読書遍歴 (三木 清)

十一

外国で暮した三年間は、私のこれまでの生涯において最も多く読書した時期であった。その間、私はあまり旅行もしないで、ほとんど本を相手に生活した。留学は私にとって学生生活、下宿生活の延長に過ぎなかった。幸いなことに――この言葉はここでは少し妙な意味をもっている――私はまた当時思う存分に本を買うことができた。ドイツにおけるあの歴史的なインフレーションのおかげで私たちは思いがけなく一時千万長者の経験をすることができたのである。先日も私はラテナウの『現代の批判』という本を読みながら、初めてドイツに入った日のことを想い起した。マルセーユからスイスを通り、途中ジュネーヴを見物して、ドイツに入ったその日、私たちは汽車の中で見た新聞によってラテナウが暗殺されたことを知ったのである。私たちというのは船の中で知り合った四、五人の仲間で、その中にはブルーノ・タウト氏の弟子となった若い建築家上野伊三郎がいた。(上野の名は岩波新書の『日本美の再発見』におけるタウト氏の文章の中に出てくるから読者の中には記憶されている方もあろう)。今手許にあるヘルデルの百科辞書を開いてみると、ラテナウは一九二二年六月二四日ベルリンで「ユダヤ人並びに “Erfüllungspolitiker”(ヴェルサイユ条約履行主義の政治家という意味)として国民社会主義の行動派によって暗殺された」とある。ラテナウ暗殺事件以来マルクは急速に下落を始め、数日後にはすでに英貨一ポンドが千マルク以上になった。やがてそれが一万マルク、百万マルク、千万マルクとなり、ついには一兆マルクになるというような有様で、日本から来た貧乏書生の私なども、五ポンドも銀行で換えるとポケットに入れ切れないほどの紙幣をくれるのでマッペ(鞄)を持ってゆかねばならないというような状態であった。ハイデルベルク大学の前にワイスという本屋がある。講義を聴いての帰り、私はよく羽仁五郎と一緒にその本屋に寄って本を漁った。それは私ども外国人にとっては天国の時代であったが、逆にドイツ人自身にとっては地獄の時代であったのである。その頃ドイツには日本からの留学生が非常に多くいた。私の最も親しくなったのは羽仁であったが、私と同時にあるいは前後して、ハイデルベルクにいて知り合った人々には、大内兵衛、北昤吉、糸井靖之(氏はついにハイデルベルクで亡くなった)、石原謙、久留間鮫造、小尾範治、鈴木宗忠、阿部次郎、成瀬無極、天野貞祐、九鬼周造、藤田敬三、黒正厳、大峡秀栄、等々、の諸氏がある。

私がハイデルベルクに行ったのは、この派の人々の書物を比較的多く読んでいたためであり、リッケルト教授に就いてさらに勉強するためであった。リッケルト教授はハイデルベルクの哲学を代表し、その講義はかつてヘーゲルが、クーノー・フィッシェルが、ヴィンデルバントが講義したことがあるという由緒のある薄暗い教室で行なわれた。――リッケルトに『ドイツ哲学におけるハイデルベルクの伝統』(一九三一年)という講演の出版されたものがある。――リッケルト教授には自分の家を離れると不安を感じるという一種の神経性の病気――学生たちはたしか “Platzangst”と称していた――があるということで、大学へはいつも夫人と書生のようにしていたアウグスト・ファウスト氏とが附き添って馬車で来られた。私は教授の著書はすでに全部読んでいたので、その講義からはあまり新しいものは得られなかったが、この老教授の風貌に接することは哲学というものの伝統に接することのように思われて楽しかった。リッケルト教授のゼミナールは自宅で行なわれた。私はそのゼミナールで左右田喜一郎先生のリッケルト批評について報告したが、教授も左右田先生のことはよく記憶しておられたので、嬉しそうであった。タイプライターで打ってもらっておいたその報告を今は失ってしまったのは残念なことに思う。リッケルト教授のゼミナールにはいつもマックス・ウェーベル夫人が出席していられたが、その時のゼミナールの台本として用いられたのは、ちょうど新たに出版されたウェーベルの『科学論論集』であった。

