哲学ノート (三木 清)

伝統論

伝統という語は伝え、伝えられたものを意味している。伝え、伝えられたものとは何を意味するであろうか。ベルンハイムは遺物 Ueberreste と伝統 Tradition とを区別している。遺物とは出来事について直接に残存している一切のものをいい、伝統とは出来事について間接に人間の把握によって貫かれ再現されて伝えられているものをいう。この区別はドゥロイセンの「我々がその理解を求めるところのかの現在からなお直接に残っているもの」と「そのうち人間の表象のうちに入り、追憶のために伝えられているもの」との区別に当っている。かくてベルンハイムによると、遺骨とか言語とか制度とか技術、科学、芸術の如きものは遺物に属し、歴史画とか物語絵とか年代記、伝記等は伝統に属している。このように歴史家が史料の分類上設けた区別はもちろん直ちに我々の一般的な目的に適しないであろう。言語の如きものは、我々はこれを普通に伝統と考えている。しかしそれにもかかわらず遺物と伝統との区別は重要である。言語などにしても、その痕跡が残っていても全く死んでしまったものは伝統とはいわれず、遺物といわねばならぬ。即ち伝統は、単なる遺物と区別されて、現在もなお生きているものを意味している。しかるに過去のものが現在もなお生きているというには、その間において絶えず「人間の把握によって貫かれ」、「人間の表象のうちに入る」ということがなければならぬ。その限りベルンハイムの規定は正しいのである。かように絶えず人間の表象のうちに入り、人間の把握によって貫かれるということが伝えられるという意味である。言い換えると、遺物が単に客観的なものであるのに反して、伝統はつねに主体的に把握されたものである。伝統は単に客観的なものでなく、主観的・客観的なものである。過去のものが伝えられるというには、主観的に把握されることによって現在化されるということがなければならぬ。伝えるということを除いて伝統はなく、伝えるということは過去のものを現在化することであり、この行為はつねに現在から起るのである。伝統は行為的に現在に活かされたものであるが、現在の行為はつねに未来への関係を含み、行為によって過去の伝統は現在と未来とに結び附けられている。

普通に伝統は過去から連続的に我々にまで流れてきたものの如く考えられる。伝統は連続的なものであって、我々はそのながれのうちにあると考えられている。しかしながらかような見方は少くとも一面的である。先ず伝統のうちには連続的でないものがある。或る時代には全く忘却されていたものが後の時代に至って伝統として復活するということは歴史においてしばしば見られるところである。それが復活するのはその時代の人々の行為にもとづいている。伝統をただ連続的なものと考えることは、それをかように行為的なものと考えないで、何か自然的なもののように考えることである。その場合歴史は単に自然生長的なものとなってしまう。歴史を自然生長的なもののように見るかかる連続観は、保守主義的な伝統主義のうちにも、進歩主義的な進化主義 Evolutionism のうちにも、存している。しかるにかくの如き連続観によっては、歴史における伝統の意味も、また発展の意味も、真に理解され得ない。歴史は自然生長的なものでなくて行為的なものであり、行為によって作られるもの、そして行為によって伝えられるものである。伝統は過去から連続的に我々のうちに流れ込んでおり、我々はこのながれのうちにあると考えるとき、我々と伝統との関係は単に内在的なものとなる。しかるに行為は、物が我々に対して超越的であり、我々が物から超越的であることによって可能であるのである。伝統を単に連続的なものと考える伝統主義は、如何にして行為が、従ってまた創造が可能であるかを説明することができぬ。そして行為のないところでは伝統は真に伝統として生きることもできぬ。それのみでなく、そのような伝統主義は自己が欲する如く伝統の権威を基礎附けることもできないであろう。伝統が権威を有することは、それが超越的なものであり、我々から全く独立なものであることによって可能である。伝統が単に連続的な内在的なものであるならば、それは我々にとって権威を有することができず、我々はそれに対して責任あるものとされることができないのである。

