哲学ノート (三木 清)

格率的倫理が没人格的或いは没人間的であるのに反して、人間的倫理の中心にはまさに人間 Personnes が立っている。いつの時にもこの倫理を具現しているような人間が存在する。イスラエルの予言者、ギリシアの賢人、キリスト教の聖者などはその著しい例である。格率的倫理は、それが没人格的な定式に帰せられるに応じてより純粋で、より完全であるとすれば、人間的倫理は、それが十分に自分自身であるためには、模範となるような特別の人格において化身されることが必要である。前者の一般性は一つの法則が人々によって普遍的に受け容れられるところに存し、後者の一般性は一人の模範に人々が共通に従うということにかかっている。ベルグソンの言葉を用いると、格率的倫理は「没人格的impersonnelles な社会的諸要求によって命ぜられた命令 ordres の体系」であるのに対して、人間的倫理は「人間性のうちに存する最も善いものを現わす人間によって我々の各々の良心に投げられた呼び掛け appels の総体」である。

これまで大部分の倫理学は主として格率的倫理を問題にしてきた。そこでは多くはドグマ的倫理が問題であった。これに対してベルグソンが命令ではなく人間を中心とするような倫理を取り上げ、その重要な意味を認めたのは注目すべきことであると思う。倫理は一般に格率的なものであると見るのは偏見に過ぎない。また命令的でなければ倫理的でないと考えてはならぬ、命令はむしろ特定の倫理のとる形である。人間的倫理はベルグソンのいうように命令ではなくて呼び掛けである。あらゆる倫理が強制もしくは圧迫 Pression を含むのではない。人間的倫理はかえってベルグソンのいうように希求 aspiration である。我々にとって模範であるような人間は、我々に向って命令するというよりも、ただ彼がそこに在るということで我々に呼び掛ける。我々は彼にまで高まろうと憧れ、彼に等しくなろうと求め、彼に応じ、彼に従う。彼は命令によって我々に倫理的にはたらきかけるのではない、彼の存在そのものが我々のうちに倫理的な希求を喚び起すのである。このような彼の人間、彼の存在は、格率の体系に分解してしまうことの到底できないものである。人間的倫理が抽象的一般的なものでなくて性格的なものであることは明かである。もとより格率的倫理も抽象的一般的なものではなく、いわゆる閉じた社会の倫理として性格的なものである。国民とか民族とかいうものもそれぞれ性格的である。およそ倫理は性格的なものとして倫理的である。エートスという語はもと性格を意味した。性格的なものはパトス的なものであって、単にロゴス的なものではない。格率的倫理も人間的倫理も共にパトスを根柢こんていとしている。しかし二つの倫理が区別される限り、そこに何等かパトスの種類の区別がなければならぬ。この区別は如何なるものであろうか。

ベルグソンは感情 émotion に二つの種類もしくは変化、もしくは表出形態を区別している。第一のものにおいては、感情はひとつの観念または表象に継続する。この場合感情的状態は、これに何等負うことなく自分自身で足りているひとつの知的状態から従ってくる。それはそこに落ちてきた表象によって喚び起された感受性の震動である。しかるに表象によって決定されるのでない他の種類の感情がある。それは、それに伴う知的状態に対する関係において、結果でなくむしろ原因である。それは表象を産むものであって、表象から生れたものではない。第一の性質の感情は知性下 infra-intellectuelle のものと呼ばれ、第二の性質の感情は超知性 supra-intellectuelle のものと称せられる。即ち、表象の結果であり、表象に附け加わる感情のほかに、表象に先立ち、表象を潜在的に含みそして或る点まで表象の原因であるような感情がある、とベルグソンはいっている。後の種類の感情は創造的である。創造は何よりも感情を意味する。単に文学や美術のみでなく、科学上の発見についてもそのようにいうことができる。そして倫理に関してもまたそうである。ベルグソンによると、人類的倫理はこのような超知性的な感情にかかわり、これに反して社会的倫理はむしろ知性下的な感情に関係している。そこで我々の言葉を用いて説明するとこういうことになろう。倫理はパトスのうちにある、パトスは客体とはどこまでも秩序を異にする主体の主体性の意識として根源的であり、従って深いパトスは表象によって土台附けられているという如きものではない。人間的倫理は本来このような深いパトスに根差すのでなければならぬ。けれども主体は客体と弁証法的な関係にあり、主体の側に根源性は存しながらしかも主体が客体から規定される方面があるように、パトス的意識にはまたロゴス的意識によって規定される方面がある。このような関係においてパトスにも段階、その深浅の別があるであろう。主体的になることによってパトスは愈々いよいよ深くなり、それに反して知性下的といわれるような感情は客体の方向に浮んだ、表面化された浅いパトスである。格率的倫理も倫理である限りパトスにかかわるものであるが、この場合パトスはむしろ知性下的なものである。主体と客体とはもとどこまでも秩序を異にしている。従って、主体がいわば客体に縛られ、そのうちに埋れているような場合、格率的倫理の場合においては、パトスは知性下的であるのに反して、超知性的といわれるような深いパトスに根差した人間的倫理の場合においては、主体は客体に対して内在的連続的でなく、超越的非連続的関係に立っていると考えられるであろう。ベルグソンは社会的倫理と人類的倫理との差別は程度上のものでなく、閉じたものと開いたものというような性質上のものであり、両者の関係は飛躍的非連続的であると論じているが、そのことは原理的には主体と客体とを全く秩序の異るものと見ることによって初めて理解され得るであろう。