ハイデルベルクにいた一年あまりの間に私が最もよく勉強したのはマックス・ウェーベルとエーミル・ラスクとであった。ラスクの弟子でその著作集の編纂者であり、後には日本へ来て東北大学で教鞭を取り、『日本の弓術』という本を土産にして今はドイツに帰っているオイゲン・ヘリィゲル氏から私はラスクの哲学を学んだ。私がハイデルベルクにいた時、氏は初めて講師となって教壇に立ったが、前の大戦――この戦争においてラスクはたおれたのである――に従軍したという氏の顔には深い陰影があった。私はヘリィゲル氏のゼミナールでボルツァーノについて報告した。この報告はやがて筆を加えて『思想』に発表した。その時分ボルツァーノの本は絶版になっていて手に入らなかったので、私はリッケルト教授の宅に保管されていたラスクの文庫からその本を借り出して勉強したことを覚えている。ヘリィゲル氏はその頃ハイデルベルクにいた哲学研究の日本人留学生の中心であった。氏を中心として大峡氏や北氏の下宿で読書会が開かれていたが、私もつねに出席した。かようにしてヘリィゲル氏に読んでもらった本の中に、ヘルデルリンの『ヒュペリオン』がある。ヘルデルリンはあの大戦後ドイツの青年たちの間に非常な勢いで流行していたのである。しかし私が当時彼らの精神的雰囲気を作っていたヘルデルリンを初め、ニーチェ、キェルケゴール、ドストイェフスキーなどに深い共感をもって読みふけるようになったのは、マールブルク大学に移って、ハイデッゲル教授について学ぶようになってからのことである。ハイデッゲルの哲学はそのような「戦後不安」の表現であった。その後ハイデッゲルは、ヘルデルリンに基づいて文学を論じている(『ヘルデルリンと詩の本質』一九三六年)。

ハイデルベルクにいた頃、私は日本を出てまだ間もないことで、京都以来の論理主義を離れず、カントやゲーテのドイツ以外のドイツを深く理解することができなかった。ハイデルベルクにはリッケルト教授と並んでヤスペルス教授がいて、ニーチェやキェルケゴールを講義していたが、私は二、三度出席してみただけであった。リッケルトがヤスペルスなどを批判している『生の哲学』(第二版一九二二年)を読んで別に共鳴したわけでもなかったが、ヤスペルスの『世界観の心理学』(第二版一九二二年)を読んでもその面白さは分らなかった。ヤスペルスの哲学の面白さを教えられたのも、やはりマールブルクへ行ってからのことである。要するに私のハイデルベルク時代は哲学的には京都時代の延長であった。私の集めた本にも論理学や方法論に関するものが多かった。

ハイデルベルクの教授でその講義を聴いたのは、リッケルトのほかにエルンスト・ホフマン教授である。哲学以外では、グンドルフの講義に数回出てみたことがある。ホフマン教授はディールスの弟子で、プラトン研究家として知られていた。私はホフマン教授の論文を訳して『思想』に載せたことがある。当時ドイツのインテリゲンチャはインフレーションのために生活が窮迫していたので、いくらかでも原稿料が入れば宜かろうと思って、私はその論文を教授に依頼したのであった。そんな状態であったので若いドクトル連中は皆喜んで日本人のために個人教授をした。ヘリィゲル氏の場合もそうであったが、同じように私が本を一緒に読んでもらった人に、後にやはり日本へ来て大阪高等学校で教鞭をとっているシンチンゲル氏がいる。氏はカッシーレルの所からハイデルベルクに移ってきたということであったが、たしかホフマン教授の紹介で、私はプラトンを読んでもらった。さらにヘーゲル全集を出してその名が広く知られるようになったヘルマン・グロックネル氏がある。氏はその頃リッケルト教授のところに下宿していたようであった。私は羽仁と一緒に氏からヘーゲルの『精神現象学』を読んでもらった。やはり羽仁と一緒に講義をしてもらった人にカール・マンハイム氏がある。マンハイム氏は後に日本へ来て東大の経済学部で教えたことのあるレーデレル教授の仕事を手伝っていた。この人がやがて『イデオロギーとウトピー』という著述によって知識社会学の方面において有名になった。私はこの人から初めてマックス・シェーレルの知識社会学の話を聞いたのであるが、当時その重要性を理解することができなかった。マンハイム氏などの仕事に私が興味をもつようになったのは日本へ帰って来てからのことである。あのドイツにおけるユダヤ人の追放の事件を初めて知った時、私はまっさきに思い起したのはマンハイム氏のことであった。そのほか私が本を読んでもらった人に、そのとき『現象学と宗教』という論文で講師の地位を得たウィンクレル氏がある。氏はウォベルミンの弟子であった。

このようにして私たちは若い学者をいわば家庭教師にして勉強することができた。これも全くインフレーションのおかげであった。ドイツ人の不幸は私ども留学生の幸福であった。今日わが国においてインフレーションの危険の語られるのを聞くたびに、私はあの頃のことを考え、当時のドイツのインテリゲンチャの表情をまざまざと思い浮べるのである。

十二

私の書斎には今マールブルクの町を描いた小さいエッチングが懸っている。これはそこの或る大学生が内職に作って売っていたのを求めてきたのであるが、当時のドイツの学生の多くがどのような経済状態にあったかを想い起させる材料である。ハイデルベルクで一年余を過した私は、マールブルクへ行った。あの関東大震災を大きく取扱った新聞記事に驚かされた時には、私はまだハイデルベルクにいた。その日阿部次郎氏を訪ねて、そのことについていろいろ話したのを覚えている。ハイデルベルクで知り合った誰彼に別れて、私はマールブルクへ行った。この小さい町で多分一人で暮らさねばならないだろうと思って出かけたが、ここでも私は日本から来た留学生の誰彼を見出した。当時はそのようにドイツのたいていの大学町には日本人留学生が多数にいたのである。マールブルクで知った人々には、大谷大学の鈴木弘氏、立正大学の守屋貫教氏、九州大学の四宮兼之氏、今は文部省にいる長屋喜一君があり、山下徳治君が来た。

その頃マールブルクへ行った人々は、哲学の方面ではニコライ・ハルトマンとハイデッゲル、宗教学の方面ではオットーを目差していた。守屋氏や鈴木氏は『聖なるもの』の著者として世界的に有名になったオットー教授を中心としていられたようであり、四宮氏や長屋君はハルトマン教授を目的としていられたようであり、私自身はハイデッゲル教授を目標としていた。というのは、ちょうど私がマールブルクへ行った学期に、ハイデッゲル教授はフライブルクからマールブルクへ招聘されたので、私は主として氏に就いて学ぶためにハイデルベルクから転学したのであった。教育学の研究を目的としていた山下君はナトルプ教授やイェンシュ教授に就いていた。私はナトルプの著書は京都にいた頃いくつか読んで敬意を払っていたが、その講義には山下君に誘われて二、三度出てみたきりであった。その時の講義はやがて『実践哲学講義』として出版されたものと同じ内容であったように記憶する。ナトルプ教授の蔵書が成城高等学校に所蔵されるようになったのは山下君の斡旋によるものである。私が大切にしているデカルトの肖像も、もとナトルプ教授に属していたもので、ある関係から私の手に渡ったものである。

マールブルクに落着くと、私はすぐハイデッゲル教授を訪ねた。その時のことについては、かつて「ハイデッゲル教授の思い出」という短文の中で書いておいた。この訪問において私はアリストテレスの研究を勧められ、ガダマルというドクトルを紹介された。こうして私はガダマル氏の家に通ってアリストテレスを読んでもらうことになった。それは『形而上学』と『ニコマコス倫理学』との中からであった。ハイデッゲル教授のゼミナールでもアリストテレスの『自然学』がテキストに用いられた。なおそのゼミナールで使われた他の書物はフッサールの『論理学研究』であった。教授はフッサールの著書ではこの書物を『純粋現象学及び現象学的哲学考案』よりも重んじていられたようである。これは、一つの思想をその根源的な発現における関心から解釈しようとする教授の哲学的方法にもとづくものである。そんなわけで、私はまた教授の紹介でレーヴィット氏の家に通って、フッサールの『論理学研究』を講釈してもらった。レーヴィット氏は、後にマールブルク大学の講師となったが、ユダヤ人であるというので危険を感じ、日本に来て東北大学で教えていたが、ロックフェラー財団の援助によって、日米間の緊張を予感しつつこの春アメリカへ渡ってしまった。氏はそれ以前にやはりロックフェラー基金によってイタリアへ行っていたことがある。レーヴィット氏と同じ家に住んでいた青年マルセール君というのがあった。どこで覚えてきたのか、碁を知っていて、私にたびたび相手を命じた。よい若者であった。マルセール君もやはり今はニューヨークにいるそうである。今日の国際情勢を眺めて、私はよくこの二人の運命について考えさせられるのである。

ハイデッゲル教授は、その講義の時にも、その演習の時間においても、哲学の古典的著作を抱えて来て、そのテキストのある部分を解釈するというのがつねであった。それにデカルトがあり、カントがあり、アウグスティヌスやトマスなどがあった。私の聴いた講義の中では特にデカルトの『省察録』がよく取扱われた。そのために私もこの本を精読することができた。アウグスティヌスの面白さは西田先生からきかされていたが、ハイデッゲル教授の講義によって興味をそそられ、私もその哲学的論文をラテン語の辞書を頼りに読んでいた。それを知って、下宿していた家の主人が私のためにアウグスティヌスの『告白録』を一緒に読んでくれた。私は牧師の家に下宿していたのである。ティンメという人で、二、三の著書もあり、ルーマニアあたりまで講習に出掛けるということであった。どういうものか私は宗教に縁があって、ハイデルベルクでは石原謙氏の後を継いで、レンメという老教授の家に下宿していた。アウグスティヌスを少し深く勉強してみたいと思って、その頃パリに移っていられた小尾範治氏に頼んで、ミーニュ版の中の『三位一体論』などを送ってもらったこともある。考えてみると、マールブルクにいた間は、意識してやったことではないが、これまで私の最も多くキリスト教的著作を繙いた時であった。ティンメ一家はハイレル一家と親しく、しぜんハイレル教授の話の出るのを聞くことが多く、私もすでに京都にいた時波多野先生から教授の著書について教えられていたので、教授の『カトリチスムス』とか『祈祷』とかを読んでみた。ハイデッゲル教授の時間に、学生にまじっていつも講義を聴いている脚の悪い一人の紳士があった。「あれがブルトマンだ」と学生の一人が私に教えてくれた。ブルトマン教授は思想的には弁証法的神学とつながりをもっているが、ハイデッゲルの哲学にはまたこのものに通ずるところがある。びっこをひきながら教室へ入って来て、熱心に同僚の講義を聴いているブルトマン教授の面影が今の私の眼に浮かんでくる。その後出版された教授の『イエス』という書物を私は深い感銘をもって読んだ。事実、これは小さな本ではあるが、すぐれたものであると思う。ハイデッゲル教授やレーヴィット氏の話をきいて、私は弁証法的神学に興味をもつようになり、バルトの『ロマ書』とか『神の言葉と神学』などを繙くようになった。もちろん、オットー教授の『聖なるもの』も読んでみた。その頃教授はやがて『西・東神秘主義』となって現われたような問題を考えておられ、仏教に関心をもっておられたということにもよるのであろう。日本の留学生が好きで、自宅に招いてお茶の会を開かれたりした。私はまたときどきオットー教授に誘われて、ラーン河の向うの小高い丘を一緒に散歩したことがある。