かくて伝統主義の本質は、伝統の超越性を強調し、これに対する我々の行為的態度を力説するところになければならぬ。カール・シュミットは次の如く述べている。革命時代の能動的精神に対して、復古時代は伝統や習慣の概念、徐々の歴史的生長の認識をもって戦った。かような思想は自然的理性の完全な否定、およそ行為的になることを悪と見る絶対的な道徳的受動性を結果した。かような伝統主義は遂にあらゆる知的な自覚的な決断の非合理主義的な拒否となるのである。しかるに伝統主義の首唱者ボナルは、永久な、おのずから自分で発展する生成の思想から遠く離れている。彼にはシェリングの自然哲学、アダム・ミューレルの諸対立の混和、或いはヘーゲルの歴史信仰の如き伝統に対する信仰は存しない。彼にとって、個人の悟性は自分で真理を認識するには余りに弱く惨めなものであるので、伝統は人間の形而上学的信仰が受け容れ得る内容を獲得する唯一の可能性を意味している。伝統に対して我々は何等の綜合、何等の「より高い第三のもの」を知らぬ「此れか彼れか」の前に立っているのであり、ただ「決断」のみが問題である。シュミットはかかる決断の概念から彼の独裁の概念を導き出しているのであるが、ここで我々の注意すべきことは、伝統主義がシェリング、ミューレル、ヘーゲルなどの「ドイツ的センチメンタリズム」即ち浪漫主義、或いは連続的生成を考える有機体説、つまり内在論によってはその真の意味を明かにし得ないということである。伝統の概念は内在的発展の概念によっては基礎附けられることができぬ。

しかしながらまた伝統を右のような仕方で絶対化することはかえって伝統と行為との真の関係を否定することになるであろう。伝統の前には決断するのほかないとしても、もし我々の悟性が自分で真理を認識する能力のないものであるとすれば、我々のかかる決断に真の価値があるであろうか。またもしその際我々はただ社会の伝統に従うに過ぎないとすれば、かかる行為を真に決断と称し得るであろうか。伝統を絶対的な真理として立てることそのこと自身、それをかかるものとして立てる我々の行為の結果である。伝統は我々の行為によって伝統となるのであり、従って伝統も我々の作るものであるということができる。創造なしには伝統なく、伝統そのものが一つの創造に属している。伝統となるものも過去において創造されたものであるのみでなく、現在における創造を通じて伝統として生きたものになるのである。その意味において伝統は単に客観的なものではない。単に客観的なものは伝統でなくて遺物に過ぎぬ。伝統と単なる遺物とを区別することが大切である。過去の遺物は現在における創造を通じてのみ伝統として生き得るのである。歴史の世界において真に客観的なものというのは単に客観的なものでなく、かえって主観的・客観的なものである。いわゆる伝統主義者は伝統が現在の立場から行為的に作られるものであることを忘れ、かくて遺物を伝統の如く或いは伝統を遺物の如く考えるという誤謬ごびゅう屡々しばしば陥っている。もとより伝統なしには歴史はない。そうであるとすれば、歴史は二重の創造であるということができる。初め創造されたものが再び創造されることによって伝統の生ずるところに歴史はある。この二重の創造は一つのものにおける創造である。そこに歴史が単に個人の立場からは理解され得ない理由がある。

およそ伝統と創造との関係は如何なるものであろうか。すべて歴史的に作られたものは形を有している。歴史は形成作用である。形は元来主観的なものと客観的なものとの統一であって、歴史的なものが主観的・客観的であるというのは、それがかかる形として形成されたものであることを意味している。形として歴史的に作られたものは超越的である。形において生命的なものは自己を犠牲にすることによって一つの他の生命の形式を発見するのである。それが創造の意味である。「詩とは感情の解放でなくて感情からの脱出である、それは人格の表現でなくて人格からの脱出である」、とティ・エス・エリオットはいっている。作られたものは形として作るものから独立になり、かくて歴史に伝わるのである。伝統とは形であるということができる。伝統が我々を束縛するというのも形として束縛するのであり、我々が伝統につながるというのも伝えられた形を媒質として創造するということである。何等の媒質もないところでは、我々の感情も思想も結晶することができぬ。「感情の『偉大さ』、強度が、素成分が問題であるのでなく、芸術的過程の強度が、いわばその下で鎔和ようわが行われる圧力が問題である」、とエリオットはいっている。伝統はかかる圧力として創造の媒質である。それが圧力を意味するのはそれが形であるためである。創造には伝統が必要である。形が形をび起すのであり、そこに伝統があるのである。

