哲学ノート (三木 清)

かように我々の行為をすべて制作的或いは形成的活動と考えることに困難を感ずる者もないではない。もっともその困難は右に述べた二つの点に注意することによって差当り除かれ得ることである。即ち先ず生命あるものはすべて環境に適応すると共に自己に適応することによって生活するということ、次に人間の形成も根本的な意味においてはひとつの制作であるということを考えなければならぬ。しかしそれにしても実践と制作とはなお区別を要するのではなかろうか。なるほどアリストテレスの如きも両者の差異について論じている。それらは先ず共に観想から区別される。アリストテレスによると、観想の対象がつねにあるもの、不変なものであるのに反して、制作と実践とは他のようにでもあり得るもの、変ずるものを対象とする点において同じである。後の二者の差異は、制作においては目的は活動そのものではなくて他のもの即ちそれによって作られる作品であるのに反して、実践においては活動そのものが目的であるというところにある。前の場合目的は活動の外にあるのに反して、後の場合それは活動の内にある。しかしながら実践と制作とはその対象の性質が同じである以上、如何にしてこのような差異が考えられ得るであろうか。『形而上学』第九巻第六章においてアリストテレスはキネシスとエネルゲイアとを区別している。キネシスは運動を意味するが、それはテロス(終末、目的)にない運動である。例えば、家を建てることはひとつの運動である。家を建てたときこの運動はテロスに達するのであるが、それと共にこの運動は終り、これが運動にある限りテロスにないのである。従って家を建てると同時に建てたということはできぬ。しかるにエネルゲイアと呼ばれるすぐれた意味の運動においては、例えば、視ると同時に視た、考えると同時に考えたということができる。この場合、視ることの目的は視ることのほかになく、考えることの目的は考えることのほかになく、即ち活動そのもののほかに活動の目的はないからである。これに反して家を建てる活動においてはこの活動そのものではなく建てた家が目的である。かようにしてアリストテレスが実践と制作とを区別して実践においては活動そのものが目的であるという場合、その実践は視るとか考えるとかいうこと、要するにテオリア(観想)を意味するであろう。まことにアリストテレスは、観想はひとつの実践であるのみでなく、最高の実践であると考えたのである。制作と実践とを区別しようとした彼は観想そのものを実践と見ることになったのである。その際行為と見られるものの対象は他のようにでもあり得るものではなく、不変なもの、永遠なものでなければならぬ。我々はむしろ観想をも制作的活動の一種と見ようと欲するものである。今そのことは別にして、少くとも実践の対象が制作の対象と同じく他のようにでもあり得るもの、変ずるものである限り、行為はすべて制作的行為であると考えて然るべきではなかろうか。実践は人間を対象とするといっても、人間もまた他のようにでもあり得るもの、変ずるもの、即ち可塑的なものである。

それにもかかわらず、実践を制作と考えることにはなお困難が感じられるようである。そしてその困難の最も深い理由は、人間は主体であり、実践は本質的に主体的なものであるという点に横たわっている。ギリシヤ哲学は実体哲学であって、主体哲学ではなかった。技術と実践との区別に関してアリストテレスは、実践は「人間にとって善なるものと悪なるもの」の見地に立つと述べているが、このような善とか悪は人間と行為を主体的に捉えることによって考えられ得るものである。イデアの哲学は主観の哲学に代られなければならない。この点においてカントの倫理学は重要な意味をもっている。しかしながらカントの人格の概念はなお抽象的である。彼のいう主観と我々の意味する主体とは同じではない。主体は単なる主観をいうのではなく、むしろヘーゲルのいわゆる実体にして主観であるものが主体である。即ちいわば主観の概念と実体の概念との統一として主体の概念が考えられ、これによって行為と制作とを一つに考えることが可能になり、すべての行為は制作の意味を有するといい得るのである。人間が単に主観的なものと考えられる限り、道徳的行為と制作とは別のものと考えられるのほかない。しかし制作も決して単に客観的な過程でないように、道徳的行為も決して単に主観的な作用ではない。制作は主観的なものと客観的なものとの統一であるとすれば、我々の行為にはすべてそのようなところがある。制作における主観と客観との統一も決して単に直接的なものではない。道徳的行為は自覚的であるといわれるとすれば、制作もまた自覚的であるといわねばならぬであろう。

