読書遍歴 (三木 清)

考えてみると、私の高等学校時代はこの前の世界戦争の時であった。「考えてみると」と私はいう、この場合この表現が正確なのである。というのはつまり、私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみでなく多くの青年にとってそうではなかったのかと思う。そう考えると、日露戦争の時、戦争を知らないで研究室の生活を続けていた大学者があるという嘘のようなことも、十分あり得ることであったろうと思われる。私があの世界戦争を直接に経験したのはむしろその後一九二二年ヨーロッパへ行った時である。これは現在の戦争とは全く様子が違っていることである。近代戦争というものはリアリスティックになっている。近代戦争のこの性質はあらゆる人をその中に引き入れて何人も圏外に立つことを許さないというところに率直に現われる。その意味においてそれは全くメカニカルな必然性をもっている。これに反して以前は戦争にしても有機的なものであった、あるいはロマンティックであった。もちろん現在も戦争には何らかロマンティシズムが必要であろう。それにもかかわらず近代戦争は本質的にリアリスティックなものである。近代戦争のこの性質について深く考えてみるのは極めて重要なことである。

あの第一次世界戦争という大事件に会いながら、私たちは政治に対しても全く無関心であった。あるいは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのはかえってあの「教養」という思想である。そしてそれは政治というものを軽蔑して文化を重んじるという、反政治的ないし非政治的傾向をもっていた、それは文化主義的な考え方のものであった。あの「教養」という思想は文学的・哲学的であった。それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術とかいうものは「文化」には属しないで「文明」に属するものと見られて軽んじられた。言い換えると、大正時代における教養思想は明治時代における啓蒙思想――福沢諭吉などによって代表されている――に対する反動として起ったものである。それがわが国において「教養」という言葉のもっている歴史的含蓄であって、言葉というものが歴史を脱することのできないものである限り、今日においても注意すべき事実である。私はその教養思想が擡頭してきた時代に高等学校を経過したのであるが、それは非政治的で現実の問題に対して関心をもたなかっただけ、それだけ多く古典というものを重んじるという長所をもっていた。日本における教養思想に大きな影響を与えたのはケーベル博士であって、その有力な主張者たちは皆ケーベル博士の弟子であった。かようにして私もまた一高時代の後半において比較的多く古典を読んだのである。ダンテの『神曲』とかゲーテの『ファウスト』など、むつかしくて分らないところも多かったがともかく一生懸命に読んだものである。『ファウスト』はドイツ語の時間に今は亡くなられた三並良先生から教わったこともある。その試験にドイツ文でファウスト論を書けという課題が与えられたが、私はその中に出てくるワグネルという人物について論じた。それがよく出来ていたというので賞められ、そんなことから三並先生には特別に親しくしていただくようになったというようなこともあった。特に影響されたものというと、ニーチェの『ツァラツストラ』であったであろうか。後に単行本になった阿部次郎氏の『ツァラツストラ解釈』も『思潮』に出ていたころ熱心に読んだものの一つである。古典という観念に影響された私の読書の範囲も量も、その頃の私の貧弱な読書力からいって、勢い局限されざるを得なかった。日本の文学では、その頃から次第に読書階級の間に動かしがたい地位を占めてきた漱石のものを比較的多く読んだように思う。これも当時の教養思想の有力な主張者たちの多くがまた漱石門下であったということにしぜん影響されたのであろう。ともかく高等学校時代、私は決して多読家ないし博読家でなかった。その時分私どもの仲間で読書家として知られていたのは蝋山政道君であった。何でも蝋山君は、大隈重信が会長であった大日本文明協会というので出していた西洋の学術書の翻訳を全部読んでいるというような噂であった。今でも蝋山君を見ると、あの頃毎日学校の図書館へ通っていた姿が眼に浮んでくることがある。

