新聞の影響 (三木 清)

ゆっくり読むということは読書の規則とされている。エミール・ファグエの如きも『読書法』という書物の冒頭に、読むことを学ぶためには、先ず非常にゆっくり読まねばならぬ。それから次に非常にゆっくり読まねばならぬ。そして、諸君によって読まれる光栄を有する本の最後に至るまで、非常にゆっくり読まねばならぬであろう、と書いている。本は、それを楽しむためにも、それから教わるためにも、或はそれを批評するためにも、ゆっくり読まなければならない。フロベールも云った、「十七世紀のこれらのひとびと! なんと彼等はラテン語を知っていたか! なんと彼等はゆっくり読んだか!」緩に読むということは、昔から読書法の重要なものとされている。

印刷機械の発明、それに伴うジャーナリズムの発達は、いろいろな革命をもたらしたが、簡単に先ずそれはかくの如き読書法に挑戦した。ひとはやがて例えば云うであろう、「二十世紀のこれらのひとびと! なんと彼等はフランス語を知っていたか! なんと彼等は速く読んだか!」と。

新聞はそれ自身の性質として速く読まれることを要求する。速く読むためには、音読するよりも黙読すること、黙読するよりも目読することが必要であろう。子供が音読から黙読に移る際には約三倍の速さとなり黙読から行を読む目読に移れば少くともそのまた二倍以上の速さになると云われる。印刷技術の進歩及び普及とともに、言葉は話されるよりも読まれるもの、聴かれるよりも見られるものという傾向を著しく増した。ジャーナリズムは我々の生活における読書の量と速度とに大きな変化を与えた。

我が国の小学校における国語教育は現代のかくの如き傾向に対して十分に注意を払っていないらしい。読み方は普通には、音読に重きがおかれ、少量精査主義となっている。一例を挙げる。「コレハワタクシノハコニワデス。コノタカイトコロハヤマデス。コノヒクイトコロハカワデス。ヤマニハキガウエテアリマス。カワニハハシガカケテアリマス。」この教材に或る高名な訓導は三時間を充てているということだ。ところがそれは最劣等生と雖も二分内外をもって読み得る文章である。かような遣り方は、読みたくて堪らぬ子供の心理に反するばかりでなく、現代人の読書生活の一般的傾向に背くものではなかろうか。国語教育に経験のあるT氏の実験報告によると、小学初年級児童においては大体から見て平仮名習得数、読書量、速度は正比例するということである。「現在の読本は余りに頁数が少い。十二冊の読本の活字数は大凡そ十五万九千字で(尤も小学校教科書は改訂中である)、今の新聞の九頁余に過ぎない。新聞一日分にも足りないものを六個年かかって読もうというのだから、児童の辛棒も然ることながら、教師の辛棒と来てはほんとに同情に余りがある。」とT氏は云っている。そしてT氏は、小学校においては課外読物を大いに奨励する必要がある、殊に四年以下の低学年において最もその必要を痛感する、という意見だ。これには異論もあり得ることであろうが、然し新聞雑誌が読物の重要な部分となっている今日の実状においては、速く読むことを学ぶのも大切なことに相違ない。

尤も、今の人は新聞や雑誌を読み過ぎる、もっと単行本を読むように心掛けねばならぬ、という非難も甚だ正当である。けれども単行本にしたって、今日の如く沢山出るようになっては、速く読むことを知るのは必要なことであろう。

とにかく近代人は昔の人よりも速く読む習慣をもっている、それだから近代人は多くは黙読する。独居して静かに読書する習慣は古代においては全く特異のものであり、中世においても極めて稀で、その通常の形式と云えば朗読であった。黙読ないし目読という新しい快楽が人間の習慣となるに至ったのは、印刷術の発明の賜物である。とりわけそれは新聞の普及によって顕著となり、一般的になった。そして散文なるものの発達はそういうことと結び付いている。散文とは黙読される文章であると云うこともできる。可能的にも発声することなしに目で読まれて楽しまれるところに散文の特色がある。近代における小説の発達も人間の黙読の習慣と関係がなくはなかろう。「おお、なんとこれらのひとびとは小説を速く読むことか。」近代人の文学的生活の最も特徴的なものはこの言葉で言い表わすことができるであろう。唯、私はここで、最近におけるラジオの普及がそういう点で、われわれの生活にひとつの新しい要素をもたらしつつあることに注意しておきたい。

近代人たる人間を定義すれば、「人間とは新聞を読む動物である」と云ってもよい。今日最も好かれている文筆家と云えば、「記者」であろう。「著者」については、ひとは彼が自分たちに対する優越を押し付けるように感ずることがしばしばである。なんという威張った、勿体ぶった、高尚ぶった、生意気な男だろうという風な感情を起させない著者は稀である。それだから読者はつねに何等かの程度で著者に対して反撥する。結局において、多くの読者は新聞においては「記者」にしか書くことを許さないように見える。この者は発明に関して、コンポジションについて、スタイルについて優越性独創性の要求をもたない。彼等は有益である。彼等は報道する。彼等は自分を中心に、目立った位置におかない。彼等は特別の人間であるような振りをしない。このような者がデモクラチックな社会においては善き文筆家なのである。少くとも彼等が最も多く読まれるチャンスをもっている。

「著者」は想像されるほどよく読む者ではない。彼は他の「著者」に対する自負心、競争心、嫉妬、等々、のもろもろの激情に妨げられて、あまり読まないか或は悪く読む。そのような著者も「記者」の書いたもの、新聞は毎朝毎夕読んでいる。どんな読者も、雑誌の論文は読まないにしても、「編輯後記」だけは必ず読む。古いものを見ると、終日読書して暮したということがよく書いてある。我々の変化した生活事情はこのようなことを許さなくなった。その代りに終日物を書いて生活するという人間ができたのである。もしも緩に、従って続けて読むということが読書の本道であるとするならば、今の時代は読書時代ではなかろう。このような時代においてひとは特に新聞を読む。それが我々の全生活に及ぼす影響について精密な科学的研究のなされることが必要である。

(一九三三年七月)

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