我々は主体として独立なもの、自律的なもの、自由なものである。かような主体は何よりも責任の主体である。我々は自己の如何なる行為の責任をも脱れ得るものではない。自己の行為の責任を他に転嫁することは自己の人格を抛棄ほうきすることである。我々はつねに自己に対して責任を負うている。我々は自己の行為において良心的でなければならない。真の良心は自己の行為の動機についてのみでなく、その結果についても責任を感じるであろう。結果に対する責任を除いて真の責任というものは考えられない。行為の動機に対してのみ責任を負おうとする者は完全に責任を負う者でなく、真に良心的であるとはいえぬ。行為の結果に対して責任を負うということは単に自己の外部に対して責任を負うことでなく、また自己自身に対して責任を負うことである。なぜならすべての行為は自己を形成するという意味をもっているから。自己に対して責任を有するということは自己の形成に対して責任を有するということである。人間は歴史的なものとして不変なものでなく、行為において形成されるものである、行為は制作の意味を有する故に人間は行為において形成されるのである。行為を制作的行為と解することに反対する者は、人間を歴史的なものと見ないで、永久に不変な人格というようなものがあるかの如く考えているのである。行為は自己を形成するものである故に、為すこと、善く為すことに対して我々は責任を有している。もし行為の結果が自己の人格に関わりのないものであるならば、我々の良心は行為の結果に対して責任を負うことを要しないであろうし、また何故に一般に為すことが為さぬことよりも善いかの理由も理解し難いであろう。

ところで人間は環境を形成することによって自己を形成することができる。行為するというのは心のうちに留まることでなく、身体を介して外へ出てゆくことである。人間はつねに環境における存在であり、環境は彼の存在にとっていわば構成的である。環境は絶えず我々に影響を及ぼし、我々の存在と行為とを規定する。従って環境を形成することは自己を形成することであり、環境を形成することなしには自己は形成され得ない。我々の行為によって環境は変化されて新たになり、かように新たになった環境は逆に我々の人間を新たに形成することに働くであろう。しかしながら何故に我々は環境に対して責任を負わねばならぬであろうか。環境の形成なくして自己の形成はあり得ず、従って自己の形成に対して責任を有する者は環境の形成に対しても責任を有するといわれるにしても、かくの如き意味における環境に対する責任は結局自己に対する責任以外のものでなく、環境そのものに対する責任とはいい得ないであろう。自己に対する責任を通じてのほか我々は環境に対して責任を有しないのであろうか。

もし環境がただいわゆる環境の意味のものに過ぎないとすれば、我々は環境に対して本来的な責任を有しないであろう。環境に対して我々が責任を有するというには、環境は単なる環境でなくかえって主体の意味を有しなければならぬ。主体は他の主体に対してのみ責任を有する。我々の環境は我々と同様に主体であるところの他の人間、他の人格であり、これに対して我々は責任を有すると考えられるであろう。しかしながら彼等は主体として独立なもの、自律的なものであり、かくて彼等は彼等自身に対して銘々責任を有するといわれるにしても、或いはいわれる限り、何故に我々は彼等に対して責任を負わねばならないであろうか。そしてたとい我々は彼等の個々の個人に対して責任を有するとしても、そのことは我々が社会に対して責任を有するということと同じであろうか。社会は各々の個人のいずれとも、諸々の個人の和とも等しくない。社会を単に個人と個人との関係と考えることも、社会からその実体性を奪ってしまうことになるであろう。社会は我々の存在の根拠である。言い換えると、人間は社会から形成されるものである。あたかも家や寝床が我々によって作られたものであるように、人間は社会から作られたものである。作られたものにとって運動の原因は自己のうちにない。家が作られる場合、運動の原因は家にあるのでなくて人間にある。しかし他方アリストテレスもいったように家は家から生ずると見ることができる。技術によって出てくるのはその形が技術家の心のうちにあるようなものである。ところで形は各々のものの本質である。従って家は家から生ずるといわれる。家は建築家の活動から生ずるといわれると共に家は家から生ずるともいわれるのである。 あたかもそのように、人間は自己自身から形成されるといい得ると共に人間は社会から形成されるといい得るのである。人間は作られたものとして家の如きものでなく、独立な主体である。このように独立な主体を作るものは環境と見られる社会でなく、主体としての社会でなければならぬ。普通に我々が主体であって社会は我々の環境であると考えられている。けれども我々が作られたものである限り我々は主体であるよりも客体であり、環境といわれる社会の一部分に過ぎない。我々はすべてこの環境的社会ともいうべきものに属しており、その際主体と考えらるべきものは寧ろこの環境的社会を作る社会である。環境的社会に属するものとしての我々にとってそのような主体的社会は超越的である。しかしながら人間は独立なものとして作られ、作られたものであると共に作るものとして働く主体である。かくの如き主体としての我々にとって環境的社会はまさに環境であり、我々の作るものである。即ち環境に対して形成的に働くことによって我々は主体的社会或いは創造的社会の一要素として働くのである。そのとき我々は自己の主体的超越の根柢こんていにおいて創造的社会と一つである。かくの如き超越なくして主体は考えられず、行為も考えられない。そして人間が社会に対して責任を有するというのは何よりもかくの如き創造的社会に対してである。なぜならその場合社会に対する責任は同時に自己に対する責任であるから。その場合我々は自己に対する責任を介して社会に対する責任を有するのでなくむしろ社会に対する責任を介して自己に対する責任を有するのである。我々が他の個人に対して責任を有するのも、かような社会に対する責任を介してである。言い換えると、我々は創造的社会の要素としてたがいに対して責任を負うており、互の呼び掛けに応える義務を有している。他の人間の呼び掛けに応えることはこの社会の呼び掛けに応えることである。我々は社会の創造に参加すべき責任を有している。環境的社会を変化し形成してゆく主体的社会の創造に参加し、環境的社会を変化し形成してゆくことが我々の行為の課題である。もとより環境的社会と創造的社会とは抽象的に分離さるべきものでなく、存在するのは一つの社会の自己形成であり、自己発展であって、我々の自己形成、自己発展もその中に包まれている。かような社会の発展に協力することが我々互の任務である。それは人格の問題であると共に仕事の問題であり、良心の問題であると共に有能性の問題であり、意志の問題であると共に知性の問題である。

