読書遍歴 (三木 清)

今日の子供が学校へも上らない前からすでにたくさんの読み物を与えられていることを幸福と考えてよいのかどうか、私にはわからない。私自身は、小学校にいる間、中学へ入ってからも初めの一、二年の間は、教科書よりほかの物はほとんど何も見ないで過ぎてきた。学校から帰ると、包を放り出して、近所の子供と遊ぶか、家の手伝いをするというのがつねであった。私の生まれた所は池一つ越すと竜野の町になるのであるが、私は村の小学校に通い、その頃の普通の農家の子供と同じように読み物は何も与えられないで暮らしてきた。父の代になってからは商売はやめてしまったが、今でも私の生家は村でも「米屋」と呼ばれているように、その時分はまだ祖父が在世していて、米の仲買をやり小売を兼ね、またいくらか田を作ってもいた。村の人々と同じに暮らして目立たないことが家の生活方針であり、私も近所の子供と変らないようにしつけられた。中学に通うことになってからも、私はつとめて村の青年と交わり、なるべく目立たないように心掛けた。私は商売よりも耕作の手伝いが好きであった。つまり私は百姓の子供として育ったのである。雑誌というものを初めて見たのは六年生の時であったと思う。中学の受験準備のための補習の時間に一緒になった村の医者の子供が博文館の『日本少年』を持ってきたので、それを見せてもらったわけである。私はそんな雑誌の存在さえも知らないといった全くの田舎の子供であった。町へ使いに行くことは多かったが、本屋は注意に入らないで過ぎてきた。今少年時代を回顧しても、私の眼に映ってくるのは、郷里の自然とさまざまの人間であって、書物というものは何ひとつない。ただあの時の『日本少年』だけが妙に深く印象に残っている。その頃広く読まれていた巌谷小波の童話のごときも、私は中学に入ってから初めて手にしたのであった。田舎の子供には作られた夢はいらない。土が彼の心のうちに夢を育ててくれる。

かような私がそれでも文芸というものを比較的早く知ったのは、一人のやや無法な教師のおかげである。やはり小学六年のことであったと記憶する、受持の先生に竜野の町から教えに来ておられた多田という人があった。この先生はホトトギス派の俳人であったらしく、教室で私ども百姓の子供をとらえてよく俳句の講釈を始め、ついには作文の時間に生徒に俳句を作らせるほど熱心であった。ある時私の出した句が秀逸であるというので、黒板に書いて皆の者に示し、そして高浜虚子が私と同じ名の清だから、私も虚子をまねて「怯詩」と号するがよいといって、おだてられた。号というものを付けてもらったのはこれが初めでまた終りでもあるので、今も覚えている。この先生によって私は子規や蕪村や芭蕉の名を知り、その若干の句を教えられた。『ホトトギス』という雑誌は、中学の時、いわゆる写生文を学ぶつもりでしばらく見たことがある。

私がほんとに読書に興味をもつようになったのは、現在満洲国で教科書編纂の主任をしておられる寺田喜治郎先生の影響である。この先生に会ったことは私の一生の幸福であった。たしか中学三年の時であったと思う、先生は東京高師を出て初めて私どもの竜野中学に国語の教師として赴任して来られた。何でも以前文学を志して島崎藤村に師事されたことがあるという噂であった。当時すでに先生は国語教育についてずいぶん新しい意見を持っておられたようである。私どもは教科書のほかに副読本として徳富蘆花の『自然と人生』を与えられ、それを学校でも読み、家へ帰ってからも読んだ。先生は字句の解釈などはいっさい教えないで、ただ幾度も繰り返りして読むように命ぜられた。私は蘆花が好きになり、この本のいくつかの文章は暗誦することができた。そして自分でさらに『青山白雲』とか『青蘆集』とかを求めて、同じように熱心に読んだ。冬の夜、炬燵こたつの中で、暗いランプの光で、母にいぶかられながら夜を徹して、『思い出の記』を読みふけったことがあるが、これが小説というものを読んだ初めである。かようにして私は蘆花から最初の大きな影響を受けることになったのである。