そこで明かになったことは、人間的倫理においては主体の客体に対する超越或いは非連続の関係が含まれるということである。かような意識を私はミュトス的意識と名附ける。格率的倫理がドクサ的倫理であるとすれば、人間的倫理はミュトス的倫理であるということができるであろう。人間的倫理の中心に立っている模範の意味を有するような人間はつねに多かれ少なかれミュトス化されている。かような人間は英雄(この語の伴い得る種々の通俗的意味を離れて)と呼ばれ得る。人間的倫理はベルグソンのいうように英雄の呼び掛け l’appel du héros によって生ずる。英雄というのは客観的に与えられたままの存在ではない。例えばソクラテスが今も我々にとって模範の意味を有する限り、彼は単に過去の存在でなく、現在なお生きているのでなければならぬ。しかるにこのことがあるのはミュトス化が行われるからである。我々は我々の模範を我々の間に求めることもできれば、千年も前の過去に見出すこともできる。このようなことが一般に可能であるのは、他の機会に論じた如く、主体と客体とが、従って私のいう事実としての歴史と存在としての歴史とが、単に内在的連続的でなく、また超越的非連続的であって、そのためにひとは彼の生命の燃焼せる事実としての歴史の立場から存在としての歴史の秩序における如何なる時へも自由に降り立ち得るからのことでなければならぬ。パトスによってミュトス化が行われるのはこのような関係においてである。英雄は単に客観的に与えられたものでなく、同時に主体的に、我々の深いパトスから創造されたもの、つねに新たに創造されつつあるものである。かようなものとして彼は現在に生きている。 パトスはその深みにおいて真に動的なもの、真に現在的なものである。ベルトラムはニーチェに関する彼の書物のなかで、あらゆる出来事のうち歴史として存続するのは、つねに究極は――教会的な、浪漫的な、或いは伝奇的な附随的意味を離れて、レゲンデ(ミュトス)である、といっている。「かくの如き教会的意味を離れた意味でのレゲンデは、歴史的伝承の最も生命的な形態である。その最も原始的な同時にその最も究極的な、同時にまたその最も古い、そしてその最も深い形態である。ひとりそれのみが、つねにはたらけるものとして、太古と今日とを真に結合する、ただそれのみが聖者と民衆とを、英雄と農民とを結合する、予言者と後代とはただここにおいてのみ出会う。」ベルトラムによると、過去の人格は、過ぎ去ったものの知識及び認識としてではなくただミュトスとしてのみ生きて歴史に伝わるのである。かような見方はもとより科学としての歴史の立場においてはそのまま承認することは許されないであろう。しかしそれは少くとも倫理の立場によってはより真であり得るように思われる。ただ、我々はベルトラムの如き根本において有機体説的な歴史観――そこでは歴史も結局自然となる――を承認することができないと共に、ミュトスを歴史的伝承の形式という風にのみ考えることができぬ。真に倫理的な意味を有するミュトスは単に歴史的伝承的なものではなく、むしろベルグソンのいうような前進的 la marche en avant のものであるべきであろう。ミュトスはパトスから生れるのであるが、パトス的なものは動的なもの、現在的なもの、未来がそのうちに喰い入れる現在的なものである。パトスは根源的には客体的存在によって規定されるのでなく、真に深いパトスは主体的事実を根源的に表出する。しかるに事実は存在に対して存在の根拠の意味をもっている、それ故に倫理的なミュトスは生成した人間を現わすよりもむしろ人間の生成原理を現わすと考えることができる。「人類 l’humainité を愛する力を汲み取るひとが感じたのはつねに人類の生成原理 le principe générateur de l’espêce humaine との接触においてである」、とベルグソンもいっている。人間的倫理は深まるに従って存在の根拠ともいうべき主体的事実、事実としての歴史に接触する。かようなものとしてそれはその純粋な姿においては伝統的であるよりも創造的である。