その時代私の読書における一つのエピソードは、塩谷温先生――その御尊父青山先生から私どもは学校で漢文を習った――のお宅に伺って『資治通鑑』を読むという小さな会に参加したことである。この会の中心は私より一級下の倉石武四郎君であった。倉石君は現在京大の支那学の教授であるが、先だって同君からその著書『支那語教育の理論と実際』という本をもらって、ふとこの読書会のことを思い出した。会員は倉石君のほか、松山高等学校にいる川畑思無邪君、東京の諸大学でインド哲学を講じている山本快竜君、そして私のクラスからは寺崎修一と私とが加わったように思う。私たちは一週一回、寮の夕食がすむと、小石川の塩谷先生のお宅まで歩いて行った。本読みがすむと、いつも焼芋が出て雑談になったのを覚えている。あの頃から倉石君は実によく漢文を読むことができた。おとなしいうちにも何か毅然としたものをもっている人であったが、その倉石君が近年漢文を返り点によって日本読みにすることに反対してそのまま支那音で読み下すべきことを主張し、支那語教育のためのレコードを作ったりなどしているのは、面白いことである。

読書会といえば、高等学校三年生の時、私が先に立って哲学の読書会を組織したことがある。ヴィンデルバントの『プレルーディエン(序曲)』の中の『哲学とは何か』を速水滉先生に願って読んでいただいたのである。会員は二十名くらいであったであろうか。その頃は世界戦争の影響でドイツ書を手に入れることができなかったので、謄写版刷りを作ってテキストにした。その時分私は大学に入ってから哲学をやることに決めていた。久しく迷っていた私にその決心をさせたのは西田幾多郎先生の『善の研究』であった。しかしそのことについては他の場所で書いておいたから、ここではもう繰り返さないことにする。宮島鋭夫に連れられて桑木厳翼先生を初めてお訪ねしたのもその頃であった。宮島は後に東大の哲学科に入った。永い間病気ばかりしていてまことに気の毒であったが、昨年とうとう死んでしまった。その通知をもらって後、桑木先生に会ったら宮島の話が出たので、あの時のことの記憶を新たにしたわけである。高等学校を卒業する前、彼からもらったレクラム版のショーペンハウエルの全集は、私にとって貴重な記念である。当時宮島はショーペンハウエルに傾倒していた。彼ばかりではない、その時代の青年がたいていそういう風であったのである。

日本における哲学書の出版に新しい時期を画した岩波の『哲学叢書』が出始めたのは、その頃のことである。私なども紀平正美氏の『認識論』とか宮本和吉氏の『哲学概論』とか、分らないながら幾度も読んだものである。速水先生の『論理学』は、学校における先生の講義の教科書であった。つまり私の哲学の勉強は岩波の哲学叢書と一緒に始まったのである。高等学校の時、その方面で私がいちばん多く読んだのは心理学と論理学との本であった。大学へ行ってから哲学を専攻する者は高等学校時代には論理と心理とをよく勉強しておかねばならぬと私どもの仲間で一般にいわれていたので、その本を特に読んだわけであるが、それはまた私の場合速水先生の感化によることでもあった。一高の先生で私が最も多く影響を受けたのは速水先生である。先生の『現代の心理学』という本は私の熱心に繙いたものの一つであり、非常によい本であったように記憶している。哲学を専攻する者は何でも原書で読む稽古をしておかねばならぬとまた私どもの仲間でいっていたが、その原書は、戦争のためにドイツのものが来なくなっており、主として英書を読まねばならなかった。そしてまた哲学はドイツに限るようにきかされていたので、英語のものを読むとすればしぜん心理や論理の本を読むということにもなったのである。当時の一高生はよく本郷から日本橋の丸善まで歩いて行ったものであるが、そうして買って読んだ本で、今も私の手許に残っていて懐しいものに、ジェームズの『心理学原理』、ミルの『論理学体系』などがある。しかしその時代は何といってもわが国の思想界ではドイツの学問が圧倒的であった。心理学の方面でもヴントの名が最も喧しかった。私も速水先生の訳されたヴントの小さい心理学を初め、須藤新吉氏のヴントの『心理学』などを読み、また古本屋でヴントの『心理学綱要』の原書を見つけてきて勉強した。哲学の方面でもその頃からヴィンデルバントを初め新カント派の哲学が次第に一般の流行になりつつあった。ある時、三並先生を柏木のお宅に訪ねたら、哲学をやるにはカントを研究しなければならず、カントを研究するにはコーヘンのカント論を読まねばならぬといって、マントルピースの上に置いてあったコーヘンの三つのカント書を見せて下さった。そのような時代であったので、戦争のためにドイツの本が来なくなると日本の学問は衰えるというような論も行なわれた。そのことを公然と述べた人があってだいぶん問題になったこともあったが、たいていの学者は心中実際にそのように考えているのではなかったかと思う。ともかく第一次世界戦争が私に直接の影響として感じられたのは、ドイツ語の本が手に入らないということくらいであった。現在では全く想像もできないようなことである。