伝統的なものは遺物とは異っている。遺物は歴史的世界において独立の生存権を有するものではない。しかるに伝統もまた創造されるものであった。伝統が創造されるというのは、それが形を変化する transform ということである。かくてあるかなきかの形は次第にさだかな形となり、弱い線、細い線は消し去られて太い線は愈々いよいよ鮮かになってくるという風に、種々の形式における形の変化・形成が行われる。あたかも人間が青年から壮年、壮年から老年へと形の変化を行う如く、歴史的なものはそれぞれ固有な形の変化を行うのであって、かような形の変化を行う限りそれは生命的なものと考えられるのである。作品は自己自身の運命を有するといわれるのもその意味である。制作者の手を離れた制作物は独立のものとなり、歴史において自己自身の形の変化を遂げる。もとよりそれは単なる外形の変化を意味するのではない。或るものはその外形までも変化することが可能であろうが、他のものにおいては、例えば芸術作品の如く、外形を変化することは不可能であろう。しかし形とは元来単に外的形式をいうのでなく、主観的なものと客観的なものとの統一を意味している。かかるものである故に、一度作られたものも再び主観的に把握されることによって新しい意味を賦与され、内面的に形の変化を遂げるのである。形の変化は、形が主観的なものと客観的なものとの、特殊的なものと一般的なものとの、パトス的なものとロゴス的なものとの統一であるところから考えられる。もちろん伝統は破壊され没落する。伝統も創造によって伝統として生きるのであるとすれば、伝統を作り得るものはまた伝統をこわし得るものでなければならぬ。伝統を毀し得るものであって伝統を有し得る、なぜなら伝統もまた作られるものであるから。伝統は既に形を有するものである故に、如何に変化するにしても限界がある。その変化の果てにおいて元の形は毀れて新しい形が出来てくる。かくの如く形が変化するというのも、形はもと主観的・客観的なもの、或いは特殊的・一般的なもの、或いはパトス的・ロゴス的なものとして、矛盾の統一であるからである。この統一が根本的に毀れるとき形の内面的変化は限界に達し、ふるい伝統は没落して新しい形が創造されてくるのである。もっともこの創造それ自身何等かの伝統を媒質とすることなしには不可能である。一つの伝統を排斥する者は他の伝統によって排斥しているのである。

歴史は二重の創造であるということ、初め作られたものが更に作られるところに歴史があるということは、歴史の本来の主体が個人でなくて社会であるということを意味している。個人もまた社会から歴史的に作られたものである。歴史は社会が自己形成的に形を変化してゆく過程である。人間は社会から作られたものであって、しかも独立なものとして作られ、かくてみずから作ってゆくのであるが、人間のこの作用は社会の自己形成的創造の一分子として創造することにほかならぬ。従って人間においては自己の作るものが同時に自己にとって作られるものの意味を有している。制作が同時に出来事の意味を有している。そこに歴史というものがある。自己の作るものが自己にとって作られるものであることは特に伝統というものにおいて明瞭である。それだから伝統を我々にとってただ単に与えられたもののように考えるという誤解も起り得る。伝統は我々の作るものであり、それが同時に我々にとって作られるものの意味を有しているのである。いわゆる伝統主義者は人間の独立的活動を否定することによって伝統と単なる遺物とを区別することさえ忘れている。人間の独立性を否定することは社会の創造性を否定することである。社会の創造性は社会から作られる人間が独立なものとしてみずから作るところに認められねばならぬ。独立な人間と人間とは物を作ることにおいて結び附く。我の作ったものは我から独立になり、我を超えたものとして我と汝とを結び附ける。我々の作るものが超越的な意味を有するところに人間の創造性が認められる。かようにして作られたものは元来社会的なものである。我が作ることは社会が作ることに我が参加しているにほかならないのであるから。人間と人間とは作られたものにおいて結び附くのみでなく、むしろ根本的には作ることにおいて結び附くのである。我が作ることは実は社会の自己形成の一分子としての作用にほかならないのであるから。

伝統は社会における人間の行為が習慣的になることによって作られる。行為が習慣的になることがなければ伝統は作られないであろう。しかるに習慣的になるということは自然的になるということであり、習慣的になることによってイデー的なものは自然の中に沈むのである。かくして伝統は次第に身体の中に沈んでゆき、外に伝統を認めない場合においても我々は既に伝統的である。伝統は伝統的になることによって愈々いよいよ深く社会的身体の中に沈んでゆく。我々の身体はその中に伝統が沈んでいるところの歴史的社会的身体の一分身である。伝統は客観的に形として存在すると共に主体的に社会的身体として存在する。伝統は元来超越的であると同時に内在的であるのである。身体のうちに沈んだ伝統はただ我々の創造を通じてのみ、新しい形の形成においてのみ、復活することができる。創造が伝統を生かし得る唯一の道である。

