哲学ノート (三木 清)

しかしながら実践には知識が必要である。とりわけ今日の如き複雑な世界においては、知識なしには実践することができない。もちろん知るということは単に過去のことを知ることではない。かえって知ることは予見することであるというのが、近代科学によって把握された知識の理念である。知ることが予見することであるということによって、知識は実践的意義を有し得るのである。政治は予見である、と誰かが言った。予見することができない者は真の指導者であることができない。例えば今日の国際情勢はたしかに複雑である。しかしそれをただ複雑であるとのみ言っているのでは、指導者の資格はないであろう。そこに何物かを予見し、我々の進むべき進路を示し得るものであって、真の指導者である。今日の指導者に向って求められるのは何よりもこの予見の能力である。その見通しが次から次へ絶えず間違っているようでは指導者の資格に欠けているものといわねばならない。なるほど今日の事態は正確に見通すことが困難である。そこには従来の常識で判断することのできないものがある。しかしそれだからこそ指導者が要求されるのであって、もしそうでないならば「指導者」というものが特に現われてくる理由もなかったであろう。ところで予見には知識が、科学が必要である。もとより既存の知識、既成の科学だけでは十分ではないのであって、そこに指導者の要求される危機というものの本質があるであろう。従って指導者の知識は発明的、創造的でなければならない。 またその場合単に合理的に思惟し いするのみでは足りないであろう。指導者には直観が、天才的な直観が必要である。特に彼にとっては単に知ることでなく行為することが目的であるとすれば、行為はつねに具体的な、歴史的に特殊的な状況におけるものであるということから考えても、指導者にはすぐれた直観力がなければならないであろう。しかし真の直観は合理的思惟し いを尽した後に出てくるものである。最初から科学を軽蔑するというような態度からは真の直観は生じない。カントの考えた如く、天才は無意識的に働く構想力の独創性であるが、それは悟性の概念や規則にかなったものでなければならない。そうでなければ天才ではなく、妄想に過ぎぬ。しかも、天才は無意識的に作るものであるにしても、指導者はつねに目的意識的でなければならないのである。自分自身何処ど こへ行くのか分らないような者は他を指導することができぬ。もとより歴史における必然性は単なる必然性ではなく、必然性が同時に可能性の意味を有している。運命というものもかようなものである。従ってそれは我々にとって如何ともし難いものではなく、我々の意志と行為によって変じ得るものである。歴史は我々の作るものである。それだから指導者には決意と行動とが要求されている。決断力を欠ける者、非行動的な人間は指導者としての資格を有しないものといわねばならぬ。指導者は決断の人でなければならない。そこに危機といわれるものの本質がある。危機は連続に対して非連続、断絶を意味し、この非連続、断絶は、決意によってのみ越えることができる。しかるに指導者は唯一人行動する者でなく、他を動かして一緒に行動する者である。そこに唯一人で物を作る天才とは異る指導者の資格が必要であろう。天才は世の中から理解されないのがつねであるというように言われている。しかるに他から理解されないような指導者は何等指導者ではない。指導者であるということのうちには他から理解されるということが含まれている。そしてまた指導者は自己の行動を他に理解させ、これによって他の協力を得るようにしなければならぬ。そこに天才の概念とは異る指導者の概念における知的な、合理的な性格が現われるであろう。彼等の行動は天才的な直観にもとづくにしても、これを他の人々に理解させるために、できるだけ合理的に説明して教えることに努力しなければならないのである。指導者は独善家或いは独断家であることを許されない。協力者をもっているということが指導者の概念に欠くことのできぬ要素である。

指導というものは関係である。それは一方的なことでなく、そこにはつねに指導する者と指導される者とがなければならない。即ち指導者は応えられなければならない。応えられない者は天才であり得ても指導者ではないのである。