大学生活の三年間、私は下鴨の同じ一つの下宿で暮らした。それは蓼倉町で、その頃はまだ附近に余り家が建っていなかったので、室を出るとすぐ前に比叡山を見ることができた。九月のなかば初めてその下宿に行ったとき、葉鶏頭の鮮かな色がきわめて印象的であったが、その家では毎年美しい葉鶏頭を作っていた。私はその下宿を「雁来紅の家」と自分ひとりで呼んでいた。今でも葉鶏頭を見ると、八田といったその下宿のことが思い出されるのである。同じ年京都の哲学科に入ったのは私と広島高等師範を出た林礼二郎(旧姓森川)との二人であったが、やがて森川も私の下宿に移ってきて、私と同様卒業するまでそこに留まった。私たちはたいてい一緒に加茂の森を抜けて学校へ通った。

大学時代に読んだもので最も大きな影響を受けたのはいうまでもなく西田幾多郎先生の著作である。ちょうど私の入学した年の秋『自覚における直観と反省』が本になって出た。続いて先生は『哲学研究』誌上に多くの論文を発表してゆかれた。私は先生の書かれたものを読むと共に、その中に引用されている本をできるだけ自分で読んでみるという勉強の仕方をとった。あの時分の先生の論文の中には実にいろいろの書物が出てくるのであるが、私の哲学勉強もおのずから多方面にわたった。先生は種々の哲学を紹介されたが、ひとたび先生の手で紹介されると、どの本もみな面白そうに思われ、読んでみたい気持を起させた。かようにして私は、カントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学を初め、バーデン学派やマールブルク学派の新カント哲学、マイノングの対象論、ブレンターノの心理学、ロッツェの論理学、等々、いろいろのものを読んでみることに心がけた。アウグスティヌスやライプニッツの名も挙げておきたい。何を最も多く読んだかときかれるなら、私は二年生の時のリポートにライプニッツについて書き、卒業論文は『批判哲学と歴史哲学』という題でカントについて書いたので、この二人のものは比較的多く読んだといえるであろう。しかし何を特別に勉強したというほどのことはなく、ただ西田先生の後を追うていろいろの本を読んだというのが、大学時代三年間における私のおもな勉強であった。

かようにして読んだ本のうちでも何か深く影響されたものがあるとすれば、それは新カント派の哲学であった。しかしそれも、意識的にではなく、むしろ知らず識らずそういうことになっていたのである。ある時の哲学会の例会で、私どもの先輩であった土田杏村氏が話をされた後で、私は質問をした。何の問題であったか記憶していないが、土田氏と私との議論になってしまい、なかなか終りそうになかった。そこで土田氏が、会に出ていられた西田先生を顧みて「先生、どうですか」と尋ねると、先生は「君の考えは現象学のようなもので、三木の考えは新カント派のようなもので、どちらがよいか、むつかしい問題だ」という意味のことを答えられた。先生からそう言われて初めて私は自分の考えが新カント派的であることに気づいて、いつのまにか深くその影響を受けていたのにむしろ驚いたことである。