哲学の方面では、ハイデッゲル教授のほかに、ニコライ・ハルトマン教授の講義に出席した。教授もアリストテレスに興味をもっておられて、一度お訪ねした時、しきりにその話をされた。私が出たゼミナールで使われたのはカントの『純粋理性批判』とヘーゲルの『論理学』とであった。教授の『認識の形而上学』は、主観主義の哲学から入って、ラスクの研究によって次第に客観主義に傾きつつあった時分の私には、非常に新鮮で面白く感じられたが、ハイデッゲルの影響を強く受けるようになってから、ハルトマン教授の立場にはあまり興味が持てなくなった。マールブルクでは私はほとんど純粋にハイデッゲル教授の影響を受け容れたといってよいであろう。しかしその後ハルトマンの『倫理学』が出た時、私はこれを読んで再び教授の思想に対する興味を取り戻すことができた。

マールブルクにいる間、そしてその後もときどき文通によって、私の読書を指導してくれたのはレーヴィット氏であった。私は氏によって単に哲学のみでなく、広くドイツ精神史の中に導き入れられた。ディルタイとか、さらにさかのぼってシュレーゲルやフンボルトなどに対して私の眼を開いてくれたのはレーヴィット氏であった。特に氏によって私は当時の多くのドイツの青年をとらえていたあの不安の哲学とか不安の文学の中へ連れて行かれた。私もニーチェやキェルケゴールなどを愛読するようになり、ことにドストイェフスキーの小説を耽読した。その頃のドイツは全く精神的不安の時期であった。ヘルデルリンが流行するかと思うと、一方ではガンディなどが迎えられていた。また学生の間でも右翼と左翼との色彩がはっきり分れ、私どもでさえ外部からそれを見分けることができた。ハイデッゲル教授の哲学そのものもかような不安の一つの表現であると考えることができるであろう。教授の哲学はニーチェ、キェルケゴール、ヘルデルリンらの流行の雰囲気の中から生れたものであり、そこにそれが青年学生の間で非常な人気を集めた理由がある。レーヴィット氏もその時分デンマーク語を勉強して原典でキェルケゴールの研究を始めていた。ヤスペルスやマックス・シェーレルなどを読むことを私に勧めてくれたのも氏であった。氏はハイデッゲル教授と親しく、いわば教授の哲学の材料を材料のままでいろいろ見せてくれたのである。こういう教師というものは実に有難いものである。

十三

マールブルクはドイツの田舎の小さい大学町の一つの典型である。それは山のすそから頂を開いて作られた町で、その裾にはラーン河が流れ、河の向うには丘が続き、森が開かれている。私はよくこの丘や森の中を散歩した。町にはほとんど観るものがなかった。劇場が一つあって、ときどき映画などを観せていたようであるが、私はついに行かないでしまった。町はいつも静かで、落着いていた。ここで暮らした一年間はまた私のこれまでの一生のうち最も静かな、落ち着いていた時期であった。予定した滞在の期限が切れても、私はなかなか去り難い思いであった。どうしようかと迷っていたとき、私の心の中に蘇ってきたのは、深田先生などによって与えられていたフランス文化に対する憧れである。マールブルクにフランス語の会話を教える婦人があるということを聞いて、パリへ出る準備のために、一か月ばかり通った。私のフランス語はほとんど独学であった。高等学校の時代、暁星で朝七時から八時までフランス語の講習をしているのを知って本郷の寄宿寮から通ったこともあるが、なにぶん八時から始まる学校の授業に対して無理をしなければならぬことなので、長くは続かなかった。独学でどうにか本だけは読めるようになったが、日常の会話にはさっぱり自信がなかったのである。