ここに社会的歴史的見地を入れて見ると、人間的倫理のミュトス的性格は一層明瞭になるであろう。ミュトス的意識は社会の危機における、歴史の転形期における意識形態として特殊な意味をもっている。この時期においては倫理は多くミュトス的形態をとる、そしてそれがおのずから英雄主義的なものになるということは、我々の屡々しばしば現実の歴史において経験することである。多難の時代には英雄が現われる、という風にいわれる。これは種々の意味に解釈することができるであろうが、その理由のひとつが、かような時代には人間のミュトス化の傾向が著しくなるところにあるということは否めないであろう。そのときひとは彼等の行動において何人かに呼び掛けられ、彼に従い、彼についてゆくことを欲する。何人かが多かれ少なかれミュトス化されて英雄になる。倫理は格率的でなく、人間的になるのである。危機の意識において格率的倫理が揺り動かされるとき、人間的倫理が求められることになるのである。倫理的なミュトスはどのようなミュトスでもなく、人間のミュトス、ミュトス的人格であり、そこにこのミュトスの倫理性がある。もっともどのようなパトス的意識もロゴス的意識と結び附いている、従って深いパトスから発した倫理もやがて或る教義に、知性における説明的な表象にまで展開されるに至る方面のあることは当然であろう。

人間的倫理はつねに性格的である。もとよりそれが単に個人的であるという意味ではない。それは人間のミュトスを求めるという意味においてすでに個人的であることができぬ。多数の者がひとつの世代、ひとつの民族がひとりの人間を模範として行動することがある。その場合も、むしろそのような場合こそ倫理は性格的である。パトスは本来性格的であり、性格的なものはパトス的なものである。そして単に個人的なものは真に性格的でなく、ひとは他とパトスを共にすることによって真に性格的となる。その意味では倫理はパトスのうちにあるというよりもシュムパテイア(パトスが共なること)のうちにあるというべきであろう。ところでパトスは根源的なものとして人間に属している。人間はその根本的規定において単に客体でなく、同時に主体であるからである。従ってパトスに深浅の別があり、そのミュトス化に程度の差があるにしても、我々はつねに多かれ少なかれ他の人間をミュトス化しているのである。倫理的小英雄はつねに我々の傍にある。子供の親に対する場合が既にそうである。ミュトス的倫理は一定の歴史的場合において特に顕著になるにしても、それはつねに何等かの仕方で日常の生活のうちに含まれ、自覚していると否とにかかわらず、それによって我々の現実の倫理的生活は生命的なものとなっている。ベルグソンのいうように習慣を基礎にする格率的倫理が生命的なものとなり得るのも、それが人間的倫理と結び附くからのことであろう。格率的倫理が創造性を欠くのに反して、人間的倫理は創造的である。創造の根源はパトスである。従来の倫理学において多く問題とされていない倫理的文化における創造性に注意を払うことが大切であると思う。倫理も歴史的なものである。倫理的英雄たち、小英雄たちのジーニヤス――彼等のパトスが彼等のジーニヤスである――によって倫理上の大小の諸創造はつねに行われてきたし、また絶えず行われつつある。タルドも模倣論の中でいっている、「諸義務は、久しい以前からそれを実行している者にはいかにも単純なものに見えるにしても、すべてその出発点においては個人的な独創的な発明であった。これらの発明は他の発明と同じように次々に現われ、そして次々に伝播でんぱしたのである。」ドグマ的となって格率として存在する倫理にもその根源にさかのぼると創造的なものがあったであろう。人間的倫理はつねに何等かの程度において創造的である。そこでは模範となる人間が模倣されるようにいわれるが、それが人間的倫理である限り模倣は決して単なる模倣でなく、必ずそこには創造の方面が含まれている。根源的なパトスの創造性が何等か動いていない限り倫理は真に人間的であることができぬ。単なる模倣の過程においては倫理は反対にドグマ化され、格率化されることになるであろう。

