現代教養の困難 (三木 清)

近来、教養について色々論ぜられているが、それは単に議論の問題でなく、教養に対する要求は実際に活溌になってきたようである。青年たち学生たちの間から、「何を読むべきか」という問が盛んに発せられるようになったことは、この頃の注目すべき傾向であると云われている。私はそこに我が国におけるヒューマニズムの問題が決して抽象論でない一証左を見る。

しかし現代において教養の問題もあらゆる他の問題に劣らず動揺し、困難な状態にある。「何を読むべきか」という問が活溌に発せられること自体、この動揺を示している。また最近、著名な社会評論家たちの恋愛事件が相次いで世間の注意を惹いたが、かような事件にしても、表面的な道徳的問題にとどまらず、現代教養の困難を語るものである。

教養といわれるのは単に専門的乃至職業的知識のことでなく、人間が真に人間らしくなるために必要な知識のことである。どのような専門家乃至職業人も先ず人間であり、また真の人間とならねばならぬ以上、教養は凡ての人に要求される。かくして教養の観念の根柢にはつねに人間の観念が含まれている。各時代において人間の観念が変化するに応じて教養の観念も変化し、そこから教養の方向も内容も変化するのである。

現代教養の動揺はそれ故にこの時代における人間の観念の動揺を示すものにほかならない。或いはこの根本的な意味における倫理の動揺が現代教養の困難の深い原因である。人間の観念が確立されなければ教養の観念も確立されない。或いは現代的教養の要求は謂わば無意識的に新しい人間の観念の確立に対する希求を現わしている。

例えば、最も「現代的」と云い得る教養は科学的教養である。しかるに従来の人文主義的な教養論は、教養の中で科学に高い位置を認めず、寧ろこれを固有な意味における教養的なものから除外した。今日のいわゆる智育偏重の議論の如きもそのような教養論に基き、その根柢にはそれに相応する人間の観念が存するのであって、決して単なる知識論にとどまらない。ひとはそれに対し単に知識の意義を力説するのみでなく、寧ろそのような人間の観念そのものを根本的に批判することが必要である。

我々は実に、現代青年の教養に対する一般的な要求の中から、真に新しい人間の観念、従ってまた新しい倫理が確立されることを期待するものである。

(一九三六年一一月)

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