知識は飢える (三木 清)

或る本屋さんが来て話した。

第一の話。この秋東京で行われた図書館祭では、人を集めるために漫才や浪花節をやった。日本の「文化祭」はこの通りである。

第二の話。自分の所で出した書物が文部省や茗渓会から推薦されるのは有難いが、すると早速図書館からその書物の寄贈を申込まれて迷惑する。図書館には金がないのである。

第三の話。自分たちは『キング』は主として田舎で読まれるものと思っていた。ところがこの雑誌の関係者の話によると、その四割までが東京で売れているそうだ。これが知識人の最も多いといわれる東京の状態である。

かような例はいくらも殖すことができる。そこで先ず日本の文化政策とは如何なるものかと問い、次に日本に知識階級ありやと問いたくなるであろう。高級綜合雑誌が好んで知識階級向きの問題を取り上げるのも、その重要な顧客が学生であり、日本の知識階級とは学生であるからだと見られている。その学生も卒業して就職し、家庭でも持つようになれば、一家一冊で皆が楽しめるという『キング』党になる者が多い。

我が国における知識の伝統はこのように浅く、知識は実社会の生活から游離している。弾力をもった批評的精神の欠乏もこれに関係している。勿論この際、本を読む暇も金もない一般人の生活状態も考えねばならぬ。

知識は人間に飢えている。人間に飢えた知識は勢い抽象的になる。日本人は抽象的な知識を好むという意見には賛成できぬ、知識が人間に飢えているのである。大衆の血をもっと吸い取らなければ、知識は具体的とならないであろう。

今日、例えば、純文学の読者は殆ど文学青年に、即ち自分でも小説を書いて「文壇」に出ようとする人々に限られるといわれている。文学はただ文壇の内部で回転する。これは結局からまわりである。我々は文学に飢えている、と文学青年は云う。だが実は文学が人間に飢えているのである。

近ごろ教養の問題が注意されたのは、このからまわりを止めることに幾分役立つであろう。しかしそれはあのように人間に飢えている知識を満足させ得るものでない。日本に知識階級ありやの反問がここでも飛び出してくる。今日の問題は「教養」よりも「啓蒙」であるといわれるであろう。知識は大衆の血を吸い、これによって自己を変化しなければならぬ。大衆の生理的な飢えがなくなるまでその血を吸うことを待たねばならぬような知識は、実は、結局真に人間的となり得ぬものである。

(一九三六年一二月)

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