哲学ノート (三木 清)

レトリックの精神

今日、文学における新しい精神というものを求めるなら、それはあの、特に若い世代によっていわれている人間性の探求という標語のうちに見出されるであろう。人間性の問題は最初プロレタリア文学に対する批評として現われ、プロレタリア文学の発展の停頓ていとんと共に漸次普及した。そのために人間性の探求の要求は一見プロレタリア文学と全く対置的な立場に立つものであるかのように見えた。事実それはプロレタリア文学における社会的見方並びにイデオロギー的方法の人間性に対する重圧に向って抗議的に投げ掛けられた言葉であった。そこで人間性の探求の問題はこれをテマ的に展開しようとするや否や、必然的にプロレタリア文学を通じて持ち出された二つの重要な問題に、即ち一方では社会性の問題、他方ではイデオロギー性の問題に面接せざるを得ない。かようにして先ず第一に、今日人間性の探究について語る者は人間性と社会性との関係を問題にすることが普通のようである。この問題はたしかに重要な、そして根本的な問題である。しかし私はここに第二の、同様に根本的で重要な問題、即ち文学における人間性の探求とイデオロギーとの関係の問題に注意したいと思う。もちろん、二つの問題は、相互に関連しているのである。

文学におけるイデオロギーの問題というと、さしあたり文学と思想の問題というように考えられる。思想は文学にとって外的なもの、外部から附け加わって来るものと考えられるであろう。思想は客観的なもの、一般的なものと見られるであろう。イデオロギーをもって書くということは、過去のプロレタリア文学の多くにおいてはマルクス主義理論の適用ということになり、あの公式主義的類型的文学の傾向を生じ、文学は創作でなく論文や解説もしくはその代用物に堕し去ったという批評を行わせた。かような文学が人間性の無視、喪失、虐殺に終ったのは言うまでもないことである。それでは、与えられた思想によって書くのでなしに、作家がみずから思考して書くとしたら如何であろうか。事態はたしかに改善され得るように見える。しかしながら思考するということは或る客観的なもの、一般的な理論に到達するためではないか。思想はかような客観的なもの、一般的なものとして、思考するという主観的作用の結果、その生産物にほかならない。従って思想によって書くということは、思考して書くということの簡約化、経済化に過ぎないとも見ることができる。いずれにしても思考するということが客観的なもの、一般的なものを思考することである限り、文学における人間性の問題とイデオロギー性の問題とは相容れない二つの事柄でなければならぬように思われる。なぜなら人間性を問題にするということは具体的なもの、性格的なもの、個性的なもの、主体的なものを問題にすることであるからである。しかし他方、文学から思考を除外し排斥するということは無意味であるのみでなく、不可能であろう。文学は言語の芸術である。そしてロゴスというギリシア語が言語を意味すると共に思考を意味する如く、言語と思考とはどこまでも一つのものと考えられる。文学は思想の芸術ともいわれている。偉大な文学はつねに偉大な思想を含む。プロレタリア文学にしても単にイデオロギー的であるという理由で芸術的に価値が低いとはいわれないであろう。かくて文学における思想乃至ないし思考の問題は根本的な点において困難に出会うかのように見える。もし人間性の思考というようなものがあり得ないとすれば、人間性の探求ということも無意味な言葉になり終りはしないであろうか。

ここにおいて我々は思考の両重性に注意しなければならない。この両重性を現わすために、我々は論理学(ロジック)的思考と修辞学(レトリック)的思考という語を術語的に導入しようと思う。普通に思考というと、論理学的思考のことが考えられている。論理学は思考の学であり、その法則を研究する。この場合思考は客観的思考であり、一般的なもの、従ってまた抽象的なものの思考である。かような論理学に対してレトリックというものがある。レトリックは言語に関する学であるが、言語と思考とが一つのもの或いは不可分のものである限り、レトリックもまた思考の学の一種と見られてよい筈である。我々は実にそのように考える。レトリックはその本質において単なる雄弁術乃至ないしいわゆる修辞学でなく、言語文章の上の単なる装飾、美化の術ではない。近代の哲学はレトリックの問題を殆ど全く無視もしくは忘却しているが、それはその抽象性と貧困化とを語るものである。哲学は自己の本質を失わないためにここでも自己の端初、即ちギリシア哲学に還らなければならない。ギリシア哲学においては論理学よりもレトリックがむしろ先位を占めていた。この事実は哲学が生の現実、民族の社会的生活と現実的連関にあったことを示している。その『オルガノン』によって論理学の父と呼ばれるアリストテレスは、これと並んで『アルス・レトリカ』という極めて重要な著作を遺している。ただこの著作の有する意義は今日なお遺憾ながら一般には十分に理解されていない。レトリック的思考はロジック的思考に対して如何に区別することができるであろうか。いま当面の問題に関係する限りその点を明かにしよう。