私がかように新カント派の影響を受けたのは、高等学校の時の読書会でヴィンデルバントを読んだことが素地をなしていたのであろうが、その時代のわが国の哲学の一般的傾向にも関係があったであろう。すでにいったごとく私が大学に入学した大正六年は、西田先生の画期的な書物『自覚における直観と反省』の現われた年であるが、やはりその年に桑木厳翼先生の名著『カントと現代の哲学』が出ている。これはカント哲学への入門書として私の熱心に読んだ本であった。その前年には朝永三十郎先生の名著『近世における「我」の自覚史』が出ている。私は一高にいてこの本を感激をもって読んだのであるが、その立場は新カント派である。そしてやはり大正六年の暮にはリッケルトの弟子であった左右田喜一郎先生の名著『経済哲学の諸問題』が出ている。これも私には忘れられない本である。左右田博士の影響によって、その頃からわが国の若い社会科学者、特に経済学者の間で哲学が流行し、誰もヴィンデルバント、リッケルトの名を口にするようになった。日本における新カント派の全盛時代であった。

私は左右田先生の本を読んで、哲学が広く他の諸科学に交渉をもたねばならぬことを考えるようになった。経済学者などの書くものに私が注意を向けるようになったのはその時以来のことである。当時そうした本で最も印象に残っているのは、小樽高等商業学校の教授で、その才を惜しまれつつ若くして亡くなった大西猪之介氏の『囚われたる経済学』である。後に左右田博士の斡旋で『大西猪之介経済学全集』が出た時、私も求めて所蔵している。左右田先生は、私が大学院にいた頃、京都に講義に来られたことがあるが、その時初めて先生にお目にかかり、その学問に対する純粋な愛に深く打たれた。その後私はドイツに留学した時、リッケルト教授のゼミナールに出席し、左右田博士のリッケルト批評について報告したことがあるが、リッケルト教授も左右田博士も共に喜ばれた。そんなことから左右田先生とつながりができ、先生が亡くなられて後にも、先生の愛弟子であった本多謙三君と親しくしていたが、その本多君も前途を嘱目されつつ先年亡くなってしまったのは惜しいことである。ところがまた私は、やはり先生の愛弟子まなでしである杉村広蔵君の隣に住み、親しく交るようになったというのも、左右田先生につながる因縁であろうか。

京都大学の諸先生からはいずれもいろいろ影響を受けたが、中にも私が入学したのと同じ年に波多野精一先生が東京から宗教学の教授になって来られたのは、私にとって仕合わせなことであった。先生の名は『西洋哲学史要』、『スピノザ研究』、『キリスト教の起源』などの著書を通じて知っていたが、その頃先生の思想も新カント派に近かったようである。先生は最もプロフェッサーらしいプロフェッサーであった。私は先生から歴史研究の重要なことについて深く教えられた。また西洋哲学を勉強するにはそのいわば永遠の源泉であるギリシア哲学とキリスト教とをぜひ研究しなければならぬということをさとされたのも先生であった。その影響で私はギリシア語の勉強を始め、辞書と首引きでプラトンを読んだり、またキリスト教の文献に注意するようになった。これまでの自分を振返ってみると、私は考え方の上では西田先生の影響を最も強く受け、研究の方向においては波多野先生の影響を最も多く受けていることになるように思う。私の勉強が歴史哲学を中心とするようになったこと、あるいはアリストテレスなどの研究に興味をもつようになったこと、またパスカルなどについて書くようになったことは、その遠い原因は波多野先生の感化にあるといえるであろう。