私はマールブルクからパリへ行くことに決めた。そのとき私の手もとにはアンドレ・ジードの小説が数冊あった。これはその年の春ウィーンに旅行したとき、偶然に買ってきたものである。その頃ウィーンには上野伊三郎がいて、しばらく滞在している間に、私はいつものように本屋を歩き廻ったが、先ず目にとまったのは、フランスの本を置いている店があるということであった。これはドイツでは見なかったことである。ウィーンはフランス文化の影響を多く受けていた。久しぶりでフランス書を見るのが懐しくて店へ入ってゆくと、ジードのものがたくさん置いてあるのが目についた。ドイツ書ではドストイェフスキーの独訳本の多いことが注意をひいた。考えてみると、その時分のオーストリアにおいてもまたいわゆる不安の文学が流行していたのである。私はその頃、恥しい話だが、アンドレ・ジードの何者であるかを知らなかった。ともかく彼の本がたくさん並べてあるところをみると、重要な流行作家に違いなかろうと考えて、その幾冊かを求めて鞄の中に入れた。ウィーンからの汽車の中で、私は初めて彼の『インモラリスト』を繙き、何か全く新しいものに接した気がした。マールブルクに帰ってきて、レーヴィット氏にその話をすると、この博識なドクトルはジードについていろいろ話してくれた。そのとき氏からドイツにおける最もすぐれたフランス研究家として教えられた名にエルンスト・クルチウスがある。クルチウスの新著の『バルザック』をぜひ読めと勧められたので、買って読んでみると、なるほど面白かった。その後さらにクルチウスの『新ヨーロッパにおけるフランス精神』という本を見る機会があったが、これもよい本であったように思う。

パリにいた小林市太郎君に下宿の世話を頼んでおいて、ケルンを通ってパリへ出たのは秋の初めであった。小林君は私と同様京都の哲学科の出身なのでかねて知っていたが、現在は大阪の美術館にいて、支那美術の研究を専門にしている。最初パリには長く滞在するつもりでなかった。すでに二か年半をドイツで過していたので、パリには三、四か月もいて、そろそろ帰国の仕度をしなければならないだろうと考えていた。それがとうとう一か年の滞在になってしまった。大都会というものは孤独なものである。孤独を求めるなら大都会のまんなかである。パリの街ではいつも多くの日本人を見た。しかし私が親しくしたのは小林君くらいのもので、それも下宿が離れていたため頻繁には会わなかった。そのほかパリで初めて知り合った友人といえば芹沢光治良君くらいのものである。もっともパリはヨーロッパへ行った者が一度は訪ねる所なので、偶然出会った人は多く、斎藤茂吉氏とか板垣鷹穂君などの名が今記憶に蘇ってくる。エトワルの近くにあった私の下宿は一時、安倍能成氏や速水滉先生の下宿になったこともある。京城大学に法文学部が出来た頃で、そこの教授に任ぜられた人々が洋行した時代であったのである。私の下宿にいられた間、安倍さんはしきりにオイケンの『大思想家の人生観』の改訳をやっていられたことを思い出す。船の中で片付けるつもりであったのが出来なかったから、ということであった。

初めは長く滞在するつもりでなかったので、私は今度は大学に席を置かなかった。パリ見物の傍ら、私は小学校の女の先生を頼んでフランス語の日用会話の勉強を続けた。耳の練習に少し自信ができたので、これも見物の一つのつもりでソルボンヌの公開講義に出掛けて、哲学者のブランシュヴィク教授を数回聴いたことがある。私がテーヌをしきりに読んだのはその頃のことである。「ほう、テーヌを読んでいるのか」と教えに来た女の先生に驚かれたものだ。どうして特にテーヌを読んだかというと、京都時代に主として勉強した歴史哲学の影響である。ハイデルベルクにいた時にも羽仁に会うとよくテーヌの話が出たように思う。またアナトール・フランスの小説が面白くてその頃しきりに読んだことは、すでに書いたとおりである。ジードにしても、アナトール・フランスにしても、フランスの作家の中で外国人好きのする作家であるといえないであろうか。作家のうちには本国においてよりも外国においてはるかに好まれる種類の人があるのである。パリの下宿でほかに私が愛読したものといえば、ルナンであったであろうか。