天才論

天才というものも一つの歴史的社会的現象と考えられるであろう。それは天才運動とか天才時代とかいう言葉で現わされ、人間社会の一定の状態と結び附いている。かくて例えばチルゼルはイタリアのルネサンスと天才運動との連関を明かにしようとした。またハインリヒ・フォン・シュタインはイギリス革命と天才運動とのつながりについて語っている。そしてゲルヴィヌスは天才時代をフランス革命の先駆と称した。これら二つの政治現象のいわば中項として、それら政治史上の出来事を内的に制約している精神的状況の一つの徴候として、あの天才時代が存在した。ドイツではゲーテにおいて近代の天才的人間の典型が見られたのみでなく、カントによってこの天才性の概念の哲学的基礎附けと評価が行われた。シルレルの美的教育に関する第二書簡における、「時代の政治的問題を美学によって解決する」という言葉は、この時代の精神的傾向を特徴的に言い表わしているであろう。

今日の社会的政治的現象における合言葉は「天才」ではなくてむしろ「指導者」である。この二つの概念が歴史的に含蓄する意味を明瞭にすることは、今日の歴史的現実を把握するために重要であろう。天才の先駆者は「英雄」であった。原始的な英雄崇拝の段階においては人的要素と物的要素とがなお分離していなかった。というのは、崇拝者は彼の英雄と物的目的を共通にしたのである。かくて将軍はその士卒から、予言者はその信者から、学派の頭目はその弟子から驚歎され崇拝されたが、反対の党派の統領はただ憎悪を喚び起すのみであるというのがつねであった。この党派的な英雄崇拝から段階的に絶えず一層形式的な評価が現われてきた。今や勇敢な敵はもはや憎悪をもって見られることなく、むしろ既に或る尊敬をもって見られるようになった。平和な心の殉教者は献身的な闘士と同時につ同様に称讃されるようになった。即ちチルゼルの言葉によると、党派的な人物評価は形式的無党派的な人物評価へ推移したのである。実際、我々の時代においては全く違った領域における偉人、全く反対のことがらに奉仕する者が同じように天才と呼ばれている。かような形式化は人々の関心が物よりも人間に、客観的なものよりも主観的なものに向うようになったことと結び附いている。天才の概念の成立は近代の主観主義的傾向と密接な関係をもっている。それは心理的には内的生活に対する反省を前提している。その場合物的な仕事よりも人間的な仕事の能力に、外部からの影響よりも内部の、生得の素質に、また内的生活の種々の面のなかでも最も主観的な、物的に確定するに最も困難なものに注目され、かくて感激や霊感、すべて非合理的なもの、合理的に習得されないものが天才の特徴と看倣み なされる。浪漫的心情が天才主義の出現の地盤であった。人間は個性的なもの、特異なもの、他と共通ならぬものに従って評価され、かくて大衆との関係から切り離されて、孤独であること、理解されないということが天才の特徴であるかのようにさえ思われた。今日の指導者の概念は天才の概念における右の如き形式化と主観主義とを克服するものでなければならぬと考えられるであろう。しかしながら天才の概念がもはや無駄になったのではない。指導者そのものが今日においては天才であるといわれるであろう。天才とは何かという問題は、指導者の問題にとっても決して無関係ではない。指導者がふるい英雄に堕することのないためには、天才の概念を媒介にして指導者の概念が確立されねばならないであろう。かくて「時代の政治的問題を美学によって解決する」ということは、今日或る意味において再び必要になっているのである。

この場合私はカントの天才論を顧みようと思う。カントの天才論が興味があるのは、先ずそれがいわゆる天才時代の哲学的反省の産物であるためである。この時代のドイツの天才論はフランス、殊にイギリスの文学や思想から大きな影響を受けているが、カントの天才論も同様であって、とりわけジェラードの『天才論』の影響が認められる。しかしまたカントの天才論において興味があるのは、彼があのシュトゥルム・ウント・ドゥラングの天才運動に対して他方、例の如く冷静な、批評的な、懐疑的な態度をとっているということである。それは天才主義的ならぬ天才論として興味が深い。もちろんカントの天才論が重要であるのはその哲学的内容のためである。一般的にいうと、カントによって確立された主観主義の哲学はドイツにおける天才運動の地盤を準備したと見られ得るのであって、カント哲学から出立しゅったつしたドイツ浪漫主義の哲学、フィヒテの自我哲学、シェリングの芸術哲学等が天才時代の思想的背景となった。カントの天才論は『判断力批判』の中で最もまとまって取扱われている。しかしシュラップの研究が明かにしているように彼はたびたびの人間学講義の中で既に天才について論じている。天才の問題は彼にとって元来人間学の問題であった。他方彼の論理学講義が示すところによると、美的完全性或いは後にいう美的判断に関するカントの説は、論理学と感覚論との対比から出てきている。かようにしてカントは『判断力批判』において人間学と論理学とに分れて存在する材料を内面的な統一にもたらすという興味ある試みをなしたと見られ得るのであって、これによって天才論と美的判断の批判とは相互に豊富にされることになった。即ちカントの天才論は心理学と論理学とを統一するものとして重要な示唆を含んでいるであろう。しかるにひるがえって考えると、カントが彼の先験的批判主義の立場から感覚論と論理学との関係を最も根本的に論じたのは『純粋理性批判』においてであり、そしてその中で彼は感性と悟性とを根源的に媒介するものとして構想力を考えたのである。ちょうどそのことに相応して、カントにとって天才の問題は構想力の問題であった。天才の論理は構想力の論理でなければならぬであろう。これがまた私には重要と思われる点である。

さてカントは、ニコライによって伝えられる人間学講義の中で、人間の心を資質、才能及び天才に区別した。資質は物を把捉する力をいい、才能はしかし物を生産する力をいう。資質は教育されることの容易さであり、才能は物を発明することの容易さである。即ちカントはすでに才能(タレント)について、物を作る力に関してのみこれを認め、単に物を容易に理解する力は才能とは別の資質(ナトゥレル)のことであると考えた。生徒に必要なのは資質であるが、教師にはしかし才能が必要であるとも彼はいっている。教師は自分で形態と作品を産出し得る者でなければならぬ。才能にしてすでにそうであるとすれば、天才はもちろん物を作るという見地から見らるべきものである。天才は創造的才能である。才能は教育を必要とするが、天才はその必要がなく、むしろあらゆる技巧(クンスト)を代位する、それに属するものはすべて生得のものであり、従って技巧とは反対のもの、自然のものである。自然は物を理解しないであろう、物を理解するということは人間の資質である、しかし自然は絶えず物を作る、天才はかかる自然の如きものであると考えられる。天才が創造的才能であるというのは、カントによると、あらゆる規則なしに物を作るということである。それだから天才でないのに天才と思われようと欲する者は、規則を捨て、これによって天才の外観を与えようとする。しかし規則はその価値を保有している。天才でない者は僭越せんえつにも規則を捨てようとしてはならぬ。天才は教育によって作られない、ひとは天才を喚び起すことはできるが、才能を天才にすることはできない。「かようにしてひとは何人にも哲学を教えることができぬ、けれども哲学に対する彼の天才を喚び起すことはできるのであって、その場合彼が天才をもっているかどうかが明かになる。哲学は天才の学である。」 天才は創造的才能と呼ばれ、また発明の概念と結び附けられた。「学問の発明には天才が、その修得には資質が、それを他に教えるには才能が必要である。」あらゆる芸術は言うまでもなく天才のものである。中位の天才というのは矛盾である。かような者は能才に過ぎず、天才は或る異常なものである。天才は稀である、言い換えると、毎日何物かが発明されているわけではない。もっとも発明というものにも、才能を教育によって完成させ、かようにして規則の導きに従って発明するという場合があるであろう。しかしながら新しい方法を発明するということは教育によって学ぶことができぬ、とカントはいっている。天才は規則に束縛されるのでなく、彼が規則の模範である。天才が規則なしに物を作るということは、彼の作ったものが規則に合っていないということではなく、むしろ反対である。「作られるあらゆるものは規則に合うものでなければならないから、天才は規則に合っていなければならない。」それだからひとは彼の作品から規則を作り得るのであり、かくして天才は模範となるのである。天才は規則の意識なしにしかも規則に合うものを作り出すのである。

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