二年生の時、田辺元先生が東北から東京へ来られたことも、私の成長にとって重要なことである。ドイツ観念論の哲学について理解を深めることができたのは先生のおかげである。私は先生に就いて自分の考えを鍛えていただいた。今は亡き深田康算先生からはさらに別の影響を受けた。深田先生はケーベル博士の伝統を最も純粋に継がれた方で、私は先生において真の教養人に接することができた。その頃先生は特にフランスのものに興味を持たれていたらしく、お訪ねすると、テーヌとかアナトール・フランスとかジョルジュ・サンドとか、フロベールとか、ブリュンティエールとか、いろいろフランス人の話が出るのがつねであった。その時分、私の読書の範囲は主としてドイツの哲学書であって、広くフランスのものにまで手が廻らなかったが、フランスの文学や思想に憧憬を感じ、外国に留学した時にもパリに行くことを考えたのは、深田先生の感化によることである。

私の青年時代は日本の文学や思想において自然主義に対する反動もしくは自然主義の克服としてヒューマニズムが現われた時代であった。私はその流れの中で成長したのである。このヒューマニズムというものの意味は広く、種々の形をとって現われた。そして私はそのすべてから多かれ少なかれ影響を受けた。

それは先ず教養という観念を作り出した。その方向において私は高等学校のとき阿部次郎氏の著書から影響されたが、大学時代になると、波多野先生や深田先生の講義、特にその談話とその人格から大きな感化を受けた。両先生のお宅へはしばしば伺ったが、いつも親しくくつろいでいろいろ話していただくことができたのは私の学生生活における楽しい思い出である。

次にこのヒューマニズムは一層宗教的な形をとって現われた。西田天香氏の一灯園の運動とか倉田百三氏の文学がそれである。私もその影響を受けたが、私にとってはその影響は一時的であった。

第三の方向は白樺派で、武者小路実篤氏の新しい村の運動がある。私の友人でやはり京都の哲学科に来ていた一高出身の谷川徹三、日高第四郎、学習院出身で美学を専攻していた園池公功らは白樺派の人々に接近していたので、私も誘われて、新しい村の講演会を聴きに行ったこともある。武者小路氏の文学は以前から好きで読んでいた。有島武郎氏がホイットマンをしきりに言われていたのもその頃で、有島氏はその時分京都の同志社大学にときどき来て講義をされていた。谷川らに誘われて有島氏の宿を訪ねたこともある。私も一時は有島氏の熱心な読者であった。やはり一高から来ていた小田秀人も白樺派に傾倒していた。有島氏に接近していた人に、さらに一高から来て京都の経済科にいた八木沢善次があった。その頃有島氏は次第に人道主義的社会主義に移りつつあったが、京都の経済科の河上肇博士はもとの伊藤証信氏の無我愛に熱中されたことがあるというが、その頃はまだ人道主義的社会主義を多く出なかったようである。いずれにしてもヒューマニストの関心が社会問題に移っていったのは注目すべきことであった。

第四に、このヒューマニズムの傾向は学究的な人々の間で「教養」という観念から「文化」という観念に変り「文化主義」などという言葉もできた。新カント派の価値哲学、文化哲学がその基礎になったのであって、桑木先生とか左右田先生とかがその代表者であった。その頃「文化住宅」とか「文化村」とかいう、大正時代の一つの象徴である安価な文化主義が、哲学者たちの意図とは別に、流行になっていた。

思想の方面においてはヒューマニズムの流れはさらに別の方向をとって存在していた。新カント派が全盛になる以前、広く流行したオイケン、ベルグソンの「生の哲学」がそれであったと見られるであろう。生の哲学の流れは新カント派が隆盛を極めてからもわが国には根強く存在していたのであって、西田先生の哲学などもそれに属するといい得るであろう。

私自身はその頃どちらかというと学究派であった。オイケン、ベルグソン時代にも私はその圏外に立っていた。しかし私は西田先生の影響を通じて生の哲学につながっていた。ベルグソンは学校の演習で西田先生から『創造的進化』を習ったのを初め、その著書を読んだが、オイケンのものはほとんど何も読まないでしまった。ベルグソンの面白さは近年になって分るようになったが、オイケンはその後もほとんど読まず、読み始めても中途でやめてしまった。一高から京都へ来た私の友人には、谷川徹三、林達夫、小田秀人など、文学派が多かった。もっとも林は少し違っていて、深田先生や波多野先生らの教養を理想としていたようであったが、谷川や小田は思想的にも生の哲学に属していて、私もある程度それに影響された。大学三年生の時、私は一年近くかなり熱心に詩を作ったことがある。生の哲学の方面で私が最もよく読んだのはジンメルであった。彼の哲学が文化哲学や歴史哲学に最も多く触れているためであった。

大正九年、大学を出ると、私は大学院に席をおいた。私の研究のテーマは歴史哲学であった。元来私は歴史は好きであったが、そのころちょうど日本の歴史学にも活発な動きが認められ、私の研究もそれに刺戟された。この動きは私の眼には二つの方向に現われた。その一つはいわゆる政治史から文化史への動きである。ドイツの史学界で盛んに闘わされた「政治史か文化史か」という議論は日本にも移され、歴史の新しい方向および方法として、政治史に対する文化史が主張された。中にも和辻哲郎氏の活動が私ども一般の青年には際立って見えた。ランプレヒトの『近代歴史学』が和辻氏によって翻訳されて現われた。それは私の卒業の前年の晩秋のことで、自動車事故のため松山病院というのに入院していた時、見舞に来て下さった田辺元先生からその新刊の本をいただいたので、私は今でもよく記憶している。和辻氏の著書『古寺巡礼』(大正八年)や『日本古代文化』(大正九年)は新鮮な印象によって広く読まれたが、私も興味深く感じた。しかしその頃京都大学で内田銀蔵先生が専門家として日本経済史その他の方面で立派な仕事をしていられたのにあまり注意しないでいたことを、私は後悔している。第二の動きは世界史への方向である。これは私には一層影響の多いものであった。特に坂口昴先生の『世界におけるギリシア文明の潮流』(大正六年)は私にとって忘れ難い書物である。先生の『概観世界史潮』が出たとき、私は『哲学研究』に紹介を書いたのを覚えている。大学院の学生として、先生のルネッサンス時代のイタリア史の講義を聴いたことも一つの思い出である。私はまた波多野精一先生から世界史的な見方について多くを学んだ。当時京大の文科には内田先生や坂口先生のほか、内藤湖南、原勝郎、三浦周行らの諸先生がいられて、まさに史学科の全盛時代であった。自分の専攻していた学科にもよるが、坂口先生以外、直接に就いて学ぶことをしなかったのは、惜しいことであったと思う。近来それら諸先生の著書を繙く機会のあるたびにその感を深くするのである。

その頃日本の哲学界においても次第に歴史哲学の問題が関心され始めていた。これは主としてヴィンデルバント、リッケルトらの新カント派の影響によるものである。したがって当時歴史哲学として問題にされたのは、主として歴史的認識に関する方法論、認識論の形式的論理的問題であって、ヘーゲルが考えたような世界史の哲学としての内容的な歴史哲学ではなかった。ディルタイの仕事の意味なども、まだ一般には十分に認識されてはいなかった。私も新カント派に導かれて歴史哲学の研究に入ったのである。ヴィンデルバントの『プレルーディエン』、リッケルトの『自然科学的概念構成の限界』や『文化科学と自然科学』などから始めて、ジンメルの『歴史哲学の諸問題』等、またトレルチのやがて『歴史主義とその諸問題』に収められた論文を雑誌で探して、勉強した。特にトレルチのものが身になったように思う。その時分メーリスの『歴史哲学教科書』が評判になって、読みたいと思い、学校の研究室へ借りに行ったが、いつも誰かがすでに借り出していて見ることができず、だいぶんたってから、外国に注文しておいたのがやっと手に入って、読んでみるとそのつまらないのにがっかりしたことがある。評判の本が必ずしもよいとは限らない一つの例である。評判になるというにはいろいろ理由があるので、内容の質にばかりよらないのである。ディルタイの『精神科学概論』も読んでみたいと思いながら、絶版になっていて、なかなか見ることのできなかった本であった。後にドイツに留学した時、ベルリンで初めて本屋をのぞいたとき、この本の新版が出ているのを見つけて無性に嬉しくなり、ホテルの一室で読みふけったことを今思い出すのである。歴史家の書物では、その時分、ランプレヒト、ブルクハルト、ランケなどの諸著を繙いた。