倫理と人間

倫理は普通なにか義務を意味している。それは強制を含み、命令として存在する。このような倫理は格率において示されるのがつねである。我々はこれを格率的倫理と称することができる。倫理と通常いわれるものは諸格率の一体系として与えられている。

このような倫理をその純粋な姿において観察するならば、その特性は、それがまさに格率的であって、没人格的であるというところに見出される。格率的な倫理は二重の意味において没人格的或いは没人間的であろう。先ず一方において、それにとっては実際に我々に向って或る格率に服従することを命ずる者自身が倫理的に如何なる種類の人間であるかは問題にならない。不徳の人も有徳の人も他に対して同じように命令することができる。命令する人間の人間如何は、そこでは多くの問題にならない。このことは、それを命令するものが究極においては個々の人間ではなく社会であって、個人はいわばただこの社会を代表する資格で命令するに過ぎぬということを現わしているであろう。格率は非人称的な命題である。そして他方において、格率的な倫理は個々の人間、個性に対してそれぞれ個性的な関係を含むのでなく、すべての人間に向って一様に命令する。人間は個性としてでなく、むしろ社会として見られている。かような社会的人間として人間は「ひと」である。「ひとはしかじかのことを為さねばならぬ」というように格率は命じている。格率的倫理においては「ひと」という範躊が支配的である。この「ひと」はハイデッゲル的な “das Man” であって、日常性における、或いは平均性または凡庸性における人間である。格率的倫理はその意味で日常倫理にほかならない。かようにして格率的倫理はまさにその没人格性のために法則性もしくは普遍性を示している。

このような倫理の命ずるところのものは、仔細に見ると、個々独立でなく、相互につながり合うのである。もろもろの義務はひとつの有機的組織を形作る。個々の義務は、もしそれをそれだけとして離して考えるならば、その強制力は微々たるものに過ぎないであろうが、つねにかような組織の一部分として、組織の全体によって力と権威とを賦与されている。格率的倫理は諸命令の一体系として存在する。体系といっても、それは本来決して合理的な、論理的関係における組織を意味するのではない、倫理はその根源に従えばパトス的なものに属し、ロゴスのことではないからである。もろもろの義務或いは命令がひとつの体系をなしているのは、かような倫理はもと社会的諸要求に応ずるものであり、そしてかような社会はひとつの有機的組織であるためである。その意味においてそれはベルグソンのいう社会的倫理にほかならず、彼の意味における社会的倫理は格率的であるということができる。

この場合社会的ということは正確に規定されることが必要である。ベルグソンは倫理的強制の根柢こんていには社会があると考えるが、その社会というものは、彼によると、諸習慣の体系と見ることができる。倫理的とされる種類の習慣は直接的にか間接的にか社会的必要或いは要求に応ずるものである。それらはすべて相互に支持し合い、かくて相倚あいよって一塊を成している。ひとつびとつとしては小さいものに過ぎぬ習慣による強制の沢山のものが一般的社会的強制の全体を形作る部分となり、そしてこの全体がその各部分に全体として有する権威をさずけ、「それは義務だ」という形式を与えるのである。人間の社会は蟻や蜂の巣と比較されていものである、とベルグソンは考えた。ただ、かしこでは本能にゆだねられることが、ここでは習慣に委ねられる。倫理的といわれる習慣の各々は、それだけとしては偶然的と考えられるにしても、その総体、いわばそれらの諸習慣を養う習慣は、社会の根柢こんていにあってその存在を制約し、その強度においてもその規則性においても本能のそれに比すべき力をもっている。このものが強制の全体を意味し、それが個々の義務の基礎となっている。従って強制の本質は理性の要求とは別のものである、とベルグソンはいう。主知主義的乃至ないし合理主義的見解の如何なるものも倫理の事実に合致するものではない。

このように社会の成立において習慣がはなはだ大きな役割を演ずるということは注目を要する事実である。一般にフランス思想のながれにおいて重要な位置を占める習慣の問題について深く研究することは興味のあることであると思う。我々はここにそれらの問題に立ち入ることはできないが、当面の関連においては恐らく次の如く考えられねばならぬ。本能と等価的に見られる習慣は、もと、広い意味におけるパトス的なものの一形態に属するであろう。パトスは主体性の意識である、しかるに習慣というような場合においては、主体はいわば客体のうちに縛られもしくは埋れて、両者は有機的融合的な関係にある。人間は単に主体でなく同時に客体であり、そして習慣的であるのはいわば主体と客体とが有機的融合的な場合である。そのとき人間は固有な意味において、「世界」のうちにあるといい得る。ところで、世界の「うちにある」inter-esse (sich dazwischen befinden, beiwohnen)ということは、人間にとって Interesse (関心、インテレスト)をもつという仕方においてあるということを意味している。 これは、世界のうちにある人間が単なる客体でなくて同時に主体であることを現わす。しかしまたインテレストというものは「生の被制約性の感情」(イェーリング)、言い換えると主体的な生の客体的「世界」(特に「世間」という意味においても)への依存を現わすであろう。かようにして習慣は存在的・存在論的意味におけるインテレストと結び附いている。従ってベルグソンのいう社会的倫理、我々の言葉では格率的倫理の根柢こんていにはつねにインテレストがある。インテレストというと、普通に全く個人的なものと考えられる傾向があるけれども、必ずしもそうでなく、それは根本的には人間が世界のうちにある interesse の存在的、存在論的意味を現わすものとして、むしろもっと社会的なものと考えられねばならぬ。このような倫理は強制を伴っているが、その強制は正確にいうと決して単に外部から来るのではない。我々の各々の者は自己自身に属すると同様に社会に属している。ベルグソンのいうところによると、我々の意識は、深みに探り入ることによって、降れば降るほど、愈々いよいよ独自の、他の者と通約することのできぬ人格を我々に顕わにするにしても、我々は我々自身の表面によって、互に類似し互に依存し互に結合されている他の人々と連続的である。社会は外面化された諸人格から織り合わされた目の詰んだ織物のようなものであって、我々の自己はその表面においてそれに接合されているのである。このように結び附けられている点において我々自身は社会化されている。従って我々が人間のあいだの連繋れんけいとして表象する倫理的義務は、先ず我々の各々の者を彼自身に繋ぐのであって、単なる外部に繋ぐのではない。もしも我々のうちに社会の何物もないならば、社会は我々を捉えることができないであろう。 即ち、格率的倫理は社会的倫理であるが、その場合にいう社会がベルグソンの言葉によると「外面化された諸人格の目の詰んだ織物」であり、我々は「我々の表面において」それに織り合わされているというのは、そこでは人間において主体と客体とが有機的融合的であって、主体がいわば客体のうちに縛られ、埋れているという意味でなければならぬであろう。それに応じて人間は「ひと」という性格を得てくる。「ひと」というのは個人のことでなく、世間、社会のことである。「ひとがしかじかのことを言っている」といえば、世間でそう言っている、ということである。そのような意味で格率的倫理は「ひとの道」である。そのような倫理はすべて我々のインテレストに結び附いている。格率的倫理の根柢こんていをなすものは Interesse という人間の存在的・存在論的規定である。「ひと」というのは社会もしくは人間の社会性を現わす一つの範躊はんちゅうである。しかしながら社会の範躊的関係は単に「ひと」ということに限られず、ほかに「われわれ」及び「我と汝」という如き社会的範躊を考えることができるし、また考えなければならない。従って我々は社会を単に我々の表面においてのみ考えることに賛成することができないであろう。それだから我々は社会的倫理という語を避けて格率的倫理という語を用いてきた。社会は客体的方向においてばかりでなく、主体的方向において考えられねばならぬ。

ところでもし右に述べた如くであるとすれば、格率的倫理は根本においてドクサ的倫理にほかならない。ドクサというのは我々の定義によると主体と客体との有機的融合的統一の状態における人間意識の形態である。ドクサ的倫理は、いずれの者も他の者に類似し、互に依存し合う人間、即ちベルグソン的な意味で社会化された人間を繋ぐ。このような社会に結び附いた人間は安固である、彼の安固性 solidité はこのような連帯性 solidaritéのうちにある。ひとがその倫理に従う限り、また従い得る限り、彼は安固であるというところに、その倫理のドクサ的性質が現われる。この安固は容易ともなる、ドクサ的倫理には精神的な不安も内面的な懐疑も属しない。既にいった如く、ドクサ的倫理もその根源は理性の要求というようなものでなくむしろパトスである。パトスは本来主体的な意識であるが、しかしこの場合にはパトスはいわば客体的なものに近く、それに接続している。Interesse は真に主体的な結合を現わすのでなく、インテレストは深いパトスとはいい得ない。従ってこの倫理においては、ベルグソンも述べているように、理智のはたらきが多く加わり、多くの理智が混じている。この倫理は種々のロゴス的意識の要素を含んでいる。かようにして特に悟性のはたらきによってドクサ的倫理は容易にドグマ化され、そこからしてそれは種々の格率の形をとって存在するに至るのがつねである。あらゆる倫理が本質的に格率的なものであるのではなく、ただこの種の倫理は、ドグマ化されて格率的なものとして現われるに至る自然的な必然的な傾向を含んでいるのである。この倫理は悟性的に合理化されて存在するにしても、もと合理的であるのではなく、その根柢こんていにはつねにインテレストが横たわっている。

格率的な倫理のドクサ的性質はそれが関係するものからも知られることができる。倫理的強制の底には社会的要求がある、しかしその社会は如何なる社会であろうか。その社会はベルグソンの言葉によると「閉じた社会」la société close であって、家とか国とかいう如きものである。社会的倫理はつねに、それがどれほど広いものであるにしても、ひとつの閉じた社会を目標としている、とベルグソンは考える。それはそれ自体としては全人類を目標とするものではない。国家と人類との間には有限から無限へというような距離がある、閉じたものと開いたものとの差異がある。人類はいわば「開いた社会」la société ouverte である。市民的道徳の修行は家庭において行われ、同様に、彼の祖国を愛することによって人間種族を愛するように準備される、という風にひとはよく語っている。我々の同情心はこのように連続的な進歩によって拡まり、同じものにとどまりながら大きくなり、遂に全人類を抱擁するに至るもののように考えられている。しかしながらかように考えることは単にア・プリオリの推論に過ぎず、心についての全くの主知主義的な見解から出たものに過ぎないと、ベルグソンは主張する。閉じたものはどれほどその周辺を拡げても開いたものにはならない。「閉じた心」と「開いた心」とはどこまでも性質的に区別されねばならない。ひとは家族及び国家を越えて段階的に人類に達することはできぬ、そこには飛躍がなければならないのである。格率的倫理は閉じた社会を目差している、そこからそのドクサ的性質が従って来るであろう。この倫理はいわゆる家族倫理であり、いわゆる国民道徳である。国民道徳等々のものはおしなべてドクサ的倫理にほかならない。そこではつねに種々の格率が掲げられ、数えられる。その倫理はドグマ化されて我々に与えられている。いわゆるひとの道として説かれるものも真に人類的な倫理でなく、実はドグマ的倫理であるのが普通である。

いま歴史的社会的見地を導き入れて見ると、ドグマ的倫理は社会の均衡の状態に相応している。それは歴史における有機的時期に一致する。そのような状態、そのような時期においては、格率的倫理はそのドクサ的性質に従って或る自明性をもって妥当する。それは常識的な自明性をになっている。しかるにひとたび社会における矛盾が激化し、危機的時期が来ると、ドクサ的倫理はその自明性を喪失する。そしてそれに対する懐疑や否定が生じて来る。その自明性は元来イデア的な明証性に基くのではない。その倫理の根柢こんていはパトス的なものである。我々が習慣的に繰り返される仕方で行動し得るのは常態を有する社会、従って均衡ある社会においてである。即ちドクサ的倫理は静的倫理であって動的倫理ではない。ベルグソンのいっている如く「社会的倫理」と「人類的倫理」との間には静止と運動というような区別があるであろう。静止をいくら加えても運動にはならぬ。格率的倫理と人間的倫理と――ベルグソンのいう人類的倫理を格率的という語に対して「人間的」と呼ぼう、――の差は程度上のものでなく、性質上のものである。それでは人間的倫理とは如何なるものであろうか。

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