哲学ノート (三木 清)

さて世界観 Weltanschauung のもと如何なるものであるかを明かにするために、先ずこの概念を世界像 Weltbild の概念と区別することから始めるのが便宜であろう。二つの概念を明瞭に区別して用いたものにデンネルトの如きがある。(※4) デンネルトは世界像の概念を自然研究によって得られた自然或いは世界についての経験の全体という意味に規定した。従ってそれは自然科学と同じ範囲のものであって、自然科学の成果或いはむしろ自然科学の目標を表わすことになる。世界像のかような意味に相応して、我々が現在もっている世界像は、もしなにか新しい経験によってその或る誤謬ごびゅうが発見されるや否や、いつでも訂正されるものである。即ち世界像は動揺する性質のものである。これは悲しむべきことでなく、世界像そのものの本性のうちに理由を有することであって、それがまた研究の進歩に対する刺戟しげきともなるのである。ところでデンネルトによると、世界像は世界の説明ではない。この点彼は、自然科学の任務は自然のうちに行われる現象をできるだけ完全に、できるだけ簡単に記述することであると考えたキルヒホフの見方に従っている。しかるに世界観においては問題の提出が根本的に別種のものであり、即ち形而上学的である。世界観は世界をその形而上学的根拠から展開し説明するのであって、このような説明に対する欲求は、デンネルトの意見によると、すべての思惟し いする人間のうちに存し、従ってそれを満足させることはまたまことに正当な努力である。世界観の思惟し い動機も思惟し い手段も自然科学におけると同じでなく、形而上学的のものである。 世界像は「世界についての感覚的経験のまさに現在の総量」を含み、これに反して世界観は「世界像から供せられた材料をいわば形而上学的に一つの世界説明にまで加工する」のである。その世界説明は記述的である自然科学の領分を越えた自然哲学にほかならないと考えられる。

(※4) E. Dennert. Weltbild und Weltanschauung. 1908.

自然科学の仕事は自然現象の説明でなく記述であるとするキルヒホフ流の考え方についての議論はしばらくくとしても、デンネルトの規定した如き世界像及び世界観の概念は第一に狭きに過ぎる。彼が世界像というのは自然科学の範囲のものであり、従ってそれをどのように高めるにしてもプランクのいわゆる物理的世界像の如きものであるのほかなく、それに対応する世界観の概念も彼においては自然哲学のことと考えられた。しかるにディルタイによって道を聞かれた世界観学の明かにしたことは、単に理論的な哲学のみが世界観の担い手であるのではなく、あらゆる領域の文化が世界観を含むということであった。かように包括的な世界観の概念に対応するものとして同様に包括的な世界像の概念が要求されるであろう。また実際ひとは物理的世界像という以外、芸術的世界像などという言葉を用い、更に哲学的世界像という言葉さえ用いている。かような事情において私は、世界像とはロゴス的意識の形態であるという定義を与えようと思う。ここにロゴス的意識というのは思惟し いとか理性とかいうものに限らず、すべて対象もしくは客体を志向し、いわば対象を含み、対象性もしくは客観性を有する意識或いは観念の形態である。あらゆる人間の意識はかくの如きロゴス的な方向、象面、契機を含んでいる。それだから単に自然科学者のみでなく、社会科学者も、芸術家も、みな何等かの世界像をもち、そして日常の人間も、彼等は彼等で自然的な世界像をもっている。世界像は対象的意識の諸内容の総体である。 これに対して世界観は如何に区別され、また何故に区別されねばならないであろうか。この場合デンネルトが自然哲学を世界観と看做み なしたのを拡張して、哲学を一般に世界観と考え得るであろうか。しかしそれは少くとも不精密であることを免れないようである。論理学の如きものは除くにしても、哲学そのものにおいてなお世界像的なものと世界観的なものとを区別し得るのである。いわゆる厳密科学としての哲学の理念において求められているのはひとつの世界像、即ち哲学的世界像であるともいい得るであろう。ロゴス的意識の与えるものはどこまでも世界像であって、それがよしイデア的世界即ちいわゆる mundus intelligibilis(可想界)にまで至るにしてもなお世界像と考えらるべきである。フッサールは『厳密科学としての哲学』という論文の中で、ディルタイの批判に関連して「世界観的哲学」と「科学的哲学」とは飽くまでも区別されねばならない二つのイデーであると論じている。しかしながら我々はいわゆる科学的哲学、フッサールの現象学の根柢こんていにもなお世界観的なものを見出し得るであろう。重要なのはむしろ世界像と世界観とを区別し、両者の統一と共に、世界像(哲学的世界像をも含めて)の世界観に対する相対的独立性乃至ないし自律性を基礎附けるということである。哲学的世界像は自覚的な世界観、シェーレルのいう教養の世界観 Bildungs-weltanschauung の定立と特別の関係があるにしても、哲学的世界像がすなわち世界観であるのではないであろう。世界観的であるということは哲学にとって避け難い必然的な要求であるにしても、哲学と世界観とを直ちに同一視することはできないであろう。そしてまた或る民族、或る時代の世界観は必ずしもつねに哲学のうちに最もよく表現されているとは限らぬであろう。

