内的な要求に基づいて書く。ただ読者をのみ目当てにして書こうとする者はほんとに書くことができないであろう。ただ読者に媚びるために求められる通俗性は真の通俗性でなくて俗悪というものである。しかしながらまた内的な要求も外的な事情によって触発されるものであり、かつすでに言葉に表現しようとする以上、何らかの読者を予想するのでなければならぬ。ひと或いは知己を千載後に待つといった態度で、通俗性の如きは何ら問題でない、というかも知れない。著述に対するかような理想主義的な態度を私はもとより尊重する。それは今日の著者においてあまりに稀なものとなっている。しかし本質的に通俗的でないものが後世に至って大いに読まれるようになるということは考えられないであろう。ゲーテが「唯一の永続力ある作品は折にふれての作品である」といった言葉には真理が含まれている。それのみでなく、知己を千載の後に待つといった態度のうちには何か封建的なものが残存するといい得るであろう。読者を念頭において書かないということは著作家の封建的な態度であり、かような封建的なものが他の封建的なものと一緒に我が国の著作家の一部になお残っており、そしてそのことが表現の通俗性を失わせる原因となっている。

事実として何らかの読者を目当てにして書かない著者は存在しないであろう。ひとは誰かに気に入るために書くのである。問題は、それが如何なる人であるかということにある。今日通俗性の問題が作家、批評家、思想家の側において真面目な問題となってきた理由もこの点にある。

特殊の場合を除き、現在純文学の読者の数は恐らく千か二千である。しかもそれは大抵、文壇的人間、即ちすでに文壇に出ている者、もしくはこれから文壇に出ることを志している者、もしくは文壇的な考え方に追随している者に限られている。かくして純文学は文壇という特殊圏のほかに殆ど出ることなく、ただこの特殊圏の内部で回転している。評論や哲学においても同様であり、それらは文壇、論壇、哲学界というような特殊圏の内部で、結局からまわりをしているに過ぎず、圏外にある大衆とは無関係なものになっている。これで果して好いのであるかという不安を著作家が感じるようになってきたのは当然である。

従来とても、ひとは読者を念頭においていなかったのではない。ただその読者は、文壇とか哲学界とか、特殊圏に属する人間であり、彼らに気に入るために書いていたのである。ひとは文壇の方言、哲学界の方言で物をいうことをもって満足していた。かような著作の態度は封建的といわれるであろう。我が国においては今日も、文壇等々はなお封建的性質を残している。然るに文化の危機が語られるようになった現在、文化の目的及び基準についての従来の考え方は動揺し、文壇や哲学界などという特殊圏に属する少数者の評価にのみ信頼していて好いかどうかが怪しくなってきた。彼らは社会上政治上の現実の勢力としても次第に影が薄くなりつつある。かくして通俗性の問題は単に文章或いは表現の問題に留まらず、文化の目的及び基準に関する重要な問題を含んでいる。

通俗性を得るためにはそれゆえにまず著作における封建的な態度を棄てなければならぬ。かの知己を千載の後に待つといった理想主義も、学問や芸術が「開いた社会」に属することを考えている点で意味があるのである。そこからしてまた通俗性の問題が理想的にはともかく、現実においては大衆性の問題であることも明かであろう。求められているのはもとよりいわゆる大衆文学におけるが如き、封建的なものを多分に含む「庶民性」ではない。大衆そのものが歴史的、時代的に考えられねばならぬ。時代的であるということは通俗性の基礎である。我々はここで前に引用したゲーテの言葉を再び想い起すべきであろう。時代的であることが時代に追随することであっては、それは俗悪というものである。今日分り難い文章の存在する原因はむしろ、著作家における思想的信念の動揺乃至喪失にある。しかし同時にモノローグに堕することは慎むべきであって、肝腎なものはすでに述べた対話の精神である。ひとつの作品を読んで、その中に自分自身を見出すとき、読者は悦ぶ。そこに通俗性の秘密がある。そしてもしかように読者を悦ばせることが同時に読者を高めることである場合、それはもはや単なる通俗性以上の、著作家の理想そのものである。

(一九三七年三月)

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