芸術の思想性について (三木 清)

私が直接に考えてみたいのは文学の思想性の問題である。しかし私はここに芸術の思想性という一般的な表題を故意に掲げることにした。というのは、過去数年において屡々論ぜられ、そして今日では多くの人々がそれに対して若干疑惑的にさえなっている文学の思想性の問題を新たに取上げ、正しく理解するためには、これを或る程度一般芸術論に関係づけることが必要であると考えるからである。およそ一般芸術論を基礎として、そのもとで一般と特殊との関係に従って文学を論ずるということは、特に近年我が国の文壇においては殆ど季節はずれに属することとなってしまっている。そのためにも文学的な、あまりに文学的な文学論が生じているように思われる。

このような事態は、これまで一般芸術論の位置を占めていた美学が次第に無力なものになったということに、その一つの重要な原因を有するであろう。美学のこのような無力化は、美学が形式的抽象的であるということに基き、また後のことは美学が従来主として哲学者によって叙述されたという伝統の影響にも依るであろう。もちろん哲学者が自己の体系の一部として美学を展開することはそれ自身何等反対さるべきことでなく、彼の自由な権利であると共に彼の義務でさえある。問題は根本的にはその哲学そのものの性質に、従ってまた美学そのものの性質にある。美学は現実に存在する諸芸術との具体的な内面的な連関を含むものとならなければならない。しかし或る人々は、美学は一般に芸術論の理念として不適当であると主張しており、そしてそのような主張のうちには我々も賛成せざるを得ない有力な論拠がある。いまその一二を挙げてみよう。先ず、ヴォリンガーはゴシック芸術の形式の問題を論ずるにあたり、これまで美学と云われるものはクラシックという特定の様式の芸術を基礎として作られたものであるから、それをもって他の様式の芸術を律することは不当であると述べている。美の概念はクラシック芸術の現象の前提として考えられ、美学は、その研究方法が如何なるものであるにせよ、いずれもかような美の概念を定義することにのみ努力して来た。しかるに例えばゴシック芸術の真の偉大さは、美の概念において頂点に達する普通の芸術観念と何等関わりあるものでなく、ゴシック的価値を現わすものとして美の概念を取り入れることは却って混乱を惹き起すことになる、と彼は云っている。ひとは多分同様のことを東洋の芸術についても云い得るであろう。美学がクラシック芸術とは全く異る前提の上に立つ芸術上の諸事実を説明しようとするとき、越権となり、害悪となる。従って客観的な芸術理論は従来の美学から自己を決定的に分離することが必要であるとヴォリンガーは論じた。次に注目すべきものは、フィードラーの見解である。彼は、従来の美学の根本概念であった美の代りに真理の概念を、正確に云えば芸術的真理の概念を芸術理論の中心に置こうとした。芸術のあらゆる考察、あらゆる理解、あらゆる評価にとって方向を定める中心点は芸術的真理の概念である。芸術的真理における実質のみが芸術作品の永続的価値を決定する。すべての他の性質、従って美の如きも副次的であって、作品の一時的効果を基礎付けるに過ぎない。作品享受における心理的効果から云えば、美は重要なものであるにしても、作品生産における芸術的活動そのものから見れば、美でなくて真が決定的なものである、とフィードラーは考えた。これまでの美の概念及び美学に対してなされたこれらの批評のうちには確かに正しいものが含まれている。しかしそのことは必ずしも直ちに美学そのものの否定とはなり得ない。確かに美学はクラシック芸術のみを根拠として理論を形成した従来の態度を改め、歴史的に与えられた多種多様な芸術様式の領域へ視野を拡大することが必要であろう。またそれは従来の美の概念を芸術的真理の概念によって訂正することが必要であろう。特にそれは芸術を享受や理解の方面からでなく、創作活動そのものの立場において考察することが必要であろう。しかしこれらのことも一般芸術論としての美学の不必要を意味するものではない。美学の原語エスセチックスがもと感覚論という意味を具えているように、感覚性、具象性は芸術にとってどこまでも本質的な要素でなければならぬ。私はここで、今日においては既にかなり古い歴史を有する「美学か芸術学か」という論争に立入ろうとは思わない。名称の争いは結局実質の争いに帰すべきものである。もしひとが美学及び芸術学のいずれの名称をも避けようと欲するならば、彼は十八世紀においてその後の美学を実質的に先取していた批評乃至批評学即ちクリチシズムという名称を復活させることもできる。ともかく科学、哲学、その他の文化領域に対立して、相互の内的親縁性の故に等しく芸術と呼ばれる領域が存在するとすれば、美学、芸術学或いは批評学と、どのような名称をもって呼ばれるにしても、一般芸術論が存在し得ることは明瞭であろう。文学は云うまでもなく芸術の一つの種類であり、従って文学論は一般芸術論に対して特殊と一般との関係に立っている。かような関係の自覚に基く文学論が、現在文学論が文学的に、あまりに文学的になっている場合、特に必要なのではないかと思う。それによって文学論は一層広い展望を持ち、その姉妹芸術から新しい光を得ることも可能になるであろう。