誰かを相手にして話すとき、我々はつねに或るレトリックを用いている。そしてそのとき全く無意味に話しているのでない限り、我々は思考しつつ話しているのである。従って我々の用いるレトリックは我々の思考の仕方を現わしている筈である。もし如何なるレトリックにもよらないで話すとすれば、我々は自分を他人に十分に理解させることができないであろう。レトリックは特殊な思考の仕方であり、相手を説得することに、その信(ピスティス)を得ることに関係している。かようなものとしてレトリックも特殊な証明を含まなければならぬ。レトリックにはレトリックの固有の論理がある。レトリック的な証明はエンテュメーマと称せられる。それは論理学的な証明即ちシュロギスモスとは性質の異るものであるが、一種の論証であって、アリストテレスによるとレトリック的なシュロギスモス(推論)と看做み なされ得るものである。ただ論理学的な証明がロゴスのうちにあるのに反して、レトリック的な証明はかえってパトスのうちにある。レトリック的に話す、従ってレトリック的に思考する場合、我々は相手が如何なる状態にあるか、彼の感情とか気分を考慮に入れ、思考の仕方はそれによって規定されている。言い換えるとレトリック的に思考するとき、我々は相手のロゴス(理性)よりも彼のパトスに、もしくは彼自身のレトリック的思考に訴え、それにふさわしい言語的表現即ちレトリックを用いるのである。聴き手においてパトスが言葉によって動かされるとき、聴き手自身が証明の道具となる。 しかし更に重要なことは、かようなレトリック的思考はつねに話し手自身のパトスに結び附き、これによって規定されている。それは各人のエートス(性格)に従ってそれぞれ異るところの性格的な思考である。性格は根本においてパトス的なものである。レトリック的思考はその証明を話し手のエートスのうちに有するようなものである。それは各個人において異るばかりでなく、各々の国民、各々の社会、各々の世代において異っている。既にしばしば述べた如く、我々がパトスとか主体とかいう場合、決して単に個人的なものを指すのではない。例えばひとはドイツ哲学とフランス哲学とは考え方が違うなどという。このときもし考え方というものが、論理学的思考方法の意味であるとすれば、両者の間に差異のあるべき理由はないであろう。論理学的思考は普遍妥当性を有し、各国民各個人等において相違すべきでないからである。それぞれに相違し特殊性を有するのはレトリック的思考、主体的にパトス的に規定された思考でなければならない。同じように、もし我々がフランス文学の精神とドイツ文学の精神とは異るというならば、その差異は主として両者におけるレトリック的思考の相違にもとづくであろう。フンボルトは各々の言語は個性を有し、その国民の到達した世界観の産物であるといっている。言語は単に論理的なものではない。それは、世界観も同じく、パトス的なものの表現の方面を有している。

