知性の改造 (三木 清)

今日、知性が問題になるというには種々の理由があるであろう。先ず第一に、現在の社会には多くの非合理的なものが跋扈しており、これに対して何かもっと合理的なものを求めようとする要求が生じている。それが知性の問題となって現われる。しかしながら今日かように非合理的なものが流行するということは単なる偶然でなく、そこに何かもっと深い理由があるのではなかろうか。それを従来の合理主義の立場から単純に非合理的として排斥するというのは不十分であって、むしろ知性の本性について考え直す必要が生じているのではなかろうか。即ちそこに知性の改造とでもいうべき問題が存在している。そしてこの問題は恐らく今日の哲学における最も大きな問題の一つである。近代哲学の父といわれるデカルトは『方法論叙説』を著して新しい哲学に根柢を置いたが、それは中世的知性の改造を意味したといい得るであろう。スピノザもまた『知性改善論』を書いている。この廿世紀において同じように知性の改造が問題になるのではなかろうか、新しい思想も哲学もこの問題から出発しなければならぬように思われる。

もとより知性の問題は今日において単に方法論的な問題であるのではない。それは一層具体的に知性を有する人間の問題、とりわけ知性を有することを誇りとし、知性的な仕事に携っている人間、つまりインテリゲンチャ或いは知性人といわれる者の問題として存在している。今日の社会においてインテリゲンチャは如何に行動すべきかということが知性の具体的な問題である。しかしながらこの具体的な問題も知性の本性に関する一見抽象的な問題と深い関連を有するのである。現在インテリゲンチャに対して種々の注文が出され、従来の態度を変ずるように或いは責められ或いは諭されている。このとき彼等が単に外的な力に屈従するのでなく、内面から変化を遂げるべきであるならば、彼等の知性そのものに改造が行われねばならないであろう。知性の改造なしに知性人が知性人として変化するということは不可能である。

ところで思想史の線に沿うて見ると、知性が問題にされるようになったのは近代文化の批判を通じてである。近代文化の特徴は機械的技術的なところにあるといわれる。しかるに機械的文化の発達の結果は種々の社会的害悪を生ずるに至った。そこで、かような機械的文化を作り出したものは知性であるとして、知性に対する批判が起り、反知性主義の思想が現われてきた。即ち反知性主義は具体的には近代文化に対する批判の中から生れたのである。我が国における反知性主義の思想も根本的には同じ考え方に基いている。ただ我が国においては、その文化の発達の特殊な事情に相応して、機械的といわれる近代文化に対する批判が西洋文化に対する批判となって現われたということに注意しなければならない。即ちこの場合近代的な技術的文化はもと西洋において発達し、それが我が国に移植されたという事情によって、反知性主義は反西洋主義の形をとったのである。

近代文化のうちに種々の弊害が生じたことは蔽い難い事実である。しかしその際まず考えなければならないのは、そのような弊害は技術そのものの罪であるか、それとも技術を用いる社会の罪であるか、ということである。技術の発達、これに伴う生産力の増加はそれ自体として人間を不幸にするものではなく、種々の害悪の根源はむしろ社会制度のうちに横たわっている。この社会制度はむしろ技術の発達を掣肘し、技術の完全な利用を阻止しさえしている。かような社会制度は言うまでもなく資本主義であり、その原理は自由主義である。従って反知性主義者の近代文化に対する批判は技術や科学や知性に向けらるべきではなく、この資本主義社会に向けられなければならない。もとよりこの社会に欠陥が存在する限り、この社会によって制約された知性即ち自由主義的な知性に対して批判が行われるのは正当である。しかしながらその批判から直ちに反知性主義、反技術主義を主張するということは間違っている。批判さるべきものは自由主義的に制約された知性であり、要求されているのは知性の抛棄ではなく、知性の改造である。

反知性主義者は、今日人間が不幸になったのは人間が知性をもって機械的な文化を作り、そして自然に背いたためであると考える。技術的に作られたものによって生活することは、もとより自然のままに生活することではない。技術は自然に対する戦である。しかしながら技術は単に自然に対立するのでなく、却って同時に自然との一致を求めるのである。自然のままでは人間に敵対しているものを人間と調和させるのが技術である。それが人間を自然に背かせると見るのは一面的であって、却ってそれは人間を自然とより高い秩序において一致させるのである。技術は自然を単に征服するのでなく、むしろ自然をしてその本性を発揮させるものが技術である。人間は自然に対して作業的に適応することによって生きてゆく、知性というものもこの適応の一つの仕方にほかならない。本能や習慣による適応が間に合わなくなった場合、我々は知性によって環境に適応するのである。かようにして今日我々の生活が「不自然」になり、そのために種々の害悪が生じているとすれば、その責は知性や技術にあるよりも現在の社会制度にあるといわねばならぬであろう。この社会制度の改善なしには、今日不当な乖離の状態におかれている自然と文化、都市と農村の融合的な関係も打ち立てられないであろう。日本文化乃至東洋文化の特色は自然と文化が融合的なところにあるといわれている。そこで知性の改造の方向は、西洋的知性を排して日本的乃至東洋的知性に還ることでなければならぬと考えられるであろう。しかし西洋的知性が一般に抽象的であるのではなく、知性の抽象化は西洋においても特に近代の自由主義社会において著しくなったのである。そこでまた考えられねばならないのは、東洋的知性に対する反省が今日必要であるにしても、それが封建的な知性への逆転になってはならないということである。

自由主義を原理とする近代社会の発展は種々の結果を齎したが、最も一般的な特徴についていうと、それはあらゆるものを抽象化した。抽象的ということが近代文化の著しい特徴である。かような抽象化はこの社会のすべての方向に現われている。この社会においては物は人間生活における具体的な使用から抽象されて単に一個の商品として生産される、商品というのは物の一般的な抽象的な存在形式である。それと同時に物の生産に従事する人間の労働も一般的な抽象的な労働として存在する。この社会においては人間は根差し無きものとなり、抽象的な人間となる。自由主義が個人主義であるというのも、かような根差し無き、抽象的な人間を指していうのでなければならぬ。この場合社会も抽象的なものとなり、人類とか世界とかいっても抽象的なものである。かような抽象化はまた知性の抽象化となって現われている。そこに知性と直観との抽象的な分離が生じた。知性と直観とは抽象的に対立させられ、合理性の名において直観は非合理的なものとして抽象的に排除された。それは更に知性と自然、文化と自然の抽象的な区別を意味している。自然的なものとは身体的なもの、衝動的なもの、パトス的なものである。しかるにかように抽象化した知性は同時に単に批評的となった。もとより批評的であるということは知性に本質的な機能である。けれどもその批評が地盤を失うとき、批評はただ批評のための批評、批評の批評、批評一般となる。自由主義的な知性は特に批評的な知性である。知性はその地盤であった自由主義が現実的意義を喪失するに従って批評一般に抽象化されていったのである。知性の名において行われるのはかような批評一般である。そのときひとは合理性の名において抽象的な可能性のうちに彷徨する、かかる抽象的な可能性の立場においては一切のものを批評することができる。これが今日我が国の多数のインテリゲンチャの陥っている精神的状況である。