リーダーシップは関係として道徳的関係でなければならぬ。なぜなら指導者は単に知ることでなく行為することを目的とすべきものであり、リーダーシップは人と人との間の行為的関係として成立するものであるからである。指導する者と指導される者との間に道徳的関係の存在しないところにリーダーシップは存在しない。指導被指導の関係において何よりも必要なのは信頼と責任である。信頼と責任とはあらゆる道徳的関係の根本である。信頼され得るために指導者のそなえなければならぬ道徳的資格には種々のものが数えられるであろう。利己的でなく全体のために計るものであって信頼されるのである。自己の金儲けや立身出世を考えることなく全体のために自己を犠牲にするものであって信頼されるのである。ただ世間の風潮に追随するのでなく自己の信念にもとづいて行動するものであって信頼されるのである。率先して実行するものであって信頼されるのである。謙譲の徳を有するものであって信頼されるのである。責任を重んじるものであって信頼されるのである。そして指導者はこの信頼に応える責任をもっている。強い責任感を有するということは指導者にとって大切なことである。他を信頼するものであって自分が信頼されるように、自分から責任を重んじることによって他に責任を重んじさせることができる。指導者は自己の行動に対していつでも責任をとる覚悟がなければならない。自己の行動に対して責任を負うということは、ただその動機さえ純粋であればいというのでなく、またその結果に対して責任を負うということである。かようにして責任を重んじる者はその行動が結果において成功的であるように努力しなければならない。動機さえ純粋であればいと考えることは、個人の良心を満足させるにしても、社会的に見ると無責任ということになる。そして指導者の行動はつねに本質的に社会的見地に立っているのである。社会的良心は自己の行為の結果に対して責任を負うことを要求する。ところで成功するためには知識が、予見が必要である。どれほど動機が純粋であっても――動機の純粋性はもちろんあらゆる場合に先ず要求されるものである――無知であったり予見力が全くなかったりしては不成功に終るのほかない。ここにおいて道徳は知識もしくは智能と結び附かねばならぬ。知識と道徳とは元来分離し得べきものではないのである。

リーダーシップは本質的にリレイションシップである以上、指導者はつねに指導される者の協力を必要としている筈である。従って如何なる独裁者も人心を把握することを心掛けざるを得ない。実際また今日の独裁者はそのことを特に重要視しているのである。その点において如何なる独裁者もデモクラティックでなければならないといい得るであろう。そしてそこにあの英雄とは異る指導者の近代性がある。いわゆる官僚的でなく、国民的でなければならぬ。もっとも指導者が国民的基礎の上に立つということは必ずしもいわゆるデモクラティックな方法によるのではなかろう。人の心を捉え得るということは天分に属する問題でもある。指導者はそのオーソリティとプレスティッジュとによって指導者となる。しかるにこれらのものはデモクラティックなものでなく、また単に知的な、合理的なものではない。しかし指導者とは単に命令するものではなく、むしろ自己に向って憧憬させるものである。権威も国民的基礎の上に立たないものは真の権威ではないであろう。指導者の権威は、彼がより高いものに仕えているというところから生じる。そして指導する者と指導される者との真の協力は、両者が共により高いものに仕えるところに真に成立し得るのである。そして協力においては、指導者の創意が重要であると同様に、指導される者の創意を重んじることが大切である。各人の有する天才を発見することは指導者の任務であろう。

国民を把握し得るために指導者は国民心理を把握しなければならぬ。彼はすぐれた心理学者として、国民の外形を観察するにとどまることなく、その内部に入って理解しなければならない。指導する者と指導される者との関係が道徳的関係であることを考えると、これははなはだ重要である。ところで指導者が人心を掴むために用いる主要な手段は宣伝と教育である。宣伝は特に近代的な手段である。それは有効であるだけ危険も多いのである。宣伝は理智よりも感情に、各人の判断よりも群衆心理に、うったえるのがつねである。一層大切なのは教育である。宣伝そのものも教育的でなければならない。もとより感情の意義を認めないということはあらゆる場合において間違っている。行動には感情が必要である。大いなる行動は大いなる感情を要するであろう。しかし宣伝の効果がその場その場のものであるのに反して、教育の効果は持続的である。教育は指導する者と指導される者とが共通の理解をもって共通の目標に向って働くことを可能にする。この理解ある協力こそ最も大切である。宣伝はその場の効果をねらうものとして、ひとが現在もっている感情乃至ないし知性にうったえる。宣伝はただ現在にあって、未来を知らない。これに反して教育は現在ある人間を作り変えることを目差している。教育は新しい人間の形成である。真の指導者は国民を新たに作り直すことによって目的を達しようとするのである。彼は政治は教育であるということを理解して実践するものである。