レトリック的思考は主体的に規定された思考であり、その根柢こんていにはパトスがある。それとの区別において、ロジック的思考は対象的に限定された思考と見られることができる。後者の内容が一般的なものであるとすれば、前者は個別的なものに関わるといわれるであろう。論理学的思考は真理性 Wahrheit に関わるに対して、レトリック的思考の関わるのはむしろ真実性 Wahrhaftigkeit である。これは客観的論理的に見ると蓋然的な価値のものでしかないであろうが、論理的なものよりも更に深い意味において真理であるということができる。レトリック的思考も思考としてロゴス的なものであるとすれば、このときロゴスはまさに聴くものであって、語るのはかえってパトスであるともいえるであろう。もろもろのパトスは、或いはささやくもの、或いは話すもの、或いは叫ぶものである。パトスは声なき声である。それは見られるものというよりも聴かれるものである。思考は根源的には見ることでなくて聴くことである。そこに思考にとっての根本的な或る受動性が存在する。近代の哲学は思考作用をあまりに一面的に能動的なものと考え、そのために抽象的な主観主義に陥らねばならなかった。根源的に能動的なものはむしろパトスであり、ロゴスはパトスの囁きや話し声や叫びに応じて語るものである。悟性の活動を動かすのは感情である。もとより我々は思考の能動的方面にも注意することをおこたるべきではない。思考の本性は受動的能動性にある。パトスは本来語るものですらなく、自然の如く沈黙せるものといえる。声なき声を聴くという意味ですでにロゴスは或る能動的なものである。しかし思考の能動性はアランがいった浄化作用というようなところに認められるであろう。アランは悟性の役割は感情とか感動とかいうものの浄化作用にあると述べている。思考との接触によりその浄化作用を通じてパトスは見られるものとなり、或る具象性を得てくる。思考の自然的進行はつねに感情からイデーヘ行く、とアランはいっている。イデーは見られたものである。いな、イデーは見られたものであると共に見るものである。なぜなら、このようなイデーはその根源において能動的なパトスに起因し、絶えずこれによって担われているのであるから。このイデーが芸術家の物を見る「眼」にほかならないであろう。

もしこのイデーを思想と呼ぶならば、文学における思想というのは根本においてかくの如きものを意味するであろう。かくの如き思想は文学にとって外部から附け加わって来るものでなく、かえってそれなしには創作活動もあり得ないようなものである。それは客観的世界の概括乃至ないし説明としての理論の如きものでなく、かえってその根柢こんていには深いパトスを蔵している。そのような思想は公式的なもの、一般的なものでなくて、性格的なものである。作品に含まれる思想はただその作家とパトスを共にすることによってのみ真に理解されることができる。かくの如くパトスを共にする(シュムパテイア)ところの、この意味での同情或いは共感にもとづく思考である点に、レトリック的思考のひとつの重要な性質がある。直観と呼ばれるものはこの意味における同情的思考であろう。ベルグソンも同情と直観とを一つのものに考えている。思考は純粋になればなるほど孤独になるのでなく、むしろ同情的になる。同情というのは、単に対象と一つになるということでなく、もと人と人との関係である。パトスの対象となるのは何よりも人間である。レトリック的思考の根柢こんていにはつねに人と人との関係がある。それは論理的であるよりも倫理的である。レトリック的思考は我と物との関係ではなく我と汝との関係において成立し、かかるものとして本来最も具体的な意味においてディアレクティッシュなものである。

私はイデーは見られたものであると共に見るものであるといった。従っていまの場合思想は思想であると共に思考である。これは思想が生命的なものであることを意味する。このような思想はすべてみずからスタイルをそなえている。いな、思考のはたらきなしにはスタイルはあり得ない、しかしこの思考の根柢こんていにはパトスがあるのであり、従ってまたスタイルはパトスのうちにあるのである。フロベールは書いている、「スタイルは言葉の下にあると同様に言葉の内にある。それは作品の魂であると同様に肉である。」言葉の下にあるもの、作品の肉であるものはパトスにほかならないであろう。しかしこのものはスタイルの価値のものであるが、なおスタイルではない。スタイルは作家の思考である。それは作家が物を見る「眼」である。スタイルは装飾のことでもなければ、単にテクニックの問題でもない。ひとはレトリックによってスタイルが作られるというように考えている。まことにその通りであろうけれども、そのときレトリックはひとの考える如く単なる修辞学、文章の美化の術のことではあり得ない。スタイルを作るのは我々のいうレトリック的思考でなければならぬ。

