知識と伝統 (三木 清)

ひとのみち教団に対する弾圧が遂に開始された。全国百万と称する信者の大多数は知識階級であると云われている。この教団に限らず新興宗教の信者には知識階級の者が多いということは注目すべき事実である。

かような事実は、他面から見れば、伝統的宗教即ち仏教の如きが現在知識階級にとって魅力を有しないということを示している。仏教家自身このことを知っており、知識階級に対して積極的に働き掛けることを怠ったばかりでなく、それを避けていたとさえ見受けられるのである。

知識階級が迷信乃至邪教に趨り易いということは、この階級が本来一個の階級でなく、いわゆる中間層として動揺的であるということに基くと考えられる。併しそれはまた我が国における知識と伝統との特殊な状況に原因をもっている。仏教の如き伝統的宗教が知識階級に対して特別に困難な状態にあるのもそのためである。

我が国の知識階級にとって「知識」とは主として西洋的知性であり、このものは未だ根強い伝統となっておらず、他方この国の古い伝統は彼等の知識に対してあまりに無力である。知識と伝統とは乖離して、その間に彼等は動揺し、真の精神的郷土をもたない。かような乖離の故に彼等の知識は脆く、そこに巧に乗じているのが新興擬似宗教であると見られるであろう。

迷信乃至邪教の流行はいわゆる「知性の敗北」からは説明されぬ。知性の敗北などと云い得るほどの知性の伝統は我が国には存しないのである。また迷信や邪教は自由主義者の説くような合理主義によって救治することもできぬ。知識が歴史的でなく、伝統が知識的でないところに、今日我が国において迷信や邪教の蔓延する大きな原因がある。

知識と伝統との乖離をなくするには、何よりも伝統の科学的考察が必要である。知識が歴史的でないということ、即ち真の「歴史的意識」が発達していないということも、我が国の伝統もしくは歴史に就いての真の科学的研究が抑圧されている結果である。今日ほど歴史が喧しく云われることはない。しかもまた今日ほど歴史の科学的考察が無視され乃至圧迫されていることの甚だしいこともないのである。この「歴史的」時代に歴史が存しないという有様である。この国における知識と伝統との乖離は保守的な態度によっては克服されない。伝統を毀すことを恐れない者のみが真に伝統を活かし得るのである。

(一九三六年九月)

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