しかしながら右に述べた限りでは人間的倫理というものがなお種々の曖昧さをもっていることは争われない。そしてそれは、一方では英雄主義的乃至ないしニーチェ流の超人的倫理に、他方では神秘主義に陥る危険を免れ難い。ベルグソンが人類的倫理として説くところのものに実際にかような曖昧さ、かような危険が含まれていることは見逃せないであろう。むしろ彼はみずから進んでその倫理の英雄主義及び神秘性について語っている。倫理に関するこのような見方が全部は間違っていないにしても、それだけでは不十分であると思う。それ故に我々は格率的倫理に対する関係において人間的倫理というものを一般的には認めながら、このものをいま少し仔細に考察しなければならぬ。

すでに述べたように人間的倫理はその本性において強制ではなく希求である。ベルグソンは人類的倫理は義務の倫理でなくて希求の倫理であるといっている。しからば希求的であるようなパトスは本来如何なる種類のものであろうか。それはプラトン的なエロスであると我々は考える。人間的倫理のパトスは格率的な倫理の場合のように単なるインテレストではない。ここでは人間の在り方は単にあの interesse でなく、すでに主体的な方向に深まっている。客体に対する主体のなにほどかの超越の関係がないところでは、倫理は一般に人間的であることが不可能である。インテレストの倫理は人間的倫理であることができぬ。このものはエロスの倫理でなければならぬように思われる。エロスの根本的性質はプラトンもいったように希求である。人間的倫理はもと命令するのでなく、説教するのですらない。そこでは「人間」は自分を示すだけでよいのである。彼の現在はそれだけで他の人間を倫理的に動かすに足りる、人々は彼の状態に向って希求する。すべてこれらのことはインテレストよりも深いエロスのはたらきに属している。ところで更にエロスの根本的性質は、これまた、エロスについてかつて最も深い思索をめぐらしたプラトンが論じているように、その中間者的性質である。エロスは中間者的性質を有するものとして、その根本的規定において中間者であるような存在の優越な在り方を現わしている。そして人間はまさに中間者である。かようにして人間的な倫理はエロス――我々はこの語をつねにプラトン的な広さと深さとにおいて理解する――にもとづくと考えることができるであろう。しかしながら中間的ということはあたかも中間的として或る曖昧さを含むであろう。人間というものは曖昧な存在である。我々が人間的倫理といってきたものが曖昧であるのも偶然ではなく、むしろ人間の存在の根本的な曖昧さ、そしてエロスの中間者的性質にもとづくのである。人間的倫理は単なる人間的倫理としては曖昧であることを免れない。格率的倫理は或る自明性を担っている、けれどもそれはまさに格率的であって人間的ではない。エロスはインテレストとは異っている。エロスにはすでに客体からの主体の、主体の方向における超越もしくは深化が含まれている。しかしまたエロスは主体のどこまでも主体的なものに向う愛ではなく、主体のすでに客体的なものに向う愛である。