かようにして人間性の探求とレトリック的思考との結合はもはや明瞭である。我々の日常の言語においてさえ我々の用いるレトリックは相手の人間性、彼の性格、気質、感情、気分等の理解と結び附いている。人間性の理解なしに用いられるレトリックは無駄であり、無意味である。レトリック的思考は人間学的思考であるということができるであろう。人間性の探求は、かかる探求者即ちモラリストと呼ばれる者を定義しつつヴィネエが述べた如く、人間性をドクトリン化することでなく、人間性についてのイデーを与えることである。人間性をドクトリン化することは心理学、生物学、社会学など、種々の客観的科学に属している。人間性についてのイデー、上にいった意味での思想を与えるのは文学が第一であろう。この場合人間性の探求における思考は概念的論理的思考ではなくレトリック的思考である。論理学的思考が客観的なものの思考であるのに対して、レトリック的思考は主体的なものの思考である。このような思考は或る直観的なものであり、芸術家の根本能力とされる想像力或いは構想力はこのような思考を離れてないであろう。人間性の探求においては、科学の二本の松葉杖といわれる観察と帰納の方法もこのような想像力の生命的な力に生かされるのでないと前進することができない。ひとはしばしば人間性の探求はモンテエニュなどの場合のように懐疑によると述べている。ところでこの懐疑の固有の立場はロジック的思考の立場ではない。論理主義の哲学者は懐疑論は自己矛盾に陥り、論理的に不可能であると論じている。懐疑の立場はレトリック的思考即ち主体的に規定されたパトス的な思考にとってのみ真実性を有するのである。今日文学の再建が問題になっているとき要求されるのは、懐疑とか不安とかとは反対に、意欲の確立であるといわれるであろう。意欲は如何にして確立され得るか。思考することなしには不可能である。しかしそれは作家が一定のドクトリンを確立することではなく、まさに意欲を確立することであり、彼の思考がパトスからイデーヘ行くこと、作家の眼が、思考のスタイルが確立されることである。意欲は燃焼するも、それを見ゆるまた物を見えしめる火とするのは思考のはたらきである。

アンドレ・ジイドはこう書いている、「文学において自己を怖れるとは何という馬鹿げたことであろう。自己を語ること、自己に関心をもつこと、自己を示すことを怖れるとは。(フロベールの苦難の行の必要は、彼にこの偽れる悲しむべき効果を考え出させたのである。)」レトリック的思考は、如何なる場合にも自己を語り、自己を示している。文学において自己を語るというのは、例えば私小説においてのように、単に自分に関することを書くことではない。文学の言葉においてはパトスはロゴスに向って告白するのである。上にいったように、ロゴスはパトスの声を聴くことによって語る、そこに最も深い意味での告白がある。かような言葉が真に表現的である。ジイドは続けて書いている。「パスカルはモンテエニュに、己を語るといって叱責した。そしてそれを滑稽な痒がりだとした。しかし彼みずから、自分の意に反して、そういうことをしたときほど、彼が偉大であったことはない。彼がこう書くとする。『キリストは人のために自分の血を流した』と。その彼の言葉は何等の効果をももたずして落ちる。だが、『私は』という言葉がはいって来るや否や、すべては生きてくる。そしてこの神が彼のもとに来るならば、彼を君僕で呼ぶであろう。『僕は君のためにこんなに血を流した』と。この特別の血を、君のために、ブレーズ・パスカルよ……そうすれば、我々の誰でもが、この讃うべき君僕の言葉使いに、己が理解されていることを感ずるのである。」いったい自己を語るということは現実的な意味においては他の自己に対してのみ可能である。私が私を語り得るのは汝に対してのみである。物に対しては私は私を真に語ることができない。豊島与志雄氏は右の文章を引いた後、書いている。「この君僕の言葉使いは、文学の上では直接には為されない。然しながら、そういう言葉使いが為されてるかどうかは、読者の胸に伝わるものである。そしてそれによって読者は、作者の意欲の性質を感ずるのである。これは文学の深奥な道である。 然し、感性に訴えるこの道は、理性に訴える論説や説教の道よりも、案外短距離である。」この君僕の言葉使いこそレトリックの精神を示すものである。この精神によって作家は真に読者に呼び掛けることができる。レトリック的に思考することによって作家は自己の意欲、自己の思想を読者に伝えることができる。そのとき作家は理性や論理に訴えるのでなく、パトスに、この感性的なものに訴えるのである。しかもレトリック的な思考はつねに我々の現実の生活のうちに含まれ、生きている具体的な思考にほかならない。もちろん、そのような君僕の言葉使いは文学の上で直接になされ得るものではないであろうが、レトリックの精神は生かされなければならぬ。問題は単に修辞上のことでなく、思考方法のことであり、単に表現の仕方に関することでなく、文学の精神に関することである。