私が蘆花から影響されたのは、それがその時までほとんど本らしいものを読んだことのなかった私の初めて接したものであること、そして当時一年ほどの間はほとんどただ蘆花だけを繰り返して読んでいたという事情によるところが多い。このような読書の仕方は、かつて先ず四書五経の素読から学問に入るという一般的な慣習がすたれて以後、今日では稀なことになってしまった。今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもっているのであるが、そのために自然、手当り次第のものを読んで捨ててゆくという習慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思う。もちろん教科書だけに止まるのはよくない。教科書というものは、どのような教科書でも、何らか功利的に出来ている。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまう。

もし読書における邂逅かいこうというものがあるなら、私にとって蘆花はひとつの邂逅であった。私の郷里の竜野は近年は阪神地方からの遊覧者も多い山水明媚の地であるが、その風物は武蔵野などとはまるで違っている。その土地で大きくなった私が武蔵野を愛するようになったのは、蘆花の影響である。一高時代、私はほとんど毎日曜日、寮の弁当を持って、ところ定めず武蔵野を歩き廻ったことがある。それはその頃読んでいた芭蕉などに対する青年らしい憧憬でもあったが、根本はやはり『奥の細道』でなくて『自然と人生』であった。蘆花を訪ねたことはついになかったが、彼が住んでいた粕谷のあたりをさまよったことは一再ではない。利根川べりの息栖とか小見川とかの名も蘆花を通して記憶していて、その土地を探ねて旅したこともある。彼によってまず私は自然と人生に対する眼を開かれた。もし私がヒューマニストであるなら、それは早く蘆花の影響で知らず識らずの間に私のうちに育ったものである。彼のヒューマニズムが染み込んだのは、田舎者であった私にとって自然のことであった。今も私の心を惹くのは土である。名所としての自然でなくて土としての自然である。それは風景としての自然でさえない。芭蕉でさえも私には風流に過ぎる。風流の伝統よりも農民の伝統を私は尊いものに考えるのである。もっとも、蘆花の文学は農民の文学とはいえないであろう。私は今彼を読み直してみようとは思わない。昔深く影響されたもので、その思い出を完全にしておくために、後に再び読んでみることを欲しないような本があるものである。

中学の同級生に古林巌というのがいた。後に姓を改めて藤岡といったが、私どもの学校で有名な秀才で、非常な読書家でもあった。四年生の時彼が寄宿舎を出て私の村に下宿するようになってから親しく交わるようになったが、その時以来私は彼の影響でいろいろな書物を読むようになった。考えてみると、私が哲学を志望するようになったのも、藤岡の感化に基づいている。五年生の頃、彼は永井潜博士の著書を愛読し、しきりに生命の問題を論じ、私をとらえては器械説がどうの、生気説がどうの、と語り、フェルウォルンを尊敬し、その『一般生理学』を読むためにすでにドイツ語の勉強を始めていた。その時分の中学では恐らく珍しい科学講演会というものを組織したのも彼であった。彼に刺戟されて私も永井博士の『生命論』を読み、あるいは丘浅次郎博士の『進化論講話』をひもときなどして、生命の問題に関心をもつようになったことが、後に私が哲学に入る機縁となったのである。藤岡は六高を経て京大の医科を卒業して生理学を研究し、特に生理学史に興味をもち、その方面の論文を発表していたが、不幸にして病にたおれてしまったのは惜しいことであった。彼も後年にはよく哲学の本を読んでいたようである。坂田徳男君は彼と同郷の後輩で、彼と同じように六高を経て京大の医科を卒業して生理学を勉強したが、今日では専門の哲学者になってしまった。

たいていの人は先ず文芸書を通して読書家になるのではないかと思う。藤岡の場合もそうであり、いつも彼に指導されていた私の場合もそうであった。それに藤岡は初めは文学者になるつもりであったらしく、彼の提唱で文芸の回覧雑誌が出来、私も一、二小説めいたものを書いたことがある。その時の同人に現在新京の建国大学にいる宗教学の松井了穏がある。その頃私は、紅葉、露伴から、漱石、鴎外、一葉、樗牛、独歩、花袋、秋声、白鳥、荷風、潤一郎、三重吉など、実にいろいろなものを読んだが、特に感銘を受けたものを挙げるとすれば、藤村の『破戒』、『春』、『家』といったもの、『即興詩人』とか『涓滴』などの鴎外のものを挙げねばならぬであろう。その後藤村のものはあまり見ないが、鴎外のものは今もときどき見ることがある。竜野の町に伏見屋という本屋があって、私はよく学校の帰りにそこに寄って本をあさり、父母に内証の借金が出来て苦労したこともある。時には姫路まで出かけて古本屋漁りをした。