ところでディルタイは、世界観は単なる思惟し いの産物でなく、我々の心的全体の構造から発すると考え、世界観の構造について次のように述べている。「すべての世界観は、生の謎の完全な解決を与えようと企てる場合、規則的に同一の構造を含んでいる。この構造はいつでも、世界像の基礎の上に世界の意義及び意味に関する問題が決定され、そしてそこから行動にとっての理想、最上の善、最高の原則が導き出されるという一つの連関である。それは心的法則性によって規定されているのであって、これによると生活過程における現実の把捉は状態及び対象の快不快、適不適、認否認における価値判断の土台であり、そして次にこの生の評価はまた意志決定にとってその下層を形作っている。」(※5) 世界観は単なる認識の要求から発生するのでなくて生の全体のうちにその根源をもっているというディルタイの説は認められねばならぬであろう。世界観の理解は当然この根本的見地から出立しゅったつせねばならぬにしても、問題はそのような生を如何に見るかということである。そしてその場合我々はディルタイに追随することができない。一、ディルタイは生を有機体説的に解釈した。しかるに我々の哲学的規定によると、人間は弁証法的なもの即ち主体と客体との弁証法的統一である。またディルタイが生というとき、それは心理的なものと理解されたのに反して、我々にとっては意識はいわば主体と客体との中間に位し、主体と客体とを媒介して人間が主体と客体との弁証法的中間者であることを自覚させるものである。意識は客体の主体への方向における極限であると共に主体の客体への方向における極限である。 意識は極限的本質のものである。従ってそれは主体でもなければ客体でもなく、同時に主体とも客体とも見られることができる。二、このことに相応して意識そのものの構造が哲学上弁証法的に規定されねばならない。ディルタイは心的全体を構造連関として捉えた。構造連関というのは彼においてひとつの有機体説的概念である。我々はもとよりヒュームなどの心理学の如き原子論的な見方をしりぞけねばならないが、またかくの如き有機体説的な見方を取ることもできない。我々の哲学的人間学の弁証法的な立場は人間の意識そのものをも弁証法的に、即ちそれを対立物の統一として理解することを要求する。そして我々は意識の構成をロゴス的意識とパトス的意識との弁証法によって考える。ロゴスとパトスとは意識の相反する方向、象面、契機を表わす対立物である。前者が客体をその客観性において顕わにするものであるとすれば、後者は主体をその主体性において顕わにするものである。ロゴス的意識は高まるに応じて次第にいわば対象を含み、対象性を得るのに反して、パトス的意識は深まるに従って次第にいわば対象を失い、無対象となる。対象的なロゴス的意識には種々の段階が考えられ、ギリシア哲学以来普通に感覚から始めて、構想力、悟性、理性というような区別が認められているのである。それと同様に、そして恐らくそれに相応して、パトス的意識にも種々の段階を区別することができ、例えばこれを感覚、感情、意志、直覚というように考えることができるであろう。しかもロゴスとパトスとはつねに弁証法的に結合している。それだから我々は客体と直接に結び附いたロゴス的方向の意識を感覚と呼ぶと共に、また同様のパトス的意識を感覚というわけである。 即ち感覚的ということは、一方では客体から受取る最初の対象的な意識を表わすと同時に、他方では客体に結び附いた主体的な意識、欲情の如きものを表わしている。ドイツ語の Sinnlichkeit などにしても同様であって、この語は例えばカントの第一批判書と第二批判書とでは違ったニュアンスをもって使われていると思われる。 かように最初の段階において直接的統一的であったロゴス的意識とパトス的意識とは次第にその間の対立を明瞭に現わしてくるように見えるが、両者が全く無関係になってしまうのでないことは、例えば思惟しいの活動に属する判断の根柢こんていにも、現代の判断論においてやかましく論じられたように、肯定もしくは否定、承認もしくは否認の決定として意志が存在するということによっても知られるであろう。構想力 Einbildungskraft が特別に感情と関係のあることは、これが芸術の能力と考えられることからも理解されるであろう。ところでその最高の段階においてロゴスとパトスとが如何なる関係にあるかは、既に古くから存する認識と愛の問題、或いはまたいわゆる知的直観の問題等に関係して考えることができるであろう。対象的なロゴス的意識も高まるに従ってカントの純粋理性批判におけるイデーの如く或る主観性を得てくるし、主体的なパトス的意識も降るに従って感覚においての如く直接に客体を内容とするようになる。主観性に昇ることが前者の要求であるとすれば、対象的になることは後者の要求であるともいえる。そこに弁証法的中間者である人間の意識の真の姿が見られはしないか。そこに意識の本性である緊張ということも考えられるであろう。ロゴス的意識とパトス的意識との弁証法を基礎とする新しい精神現象学の建設は世界観学にとっても重要な意味をもっている。しかし我々がここで指摘しようとするのはただ一般に意識の弁証法的な構造であって、それによって我々は意識に関する原子論、特に有機体説に反対しようと欲するのである。三、意識の有機体説的な解釈に関連して、ディルタイは「世界観の土台はつねに一の世界像である」といっている。 彼はなお伝統的な、表象(思惟し い)、感情、意志という「三つの意識の層」を考え、如何なる世界観もその最初の層の形作る世界像を土台にすると見るのである。このような考え方は有機体説と結び附いた観想的な態度とも無関係ではないであろう。これとは反対に、我々は世界観における土台的なものはパトス的なものであると考える。世界観におけるいわば特に世界観的なものはロゴス的意識の形態である世界像ではなくてパトス的意識の形態である。しかるに既に述べた如く、パトスは深まるとき無対象となるものであり、従ってそれはそれ自体としては形像的 bildlich なものではない。原罪の意識、運命の意識などは本来かような無対象なパトスとして、或いは「無」のパトスとして説明さるべきものであろう。もとより意識の弁証法に従ってパトスはロゴスと結び附き、そのようなパトスも形像的になる必然性が存している。従って如何なる世界観もつねに世界像を含むことが必然であるにしても、世界観にとって土台は世界像であるのではない。その土台は対象的な意識でなくむしろ主体的な意識である。故にもし世界というものが単に客体的なものをいうならば、世界観における本来的なものは何等世界観ではないということもできるであろう。更にまたディルタイのように意識の構造を有機的連続的に考えたのでは、世界像の世界観に対する相対的独立性も十分に考えられず、かくては科学が相対的には世界観から独立に自律的に自己自身の世界像を作る可能性も満足に説明されないであろう。それにはロゴスとパトスとの弁証法的な非連続を認めることが必要なのである。