レトリックは元来社会的なものである。それはギリシアにおいて法廷、民衆議会、市場等、国民の社会生活の中から生れた。アリストテレスによると、レトリックは弁証論の孫であると共に、倫理学の孫である、そして彼にとっては倫理学と政治学とは別のものでなかった。レトリックは単に会話の術でないにしても、決して独語ではないのである。レトリックは自分を相手に、社会に説得する方法であった。それは論理学によって論証し説明するのではなく、相手のパトスに訴え、相手の信(ピスティス)を得ることに努める。けれども思考なしには説得することはできないであろう。真の文学は固有の論理によって説得する。それは論理によってでなくレトリック的思考によって説得するのである。それが説得するという意味で如何なる文学にも宣伝的意義が含まれるということができる。文学が宣伝であるということは、文学に議論や説教を勧めることではなく、実にレトリック的に思考するように要求することである。パトス的な思考がレトリック的であるということは、パトスの根本的な社会性を現わしている。文学上の迫真力というものも、このような思考とその固有の論理の説得力を除いて考えられないであろう。ただ物を忠実に描くというような単なる客観主義からは迫真力は生じて来ないのであって、そこにレトリック的思考がはたらかねばならぬ。レトリックは独語でなく、相手に向っての思考であるところから、レトリックと一緒に考えられる種々の悪弊、例えば単に読者における心理的効果をのみあてこんだり、またそのために徒らに装飾や美化を行うというようなことが起りやすいであろう。しかしながらレトリック的思考の本性はそのようなところにあるのではない。この思考も思考として厳密を要求する。自己のパトスにおける真実、主体的真実性なしに真のレトリック的思考はあり得ない。思考の主体的真実性を求めるのがレトリックの精神である。文学の社会的機能を考えると同時に自己における主体的真実性を求めるということがレトリックの精神であろう。論理学的思考において厳密であることはむしろ容易であり、レトリック的思考において厳密であることは極めて困難である。孤独な思考は真実であり得ても、レトリック的思考には虚偽が混入しやすいものである。

現実的な言葉は、アリストテレスがいったように、話す人、それについて話される物、聴く人という三つの要素を含んでいる。これに応じてレトリック的証明も具体的には三つの要素から成り立つと考えることができる。それは上に述べた話し手のエートスによる証明、聴き手のパトスによる証明、そして話される物についての客観的証明である。初めの二つは広い意味ではパトスにおける証明と見られることができ、これに反して最後のものはロゴスによる証明である。従ってレトリック的思考も完全であるためには論理学的思考の要素を欠くことができない。対象的なもの、客観的なものの思考は論理学的でなければならぬ。かような論理学的思考の生産物を普通いわれるように思想と呼ぶならば、思想は文学にとって何等不必要なものではなく、むしろそのような思想の乏しさが我が国の従来の文学における欠点であった。そのために日本の文学には局部的な直観の深さや思考の細かさはあるにしても、西欧の文学に見られるような綜合、構成、外延に欠けていた。我が国の作家は思想に対して余りにはなはだしい軽蔑、反感をいだいているのがつねであった。この点においていわゆるプロレタリア文学がイデオロギーの重要性を力説したことには意義があったといわねばならぬ。つぎつぎに現われる印象を何等の思考も加えないで綴り合わせることがリアリズムではない。個々の印象を概括し、統一し、普遍化し、かくして偶然的なものを除き、本質的なもの、必然的なものを引き出して来ることによって、現象を展望する客観性は得られる。芸術は具象性をもたねばならぬからといって、現象を無差別に描かねばならぬのでなく、かえってそれを整理し、その間の連関を認識し、統一して再現しなければならない。そこに論理学的に思考することが必要であろう。 しかしながらその場合、論理学的な思考はただそれだけ独立に進行するのでなく、つねにレトリック的思考と結び附き、むしろこのものの一要素、一側面でなければならぬ。思想はこのようにして生きた思想となり、それ自身が或る直観性を得てくる。作家がイデオロギーを取り入れること、経済思想、社会思想、哲学思想等を勉強することは必要であり、我が国の作家にはもっと勧められてもよいことである。それらの理論は何よりも客観の整理に役立つであろう。けれども文学が何かそのような理論の応用という如きものであり得ないことは明かである。イデオロギーは作家においてレトリック的に思考され直さなければならぬ。これは単に理論を個別化し、特殊化するというのとは別のことである。イデオロギーは自己のパトスにおいて確かめられ、性格化され、内的に必然化されなければならない。そうすることによってイデオロギーは作家の眼を養うことができ、真の思想とも真のイデオロギーともなり得るのである。

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