時代の感覚と知性 (三木 清)

すでに我々の年配の者にとって今日の青年男女の心理を理解することは容易でなくなっている。我が国においてはそれほど世代の相違は著しいのである。この一二年の間青年に就いて、恋愛や結婚に就いて、また道徳に就いて頻りに書かれたが、それらの議論が今日の青年男女の心理もしくは生活感情に就いてどれだけ深い理解の上に立ってなされたか、疑問である。青年男女に対して上からの議論をすることが今日ほど容易な時代はない。しかし同時に彼等に対して下からの議論をすることが今日ほど困難な時代もないであろう。ところで道徳とは何よりも習性のことである。それ故に彼等の心理の理解なしに彼等の道徳を説くことは不可能であり、また無意味でもある。

誰も今日の青年男女を容易に非難することができる。ひとは例えばよく云っている、彼等には真面目さが足らない、と。もし実際に、彼等に真面目さが欠けているとしたならば、それは道徳的に根本的な問題である。如何なる場合にも真面目さを除いて道徳は考えられないであろう。しかしながら真面目という観念そのものが昔と今とでは変っているのであり、従って今日の青年男女の真面目さを古い観念で律することが間違っているのではないであろうか。古い観念に依れば、真面目とは苦行することであり、刻苦勉励することである。苦しみの刻まれていないような真面目さというものは考えられなかった。顰め面が真面目さの本物の表現であった。しかるに今日の青年男女はもはやかような苦行のイデオロギーを受容れないであろう。とりわけ日本の女性は永い間封建的な道徳に縛られ、苦行し忍従することが唯一の道徳であるかのように教えられてきたのであるが、新時代の女性はもはやかような道徳に服することを欲しないであろう。それだからと云って彼等は不真面目であると考えねばならぬであろうか。

スペインの哲学者オルテガは歴史の基礎として世代を考えたが、彼に依れば、新しい世代の一般的な特徴は「スポーツと明朗性とに対する感覚」である。これが若い人の世界感覚と生活感情とを現わしている。「十九世紀は徹頭徹尾労働日の汗の臭いがする。今日では青年は全生涯をのんびりした休日にしようと思っているように見える」とオルテガは云っている。例えば美的領域における老人と青年との間に存する疎隔は、手のつけようがないほど根本的なものである。老人には新しい芸術は「厳粛」を欠いているという理由で喜ばれない。ところが青年にとってはこの欠陥が却って芸術の最高価値なのである。労働というのは、一定の究極目的に向けられた義務的な労作である。労働においては苦労は仕事の究極目的によって意味と価値とを得る。しかるにスポーツというものは、課せられた命令から生ずるのではなくて自由な浪費的な衝動として生命の力から湧き出てくる別の型の緊張である。労働とは反対にスポーツにおいては自発的な力の浪費が結果を高貴ならしめる。老人の道徳的イデオロギーはスポーツをも労働にしようとする。これとは逆に、労働をも出来ればスポーツにしようとするところに青年の新しい意欲がある、と云い得るであろう。苦行のイデオロギーは取り除けられる。労苦の真面目さにスポーツの真面目さが代るのである。明朗性こそ最高の真面目さである。

また今日の青年男女に就いてその功利主義的傾向が非難されている。しかしかように非難する者も、若い人の功利主義がそれほど根柢の深いものでないことを認めている。そして実は、刻苦勉励のイデオロギーがむしろ功利主義的なのである。ひとは最後に至って漸く到達される結果を目的として刻苦勉励する。そこには結果をのみ問題にする功利主義が潜んでいる。しかるにスポーツ的な力の行使においては、この力の行使そのものに魅力があり、価値が認められるのである。生活に対して多かれ少かれスポーツ的な感覚を持っている今日の青年男女の生活態度を単純に功利主義と呼ぶことはできない。なるほど彼等の生活態度は著しく経済的になった。しかし「経済的」ということと「功利的」ということとは区別されなければならない。両者を混同乃至同一視したところに、その実は功利主義的でありながら功利主義的であることを極端に排斥している古い道徳の欠点がある。或いは、等しく功利主義であるとしても、古い道徳は信用経済の発達していない時代に属するに反して、今日の青年男女の道徳は信用経済という新しい制度に相応している。言い換えれば、功利主義も後の場合には前の場合よりも一層「経済的」になっている。

かようにして新しい道徳は現代社会の中から若い世代の新しい時代感覚に基いて作られる。苦行のイデオロギーは今日の社会的並びに文化的進歩のために根柢のないものにされている。例えば現在、出版の発達、図書の普及などによって、一つの語学、一つの学科を学ぼうとする者は、以前の人に比して遥かに有利な事情にある。私が哲学の勉強を始めたのはあまり古いことでもないが、その頃は、外国の哲学書の翻訳の存在するものは稀であり、また日本人の書いた哲学の本や論文も極めて少かった故に、否応なしに外国の原書に就かねばならなかった。しかるに現在では事情は甚だ異っている。以前の人が苦しんで得たものを今日の青年男女は楽に得ることができる。彼等がそれを楽に得ており、或いは得ようとしているからといって、彼等を責し、恰も翻訳書も日本人の著作も存在しないかのように、彼等が苦労するのを求めることに意味があるであろうか。ところが事実は、今の若い人に真面目さが足らないと云って非難する年長者の気持乃至態度には屡々これに類することが存在するのではないかと思われる。苦行をもって道徳と考えるイデオロギーが知らず識らずそのうちに忍び込んでいるのである。何よりも機械の発達が新しい時代感覚を作り、これによって現代人の心理や習性は著しい変化を受けるようになった。

苦行の道徳は静的な道徳であり、不動性の道徳である。僧堂における生活がこれを象徴しているであろう。単に道徳のみでなく、これまで幾世紀もの間、世界の印象は不動性もしくは固定性の感覚によって形作られ乃至織りなされてきた。しかるに今日我々にとって世界の印象は一変した。フランスの学者ストロウスキーが『現代人』という書物の中で述べているように、今日の世界感覚にとっては速度というものが決定的に重要な意味をもっている。自動車、飛行機、その他の発達によって、世界は新しい相貌のもとに我々に現われるようになった。走る汽車の窓に映る風景、走る自動車の中から見られる街の光景は、坐って眺め入っている場合とは全く違った印象を与える。飛行機の旅行者が彼の眼の下に展げられた大地を見る場合、彼の認める地球のこの部分は、地理学者の教えるように凸面に見えもしなければ、また我々の日常の感覚が教えるように平面に見えもしない、それは凹形に見えるのである。かくして「人間は、古い印象を運動の印象によって置き換えた」とストロウスキーは云っている。そこから今日の若い人にとって新しい美学が、そしてまた新しい道徳が生れてくる。スポーツの感覚といわれるものもかような運動の感覚と別の物ではない。運動の感覚においては、その到達点のみが問題になるのでなく、過程そのものが重要である。坐って眺め入る者にとっては、現象の背後に隠れた何等かの実在を考えることも可能であろう。しかし運動の中へ運び去られた人間にとっては、この動く物の背後に何等かの実在を考えることは不可能である。動く世界のうちに住む人間にあっては彼等の生活そのものが動的である。昔の人が静観において実在に接触しようとしたのに反して、今日の青年男女は運動の感覚なしに生命の感情を持つことができない。昔の人が鏡のように動かないものにおいて明朗性を表象したに反して、今日の青年男女は動くものにおいてこそ明朗性を感じる。彼等は彼等の新しい感覚に従って世界のうちに、彼等自身の生活のうちに絶えずリズムを求める。かようにリズムを求めるということが新しい生活技術である。今日の若い人は如何に音楽を熱愛しているであろうか。これは我が国においては比較的新しい、注目すべき現象である。単に音楽のみでなく、映画の如きも同様であって、運動の感覚が新時代の感覚であると云うことができるであろう。静的な道徳は動的な道徳によって代られねばならなくなっている。

昔の人から見れば、今日の若い人はみな享楽的であると見えるであろう。苦行のストイシズムから見れば、彼等はすべてエピキュリアンであると考えられるであろう。そして彼等は屡々そのように非難されている。しかしながら、前に功利的と経済的とを区別したように、ここでも享楽主義と「生の悦び」とを区別しなければならない。我々日本人は永い間の封建的な道徳の桎梏のもとに生の悦びというものを知らなかった。殊に女性においてそれが甚だしかったであろう。生を楽しむということはそれ自身が何か罪悪であるかのように考えられ、少くともそれは公然と求めらるべきことでなく、秘密に求めらるべきことであるかのように考えられた。それが却って頽廃の原因となったということもあったのである。生の悦びが公然と求められ、公然と表現される傾向に向ったのは日本においては比較的最近の出来事に属している。ここにも我々は新時代の意欲を認めることができる。

かようにして新しい心理、生活感情が生れている。新しい道徳はそのうちに築かれてゆかねばならぬであろう。この場合、問題は二つの方面から考えられる。一つは自分が自分自身に対する関係において。他は自分と社会との関係において。そして二つの事柄はもとより無関係ではない。

古い道徳、何よりも苦行のイデオロギーは破壊され、生の悦びに対する積極的な意欲が現われてきた。それは人間の解放にほかならない。ヒューマニズムという言葉が人間の解放を意味する限り、それはヒューマニズムの基礎である。しかしヒューマニズムという言葉は教養を離れて考えることができず、そして教養ということの根本的な意味は人間形成ということである。真のヒューマニストは、ちょうど芸術家が作品を形成してゆくことに悦びを感じるように、人間を形成してゆくことに悦びを感じるものでなければならない。自分を形成してゆくということは自分に秩序を与えるということであり、この秩序を与えるものは知性にほかならない。秩序を求めるということは知性の訓練に従うということである。秩序の知性を除いて真の明朗性はない。笑いは人間に最も特有な表情であると云われているが、動物とは違って知性を持つ人間にして笑いを持ち得るのである。知性の本質は秩序の意識である。知的な女性は最近次第に殖えてきたと云われている。しかしながら、もしその知的という意味が単に知識をたくさん詰め込んでいるという意味であるならば、それは却って無秩序を意味し、従って真の知性からはむしろ遠いことともなり得るのである。知識と知性とは一応区別されることが必要である。知識によって感情を否定することが問題であるのではない。いな、人間の感情というものが否定され得るように考えることは間違っている。知識は感情の破綻に対して十分な保証となり得るものではないことは、人生の経験においてあまりに屡々示されている。普通には知的とは云われていない婦人のうちに却って知性の完全な人が存在することを我々は知っている。また知的な女性と云われている人の中には、合理的なものを徒らに前面へ押し出すことに努め、人間として誰もが持っている非合理的なものをそのまま隠しておこうとする人がある。しかし隠されていたものは何時かは自分を裏切ることがあるであろう。非合理的なものを抽象的に否定する合理主義が必要であるのでなく、非合理的と云われるもののうちにも秩序を、いわゆる「感情の論理」を認めてゆくことが大切なのである。自分を知性の訓練に従えるということは、苦行の道徳とは同じでない。近代的なスポーツも知性と訓練とを必要とするのを知ることが新しい道徳の端緒であると云えるであろう。感情を否定する知性、即ち剛直な、固定的な、静的な知性は近代的な運動の感覚とは相反するものである。知性そのものが運動的になり、感情の隅々にまで入り込んで秩序を形作ってゆくということが現代人にふさわしい道徳である。知性を固定的なものと見ることは古い静的な見方に属している。若い人は彼等の生活感情に従って知性の新しい活動の仕方を発見してゆかなければならない。

今日の青年男女は新時代の感覚、スポーツと明朗性とに対する感覚、生の悦びに対する意欲等を否定することに道徳があるかのように考えることを欲しないであろう。却ってそれらのうちに現われた新しい人間性の解放を積極的に要求することのうちに新時代の道徳が求められねばならない。しかしながらそこにも知性が働くことが必要である。労働をもスポーツの如くにしようとする彼等の意欲に反するものが現在の世の中には存在し、労働の強化は益々甚だしくなりつつありはしないであろうか。今日の社会科学が「労働」を根本的な問題にしているのは、昔の道徳のように労働を神聖化していることによるのでなく、却って「労働」を排棄せんがために、いわば労働をスポーツ化せんがためにである。それはもちろん働くことをやめようとするのではない。むしろ働くということが「労働」というような形式から脱却することを求めているのである。労働をほんとに経験したことのない者の陥り易い労働の浪漫主義、或いはナチスのいわゆる「鋼鉄の浪漫主義」等に対して我々は批判的にならなければならぬ。明朗性に対する感覚を殺してしまうような事情が現在の社会にはあまりに多く存在しないのであるか。新しい時代の感覚の否定を命ずるような封建的な道徳が今日新たに若い人に強要されていはしないであろうか。このような事情において我々をデカダンスから救い得るものは我々の知性、しかも社会に向って眼を開いた知性である。知性は秩序の意識として自分と社会との間に正しい秩序を発見しなければならない。何事も社会に帰して自分のデカダンスを私かに弁護しようとしたり、また社会のことを他人のこととして消極的な独善主義者となったりすることは、すべて秩序の意識の不足に基いている。良識といわれるものはデカルトの思考が明かに示しているように秩序の意識としての知性である。けれどもデカルトが知性や秩序を静的な、固定的なものと考えたのに対して、今日求められているのは動的な知性である。運動の生活感情は社会のうちにおいて初めて現実的である。個人主義的と云って非難される今日の青年男女も、古い世代の人に比して遥かに多くの社会感覚を持っていることを我々は知っている。大切なことは感覚に秩序を与えることであり、それはもはや感覚の問題でなくて知性の問題である。

(一九三七年六月)

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