指導者の時代は危機或いは転換期として、リーダーシップは「人間」にあるのがつねである。しかし、人間は、指導する者も指導される者も共に組織されなければならない。指導者に必要なのはこの組織力である。ところで組織の発展につれてリーダーシップは次第に人間から制度の中へ入ってゆき、ここにいわば「制度化されたリーダーシップ」或いは「組織された権威」が生ずるに至るであろう。指導者はそのリーダーシップを安定させるためにもこのようにそれを制度化することを求める。それが制度化されると共に組織の自働性が生じ、かくして「指導者」というものは影を没するようになる。もとより指導者が一般になくなるのではない。既にいった如く、どのような社会にも指導者は存在している。しかしその場合、指導者は今日考えられるような意味においてはもはや表面に現われないようになる。かようにして指導者の重要な目標が組織を作ること、リーダーシップを制度化することにある限り、指導者の活動は自己否定にあるということができるであろう。指導者は自己否定的であることによってその目的を達し得るのである。彼等がいつまでも「指導者」であろうとする限り、彼等は組織の力を認めないことによって浮いたものになり、従ってまた真に指導力をもつことができない。もちろん、ここにいう組織とか制度とかは指導者の新しいイデーに従って新たに作られるものである。既成の制度の中にあってその制度の権威に依頼して指導者顔をするが如き者は論外である。

道徳の理念

マックス・ウェーベルは『職業としての政治』という講演の中で政治と倫理との関係を論じ、そのさい心情倫理 Gesinnungsethik と責任倫理 Verantwortungsethik とを区別している。心情倫理は行為における心情の純粋性を重んじ、行為の結果については問わない。しかるに責任倫理は行為の結果を問題にし、これに対して責任を負うべきものと考える。ウェーベルによると、すべての倫理的行為は二つの根本的に異る格率のもとに立つことが可能である、即ちひとは彼の行為において心情倫理的立場をとることもできるし、責任倫理的立場をとることもできる。心情倫理的な格率のもとに自己が正しいと信ずる行いをして結果は顧みないか、それとも責任倫理的な格率のもとに自己の行為の結果に対して責任を負うかということは、我々の道徳的態度において深い対立を形作っている。

ウェーベルの責任倫理の観念は重要な意味を有し得るものである。それは従来の倫理学において結果説といわれるものの新たな評価を可能にするであろう。即ちそこでは行為の結果は単なる功利主義の立場を離れて、責任という道徳の根本概念のもとに置かれる。そしてこれは自己の行為を社会的に理解することによって必然的となるのである。我々は社会的存在である故に我々の行為の結果に対して責任を負わねばならぬ。結果をおもんぱかるということは個人的立場において必要とされるのでなく、自己の行為の他の人々に及ぼす影響を考える社会的立場において要求されるのである。人間は社会的存在として社会に対して責任を負うている。しかるに行為の結果を問わない心情倫理は社会に対して無責任になりやすい。自己の心情の純粋性を守ることのみが問題であるならば、為すよりもなさぬことの適当である場合がすくなくないであろう。かくして心情倫理は歴史の重大な瞬間において自己に逃避し、何等の行動にも出ないということになる。行為の結果が全く問題でないならば、我々は何故に行為しなければならぬかの理由も理解し難いであろう。しかるに本質的に実践的な社会の立場から見ると、或る事を為さないのは結果において他の事を為したのに等しく、従ってひとはその為さないことに対して責任を有することになる。心情倫理が行為の結果を問わないのは、結果は種々の外的な事情に依存すると考えるためである。善い意志にもかかわらず悪い結果の生ずることは我々のしばしば経験するところである。善いものから善いものが、悪いものから悪いものが結果するとは限らない。結果は我々の意志にとって外的なものに左右され、従って結果を考える行為は他律的にならざるを得ないといわれるのである。確かに結果は意志にとって外的なものに依存している。しかしこの外的なものがまた決して単に外的なものでないことに注意しなければならない。我々の行為の結果を左右すると考えられるのは一般に我々の環境であり、しかるに環境は生命を有するものの存在に欠くことのできぬものである。人間はつねに環境において生きている。環境は彼の歴史的存在にとっていわば構成的である。行為の結果をただ外的なものと考えることはこの根本的な事実を理解しないものといわねばならぬであろう。結果は意志の内容である。それ故に結果を問わない心情倫理はカントにおいての如く、――制限なしに善と考えられ得るものは善き意志のみである、とはカントの有名な命題である、――形式主義に陥らざるを得ないのみでなく、人間を具体的に環境における存在として把握していないという欠点をもっている。

しかしながら他方ウェーベルが心情倫理と責任の観念とを分離したことは事実に合致しないであろう。心情倫理も責任を重視することはカントの倫理学等において見られる通りである。ただこの場合、いわゆる責任倫理が他に対する、社会に対する責任を問題にするのに反して、心情倫理は自己に対する、自己の良心に対する責任を重んずるという差異があるのである。カントの道徳論のリゴリズムの示す如く、心情の純粋性を尊ぶというのはセンチメンタリズムではなく、自己の良心に忠実であることに基いている。しかるに結果を重視する責任倫理はこの点においてはかえって無責任になりやすい。もし結果のみが問題であるならば、ひとは必ずしも良心的に行為することを要しないであろう。良心的であろうとするとむしろ悪い結果になることも少くないのである。結果は手段を神聖にするということが我々の道徳であるならば、所期の結果に達するためにはあらゆる非良心的な手段を用いて差支えないことになる。しかしそれは自己の人格を抛棄ほうきして自己を単なる物として取扱うことである。良心的であるということは自己の人格に対して責任を負うということを意味している。結果は未来に属する。しかるに人格は現在のものである。未来のために現在を問わないことは自己の人格を無視することになるであろう。人格は責任の主体であって、人格的な行為というのは自己に対して責任を負う行為である。心情倫理が行為の自律性を原理にするのも、自己に対する責任を重んずるためである。

責任は道徳の根本観念である。ウェーベルの責任倫理と心情倫理との区別は、一方が責任を問題にするのに反して他方はこれを問題にしないということにあるのでなく、前者が社会に対する責任を問題にするのに反して後者は自己の人格に対する責任を問題にするということにあると考えられねばならぬ。しかるにそのいずれも一面的、抽象的である。人間は自己に対して責任を有すると同時に社会に対して責任を有するのである。従来の人格主義の道徳が個人主義に陥ったとすれば、最近の全体主義の道徳は自己の人格に対する責任を軽視している。ところで人間は自己に対する責任を有すると同時に社会に対する責任を有するというのは如何なる意味であり、またそれは如何なる根拠によってしかるのであろうか。

既にいった如く人間はつねに環境において在り、彼のあらゆる行為は環境に対する適応の意味をもっている。生活することは環境に適応してゆくことである。行為はすべて環境に対する適応の意味をもっているとすれば、行為にとって結果は決して無関係であることができぬ。適応するというのは一定の結果に達することである。この適応の仕方は人間の場合すぐれて技術的である。人間は技術的に環境を形成することによって環境に適応してゆく。環境に適応することは環境を形成してゆくことである。しかるに環境を形成してゆくことは同時に自己を形成してゆくことである。人間は働くことによって作られる。ところで環境の形成が同時に自己の形成であるというには、人間は環境に働き掛けることにおいて同時に環境から働き掛けられるという関係が存在するのみでなく、このように環境から働き掛けられながら同時に自己を失うことなくどこまでも独立な、自律的な、自己集中的なものであるという関係が存在しなければならぬ。言い換えると、人間の行為は一方環境に対する適応であると同時に他方自己自身に対する適応である。一方は自己と環境とが一つになることであるとすれば、他方は自己が自己と同一に留まることである。前の関係のみあって後の関係がないならば、我々は独立の個体であることができないであろう。これらの同一の関係は共に単に静的なものでなくて動的発展的なものである。環境に適応してゆくことが環境を形成してゆくことであるように、自己に適応してゆくことは自己を形成してゆくことである。人間の行為は環境形成的であると同時に自己形成的である。

いま行為はすべてかくの如き性質のものであるとすれば、ひとは古典哲学において徳 αρετη と仕事 εργον が結び附けて考えられたということに重要な意味を認め得るであろう。プラトンの『ポリテイア』の中でソクラテスは先ず眼の徳について語り、眼は自己に属する仕事を善く為す場合、即ちすぐれた視力を有する場合、徳を有するといわれる、と述べている。各々のものには固有の徳がある、なぜなら視ることは眼のみの為し得る仕事である如く、各々のものは自己のみが、或いは他よりも自己が最も善く為し得る仕事を有するからである。このように語るソクラテスによると、生命は霊魂の仕事である。自己に属する仕事を善く為す霊魂は善い霊魂であり、その固有の徳を欠く霊魂は悪い霊魂である。為さぬことは徳であり得ず、徳とは為すこと、善く為すことである。徳は活動と、活動は仕事、自己に固有の仕事と結び附いている。徳と活動或いは行為がこのように仕事と結び附けて考えられるところから、徳と技術とがまた結び附けて考えられた。『ゴルギアス』の中でソクラテスは、建築術、造船術、医術等に絶えず関係附けながら、善とは何であるかを解明している。例えば善い建築家即ち徳を有する建築家というのは、自己の形成するものに正しい形 είδος を与える者である。彼は役に立つ家を作ることができる。役に立つ家というのは秩序を有する家のことである。身体や霊魂についても同じように考えられる。身体のうちに秩序が具わることによって健康その他の身体の徳を作り出し得る者が善い医者である。霊魂の徳というのも霊魂のうちに作られる秩序にほかならぬ。ところでこのように行為もしくは実践と技術的領域における仕事とが同様の構造を有するとすれば、徳は知であるというソクラテス的命題の決して抽象的なものでないことが理解されるであろう。善い建築家はたまたま秩序を有する家を作るというのでなく、知識に基いてつねにこのような家を作り得るのであって、それが建築家の徳である。徳は仕事における有能性にほかならず、知識の有無は建築家の徳不徳にとって決定的である。プラトンに見られる右の如き考え方はアリストテレスによって一層発展させられた。アリストテレスにおいても徳は活動と、そして仕事と結び附けられ、更にそれは目的 τέλος の概念と結び附けて考えられた。目的というのは、例えば建築家が形成する煉瓦、木材のうちに実現してくる家の形であり、この目的に達するとき彼の制作的過程は終末に達する。過程の終末にあるものが目的である。その活動が終末に、従って結果に達することのない建築家は悪い建築家である。善い建築家、徳のある建築家というのは現実に家を作り上げて結果に達し得る者のことである。

ところであらゆる行為がすでに述べた如く形成的な意味を有するとすれば、かように行為と制作 πσιησις とを関係附けて考えることは単なる比論以上の意味を有しなければならぬであろう。無内容な、それ故に仕事でないような行為はただ抽象的に考えられ得るのみである。仕事における有能性を離れて道徳を考えることは抽象的である。環境形成的にせよ、自己形成的にせよ、形成の意味を有しないような、従って制作の意味を有しないような行為があるであろうか。我々の現実の生活は環境形成的であり、自己形成的であり、これなしには生命は存続し得ない。環境の形成は同時に自己の形成であり、自己の形成は同時に環境の形成である。自己の仕事を善く為すことに努力するよりも自己の形成にとって大切なことはないであろう。人間と仕事を別のものと考えることは抽象的である。もとより我々の行為のすべてが家や寝床の如き物を作る行為であるというのではない。しかし物を作るとはいわれぬ行為も人間を作るといわれ得るであろう。それは我々自身の人間を作るのであり、また他の人々に働き掛けて彼等の人間を作るのであって、その意味において形成的と考えられる。その際他の人々は自己の環境と見ることができ、この環境に働き掛けることにおいて自己は逆にこの環境から働き掛けられ、環境の形成は同時に自己の形成となるであろう。

著者: