哲学ノート (三木 清)

ところで天才は人間の特に如何なる能力に関係するであろうか。人間学についてのカントの講義は一致してこれを構想力に帰している。天才には独創的な構想力が属する。構想力のみが創造的である。あらゆる天才は主として構想力の強さとその創造性に基いている。かようにして『実際的見地における人間学』の中では、「構想力の独創性は、概念に一致する場合、天才と呼ばれる」、と定義的に記されている。概念に一致しない場合、それは単なる空想もしくは妄想に過ぎぬ。概念に一致するというのは規則に合っていることであり、また悟性にかなっていることである。悟性は規則の能力にほかならない。「天才にとっての本来の領域は構想力のそれである。なぜならこのものは創造的であって他の能力よりもより少く規則の束縛のもとに立ち、そのためにそれだけ独創的であり得る。」しかし構想力の自由な戯れは悟性から導来されたのではないとはいえ悟性にかなったものでなければならず、そうでないとそれは妄想に過ぎないことになる。同じ箇所においてカントは「発明」と「発見」とを区別している。発見というのは、以前から既に存在していて単にまだ知られていなかったものを見出すことであって、コロンブスによるアメリカの発見はその例である。しかるに発明というのは、例えば火薬の発明の如く、それを作った技術家によって初めて存在するようになったのであって、それ以前には全く知られていなかったものを見出すことである。そしてカントは「発明の才能」が天才であるといっている。

さて美と芸術の問題を主題とした『判断力批判』においてカントの天才論はだいたい次のような形をとっている。芸術は規則を必要とする、規則なしにはおよそ芸術は考えられない。けれども芸術の本質はこの規則が概念から導来されるのでないということを要求している。なぜなら美についての判断は美的(感覚的)であって、その規定根拠は主観的な感覚、感情であり、概念ではないから。ところで芸術はその規則を対象から概念的に導来することができないとすれば、そのものは必然的に主観のうちに、言い換えると、創造する天才の自然のうちに与えられていなければならない。「天才は生得の心の素質であって、これによって自然は芸術に規則を与える。」これがカントの有名な天才の定義である。この言葉のうちには全く深い形而上学的問題が含まれている。そこに言い表わされているのは自然と自由との綜合であり、そしてまさにその点に判断力批判がカントの哲学において占める決定的に重要な体系的地位が存している。芸術は天才の芸術としてのみ考えられ得る。天才の第一の性質は言うまでもなく独創性である。彼は模倣によって作るのではなく、模範なしに作るのである。しかも第二に、天才のこの独創性はそれ自身模範的であり、他に対して規範或いは典型として役立つのでなければならぬ。第三に、創造的天才は自己自身にとっても秘密である。彼は学問的に彼の方法を示し、これによって直接の模倣を可能にすることができぬ。彼は無意識に、彼の自然の、生得の素質に従って、いわば彼を導く保護神(ゲニウス)の天来の影響のもとに創造するのである。天才は自然として芸術に規則を与える。第四に、天才は学問の領域即ち概念の領域には存在せず、ただ芸術にのみ属している。天才が自然として芸術に与える規則は概念的に導来され定式化され得る法則ではない。それは既に出来上った芸術作品から、批評と趣味に対する規矩き くとして役立ち得るために、読み取られねばならぬ。天才の作品はその場合にも精密な、小心翼々の「模作」にとっての手本であるよりも、「模倣」即ち競争的な継承にとっての例である。言い換えると、それは継承者の同じ性質の精神の生産性を刺戟し、これによって「原理を自己自身のうちに求め、かくして自己自身の、屡々しばしばより善い道を取る」ように導くのである。ただ天才の作品においてのみ芸術は一つの世代から他の世代へ伝えられる。天才の作品は芸術的理念にとって唯一の伝達手段である。

いまカントが判断力批判において芸術にのみ天才を認めて、他の領域には天才は存在しないと考えたことは、我々の一般の考え方に一致しないであろう。カント自身、人間学の中では、既に記したように、例えば哲学を天才の学と称している。また彼は天才を発明の才能とも規定したのである。実際我々はあらゆる領域において、発明と独創の存在する場合、そこに天才を考えることができるであろう。カントは天才の芸術のみが芸術であると考え、このように天才というものを重く見たのであるが、同時に彼は天才でなくて天才を気取る者、いわゆる天才的人間、「見たところ今を盛りの天才」を「天才猿ども」といって軽蔑し、非難し、警告した。彼等は訓練馬に乗ってよりも狂い馬に乗ってより善く行進し得ると思っている浅薄な頭脳であり、あらゆる規則を抛擲ほうてきしさえすればそれで既に天才であると信じているのである。「極めて細心な理性の研究に関することがらにおいて誰かが天才の如く語り、決定するならば、それは全く笑うべきことである。」カントが芸術以外の領域においては天才というものを認めず、芸術においても或る箇所では天才はただ豊富な素材を供し得るのみで、その加工即ち形式は学校風の才能を必要とするという意見を漏している如きことは、彼の天才論がその時代のいわゆる天才運動に対する彼の抗議的な態度に影響されていることを示すものと解し得るであろう。

天才はカントによると美なるものを作り出す生産的才能である。これに対して趣味は美なるものを判断する能力である。美的判断は趣味判断にほかならない。カントの判断力批判の主題は美的判断であった。それでは天才と趣味とは如何に関係するであろうか。趣味は単に美なるものを判断する能力であるとすれば、芸術作品の生産にとっては趣味のみでは足りないといわねばならぬ。ところがカントは他の場合には芸術作品を趣味の生産物といっている。これは矛盾であるように見える。しかしこの矛盾は外見上のものである。天才は自然として芸術に規則を与えるというカント自身の定義に従うと、趣味との一致は天才から離すことができず、むしろ本質的なものとして天才に属しなければならぬ。天才の作品は趣味に反するとは考えられ得ない。趣味のない天才は模範的でも典型的でもなく、規則を与えるものでなく、判断の規矩となるものでなく、従っておよそ天才ではないであろう。趣味判断の規定根拠はカントによると美的合目的性である。即ち経験的直観において与えられた対象の形式が、構想力における対象の多様の把捉と悟性の概念の表出との一致するような性質のものである場合、悟性と構想力とは単なる反省において相互にその仕事の促進のために調和し、そして対象は単に判断力にとって合目的的なものとして知覚されるのである。ところで「その結合(一定の関係における)が天才を構成する心の力は構想力と悟性である。」天才は構想力と悟性という「彼の認識能力の自由な使用における主観の天賦てんぷの模範的な独創性」である。そして「構想力がその自由において悟性を喚び起し、また悟性が構想力を概念なしに規則に合った戯れにおく場合、表象は思想として伝えられないで、合目的的な状態の内的感情として伝えられるのである。」天才はただ気儘きままな構想力であるのではなく、そのいわば相関者として悟性が絶えず注意されている。美的理念は多くのことを考えさせるようにする構想力の生産的な、含蓄的な表象にほかならないのである。

私はここにこれ以上カントの天才論を追求することを要しないであろう。天才は自然として芸術に規則を与えるという定義、或いはまた芸術作品は自然の生産物として現われ、逆に自然もまた芸術として見られる場合にのみ美と呼ばれ得るという、あの「自然の技術」の思想とも関連すべき説などに含蓄されると思われる形而上学を展開することは他の機会に譲らねばならぬ。今日我々が指導者の問題を考えるに当ってカントの天才論から学ばねばならぬのは、およそ次の如きことであろう。もとよりすべての指導者が天才であるのではない。指導者は先ず何よりも能才でなければならぬ。人を教え得る能力は才能に属するとカントもいっている。能才ですらない者が天才を粧うが如きははなはだ笑うべきことである。

天才は――能才もすでに――物を作る能力においてのみ考えられる。それがどのようなものであろうと、単に芸術作品に限られることなく、社会の組織とか制度の如きものであるとしても、物を作るということにおいてのみ天才が考えられる。指導者も何等か天才的なものとして物を作り得る人間でなければならぬ。単なる口舌の徒は指導者の資格を有しないであろう。しかるに「作られるあらゆるものは規則に合うものでなければならないから、天才は規則に合っていなければならない。」もちろん天才は既に存在する規則に従って作るのではない、彼は創造的である。彼が創造するものはしかし規則を与えるもの、従って悟性にかなったものである。指導者にはかような合理性が要求されている。その行為に如何なる合理性も認めることができない者は指導者とは考えられない。もっとも天才の作品は精密な、小心翼々の「模作」にとっての手本であるよりも、継承者の同じ性質の精神の生産性がそれによって刺戟され、それと競争するという意味における「模倣」にとっての例である。模倣はこの場合単なる模写ではない。継承者は先駆者のり方によって、「原理を自己自身のうちに求め、かくして自己自身の、屡々しばしばより善い道を取る」ように、「先駆者が汲んだのと同じ源泉から汲み、彼等からはただその際彼等が如何に振舞ったかの仕方を学び取る」ように、導かれるのである。「天才はただ天才によってのみ点火され得る」、とレッシングはいった。指導者においても同様であって、彼の天才が他の人々の精神の同じ性質の創造的才能を刺戟し、喚び起すという仕方で彼は模倣されるのでなければならぬ。芸術は模倣であるという場合、模倣はまさにかくの如き意味であるであろう。例えば美しい風景や人物は芸術家の創造的才能を刺戟し、喚び起し、生産的活動に駆り立てる。その際彼は単に自然を精密に、小心翼々と模写しようとするのではなく、かえって自然と同じ源泉から汲み、つ自然の如く創造しようとするのである。自然そのものが天才的であるといい得るであろう。カントのいう「自然の技術」は天才的なものでなければならぬ。構想力の独創性は自然の技術のうちに存在し、しかもそれは概念と一致している。構想力は世界形成的な原理である。天才が自然の如く働くように、自然は天才の如く働く。単にいわゆる天才のみが天才的であるのではない。あらゆる人間は何等かの程度、何等かの仕方で天才的であり、創造的であり得る。『純粋理性批判』において宇宙論的意味を与えられた構想力、そしてその実現と見られ得る『判断力批判』における自然の技術の思想は、カントの天才論の帰結をここまで持ってくることを可能にするであろう。そこでまた指導者は他の人々の創造的才能を抑圧するのでなく、彼等のうちに存在する天才に点火してこれを生産的にするものでなければならぬ。ソクラテスにおけるダイモニオンの思想は後の天才の概念の端初たんしょと見られるのであるが、そのソクラテスの天才はまさにかくの如きものであった。かくの如き意味において模倣され継承されるものが真の指導者である。指導者は規則であるよりも精神であるといわれるであろう。 精神(ガイスト)とは何であるか、精神は「生命的にする原理」であるとカントはいっている。美的意味における精神は心における生命的にする原理であって、心の諸力を合目的的に活溌に活動させるものである。この生命的にする原理即ち精神は美的理念の表出の能力にほかならず、美的理念というのは多くのことを考えさせるようにする構想力の生産的な、含蓄的な表象である。ところで天才は天才を喚び起すという場合、各々の人間は一つの創造的世界のうちにある創造的要素と考えられねばならぬであろう。天才はこの創造的世界或いは歴史的自然の深みから汲んでくるのである。すべての人間はかかる世界から作られたものであるが、しかもすべての人間がそれぞれ独創的なものであるとすれば、天才が天才を喚び起すという場合、かかる世界の構造はライプニッツのモナドロジーの如きものと考えられねばならぬであろう。発明と模倣の法則によって社会現象を説明したタルドの社会学の根柢こんていにかかるモナドロジーが存在するのは興味深いことである。またあのドイツにおける天才時代の天才論に哲学的根拠を与えたものがライプニッツのモナドロジーであったのも注目すべきことである。カントの天才論はライプニッツのモナドロジーによって発展させられねばならぬ。同時にそこに今日の指導者の概念の展開にとって一つの重要な契機が見出されるであろう。

指導者論

 一

指導者という言葉は今日の合言葉である。政治、経済、文化のあらゆる方面に於て、指導者理念が掲げられ、指導的人物が求められている。これが現代の特徴である。もとより指導者というものはいつの時代、どこの社会にも存在する。それはすでに動物社会においても認められるのである。しかしながら、ちょうど天才というものはあらゆる時代に存在するにもかかわらずただ一定の時代の一定の社会――例えば浪漫主義時代のドイツ――において天才理念が掲げられ、そこにいわゆる天才時代を出現したように、今日我々の時代は特に指導者時代と称し得るほど指導者の思想がこの時代を特徴附けているのである。

かように今日指導者というものが前面に現われるようになったのは、如何なる理由にもとづくであろうか。すべての時代、すべての社会に指導者は存在している。しかるに社会の有機的時期即ち均衡と調和の時期においては、その指導者は特に指導者として社会的に自覚されることがない。彼等はいわゆる「自然的指導者」に属するであろう。このものは今日いわれる自己意識的な指導者とは違った性質、違ったタイプのものである。その場合、指導者は殆どみずから指導者として意識することなく、彼等に従う者も全く自然的に従っているのである。或いはむしろ社会生活は特別の人間の指導に特に負うことなしに自然的な調和を示している。それは習慣乃至ないし慣習によって秩序附けられている。習慣とか慣習とかは、「没人間的」なものである。そのような場合、例えば我々の倫理的生活は、かつて論じた如く、没人間的な格率において定式化された常識的倫理に従って規律されている。かくの如き時代においては指導者という特定の「人間」の重要性が社会的に自覚されるということはないであろう。指導者の観念が特別の含蓄をもって現われてくるのは何よりも社会の危機的時期においてである。明瞭なリーダーシップは最もしばしば危機から生ずると社会学者もいっている(ヤング「社会心理学」)。危機的時期においては従来通用していた常識ではもはや処理することのできないような新しい問題が現われてくる。新しい環境に適応する新しい方法を見出すために、人々は指導者を求め、またその指導者というものが現われてくる。このような場合倫理においても没人間的な格率的倫理に代って、模範と考えられるような「人間」に従ってゆくという人間的倫理とも称すべきものが生じてくるのである。この人間が倫理上における指導者なのである。政治、経済、文化のあらゆる方面において同様の事態が認められるであろう。今日指導者の観念が前面に出てきたということはまさに現代が社会の転換期といわれるような危機的時期であるということに相応している。

かくて指導者というものは社会的状況との関係なしには理解することができない。リーダーシップは一定の状況の函数であると考えることができるであろう。もとより指導者となる者はその個人において一定の特質をそなえているのでなければならない。指導者には指導者として必要な天分とか素質とかがある。しかしそれだけが指導者を作るのではない。他面指導者は一定の歴史的社会的状況に制約されて現われてくるものであり、その産物であると見ることができるであろう。ところであの天才時代においてはすべての人間が天才に憧れ、また天才を気取るということがあった。それは単に多数の天才が輩出した故に天才時代と呼ばれるのでなく、むしろ一般の人間が天才を憧憬し天才を気取る傾向が普遍的に存在した故にそのように呼ばれるのである。同じように、今我々の時代が指導者時代と称せられるのは単に多数の指導者が出現しているという理由にるものではない。この時代においてはすべての人間が、従って何ら指導者としての資格を有することなく、また真の指導者の如何なるものであるかを理解しない人間までもが指導者顔をし、指導者を気取るという一般的傾向が認められる。そして天才時代における弊害が真の天才でない者の天才を気取るところに生じたように、今日の弊害も真の指導者でない者が指導者を気取るところに生じている。それ故に真の指導者が如何なるものであるかを明かにするということは、現代の特徴を把握するためにも、その弊害を匡救きょうきゅうするためにも、必要なことでなければならぬ。

すべて転換期には人間の新しいタイプが現われてくる。指導者というのもかくの如きものであろう。しかし何故に今の時代は、例えば天才の時代でなくて特に指導者の時代であるであろうか。天才崇拝のうちに現われたのは個人の自覚、その特殊性、独自性、根源性の自覚であった。それは封建的全体主義的秩序からの人間の解放を意味した。ルネサンスにおけるイタリアの天才時代がそうであったし、またあのドイツにおける浪漫主義の天才崇拝も近代市民的意識の覚醒と結び附いたものであった。社会史的に見ると、天才時代は近代の個人主義の先駆であったのである。しかるに今日はそのような個人主義的社会からの転換期なのである。この時代はもはや天才の時代ではなく、かえって指導者の時代である。今日の指導者理念は個人主義的社会から新しい全体主義の社会への転換期にあたって生れたものである。従って指導者の観念そのものが個人主義的なものでなく、新しい全体主義の理念をそのうちに表現しているのでなければならぬ。個人的に、天才を気取ったり、自己の優越性を誇示したりする者は、真の指導者とはいい得ないのである。

もとより最高の指導者は天才でなければならないであろう。しかし天才という場合と指導者という場合とでは、評価の仕方に差異があることに注意しなければならぬ。最高の指導者は天才であると語られる場合すでにその差異が現われている。即ちそれはあらゆる種類の最高の指導者をいずれも同様に天才と認めるのであって、そこに天才の概念における評価の仕方の或る形式主義が見出されるであろう。歴史的社会的に見ると、「天才」に先行したものは「英雄」であった。しかるに原始的な英雄崇拝においては、崇拝者は彼の英雄と目的を共通にしたのである。客観的な目的の評価と主観的な能力の評価とが分離していなかった。将軍はその士卒から、予言者はその信者から、学派の頭目はその弟子から崇拝されたが、反対の党派の統領はただ憎悪をもって見られるのが通例であった。英雄崇拝はその根源において党派的であった。このような内容的で党派的な人物評価は歴史的において次第に形式的で無党派的な人物評価に推移していった。天才の概念はこのような形式主義を示している。かくして近代においては全く違った領域における偉人、全く反対のことがらに奉仕する者が同じように天才と呼ばれる。このような形式化は近代における主観主義的傾向と関連して生じたことである。それは人々の関心がものごとよりも人間に、客観的なものよりも主観的なものに、仕事そのものよりも仕事の能力に向けられるようになったことと関係しているのである。いま指導者の概念は天才の概念における右の如き形式主義と主観主義とを超えたものでなければならないであろう。指導者の概念は或る意味においては英雄の概念と同じである。即ちここに再び或る内容的な党派的な人間評価が現われる。一つの党派の指導者は他の党派に属する者にとっては何等指導者ではない。或ることがらにおける指導者はそれとは無関係なことがらについては何等指導者ではない。全く形式的に指導者というものを考えることはできない。そして天才が自己の主観的なものを発揮しようとする者であるとすれば、指導者は自己を超えた客観的なものに仕える者でなければならない。もとより今日の指導者は昔の英雄の如きものであることができないであろう。天才主義的な指導者が真の指導者でないように、英雄主義的な指導者も真の指導者ではないであろう。新しい指導者は天才の概念における主観主義や非合理主義の弊害を克服すると共に、天才の概念並びにそれを生んだ近代主義における積極的なもの、価値あるものを生かすものでなければならず、これによって古い英雄の概念とは区別されて真に新しいものであることができるのである。

かようにして指導者に先ず要求されるものは創意である。真の指導者は発明的でなければならぬ。しかるにこの創意とか発明とかいうものはまさに天才の概念を規定するものである。上にいった如く指導者が指導者として前面に現われるのは危機の時代である。それは従来通用してきた常識や理論ではもはや間に合わなくなった時代である。このような時期に要求されるものとして、指導者は創意的発明的でなければならない。何等の創意もなく、教えられたことをただ繰り返しているような人間は真の指導者であることができぬ。次に天才というのは、他の場合に述べた如く、本来物を作る能力についてのみ認められるところのものである。カントはすでに能才について、物を作る能力についてのみこれを認め、単に物を容易に理解する力は能才ですらないと考えた。天才はもちろん物を作るという見地から見るべきものである。物を作るということは単に知るということと同じではない。天才の概念がそうであるように、指導者もまた物を作り得る者でなければならない。そして実践というのは広い意味において物を作ることであるとすれば、指導者は本質的に実践的でなければならぬ。科学の如きにおいても、真の指導者は与えられた科学的知識をただ理解しているというにとどまることなく、みずから科学的研究を実践する人、しかも創意的に、先駆者的に実践する人でなければならぬ。単なる口舌の雄は真の指導者ではない。指導者は高くとまっているのでなく、国民の中に降りて来て、共に実践する人でなければならないのである。ただ単に知っているだけでは指導者ではない。みずから実践する人、物を作る人、他と同じように働く人、いわゆる「パーソナル・リーダーシップ」をとる人であって真の指導者である。

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