日本における新カント主義は、日本の社会の現実の事情に相応して、特殊な性質のものであった。純粋な新カント派といい得るのは、経済学者で哲学者そして銀行家であった左右田喜一郎先生くらいであろう。そのほかなお桑木厳翼、朝永三十郎の両先生を純粋な新カント主義者に加え得るであろうか。一般には、新カント派を通じてカントに還ることによって同時にカント以後のいわゆるドイツ浪漫主義の哲学に結びつくという傾向が濃厚であった。言い換えると、新カント派の認識論的立場に止まらないで形而上学に行くという傾向が非常に根強く存在していたのである。これは、社会的に見ると、日本においては資本主義とか自由主義とかが純粋に発達しなかったといわれる事情に相応すると考えることができるであろう。ともかく私自身、歴史哲学の研究においても、新カント派から出発して、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ浪漫主義の哲学に進んでいった。シェリングの哲学には特別の親しみを感じていた。シュライエルマッヘルの『宗教的講演』や『独語録』は感激をもって読んだ。そこに青春の浪漫的心情の満足を求めようとしたということもあったであろう。

しかしその頃、私が学園で平和な生活を送っている間に、外の社会では大きな変動が始まっていた。あの第一次世界戦争を機会として日本の資本主義は著しい発展を遂げたが、私の大学を卒業した大正九年は、それが未曽有の大恐慌に見舞われた年として記憶される年である。このような変化に応じて思想界にも種々新しい現象が現われた。大正七年の末、東大には新人会という団体が出来た。『改造』――すでにこの名が当時の社会にとって象徴的である――が創刊されたのは大正八年のことであったと思う。同じ年にまた長谷川如是閑、大山郁夫氏らの『我等』が創刊されている。主として『中央公論』によった吉野作造博士の活動が注目された。これらの雑誌は私も毎月見ていたので、ある大きな波の動きが私にもひしひし感じられた。京都はまだ比較的静かであったが、『貧乏物語』で有名になられた河上肇博士が次第に学生たちの注意を集めていた。

このような動きに対して私は無関心ではなかったが、その中に入ってゆく気は生じなかった。また一灯園や「新しい村」の運動にも十分に興味がもてなかった。私はなお数年間、いわば嵐の前の静かな時を過したのである。当時私は古典派ないし教養派であり、ギリシア悲劇などしきりに読んでいた。グロートの『ギリシア史』を繙き、ブルクハルトの『イタリア文芸復興期の文化』を読み、ダンテとかリオナルド・ダ・ヴィンチとかに心を惹かれていた。そういう点で私は林達夫と最もうまが合った。京都時代を通じて文学書のうち私の最も熱心に読んだのは詩であったであろう。その頃有島武郎氏らの影響でホイットマンが流行していたが『草の葉』は私にも忘れられない詩集である。ヴェルレーヌ、ボードレール、ヴェルアーランなど、ゲーテやハイネなど、みな好きであったが、私の特に愛したのはジャムであった。日本の詩人では、白樺派の影響もあったであろう。千家元麿が好きであった。先だって東北へ旅行した時、改造文庫の『千家元麿詩集』を車中にたずさえ「車の音」などという詩を読んで、あの頃のことを懐しく想い起した。宗教書はいつも何か読んでいたが、当時最も深い感銘を受けたのは、フランチェスコの『小さき花』である、ヨルゲンセンのフランチェスコ伝を訳した久保正夫氏――天随氏の令弟――が東京から京都の大学院へ移って来て、私たちの仲間に加わったが、その久保氏もすでに亡き人である。

大学を卒業すると同時に私は下鴨から北白川に下宿を変えた。その北白川の下宿に、その頃『改造』の特派員として京都に滞在していた浜本浩氏がよく訪ねて来た。雑誌に原稿を書けということであったらしかったが、私は貧乏をしていたけれども、そのような気持はなく、浜本氏も強いて主張しなかった。原稿を書いて銭にするというような考えは私にはなかったが、これは私ばかりでなく、あの頃の学徒はたいていそうであったので、近頃とは世の中も青年学徒の考え方もよほど違っていた。北白川の下宿に訪ねて来た人で忘れられないのは三土興三――忠造氏の令息――である。三土は非常な秀才で、人間としてもなかなか変っていて、私はその将来のおそるべきことを感じた。その三土が後に大村書店から出た『講座』という雑誌にキェルケゴール論を書いたきりで自殺してしまったのは惜しいことであった。

すでにいったごとく、東京では新しい時代が活発に動いていたが、京都はまだどこかのんびりしたところがあった。ベートーヴェン通をもって任じていた久保氏が来てから、私たちの仲間では音楽を語ることが盛んになった。日高第四郎君なども非常なベートーヴェン崇拝者であった。そうした影響で、私はロマン・ローランの『ベートーヴェン』を読んでこの作家に親しむようになり、その『ミケランジェロ』や『トルストイ』を読み、さらに『ジャン・クリストフ』に手をつけた。ベートーヴェンで思い出すのは、ハイデルベルクの初めの下宿の主婦がドイツ語の勉強のために紹介してくれたドクトル――その名は忘れてしまった――がまたベートーヴェン研究の専門家で、ドイツ語の稽古にベートーヴェンの文章を使用するという、いささか無法なことをするほどベートーヴェンに熱中していたことである。しかしそのおかげで買ったベートーヴェンの手紙や文章、同時代人の記録を編輯したアルベルト・ライツマンの二巻の『ベートーヴェン』は、今も私は愛蔵している。ベルリオーズの書簡なども、久保氏の勧めで当時面白く読んだものである。久保氏は私たちの仲間で博識家として知られていたが、私がフランスの書物を多く読むようになったのは、深田康算先生とこの久保氏との影響であった。あの頃読んだもので特に思い出すのはポール・グゼルの録したロダンの言葉である。後に叢文閣から高村光太郎氏の編訳で『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』が出た時、私は早速求めたが、当時を思い出したためである。フロベールの書簡は、深田先生が、お訪ねすると、いつも面白いと話されるので、私も読んでみたが、なるほど面白かった。深田先生はまた、アナトール・フランスが好きであったようで、お訪ねするとやはりその話がよく出たものである。その頃私の見たのは『エピクロスの園』くらいであったが、後にパリの下宿で一時アナトール・フランスのものばかり読みふけったことがあるのは、深田先生の話がいつか私の頭に染みていたせいもあるであろう。その下宿は知らずしてアナトール・フランスの家の近くにあったが、ちょうど私のパリにいた時に彼は死んで、私は安倍能成氏と一緒にその葬式に行った。何かの因縁というものであろうか。そういうわけで、今は亡き深田先生のことを思い出す場合、アナトール・フランスを連想することが多いのである。

私の生涯にもやがて新しい変化が来た。学校を出てから二年間、大谷大学、ついでまた竜谷大学で哲学の講師をしていた私は、外国へ旅立ったのである。

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