そうしているうちに私はふとパスカルを手にした。パスカルのものは以前レクラム版の独訳で『パンセ』を読んだ記憶が残っているくらいであった。ところが今度はこの書は私を捉えて離さなかった。『パンセ』について考えているうちに、ハイデッゲル教授から習った学問が活きてくるように感じた。そうだ、フランスのモラリストを研究してみようと私は思い立ち、先ずパスカルの全集、モンテーニュの『エセー』、ラ・ブリュイエールの『カラクテール』等々を集め始めた。ヴィネの『十六、七世紀のモラリスト』を読んで、いろいろ刺戟を受けた。私の関心の中心はやはりパスカルであった。そうだ、パスカルについて書いてみようと私は思い立ったのである。マールブルクにおけるキェルケゴール、ニーチェ、ドストイェフスキー、バルト、アウグスティヌス、等々の読書が今は活きてくるように感じた。ストロウスキーの『パスカル』、ブトルーの『パスカル』等々の文献を集めて読み始めた。『パンセ』は私の枕頭の書となった。夜ふけて静かにこの書を読んでいると、いいしれぬ孤独と寂寥の中にあって、ひとりでに涙が流れてくることもしばしばあった。原稿用紙を持っていなかったので、洋罫紙に向って私は先ず「パスカルにおける人間の分析」という論文を書いた。かようなものが哲学の論文として受取られるかどうかについて不安を感じながら、私はそれを『思想』に送った。そしてさらに続けて私のパスカル論を書いていった。こうして出来上ったのが『パスカルにおける人間の研究』であり、大正十五年に私の処女作として出版されるようになった。その中の最後の一章は、日本へ帰ってきてから京都で書いたものであるが、他の部分はパリの下宿で出来たものである。私の処女作出版は失敗であった。当時岩波書店の卸部にいた坂口栄君が後に私に話したところによると、あの時分岩波の本で、小売屋に出してあんなに多くの返品があった本はないということである。それは当然であった。私はもとより無名の書生であったし、パスカルといえば専門家を除き一般の読者においては中学校の数学の時間にパスカルの定理というものを習った記憶があるだけで、そのパスカルと『人間の研究』――こういう言葉も当時の読者には全く親しみのないものであったであろう――との間にどのような関係があるのか、理解できないことであった。そしてそれはまた当然であるのだ。パスカルというのはそのように不思議な存在なのである。もちろん、現在では事情が変っている。『パンセ』を初めパスカルのいくつかの作品が翻訳され、広く読まれている。私のパスカルもその後徐々に読者を見出すようになり、今も版を重ねている。出来不出来は別として、処女作の出版というものは著述家にとってつねに懐しい思い出である。

パスカルやモンテーニュから入って、私はフランス哲学に対して次第に深い興味をもつようになった。それもさかのぼると、西田先生の著書や講義でメーヌ・ドゥ・ビランなどという、当時わが国ではあまり知られていなかった哲学者のことを知らされて、未知のものに対する憧れを感じたことに由来するであろう。私はいつも未知のものに対して憧れてきた。マールブルクからパリへ、永らく考え慣れたドイツ哲学の土地を離れて出て来たのも、未知のものに対する憧れからであった。西田先生は近年ことによくフランス哲学の研究をひとに勧められていたようである。パスカルについて書いているうちに、次に書いてみたいと考えたのはデカルトであった。その時分シュヴァリエの『パスカル』および『デカルト』を読んで、その明晰な叙述から利益を受けたが、それに影響されたというものであろうか。この次はデカルトについて書くとたびたび友人に話し、一度は私のデカルト研究というものの予告が書肆の広告にも出たくらいであるが、いまだに実現しないでいるのは恥しいことである。――今度『文学界』にデカルト覚書の連載を始めたのも、いつまで続けられるか分らないことではあるが、せめて当座の埋合せにしたいためである。――パリの下宿で描いていた夢をすぐに実現するにしては全く違った事情がやがて帰って来た日本においては存在していたのである。しかしマールブルク以来私の経験したいわゆる不安の哲学とか不安の文学とかが数年後には日本においても流行するようになった。それが数年後であったということは当然であった。なぜならそれが来るためにはフランスやドイツにおいて見られたように一つの要素、すなわちマルキシズムの流行が先ずなければならなかったからである。それが順序である。そう考えてくると、思想の流行というものにも何か必然的な法則があるように思われるのである。

(『文芸』一九四一年六月―十二月号)

著者: