教養と時代感覚 (三木 清)

最近ヒューマニズムの問題などとも関連して教養というものが問題になっている。教養といってもその内容はもちろん不変のものでなく各時代において違っており、また教養の本質についての見方も歴史的に変ってゆくものである。

教養は先ず或る時代の文化的水準に関係している。一定の時代の文化的水準はその時代の教養において示される。従って教養とは先ず自己の時代の文化的水準にまで自己を高めることを意味するのである。かような文化的水準として差当り考えられるものは時代の常識であろう。しかしながら常識はいわば教養のミニマムであって、教養といわれるものは何かそれ以上のもの、従って場合によっては何か贅沢なもののように考えられている。

常識があるだけではなお教養があるとは云われない。けれども時代に必要な常識を抜きにした教養は無意味なのであって、この点、教養を重んずる者がその時代の、特に社会や政治についての常識をとかく問題にしないという傾向があるだけ、注意することが大切である。教養は何か常識以上のものとして、時代の文化的水準の実際のみでなく、それの到達すべき理想をも現わしている。教養の要求は時代の文化の理想的状態に自己を高めようとする要求である。

次に注意すべきことは、教養はかように一定の文化の観念を含んでいるのみでなく、その根柢に一定の人間の観念を含んでいるということである。なぜなら教養といわれるものは、専門的乃至職業的知識であるよりも、人間を真に人間らしくし、人間性を完成するに必要な普遍的知識である、教養の問題がヒューマニズムの問題と関連しているのもそのためである。如何なる専門家も人間であり、真の人間にならねばならぬ以上、教養が大切であると考えられる。かくして教養の観念は人間の観念を含んでいる。しかもそれは単にその時代の人間の実際についての観念に止まらないで、その時代が到達せねばならぬとされる人間の理想に関係している。

時代の有する教養の観念はその時代の有する人間の観念を現わし、人間の観念の変化するに応じて、何が教養と考えられるかも変化する。社会や政治に関する認識が現代の教養の重要な要素でなければならぬと云うのも、現代における人間の観念が個人主義的なものでなく、社会的歴史的人間でなければならぬということに基くのである。

教養が時代の文化的水準を基礎とすること、またそれが時代の文化の理想、更に人間の理想を含むということ、すべてかようなことが教養と時代感覚とのつながりを示している。それが後に至って哲学や社会科学などの指導を要求するようになり、またならねばならぬとしても、教養そのものは根源的には時代感覚に指導されている。一時代の教養の内容及び方向を決定するのはその時代の時代感覚である。

実際、教養と時代感覚との結び付きは大切である。教養が時代感覚と結び付いていない場合、教養は単なる趣味の如きものとなってしまう。教養を趣味的なものと考えることは教養についての旧観念であって、真の教養のためには先ずかような観念が訂正されねばならぬ。

もとより趣味的なものが教養の内容に属すべきでないと云うのではない。そのような趣味も時代感覚に結び付かねばならないのである。趣味はとかく単に個人的なものになり易い。また趣味は出来上ったもの、過去のものの上に働く。

しかるに時代感覚はその本性上社会性を有するものであり、また時代感覚は過去のものよりも現にあるもの、将に来つつあるものに関している。もちろん真の教養にとって過去の古典についての教養は重要な要素でなければならぬ。しかし古典を主として教養を考えることは偏見に過ぎない。古典も時代感覚に基いて新たに理解されることによって真の教養となり得るのである。モダンであることが古典的であることよりも容易であるとは云い得ない。モダンであることが教養に属しないかのように考えるのは間違っている。教養のモダニティは時代感覚によって与えられる。現在の現実の連関から游離しているものほど教養的なものであるかのように考えることは間違っている。教養について時代性が問題にされねばならぬ。

かくの如きことと関連して、真の教養はまた単なる博識と区別されることが必要である。博識は却って屡々俗物を作るものである。ニーチェと共に我々は教養ある俗物を最も軽蔑する。教養はつねに大切であるが、その教養のために却って俗物になる危険が存することに注意しなければならぬ。時代感覚を持たないでただ教養を求める者にとってこの危険は最も大きい。真の教養は却って生の発展に有害な伝統、無用な博識を払い落して精神の自由を獲得するところにある。今日の如き社会の転換期において教養を求める者は特にこのことを考えねばならぬ。

時代感覚は感覚の性質上新しいものに向うのがつねである。従って時代感覚にのみ頼ろうとする教養は単に流行を追うという結果に陥る危険を含んでいる。これに対して古典的教養の意義を説くことは無駄でなかろう。新しいものに傾く時代感覚に真に進歩的な意義を負わせなければならぬ。そこにこそ真の教養が生ずる。

この場合、現代の新しい教養としての科学的教養の重要性を考えることが肝要である。教養を趣味的教養もしくは古典的教養と解する者は科学的教養の意義を顧みようとはしないのが普通である。科学的教養よりもモダンなものがあるであろうか。科学的教養を重要な教養と見做すことは新しい時代の時代感覚に属している。

科学はこれまで教養的なものとは考えられなかった。科学は一般に趣味といわれるものから遠いものである。しかし、それにも拘らず、時代感覚の変化は今日次第に科学的教養を重要な教養として認めるようになった。新時代の教養は何よりも科学的教養でなければならぬ。それは自然科学はもとより、特に社会科学に関する教養でなければならぬ。教養とは単に物を知ることでなく、自己の人間を形成することである。

しかるに自己はただ世界の中においてのみ形成されることができ、人間の自己形成はただ世界形成を通じてのみ達せられることができる。しかも世界を形成するためには世界に関する科学を獲得することが必要である。

(一九三六年一一月)

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