右の如く人間的倫理には或る根本的な曖昧さが含まれるのに反して、格率的倫理は何か明瞭なものであるかのように見える。ここでは倫理はドグマ化され、概念化されて、いくつかの徳目、従ってまた不徳目が数えられ、明示されている。この倫理は格率において類型化されており、人間を類型化する。そのことはいわゆる倫理的文学即ち勧善懲悪の文学における人間のタイプを見てもわかるであろう。この種の文学においては徳目、それ故にまた不徳目に従って、それを原理として、人間のタイプが構成される。そしてこのようにして構成されたタイプは類型的なものであるのがつねである。かような文学が善い意味においても悪い意味においても通俗性を有するのは、その基礎となっている倫理が格率的倫理であって、このものが上に述べた意味において通俗倫理であるためである。格率的倫理は人間を類型化するが、それは主体の側面から見るとやはりまた曖昧なものである。この範躊は「ひと」であった。「ひと」とは誰であるか。我のことでもなく汝のことでもなく、そして我のことでもあり汝のことでもある。そこにこの倫理の曖昧さがある。この倫理は格率において客観的な概念的な明瞭性を与えられているとはいえ、その根源はベルグソンの説くように習慣である。格率的倫理はコンヴェンショナルなものである。コンヴェンションが成立するためには、人間の生活は単に本能に委ねられることなく、知性のはたらきが加わらねばならないであろう。けれどもこのとき知性は倫理の明瞭性を規定するものでなく、主として実用主義的なものである。習慣はインテレストにもとづき、コンヴェンションはパトスに担われることによって通用するのである。格率的倫理は家族とか国民とかに関係している。それはいわゆる閉じた社会として客観的に見ると限定されたものであるが、主体的に見るとなお限定されぬものを含んでいる。それはパトス的な結合である。例えば民族というものは血とか地とかを基礎として考えられるが、血や地は単に客観的自然的なものとしてでなく、或る主体的自然的なもの、従ってパトス的なものとして理解されるのである。

格率的倫理における「ひと」が曖昧なものであるように、人間的倫理における「人間」も曖昧なものである。それは英雄という意味でミュトス化され、神秘化されている。この倫理も主体的に見るとなお曖昧なものであって、我々はその根柢こんていとしてエロスを見出した。エロスは如何にして限定され得るであろうか。エロスはプラトンにおいてのようにイデアに向うものとされ、イデアの限定によって限定されると考えることができる。しかしイデアの限定は要するに対象的な限定にほかならず、そのような限定によっては倫理は人間的倫理としての特性を失うばかりでなく、主体的には依然として限定されぬものを残している。プラトンによるとエロスはデモンである。主体的限定の根拠が明かにされるのでなければ倫理は根本において限定され得るものでない。そこで対象的にイデア的なものを考えるのでなく、カントにおいてのように主観的に実践理性というものを考えたならば、如何であろうか。カントは何等のインテレストにも関わらない純粋な意志の倫理を確立しようとした。しかし彼の説く人格の倫理にも不十分なところがある。カントはなお倫理は一般に格率的でなければならぬという偏見に囚われ、倫理をいわゆる断言的命令の形で現わした。断言的命令は、「汝の意志の格率がつねに同時にまた一般的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」という。かような形式によっては倫理は非個性的、従って没人格的とならざるを得ず、人格の意味はカントの意図に反して否定されてしまわねばならないであろう。カントにとって人格とは理性的存在を意味するが、理性はすべての人間において共通な普遍的な要素であるから、これを基礎としてはそれぞれの人格の固有性或いは独自性は考えられないのである。自由な人格の結合と考えられたカントのいわゆる目的の王国の基礎は単なる理性に求めることができぬ。

このようにしてイデアの限定によっても、理性の限定によっても、倫理は限定され得ないとすれば、如何に考うべきであろうか。倫理の含む根本的な曖昧さは客観的な限定によっては克服され得ないものである。真に主体的なものの方向における倫理的限定は如何に考えらるべきであろうか。ここにエロス的愛よりも深いアガペ的愛の問題がある。アガペはパトス的なものであるがまた同時にロゴス的なものである。ちょうど感覚という場合、それは一方原初的な対象的意識を現わすと同時に、他方感覚的ということは肉慾的というように対象と直接に結び附いたパトス的なものを現わすのと同様である。感覚が客体的方向の極限におけるロゴスとパトスの統一であるとすれば、アガペは主体的方向の極限におけるパトスとロゴスの統一である。このようなアガペの限定によって初めて倫理は真に限定され得るように思われる。アガペは主体的に限定された我と汝の関係として成立する。エロスが対象に連続的融合的に結合しようとするのに対して、アガペは我に附いたものとして汝を内容に、対象にもつというのではない。我と汝は絶対に非連続的である。アガペは我の体験という形式に入るものではない。アガペは我と汝の間に生ずるのである。このようなアガペに至るまでは人間的倫理はどこまでも曖味にとどまるであろう。

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