外国文学では、藤岡は特にワイルドが好きで『リーディング監獄の歌』を回覧雑誌に訳したりしていたが、私もワイルドのものを東京の丸善から取り寄せて辞書を頼りに読んだことがある。私には『デ・プロフンディス』が強く印象に残っている。他には、これも藤岡の感化で、ツルゲーネフのものを比較的多く読んだ。その時分私の中学で外国文学の新知識は、旧姓を永富といい、現在外交評論家として知られている鹿島守之助君であった。鹿島君は私どもよりは一年先輩であるが、令兄が大学で文科をやられていたのによるであろうか、私どもを全く驚かしたほど外国の作家のことを知っていた。昼の休みの時間に、学校の運動場の隅で、藤岡や私は鹿島君から、ハウプトマンがどうの、マーテルリンクがどうの、ボードレールがどうの、などとよく聞かされたものである。つまり西洋現代文学史の講義を一通り聞いたわけである。鹿島君には久しく会わないが、会って当時を語れば、お互いに吹き出すようなことが多いであろう。

正確には覚えていないが、ブリックスといったのではないかと思う、私の在学時代に竜野中学にも初めて外人教師が来た。今関西学院の教授で経営学を担当している池内信行は私の同級生で、彼は英語の会話を最も得意とし、この先生とよく一緒であったようである。このアメリカ人の先生が就任の挨拶の時に、自分は太平洋を渡って来たが、この水が日本の岸を洗っていることを思い、世界は一つのものであることを深く感じたといった言葉が今も妙に私の耳に残っている。この先生は町でバイブル・クラスを開いていたが、英語の勉強のつもりでそれに出席したのが私の聖書を読んだ初めである。その後私は聖書は好んで日本訳で読んでいる。この翻訳は恐らく二葉亭や鴎外の翻訳以上に、日本文学史上における偉大な業績である。

詩や歌の方面では、その頃の青年の多くがそうであったように、私も土井晩翠の『天地有情』を、その中のいくつかを暗誦し得るまでに読んだ。『藤村詩集』もよく読んだが、私の好きであったのは何よりも北原白秋の『邪宗門』や『思い出』であった。今も白秋の詩は私の好きなものの一つである。三木露風は姓が同じであるので、親戚ではないかとよくきかれることがある。そうではないが、露風も竜野の人なので、その名は中学時代から親しんでいた。いったい三木という姓は私の地方には多く、播州三木城の別所氏が豊臣秀吉に滅ぼされた時、家臣たちが亡命して身をくらますために元の姓を秘してその土地の名をとり三木と称したのに始まると伝えられている。中学の頃には『廃園』、『寂しき曙』の中の露風の詩を愛誦したが、トラピスト修道院に入ってからのこの人の詩はあまり見ていない。歌ではやはり白秋の作品が最も好きであった。吉井勇の歌も好んで読んだ。歌といえば、私はその時分かなり熱心に稽古したことがあり、竜野中学の校友会雑誌には当時私の作った歌がいくつか残っているはずであるが、作歌の上で特に影響を受けたのは、その時代の多くの青年に普通であったように、若山牧水であったであろうか。

中学時代、私の得意としたものがあるとすれば、それは歴史であった。中にも山路愛山の史伝類をよく読んだが、特に『常山紀談』とか『日本外史』とかを愛読した。その頃は漢文も私としては得意とするものであったが、経書よりも史書を見ることが好きであった。竜野の脇坂藩の儒者で本間貞観という先生が私どもの中学に教えに来られていた。ところでまた藤岡に誘われて私は一年近くの間、この老先生のお宅に伺って、漢詩を作ることを稽古したことがある。その時分私は学校の作文では、当時の中学生に広い影響を与えていた大町桂月を読んで、桂月張りの文章を書いていたが、漢詩を習うようになってから勉強したのは久保天随とか森槐南とかの著書であった。一時は『唐詩選』の中の詩をできるだけ多く暗記するつもりで取りかかったことがある。先だって冨山房百科文庫で森槐南の『唐詩選評釈』を買ってきて読み、昔を思い出して懐しかった。

図画の教師で法制経済も教えておられた先生に巌本という人があった。私はこの先生から思想といえば思想らしいものを注ぎ込まれたのである。藤岡にいわせると、巌本先生は社会主義者であるといっていたが、むしろニヒリストであったようである。幸福でなかった先生の境遇が恐らくそうしたものであろう。先生はもと評論家か新聞記者になられるつもりであったらしく、その仕事の重要さをよく話しておられた。私どもは教室でもしばしばこの先生から、中江兆民、福沢諭吉、徳富蘇峰、三宅雪嶺などについて聞かされたものである。しかし私はその頃はむしろ文学に熱中していて、思想の問題についてはそれほど深い関心がなかった。巌本先生から教えられたものの中では、蘆花との因縁で、蘇峰氏のものを最も多く読んだが、それもその時分流行していた演説の材料にするつもりで読んだので、思想的影響というようなものはなかった。

播州赤穂は竜野から五里ばかりのところにある。私どもの中学では毎年義士討入りの日に全生徒が徹夜で赤穂の町まで行軍を行ない、そこで義士追慕の講演会を開くのが例であった。その講演会には生徒のうちの雄弁家が出ることになっていたので、平素においても演説はなかなか盛んであった。もっとも、これは、その時代が日本におけるいわば一つの雄弁時代であって、今の『雄弁』という雑誌もその頃は名のごとく主としてわが国の有名な雄弁政治家の演説の速記を載せていたような有様で、私どもの田舎の中学でも擬国会を催したこともあるという時代の一般的な空気の影響でもあり、むしろそれが根本的であった。私も一時は『雄弁』の愛読者であって、中学の裏の山に登って声を張り上げて演説の稽古をしたこともある。国語の教師に野崎先生というのがあり、演説が得意で、生徒にもそれを奨励されていた。赤穂の講演会での演説の準備という意味もあって、義士伝はその時分ずいぶんいろいろ読み漁った。福本日南の『元禄快挙録』なども感激して読んだものであるが、今は岩波文庫の中に収められるようになった。

かようにして中学時代の後半は、私の混沌たる多読時代であった。私は大正三年に中学を卒業したが、私の中学時代は、日本資本主義の上昇期で『成功』というような雑誌が出ていた時である。この時代の中学生に歓迎されていた雑誌に押川春浪の『冒険世界』があった。かような雰囲気の中で、私どもはあらゆる事柄において企業的で、冒険的であった。私の読書もまたそうであったのである。これに較べると、高等学校時代の私は種々の点でかなり著しい対照をなしている。

自分について語ることは危険なことである。それは卑しいことであり、少なくとも悪い趣味であるといわれるであろう。私は書物について書きながら自分について、また他の人々について書くことになった。どのような本を読んだかは、ある意味ですべて偶然的なことである。しかし他方それはまたすべて必然的なことである。この偶然性と必然性とをいくらかでも示すためには、人間について、とりわけ自分について書くのを避けることができない。それから生じ易い危険を逃れる手近な方法は、できるだけ簡単に、事実だけを記すということである。

中学を出ると、私はひとりぼっちで東京のまんなかに放り出された。一高に入学した私は、そこに中学の先輩というものを全くもたなかった。そして私はまた卒業するまでそこに中学の後輩というものを全くもたないでしまった。かようなことがわが国の特殊な社会事情において、ことに田舎から出て来た一人の青年にとって何を意味するかは、読者の想像し得ることであろう。そのうえ私の家には東京に知人というものがまるでなかった。その頃は九月の入学であったが、叔父が紹介してくれた保証人に挨拶に行くという父と一緒に途中暴風雨のために東海道線が不通になったので、中央線を廻ってたくさんのトンネルを抜け、油煙と汗とに汚れて、飯田町の駅に降りた時の気持は今も忘れることのできないものである。後には次第に学校の友も出来たが、私の心はほとんどつねに孤独であった。田舎者の私は、特に父の血をうけて、交際ははなはだ不得手であった。学校の寄宿舎で暮して、町に知った家がなかった私には、家庭生活の雰囲気に触れることも不可能であった。結局私は、東京に住むようになってからも、いつまでも孤独な田舎者であったのである。