それのみでなく、我々の見るところでは、芸術論そのものにしても更に広い連関のうちにおいて考察されねばならない。ギリシア人はポイエシス(制作)という語のもとに単に今日の詩、また芸術ばかりでなく、職人の工芸的制作的活動を含めて理解し、これらは凡てテクネ(技術)に関わるものと見られた。技術論は確かに芸術の問題にとって、これを制作の立場から考えるとき、従来の美学や趣味批評において云われたよりも遥かに重要な意味をもっている。芸術論が包括的な技術論の一部としてその見地から取扱われることが必要であるとも云い得るであろう。ところでポイエシス(制作)はすべて表現活動である。芸術が表現であることは殆ど異論なしに認められているが、ひとり芸術的活動のみでなく、あらゆるポイエシスが表現活動の意味をもっている。そして他方ディルタイなどの云った如く、芸術はもとより凡ての歴史的現実が表現と考えられるとすれば、あらゆる歴史的行為はポイエシスの、言い換えれば表現活動の意味を含んでいるのでなければならぬ。このようにしてまた芸術論は、一般に表現活動の意味を含む歴史的行為に関する理論の中で、その一般性においてと共にその特殊性において考察されることが必要である。

すでに文学内部において近年漸く著しい地方主義、即ち詩と小説と、小説と劇と、地方的に分離している状態が改善されなければならない。更に文学と他の諸芸術との間における同様の地方主義が改善されなければならない。そのためには今日無力になっている美学ないし一般芸術学が自己の原理を新たに確立して現われることが必要であろう。そして実に、芸術の思想性の要求も、そのような地方主義の克服に対する要求の一つの場合もしくは一つの手段にほかならない。簡単に云えば、文学また芸術への哲学的普遍的精神の滲透が要求される。しかもかような哲学的精神は歴史的行為の哲学の上に立つものでなければならぬ。

右に述べた意味での哲学的精神を善かれ悪しかれ持っていたのは、嘗ての華やかな時代におけるプロレタリア文学であった。そのときほど文学の思想性が喧しく論ぜられたことはなかったし、またそのときほど文学と他の諸芸術との間の統一性、連帯性がはっきり意識されていたこともなかった。しかるにその後外的並びに内的事情のためにプロレタリア文学の正常な発展が頓挫すると共に、文学の思想性の問題は次第に後方に退き、この頃では作品批評などにおいてもその点に触れられることが全般的に少くなったようである。かくして作品の芸術性と思想性とは無関係な、むしろ乖離的なものであるかの如く見る傾向が無意識の間にせよ次第に支配的になったように感ぜられる。そこで私はいまその原因を考えながら文学の思想性の問題を再び提出してみたい。