かような抽象化から脱却するためには、知性は先ず歴史的にならなければならない。自由主義及びその合理主義は非歴史的であるということを特色とし、そのために抽象的であったのである。今日要求される知性は歴史的知性でなければならない。しかるに歴史的知性は行動的知性でなければならない。歴史といわるべきものは本来行動的現実としての歴史である。知性の抽象化は行動から、歴史から游離することによって生ずる。今日、非合理的なものの横行に対して合理性、科学性、理論性を要求することはどこまでも正当である。しかしながらその合理性、科学性、理論性は抽象的に理解されるのでなく、いわゆる理論と実践との弁証法的統一において把握されなければならない。行動から游離して抽象的な可能性において考える限り、ひとは懐疑的にならざるを得ないであろう。今日のインテリゲンチャの状態は、懐疑的である故に消極的であるというのみでなく、むしろ非行動的である故に懐疑的であるということができるであろう。このようにインテリゲンチャを消極的にした責任の一半は既に久しい間の当局の思想政策である。行動の自由を極度に制限されたインテリゲンチャは彼等の批評的な知性によってこれに応えたのであるが、そうしているうちに彼等の批評がまた単に批評のための批評、批評一般に堕してしまい、彼等の懐疑も知的な状況であるよりも感情的な状態になってしまったのである。彼等をこの知性の抽象化から脱却させるためには彼等に行動を与えなければならないであろう。批評的な知性が創造的な知性になるためには行動と結び附かなければならない。しかるに行動には身体的なもの、感情的なもの、パトス的なものが必要である。大いなる歴史的行動の底には或るヒロイズムが、或る浪漫主義が横たわっている。今日のインテリゲンチャに失われているのはこのパトスであり、このヒロイズムであり、この浪漫主義である。感情的状態にまでなった懐疑が彼等の浪漫主義やヒロイズムを蔽っている。かようにパトスやヒロイズムや浪漫主義について語るならば、彼等はそれを反知性的であると考えるかも知れない。今日のインテリゲンチャに合理性や科学性の観念を刻み附けたのは何よりもマルクス主義であったといわれているが、そのマルクス主義は理論と実践との弁証法を説き、またプロレタリア・ヒロイズムについて語らなかったであろうか。ただ、マルクス主義は階級的感情よりも一層深い感情、民族的感情の如きもの、この一層身体的なものを十分に考慮しなかったのである。知性が創造的になるためにはパトスの中を潜ること、直観と結び附くこと、直観を含むことが大切である。しかし知性と直観とは具体的には如何にして結び附くであろうか。今日のインテリゲンチャにパトスやヒロイズムや浪漫主義を与え得るものは具体的には如何なるものであろうか。ここにおいて我々は先ず自由主義に対して現われた全体主義について我々の問題を検討してみなければならぬ。

私は近代自由主義の発展において知性の抽象化が生じたことを述べた。従って今日知性の改造について考える場合、それは知性の具体化として、問題にされなければならない。近代社会の初めにおいては知性が決して抽象的なものでなかったことは、リオナルド・ダ・ヴィンチが代表的に示している如く、ルネサンスの頃の多くの技術的発明が芸術家によってなされたという顕著な事実からも知られるであろう。ルネサンスのヒューマニストは観想家や思弁家に対して行動的人間、あらゆる種類の実際家、芸術家、工作人を重んじた。マキアヴェリの新しい政治学のうちに見られるのも実際的悟性の実務の論理である。歴史は今日再び転換期に立っている。このとき要求される知性の改造は抽象化した悟性が再び直観と結び附くということ、批評的知性が行動的知性に転化するということである。思索家は行動人の如く思索しなければならないであろう。政治家は芸術家の如く新しい社会秩序を構想し造形しなければならず、他方芸術家には技術家の如き科学的な知性が必要であろう。知性と直観との根源的統一における構想力の論理が新しい論理でなければならぬ。

ところで今日自由主義に代るべきものといわれているのは全体主義である。全体主義という言葉は我が国においては普通にただ単に自由主義の反対のものというほどの意味に、従って無限定に用いられている。ひとはドイツやイタリーの全体主義といい、しかしまたソヴェトの全体主義ともいっている。このような用法は西洋におけるそれと一致しない。英米においては全体主義という言葉はファッシズムと同義であって、全体主義国というとファッシズム国を指している。シュパンの如きは自己の立場を普遍主義と称しているが、これも我が国においては全体主義と見られ、その代表的理論とさえ考えられている。かくて今日ただ漠然と全体主義といわれているものはその内容が学問的に規定されることが必要である。

極めて広く考えて、我々は先ず固有の意味における全体主義と一般的な全体観とを区別しなければならぬ。全体観或いは全体性の思想そのものは単にいわゆる全体主義の哲学に固有のものでなく、一般に現代の諸科学において共通に認められる傾向であり、現代思想の共通の特色であるということができる。従っていわゆる全体主義に賛成しない者も全体観或いは全体性の思想そのものは承認しなければならないであろう。むしろいわゆる全体主義を現代諸科学の共通の特色に属する全体観に含まれる論理の正しい把握によって修正することが必要であり、その点から全体主義の発展が企てられなければならない。全体主義乃至シュパンのいう普遍主義も固より全体性の思想を基礎にしている。ただそこでは或る制限が存在するように思われる。全体性の思想は特に現代の心理学の著しい傾向に属している。ディルタイの心理学、クリューゲルの心理学等からゲシュタルト心理学に至るまで、その根柢には何等か全体性の思想が含まれる。それらはいずれもビューレルのいわゆる原子論的公理に反対するのである。近作の古典的心理学といい得るイギリスの心理学、ヒュームなどの連想心理学は一種のアトミズムであり、個々の観念をアトムの如く独立なものと看做し、一切の心理現象をかような観念の連合から説明した。これはまさに個人主義的社会観に類似している。個人主義の立場においては個々の個人はアトムの如く独立なものと看做され、社会はすべてこのアトムの連合として説明されるのである。ヘーゲルは「市民的社会」を「アトミズムの体系」として規定した。心理学における観念連合説に社会学における社会契約説が相応するであろう。それらは共に近代的思惟の典型的なものである。新しい思惟はかような原子論的思惟に反対する。それは要素の単なる和と見ることのできぬ全体に一定の優位を認めるのである。新しい知性は原子論的思惟から全体観的思惟に移ってゆかなければならぬ。ただこの全体を如何に考えるかが、その際重要な問題である。

今日いわゆる全体主義をファッシズムと解する場合、それは非合理主義であって、近代の合理主義に反対している。この非合理主義は一定の社会観と結び附いている。ファッシストはもとより、あからさまにファッシズムを唱えない全体主義者も、その社会観において、テンニエスによって有名になった区別によると、ゲゼルシャフトに対するゲマインシャフトの思想をとるのがつねである。ゲマインシャフトという言葉は共同社会と適切に訳されるにしても、ゲゼルシャフトという言葉を利益社会とか営利社会とかと訳することはこの概念の意味を誤解させる惧れがある。なるほど株式会社の如きゲゼルシャフトは利益社会といい得るにしても、ゲゼルシャフトには必ずしも営利を目的としないもの、例えば学会の如きものも考えられるであろう。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトとの概念上の区別は営利を目的とするか否かにあるのでなく、その社会結合の仕方の相違にあるといわねばならぬ。即ちゲマインシャフトにおいてはその社会結合の基礎となるのは或る非合理的なもの、パトス的なものであるに反して、ゲゼルシャフトにおいては或る合理的なものである。営利主義といわれる株式会社などの結合の基礎は合理的に理解し得るものである。嘗てマックス・ウェーベルは簿記が近代的合理主義を象徴するといったが、一般にゲゼルシャフトは近代的合理性、即ち自由主義的合理性を基礎にする社会であると考え得るであろう。テンニエスはゲマインシャフトの基礎は本質意志であり、ゲゼルシャフトの基礎は恣意意志であると論じたが、前者は全体的な人間の心においてそのうちに思惟が含まれる限りにおける意志を、後者はそのうちに意志が含まれる限りにおける思惟を意味している。従ってゲゼルシャフト的結合は知性的な、合理的なものであるが、ただその合理性は近代的な、自由主義的な合理性を意味するのである。ゲゼルシャフトの典型的なものが株式会社であるとすれば、ゲマインシャフトの典型的なものは家族である。今日の全体主義者が共同社会を強調すると共に家族を重要視し、社会を家族主義によって考えることが特徴であるのも偶然ではないであろう。家族の如き社会的結合は感情、衝動、意志を根柢とし、どこまでも合理的に説明することのできぬ非合理的なものがその基礎をなしている。ゲマインシャフト的な考え方を強調する今日の全体主義者は非合理主義者であるのがつねである。

ゲマインシャフトが或る非合理的なものを土台とする結合であることは、それが何等か運命的なものと考えられるところからも知られるであろう。家族は私が任意に取結び得るものではない。私は一定の家族の中にいわば運命的に産れ落ちるのである。ひとは自分の親を自由に選び得るものでなく、また自分の家族が気に入らないからといって勝手にそこから出て他の家族の中へ入り得るものではない。ゲマインシャフトは自然的な、有機的な結合であるが、これに反してゲゼルシャフトは観念的な、機械的な結合として規定される。私がいま或る会社の株を買えばその時から私はこのゲゼルシャフトの一員となることができ、また私がその株を売ればその時から私はこのゲゼルシャフトの外に出ることができる。個々の株主は観念的に結合されているのであって実在的に結合されているのではない。ひとが或る会社の株主となるか否かは彼の自由であって運命的に定められたことではない。彼は合理的な打算に従って任意の会社に属することができる。ゲゼルシャフト的結合は合理的なものであるだけ機械的な一時的な性質を具えている。しかるにゲマインシャフトは生命的な持続的な結合である。それは或る非合理的な内密の性質を有し、閉鎖的であるということを特徴としている。家族の如きは閉鎖的であって、私は任意に他の家族の一員となってその中に入ることができぬ。これに反してゲゼルシャフトは公共性を、或る世界性を有している。株式会社の如きは公共的な存在であって、誰でもその株を買う者はその一員となることができる。即ちゲマインシャフトが閉鎖的であるのに対して、ゲゼルシャフトはつねに何等か開放的である。後者が開放的であり、公共性を有し、或る「世界」であるということは、その基礎が合理的なものであるのに依るが、その結合が一時的な機械的な性質を有するということは、その合理性が近代的な合理性、言い換えると自由主義的な合理性であるのに伴う制限である。ゲマインシャフトの場合はあらゆる分離にも拘らず本質的に結合されているのに反して、ゲゼルシャフトの場合はあらゆる結合にも拘らず本質的に分離されている、とテンニエスは述べている。ゲゼルシャフトはヘーゲルの市民的社会の概念がそうであるように原子論的である。そしてそれは抽象化された知性の合理性に相応すると考えることができる。近代的な「世界」及び近代的な世界主義もしくは国際主義の抽象性もそこから考えることができるであろう。

ところで今日のいわゆる全体主義は実質的には民族主義乃至国民主義である。シュパンのいう普遍主義はドイツ浪漫主義の系統に属している。全体といってもそこでは人類全体という如きものを意味するのではなく、むしろ端的に民族を、民族の国家を意味するのである。民族は右のゲマインシャフトの規定を具えている。それは近来しばしば「運命共同体」と呼ばれるものである。その結合は或る非合理的なもの、身体的なもの、パトス的なものに基いている。すでにテンニエスはゲマインシャフトにとって血と地が重要な意義を有することを論じたが、今日の全体主義者もそれを最も強調し、人種主義者或いは地域主義者、地理的運命論者、風土主義者であるのがつねである。民族という共同社会も閉鎖的であることを特徴としている。

ゲマインシャフトが閉鎖的な体系であることは特に注意しなければならぬ。そこから全体主義が論理的には有機体説であり、そしてその場合実践的には全体が部分に対して抑圧的になるということが従ってくる。弁証法にとっても全体性の概念は決定的に重要な意義を有している。弁証法もヘーゲルの用語に従えば抽象的普遍に対する具体的普遍、つまり全体性の概念を中心としている。しかしながら弁証法と有機体説とは区別することが肝要であり(この点について私は嘗て「有機体説と弁証法」という一文の中で論じたことがある)、その区別を認識することによって今日いわゆる全体主義の思想の正しい発展も考えられるのである。今日の全体主義は根本的には有機体説の論理に従っている。ゲゼルシャフトの概念の基礎となっているのが自然法の思想であるのに対して、ゲマインシャフトの概念は有機体説を根柢としている。そして自然法の思想の合理性が抽象的であるように、有機体説は生物学主義と結び附いて合理性を欠き、非合理主義になる傾向を含んでいる。尤も我々は有機体説、特に社会の有機的な見方のうちに或る正しいものが含まれることを認めなければならない。唯物弁証法の弱点は有機体説に抽象的に対立することによってそれ自身一つの抽象に陥っているところにあるといえるであろう。有機体説的な見方を一定の仕方で自分のうちに生かすのでなければ弁証法も正しい社会観の基礎となることができないであろう。ところで今日の全体主義においては全体は有機的なものと考えられるが、有機的全体の特色は閉鎖的な体系であるということにある。そこでは全体は自然的な所与的なものであり、そのうちに発展があるにしても全体が自己自身をも否定するということはなく、かくしてつねに閉鎖的な自己同一に止まっている。かような全体の中においてはその諸部分の自由、独立性は認められ難い。今日の全体主義が個人の独立性や自由を否定するといわれるのもそのためである。また全体主義が保守主義に傾くということもそれが閉鎖的な全体を基礎とする有機体説であるための自然の結果である。真に弁証法的な全体は閉鎖的であると同時に開放的でなければならない。それは自己否定を含むような全体でなければならず、個体はどこまでもそのうちに包まれながらどこまでも独立であるというのでなければならない。

かようにして全体主義の正しい発展にとって要求される全体は、閉鎖的であると同時に開放的であるような全体であり、いわばゲゼルシャフトとゲマインシャフトとの弁証法的統一として考えられるものである。近代自由主義の社会は本質的にゲゼルシャフト的であった。「社会的並びに政治的意味におけるゲゼルシャフトの全概念はその自然的基礎を第三階級の風習と思想とのうちに見出す。それは元来なんら民族の概念でなく、つねにただ第三階級の概念である。」とブルンチュリはいっている。近代的なゲゼルシャフトはゲマインシャフト的なものから抽象されたものであって、開放的とか世界的とかいう特色を有するにしても、その開放性、その世界性は抽象的であり、またその合理性は自由主義と制限を共通にするものであった。今日の全体主義がゲゼルシャフト的な考え方の抽象性に反対するのは正当である。しかしそれが単にゲマインシャフト的な考え方を強調する場合、それは封建主義へ逆行することになるであろう。家族はゲマインシャフトの典型的なものであり、全体主義者の多くは社会を家族主義的に考えようとするのであるが、家族にしても今日封建的なものに還るべきではなく、新しい合理性の基礎の上におかれなければならぬ。封建的な家族においては婚姻の如き場合にも当事者である男女の自由は認められず、殊に婦人は家風に合わないとか子供がないとかいう理由によって離婚され、家のために犠牲にされることが稀でなかった。今日の婚姻は一層合理的でなければならず、その他の家族的諸関係も一層合理的なものにならなければならない。自由主義が善くないからといって一切の合理性を排斥することは正しくない。もとより近代的合理主義は個人主義に陥る傾向をそれ自身に有している。かくてゲゼルシャフトはゲマインシャフト的にならねばならず、しかしゲマインシャフトはゲゼルシャフト的にならねばならぬといい得るのであるが、それは両者の機械的な結合を意味するのではなく、高次のものにおける弁証法的綜合への発展として考えられるのである。

現代の文化社会学などにおいていわれるように、人間の思惟形式も社会形態の異るに応じて異るとすれば、知性の改造の問題も右と同様の見地から把握されねばならぬであろう。近代的知性はゲゼルシャフト的知性である。ゲゼルシャフトは或る合理性を基礎とする結合であり、それが開放的で世界的であるのもこれに関連している。しかしその合理性が自由主義的な合理性であるところにその制限があり、その抽象性が存在した。かような制限から脱却するためには、知性はゲマインシャフト的なものの根柢から汲まねばならず、特に民族のパトスの中に沈み、そこから新たに生れて来なければならないであろう。思惟は直観と、思索は行動と、精神的なものは身体的なものと、理性的なものは自然的なものと、新たな結合を遂げなければならない。我々は上においてゲゼルシャフトが合理的なものを基礎とする結合であるに反しゲマインシャフトは非合理的なものを基礎とする結合であると述べたが、この区別は実は理想型的な概念構成に過ぎないのであって、ゲマインシャフトにしても固より単に非合理的な結合であるのではない。ゲマインシャフトを単に非合理的なものと考え、これを単にゲゼルシャフト的に合理化しようとするのは悪しき自由主義にほかならず、かくては家族の個人主義化の如くそれを破壊することになる。ゲマインシャフトにはゲマインシャフト的知性があるであろう。そこでは知性が感性と、思惟が生活と、有機的に融合的に結び附いているという特色が認められる。知性の改造は或る意味ではゲゼルシャフト的知性がゲマインシャフト的知性の性格を得てくることであると考えられるであろう。しかしながらゲマインシャフト的知性は閉鎖的であって、知性の本質に属すべき開放性や公共性に乏しく、その限りそれが近代化によってゲゼルシャフト的になったことはたとい知性の抽象化を惹き起したにしても、かかる抽象化も知性が自己の本質を一層深く獲得するために必要であったということができる。単にゲマインシャフト的な知性、家族的知性、民族的知性というものを強調することは封建主義への反動に陥りがちである。また全体主義者が一般に知性の尊重を自由主義と目して排斥し、これに対して非合理主義を主張することは、ゲマインシャフトにも知性があることを忘れているものといわなければならない。新しいゲマインシャフトはゲゼルシャフトの性質を自己のうちに止揚して含まねばならぬように、新しい知性はゲゼルシャフト的であるよりもゲマインシャフト的でなければならぬといっても、単に閉鎖的でなくて開放的世界的でなければならず、その意味において自由主義的なところを有しなければならぬ。およそ自由主義を単純に排斥することは間違っており、今日の全体主義者がしばしば犯している誤謬である。近代自由主義によって発達させられた合理主義は単に否定すべきものではなく、却ってそれを真に具体的な現実的な合理性にまで発展させることが重要である。人格の自由と尊厳という如きことも近代自由主義と共に発達した尊重すべき思想であり、如何なる全体主義もこれを単に否定することは許されない。近代自由主義の財産を継承し、これを正しく発展させることなしには、真に新しい文化の創造は不可能である。

全体主義の正しい発展が真の合理性への発展でなければならぬということは、今日我々が直面している現実の問題からも要求されているであろう。支那事変の目的は東亜協同体の建設であるといわれている。東亜協同体はゲゼルシャフト的にでなくゲマインシャフト的に考えられねばならぬにしても、今日の民族主義的全体主義者が考えるようなものであることができない。それはすでに民族的全体でなくて民族を超えた全体である。従って東亜協同体の結合の原理は民族主義的全体主義者のいうような単に非合理的なものであることができない。もとよりそれは単なるゲゼルシャフト的合理性によっても考えられない。東亜協同体は民族を超えた全体として、その結合の基礎は血という如き非合理的なものではなく、東洋文化の伝統という如きものでなければならぬであろう。しかるに文化の伝統という場合、それはまた単に合理的なものでなく、抽象的合理的に理解することのできぬものがある。伝統というのは身体的になった文化、自然の中に沈んだ文化のことである。それは単にロゴス的なものでないと同様、すでに文化的なものとして単にパトス的なものでもない。そして実際をいうと、民族にしても今日の全体主義者の主張するように、血という如き生物学的なものを基礎として考えらるべきものではないのである。民族はもと生物学的な概念でなく、本質的に歴史的な概念である。あらゆる歴史的なものは単に生物学的なものであることができぬ。歴史的なものは文化という言葉の一般的な根本的な意味において文化的なものである。民族も歴史的に作られ、歴史的に発展するものである。全体主義が民族的全体から東亜協同体という如き民族を超えた全体に発展する場合、合理性の要求はいよいよ大きくなり、そしてその全体が単に閉鎖的でなく同時に開放的でなければならぬことがますます明かになってくる。東亜協同体という如き全体はそのうちに開放的に諸民族を含まねばならず、またそこにおいては諸民族がそれぞれの個性と独自性を失うことなく自己の発達を遂げ得るのでなければならないのである。しかしそれはまさに協同体としてゲゼルシャフトでなくゲマインシャフトでなければならず、それ故に近代的自由主義の原理に従ってではなく、むしろ新しい全体主義の原理に従って考えられなければならぬ。

近代的なゲゼルシャフトはその合理性がまさに近代的な合理主義にほかならぬところに制限を有している。この合理主義は簿記において象徴的に示されているような合理性である。新しいゲマインシャフトはゲゼルシャフトのように合理的でなければならないが、その合理性は従来の自由主義の合理性に止まることができぬ。新しい社会には新しい知性が必要である。私は右にゲゼルシャフトの開放性、公共性、世界性について述べた。しかるにゲゼルシャフトも実をいうと決して真に開放的ではないのである。例えば株式会社は近代的なゲゼルシャフトの典型的なものと見られるが、この株式会社も実は誰でも自由にその中に入り得るのでなく、ただその株を買い得る者のみが、従って資本を有する者のみがその中に自由に入り得るのであって、その限りそれは開放的でなくて閉鎖的である。ゲゼルシャフトは一般に未だ真に開放的ではない。真に開放的であるのは「人類社会」(ヒューマニティ)の如きものでなければならぬ。ヒューマニティこそ人種、性、年齢、教養、財産等、あらゆる差別を超えて、すべての人間がそのうちに包まれる全体である。かような人類社会はゲゼルシャフトではなく、真のゲマインシャフトである。真に開放的であるのはゲゼルシャフトでなく、むしろゲマインシャフトであるといわねばならぬ。この人類社会と呼ばれるゲマインシャフトは、種々の閉鎖的なゲマインシャフト、家族とか民族とかいうものとは性質の違ったものであり、異る秩序、異る次元のものである。そこにベルグソンのいう如き開いた社会と閉じた社会、開いた心と閉じた心の差異が存在するであろう。閉じたものはその周辺をどれほど拡げても開いたものにはならないように、家族とか民族とかと人類社会との間にはただ飛躍によってのみ達し得る次元の相違がある。真に「世界」といわるべきものはかくの如き人類社会でなければならぬ。閉じたものは唯一つの中心を有する円であるに反して、開いたものは到る処が中心であるところの円である。即ち世界は一切の個体を含みながら、しかもその中に含まれるすべての個体が独立であるという構造を有している。知性の本質は開放的で世界的であるというのも、それがいまいった意味において人類社会的であり、ヒューマニスティックなものであるということでなければならぬ。かような世界は普通に単に地域的に考えられる世界とは全く性質を異にし、秩序を異にするものである。新カント派の哲学者は存在と当為を原理的に区別し、知識の本質に属する普遍性は存在の意味のものでなく当為の意味のものであると論じているが、そのことも人類社会(ヒューマニティ)が普通にいうゲマインシャフト乃至ゲゼルシャフトとは全く異る次元のものであり、そして知性が本質的にヒューマニスティックなものであるところから理解されるであろう。

しかしながらこの人類社会はただ歴史を通じてのみ実現されるのであって、歴史を離れて考える場合、単に一個の抽象に過ぎぬ。抽象的に人類社会を考えるならば、それはゲマインシャフトではなく、むしろゲゼルシャフトになるであろう。他方あらゆる現実に存在するものはそのうちに何等か「世界」を実現することによって初めて真に歴史的なもの、言い換えると世界史的意義を有するものになるのである。すべて現実的に歴史的なものは特殊的であると同時に普遍的であり、かかるものとして個性的である。それが特殊的である限りそれは閉鎖的であり、それが普遍的である限りそれは開放的であるといい得るであろう。今日想見される新しい社会秩序がゲマインシャフトであるということは、それが近代的ゲゼルシャフトに対して一層高度に「世界」というゲマインシャフトを自己のうちに実現することを意味すべきであって、封建的なものへの逆転であるべきではない。世界史の発展の過程は「世界」の実現の過程でなければならぬ。近代的ゲゼルシャフトはなお未だ世界的でなかった。新しいゲマインシャフトは一層世界的でなければならぬ。そしてこの新しい社会秩序の構想には近代的合理性とは異る新しい合理性、近代的知性とは異る新しい知性が必要である。支那事変を通じて日本は東亜協同体という如き新しいゲマインシャフトの理念を掲げるに至った。それが抽象的なものでなくて歴史的なものである以上、それが或る閉鎖性を有すべきことは当然であるが、しかしそれはまた単に閉鎖的に考えらるべきものではないのである。特殊的閉鎖的なものを通じてつねに普遍的開放的なものが実現されねばならぬ。それが「歴史の理性」の要求である。今日東亜協同体という如き一民族よりも大きなゲマインシャフトが考えられるようになったことは、新しいゲマインシャフトが一層多く世界的意義を有すべきことを示しているが、しかし「世界」というものを単に地域的大いさに従って考えることは間違っている。世界は本質的には場所の広狭にかかわりなく到る処において実現され得るものである。地域的な大いさは世界に本質的な開放性、公共性、共同性の象徴に過ぎないともいい得るであろう。新しいゲマインシャフトはかような世界性を有することによって初めて現実の歴史的な世界秩序の革新的再建の力となり得るのである。東亜協同体といわれる新しい体制は近代的な抽象的な世界主義を克服する一方、更に新しい世界主義へ道を開くものでなければならぬ。同じように抽象的な世界主義は新しい知性の立場であり得ないが、しかし知性はどこまでも本質的に世界的なものであるべきであり、つねに「世界」の実現の方向に動かなければならぬ。

さて私は知性の改造の問題を社会の問題に関連して述べてきた。これは知性の改造が抽象的には考えられないことを意味している。知性の改造は具体的には人間の改造の問題であり、そしてこのものは社会の改造の問題に関連している。人間は新しい社会を作ることによってその中から新たに生れてくる。社会的実践を離れて知性の改造も考えられない。我々にとって歴史的に与えられている現実の課題の解決に身をもって当ることによって知性の改造も可能になるのである。

(一九三八年一一・一二月)

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