こうした孤独には多分に青春の感傷があったであろう。孤独な青年が好んでおもむくところは宗教である。むしろ宗教的気分というものである。宗教的気分はいまだ宗教ではない。それは宗教とは反対のものでさえある。宗教的気分がつねに多かれ少なかれ感傷的であるのに反して、宗教そのものはかえって感傷を克服して出てくるものである。自分で宗教的であると考えることそのことがすでにひとつの感傷に過ぎぬ場合がいかに多いであろう。高等学校時代を通じて私が比較的たくさん読んだのは宗教的な書物であった。それも何ということなく、いろいろのものを読んでいる。キリスト教の本も読めば、仏教の本も読む。日蓮宗の本も読めば、真宗の本も読む、また禅宗の本を読むこともあるという風であった。そうして一種の宗教的気分に浸るということが慰めであるように感じられた。今にして考えると、青春の甘い感傷に属するに過ぎぬものが多い。もちろん私は甘さというものを一概に無価値であるなぞと考えるのではない。それはともかく十分に日本的であるということができるであろう。『聖書』は繰り返して読んで、そのつど感銘を受けた本であった。しかし旧約の面白さがわかるようになったのは、ずっと後のことである。『聖書』は今も私の座右の書である。仏典の経典では浄土真宗のものが私にはいちばんぴったりした。キリスト教と浄土真宗との間にはある類似があると見る人があるが、そういうところがあると考えることもできるであろう。元来、私は真宗の家に育ち、祖父や祖母、また父や母の誦する「正信偈」とか「御文章」とかをいつのまにか聞き覚え、自分でも命ぜられるままに仏壇の前に坐ってそれを誦することがあった。お経を読むということは私どもの地方では基礎的な教育の一つであった。こうした子供の時からの影響にもよるであろう、青年時代においても私の最も心を惹かれたのは真宗である。そしてこれは今も変ることがない。いったいわが国の哲学者の多くは禅について語ることを好み、東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遥かに親しみが感じられるのである。いつかその哲学的意義を闡明せんめいしてみたいというのは、私のひそかに抱いている念願である。後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは結局浄土真宗であろうと思う。高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった。近角常観先生の『歎異鈔講義』も忘れられない本である。本郷森川町の求道学舎で先生から『歎異鈔』の講義を聴いたこともある。近角先生はその時代の一部の青年に大きな感化を与えられたようであった。島地大等先生の編纂された『聖典』は、現在も私の座右の書となっている。

私のみではない、その頃の青年にはいったいに宗教的な関心が強かったようである。日本の思想界が一般に内省的になりつつある時代であった。中学時代の初めに興味をもって読んだ『冒険世界』というような雑誌がいつしか姿を消して、やがて倉田百三氏の『出家とその弟子』とか『愛と認識との出発』とかが現われて青年の間に大きな反響を見出すようになる雰囲気の中で、私は高等学校生活を経てきた。一高にも日蓮宗とか、禅宗とか、真宗とかの学生の会があり、私も時々出席してみたことがある。私の最も親しくするようになった宮島鋭夫に誘われて、ある夏私は彼と一緒に鎌倉の円覚寺の一庵に宿り、坐禅をしたこともある。一日禅坊を出て、宮島の知っている堀口大学氏が浄智寺に来ておられるというので訪ねたことがある。堀口氏に会うといつもあの頃のことを思い出すのであるが、まだ口にしないのである。恐らく堀口氏の記憶には残っていないことであろう。

私の文学熱はこうして冷めていった。中学を卒業する前、将来は文学をやろうと考えて、当時鹿児島県に移っておられた寺田喜治郎先生に手紙で相談し、先生からは勧めの返事をいただいたのであるが、一高の文科に入ってからはそうした考えはむしろ薄らいでいった。私は文学に対しても懐疑的になっていた。弁論部に関心がなかったと同様、文芸部にも興味がなかった。一年生の時にはかえって一時剣道部に席をおいたことがある。こうした私は芹沢慎一氏――光治良氏の令兄――にひっぱられてボート部に入り、組選を漕ぐことになった。墨田川に行ってボートを漕ぐことは、運動は元来不得手であるにもかかわらず、当時懐疑的になっていた私にとって一つの逃避方法であった。一緒に組選を漕いだ仲間で哲学方面へ行った者には、後に東北大学の宗教学の助教授にまでなって惜しいことに病に斃れてしまった寺崎修一がある。独法の我妻栄、三輪寿壮などの諸君もボートの関係で知り合いになった人々である。京都大学に入ってからも、私は文科の選手として琵琶湖や瀬田川でボートを漕いだことがある。