以前プロレタリア文学では、その理論において、少くともその実践において、文学の思想性の問題はかなり抽象的な、従ってその限りにおいて間違った仕方で示された。その印象が遺憾ながら今に至るまで、文学の思想性を語る場合、多くの読者の脳裡に再生されるようである。当時、プロレタリア作家は小説の代りに政治論文を書き、純文学の代りに善玉悪玉の勧善懲悪の文学を作る、などと批評された。ひとは文学の思想性をかの所謂教育詩(ポエジー・ディダクチック)の如きものの方向において考えてはならない。教育詩といわれるものは、時にはゲーテの『ファウスト』までも含めて理解される所謂思想詩とは区別さるべきものである。教育詩において関心されるのは文学であるよりも教義である、定義、理論、教訓である。この種の文学は古くから、ギリシア語でも、ラテン語でも、フランス語その他でも無数書かれた。しかしただ極めて少数のものが現在も生存してなお読まれているに過ぎぬ。ポール・アルベールによれば、かような教育詩の傑作として残り得たのはルクレティウスの『物の本性について』とヴェルギリウスの『農作篇』の二つであって、恐らくなおボアローの『詩学』を加え得るのみである。例えばルクレティウスのこの有名な詩はエピクロスの原子論哲学の説明に捧げられている。けれどもこれらの最も成功した場合においてさえ、教育詩的作品は最高の文学に属するとは云われない。作家は科学的論文がより厳密に、より明晰に述べ得ることを、より漠然と、より不透明に述べるために文学的形式を採ることに満足すべきであろうか。与えられた教義への科学的忠実を示さんがために、彼の自由、彼の想像、彼の感情を犠牲にすべきであろうか。選択は明瞭である。しかるにそれにも拘らず文学の思想性について語る場合、それがともすれば教育詩の方向において理解される傾向があるのは、一方では我が国の文壇において真に思想的なすぐれた作品が現に存在しないということによると云われると共に、他方では文学の表現手段である言語そのものの特性、分り易く云えば、言語が一般的なもの、抽象的なものを現わすに適していて、科学や哲学においても用いられるものであるということにもよるであろう。

そこで我々は文学の思想性の意味を正しく理解するために、言語の芸術である文学以外の芸術においても思想性が存在するかどうか、存在するとすれば何処に存在するかを考えてみよう。ここにも確かに思想性が存在するのである。他の種類の芸術についても、古典主義、浪漫主義、自然主義、象徴主義、等のイズムの区別が認められることは、すでに或る種の思想性を現わすものと考えることもできるであろう。ゲーテの古典主義が彼のイタリア旅行に影響されたというが如きことは、彫刻や絵画などが特殊な仕方で思想性を有することを示すものとも見られ得るであろう。またドヴルシャックがゴシック建築とスコラ哲学との間にスタイルのアナロジーを指摘したことも同様に造形美術の有する或る種の思想性を現わすものと理解し得るであろう。造形美術におけるかような思想性はもとより言語によってそこに表現されているものではない。それでは思想性はどこに根源的に存在するのであるか。ロダンはグセルとの対話の中で云っている、「なおまた、真の芸術家が巧者な職人であることに満足することができ、知性は彼等に必要でないと考えるのは、変な間違いだ。反対に、精神的抱負を少しも持たないで眼を喜ばせることしか目的としていないように見える像を描き或いは刻むためにさえ、知性は彼等に欠くことのできぬものである。善い彫刻家がどのような彫像をでも作る場合、先ず彼はその一般的運動をしっかりと考案しなければならぬ。次に彼の仕事の最後まで、この彼の全体のイデーを彼の意識の明かな光のうちに精力的に維持し、彼の作品の最も小さいディテイルをも絶えずそこへ引寄せ、そこへ密接につながらせねばならぬ。そしてそのことは思考の極めて激しい努力なしにはやって行けない。」即ち芸術家の思想は何よりも、全体のイデーの把握と作品の細部細部のこのイデーへの内面的結合とのうちに現われるのである。このような根源的な意味において如何なる芸術も思想を持っている。

文学の思想性の問題を考えるにあたっても、この単純な、しかし基礎的な意味を先ず、また絶えず念頭におくことが大切である。このような思想性は、その表現手段が色彩であろうと言語であろうと、如何なる場合にも、凡ての芸術のうちに存在しなければならぬ。その意味において真の芸術家を作るものは彼における思想家である。強く感じても弱くしか考えず、物の真理の不正確な見方を有する者は下級の芸術家に過ぎない。強く感じ、それに劣らず強く考え、正確な真理を見る者が第一級の芸術家である。作家は概括を、一般化を行わねばならぬ、どのようなリアリズムにもそのことが必要であって、そこにすでに思想がなければならないであろう。けれども他方単に一般化のための思想を有するのみでは作家になれぬ。『農作篇』を書いたヴェルギリウスが詩を害することなしに教育的であり得たとしたならば、それは彼が田園や植物や農夫についての細かな観察を持っていたがためである。具象化されていない思想は文学にとって思想とも云い得ないのである。ゲーテがニュートンの光学を否定したのも、そこでは色彩の観念から分離されていたためであった。そして彼は青の観念を青そのもののうちに、黄の観念を黄そのもののうちに求めた。彼は現象から離れて考え出された世界の観念を拒否した。反対に、彼はこの世界の彩られた現象のうちに凡ての存在、凡ての真理、そして凡ての深さを見出した。芸術家はもとより多様な現象を放置するのでなく、それらを結合し統一する。そしてこのような結合と統一の仕方を措いて別に作家の思想と云うべきものは存しない。蓋し特殊と一般との具体的な結合以外に何か現実的に思想というものがあるであろうか。

それだからディルタイの次の言葉は正しい、「詩人の世界観が最も強力に出てくるのは不十分な直接の言葉によってではなくて、むしろ雑多なものを統一し、部分部分を結合して一つの有機的全体とするエネルギーにおいてである。」作家の世界観は、そのものとして抽象的に作品の中の若干の箇所で語られているようなものでなく、また作品の上に浮動しているようなものでなく、更に作品の下に横たわっているようなものでさえなく、却って作品形成の内面的エネルギーである。世界観が作品の大きさも、幅も、深さも決定する。プロレタリア文学の場合に見られたように、作家にとって思想ないし世界観が外部から与えられて受取る場合においても、それが彼にとって真の思想であるためには、その思想が作品構成の内面的エネルギーに転化されなければならない。思想が真であることだけが問題であるのではない、それが真の思想であることが問題なのである。真の思想とは作品形成の内面的エネルギーであるような思想である。かくして芸術にとって思想が外在的なものであるかのように考える見解は間違っている。いな、それどころか、存在と論理ないし思想との同一性という有名な哲学的命題は、芸術において最も具体的に実証されているとさえ云うことができる。素樸なリアリズムに立つことを欲しない限り、誰も此の命題を認めなければならぬ。ただそれの理解が阻まれ易いのは、論理も、我々にとっては形式化されて歴史的に与えられており、思想も、我々にとっては体系化されて外部から与えられているというような、歴史的伝統のすでに古い時代に我々が生活しているという事情に基いている。しかし作家が思想は芸術的活動にとって外在的であると感ずる場合、彼は実は思想の窮乏を感じているのである。真の芸術家は、真の哲学者がそうであるように、論理や思想を既にあるものとして見出すのでなく、それが生れて来るところから捉えなければならぬ。思想は、我々が恰も世界に属せず、世界の外部の或る空想的な点に立って世界を眺めるというような仕方で生れて来るものでない。科学の根柢に技術があると云われるように、思想は動く世界の内部で我々自身動くことにおいて生れて来るのである。知ることは眺めることでなく、動かし動かされることである。かかる立場においては存在を追求することは思想を追求することであり、思想を追求することは存在を追求することである。動くことは他と関係することであり、同時に自己と他とを包む社会と関係することである。このように動くことが「関係する」ことである故に、動くことにおいて知ることができるのである。そしてそこでは倫理と論理とは別の物でない。倫理と論理との同一を明瞭に述べたのはヘーゲルであった。倫理は主観的であって、論理が客観的であるのではない。論理も動くものの論理として主観的なところがなければならず、倫理も社会的倫理として客観的なところがなければならぬ。動くものは本来主観的=客観的なものであり、倫理も論理もまたかかるものである。如何なる作家も倫理なしに書くことはできないであろう。倫理なしには彼は人物を動かすこと、一人の人物と他の人物とを関係させることができぬ。しかるにもしかような作家がなお思想乃至論理に対して嫌悪を有するとすれば、彼が論理の本質を正しく理解しておらず、また倫理と論理との同一性を理解していないためである。

右の一般論を補いつつその意味を明かにするために、私は若干の特殊問題に触れておこう。

先達て議論された局外批評家の問題を考えるに、局外批評家とは文学的な批評をするものではなかろう。かような局外批評家が、文壇内部の人々はどう考えるにせよ、ともかく、ジャーナリズムから要求されるとかいうことは、作品の思想性が一般の読者によって関心されるという事実を反映するものである。局外批評家はもとより専門的な文学者でなく、むしろ一般読者の一人であり、そして彼が問題にするのは主として芸術の思想性である。すぐれた芸術はつねに思想を含んでいる。ひとはホメロス、ダンテ、ゲーテ、バルザック、ドストイェフスキー等の作品のうちに如何なる哲学者においてとも劣らず多くの思想を見出すであろう。横光氏の『紋章』の如き作品の有する人気の一つの理由も、この作家が小説において思想を追求しているということにあるであろう。進んで考えるならば、文学の思想性は文学の通俗性の一つの重要な要素である。このことは所謂通俗文学即ち大衆文学を見ても容易に知られる。この種の文学には思想がないのでなく、むしろ積極的に思想が、特に倫理が含まれている。それだから純文学には思想がなくてもよく、むしろあってはいけないということにはならないので、問題は却ってその思想の種類、質にある。

ところで大衆文学と純文学という区別は、我が国の文学における思想性の問題に関して色々な問題を提供している。

第一に、大衆文学のうちに含まれている思想は倫理、通俗倫理であるが、そのように、古来我が国において思想といわれるものは殆どみな倫理的であった。倫理的以外の純粋に論理的な、理論的な思想は発達しなかった。古来日本には哲学がなかったと云われる所以である。思想がすべて実践倫理的見地に固着していたことは、日本主義者によっては東洋の「実学」として称讃される特徴であるにせよ、思想を大きさも幅もなく、論理的徹底性を欠いたものにしたことは争われぬ事実である。我が国の思想のかような特質は文学の思想性にとっても深い関係のあることである。思想は実践倫理的見地において心術となり、かかる心術の発達と心境文学の発達とは関係をもっている。ところが明治以来西洋の科学や哲学の移入によって思想の概念も今日では変化した。日本の国語及び文学はかかる意味での思想の表現の伝統をもっていない。そこで新しい文学に対する要求は文学の思想性という一般的な要求となって現われるのである。我が国の作家は文学の思想性に関して伝統の欠如のために甚だ困難な仕事を課せられているのであるが、この困難の克服は今後の文学の発達にとって必要な条件である。文学思想において倫理の有する意味はもちろん大きいに相違ないけれども、今日特に必要なことは世界観にまで拡大され深化された思想の表現である。倫理も単なる倫理に留まらないで、むしろ倫理と論理との同一性の把握が要求されているのである。

第二に、大衆文学に対して純文学と云われるとき、「純」という字も我々には多少気懸りである。日本文化の特徴の一つとして純粋化ということが挙げられる。仏教も日本へ来て純粋化された、けれども仏教の有するあの哲学的組織が日本においてどれほど発達させられたか疑問であり、むしろそれに深く関心しないことによって宗教として純粋化されたとも見ることができるであろう。支那文化も日本へ来て純粋化された、しかし同時にそれの大きさは失われ、執拗さは洗い落されたとも云うことができるであろう。俳諧は発句に純粋化されて行き、長歌は短歌に純粋化されて行った。このように純粋化されるが、しかしそれと共に小さくなるということが日本文化のひとつの特質であるように見える。小説も短篇小説として純粋化され、純文学と云えば短篇小説を意味するというような有様になった。かくの如き状況において文学の思想性に対する要求はむしろ通俗性に対する要求であり、長篇小説に対する要求であり、複雑な構成をもち、多様なものを統一し、重みと深さとをもつ文学に対する要求である。純粋性のために思想性が犠牲にされるということがあってはならぬ。作家は言語の力を恐れてはならず、却ってその力を飽くまでも利用して冒険を試みなければならぬ。他の種類の芸術の用いる表現手段とは違い、言語は存在と共に観念の世界のうちに自由に運動することができる。従って言語の芸術である文学は特に「思想芸術」とも「精神の芸術」とも云われている。言語は個別性と同時に一般性を現わすことができる。そこからエルマティンガーは文芸学の一法則として「個性的なものの不安定な性格の法則としての類型と個別的存在との関係の法則」を引き出した。彼によれば、思惟の抽象的活動にしても、一義的な大いさを作り出す機械的活動でなく、むしろその生産物は流動的なもの、弾力的なものの性格を含む動的活動である。例えば、ひとが「家」という言葉を語るとき、彼がそれによってイタリアのルネサンスの様式の家のことを考えているのか、ドイツのバロックの様式の家のことを考えているのか、定まって現わされていない。思惟の直接的な表現としての言葉の特有性は、それの要素即ち語が感性的=直観的意味と共に論理的=概念的意味を有し、二つの価値群の間の関係が決して明瞭に、一義的に規定され得ないということである。云い換えると、言語(思惟)はひとつの対象をつねに個別的存在としてと同時に類的存在として現わし、その際両者に個性的なものの性格が賦与され得る。その具象性を失うことなしに直接に思想の世界に入ることができる言語の力が利用されなくてはならぬ。我が国の伝統的な心境小説と雖も、すでに述べたように、思想を持たなかったのではない。ただ四囲の社会的並びに文化的状況が変化した今日においては、思想といわれるものの意味も変化したのであって、それと共に文学においても新しい思想性とそれに相応した様式とが要求されているのである。純粋性のより包括的な、より綜合的な、より構成的な意味を確立することが我々の文化のあらゆる方面において必要である。

思想性に関して我が国の作家がおかれている困難は、日本の文化が西洋文化の移植後なお伝統が浅いということにも原因があるであろう。もちろん日本の文化はそのものとしては古い伝統を持っているが、しかし多くの過去のものは変化した社会的条件のもとに外国では見られない程度において関係を切断された。その結果、種々注目すべき現象が現われている。先ず、伝統が浅いために諸々の文化領域の間における相互作用が十分に行われておらず、文学にしても科学や哲学などとの密接な関連を欠いている。そこから文学の思想性についての作家の困難が生じている。次にまた文学と特に親しい関係がある倫理の喪失が認められる。西洋においては古くから若干の中心問題、例えば神の問題、意志自由の問題、等々があって、積極的にせよ否定的にせよ作家はそれと取組むことによって自己の倫理を養って来た。ところが我が国の作家にとってはそのような倫理上の中心問題が存しないように見える。このことが作品の思想性を稀薄にする一つの原因となっている。しかしこの場合また特に二つのことが注意されねばならぬ。すでに云ったように倫理と論理との同一性を考えるならば、作家が真剣に取組まねばならぬ倫理的問題は今日甚だ多いのである。マルクス主義の問題の如きそれである。第二に、今日の反動は東洋主義の復活をもたらし、かくして従来殆ど忘れられていたにしても我々の血のうちに深く潜んでいた東洋的な倫理的問題、例えば東洋的「自然」、東洋的「無」、等々が新たに現われて来つつある。作家はこれらの問題とも挌闘しなければならず、それによって作品に思想性が生ずるであろう。かようにして文学の思想性の問題は愈々切実な問題となっている。

(一九三六年一月)

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