ともかく私の読書の興味の中心は次第に文学書から宗教書に移っていった。それは時代の精神的気流の変化の影響によることでもある。トルストイの『わが懺悔』が文学青年の間にも大きな影響を見出すというような時代であった。これは私も感激をもって読んだ本である。私はいつのまにか『芸術とは何ぞや』におけるトルストイに共鳴を感じるようになっていた。彼の『人生論』なども感動させられた本である。私の場合かようなことは中学時代に耽読した徳富蘆花の影響によって知らず識らず準備されていたといえるであろう。私も一時はある種のトルストイ主義者であった。去年の夏、満洲を旅行した時、汽車の中へ岩波文庫版の『イワンの馬鹿』、『人は何で生きるか』というような当時愛読したトルストイの小品を持ち込んで久し振りに読み直してみたが、今度はそれほど深い感動を覚えることができなかった。私はそこに何か気取りに似たものを感じた。しかし老齢になってからもなお気取ることができたところにトルストイの偉さがあるのかも知れない。ルソオの『懺悔録』とか、アウグスティヌスの『告白録』とか、マルクス・アウレリウスの『省察録』とか、そういった種類の、あるいは名前の本を私は好んで読んだ。哲学者ではショーペンハウエルとかニーチェとかの生の哲学が流行し、私もその影響をこうむった。和辻哲郎氏の『ニーチェ研究』とか『ゼーレン・キェルケゴール』とかは、当時の雰囲気を現わしている書物である。文学においても私はロシア文学に多く興味をもつようになり、ことにチェーホフの作品を愛読し『桜の園』のごときは幾度も繰り返して繙いたものである。青年の間では華巌の滝で自殺した藤村操が始終話題にのぼるという時代であったのである。私なども本を読みながら本に対して全く懐疑的になり、自分の持っていた本を売り払ってしまうというようなことが一度ならずあった。

今私が直接に経験してきた限り当時の日本の精神界を回顧してみると、まず冒険的で積極的な時代があり、その時には学生の政治的関心も一般に強く、雄弁術などの流行を見た――この時代を私は中学の時にいくらか経験した――が、次にその反動として内省的で懐疑的な時期が現われ、そしてそうした空気の中から「教養」という観念がわが国のインテリゲンチャの間に現われたのである。したがってこの教養の観念はその由来からいって文学的ないし哲学的であって、政治的教養というものを含むことなく、むしろ意識的に政治的なものを外面的なものとして除外し排斥していたということができるであろう。教養の観念は主として漱石門下の人々でケーベル博士の影響を受けた人々によって形成されていった。阿部次郎氏の『三太郎の日記』はその代表的な先駆で、私も寄宿寮の消灯後蝋燭の光で読みふけったことがある。この流れとは別で、しかし種々の点で接触しながら教養の観念の拡充と積極化に貢献したのは白樺派の人々であったであろう。私もこの派の人々のものを読むようになったが、その影響を受けたというのは大学に入ってから後のことである。かようにして日本におけるヒューマニズムあるいはむしろ日本的なヒューマニズムが次第に形成されていった。そしてそれは例えばトルストイ的な人道主義もしくは宗教的な浪漫主義からやがて次第に「文化」という観念に中心をおくようになっていったと考えることができるのではないかと思う。阿部・和辻氏らの雑誌『思潮』が出て、私もその愛読者の一人となったが、それが後に岩波の『思想』に変ったのである。

高等学校の最初の二年間は私にとっては内省的な彷徨時代であった。二年生になる時学校の規則で文学を志望するか哲学を志望するかを決定しなければならなかったので、私は哲学と書いて出しはしたが、自分の心ではまだいずれとも決定しかねていた。私の気持がまとまって、はっきり哲学をやることに決めたのは三年生の時で、その頃から私の読書の傾向も変ってきた。

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