(※5) Vgl. Dilthey, Weltanscnauunsslehre. WW. VIII. S. 82ff.

このようにして世界観が世界像を含む必然性と共に世界観における固有なものが主体的な意識であることが示された後に、我々は世界観の本来の性質を世界像と対立する方面から規定しておこう。一、世界像はロゴス的意識の形態である。ロゴス的意識は、もとロゴスという語が示す如く――なぜなら λογος は λεγω(私は集める)から出ている――、結合するという性質を有し、結合或いは統一の方向において高まってゆく。さきにいった如く、ロゴス的意識は普通に感覚、構想力、悟性、理性というように順序附けられるが、この区別はカントにおいても統一の程度の区別を意味したと見ることができる。カントによると認識の最高の統一の能力は理性である。理性の統一を表わすものはイデーと呼ばれる。そしてただイデーのみが全体性に関係する。イデーはカントによると「一切の自然認識の体系的統一の規制的原理の図式」である。(※6) ここでカントがイデーに与えた図式としての深い意味を解釈することはくにしても、ともかく我々のロゴス的認識はイデーの図式的意味に従って体系的統一を求める。体系性は世界像の理念であり、また実際に世界像は客体的認識としてつねに何等か体系性を含んでいる。しかるに世界観的なものの固有の性質は、普通に考えられるのとは反対に、静的な体系的統一性にあるのではなく、むしろ根源的な動性にあるといわねばならぬ。「我々の世界観的な経験は、およそ我々がなおそのような経験をしている限り、不断の運動過程である。我々が世界、現実、目的を固定的につ自明のものとして有するとき、我々は未だかつて世界観的諸可能性の何等の経験もしなかったのであるか、それとも我々は殻の中で堅くなって、もはや何等そのような経験をしないのであるかである。」(※7) 二、世界像は客体に関するものとして客体の担う根源的な「既に」の性質に従い、本来的な現在性、それ故にまた未来性を含まない。私が今日或る物理の法則を発見するとしても、それは「既に」その通りであったところのものであり、また私が今日或る数学の定理を初めて学んだとしても、私はその定理がその時から妥当し始めるとは考えないで、「既に」それはその通りであったと考える。 そこにプラトンのいうイデアのアナムネーシス説の深い意味がある。かような世界像に対して世界観こそ真の現在に、また真の未来にかかわるものである。それこそ真に行為と結び附いたものである。三、世界像はその本性において性格的であるべきものではない。これに反して世界観は本来性格的なものである。性格的なものはパトス的なものである。性格的と個人的とは同じでなく、我々は他とパトスを共にすること Sympathie によって真に性格的となるのである。世界観は決して単に個人的なものでなく、或る団体の、或る民族の、或る階級の世界観でもある。ひとが如何なる哲学をとるかは彼の性格にかかっている、という風なことをフィヒテがいった。これは我々が説明したような意味では全く正しい。しかし哲学はそのあらゆる部分において世界観的であるのではなく世界像的な部分もあり、またひとは他とパトスを共にし得ぬものではないということを附け加えねばならぬであろう。

(※6) Vgl. Kant, Kritik der reinen Vernunft. B. 702.
(※7) K. Jaspers, Psychologie der Weltanschauungen. 2te Aufl. 1922. S. 7.

もとより世界像と世界観とは単に抽象的に区別さるべきものでなく、重要なのはむしろ両者の弁証法的関係を把握するということである。先ず世界像は何等かの仕方で世界観によって制約されている。もっともこれはすべての場合に自覚されていることではない。けだし世界像との差別の方面から見る限り、世界観は根源的には主体的事実によって規定されるものであるが、他の場合に述べた如く、主体的事実は単に意識において自己を表出するばかりでなく、むしろそれに先立って意識を超出して存在としての歴史(ロゴスとしての歴史に属する世界像もこのとき存在としての歴史の一種と看做み なし得る)において自己を表現するものであるからである。そこでまたひとは自己の有する世界観をつねにみずから意識しているわけでなく、彼の世界観が実際に如何なるものであるかはかえって彼の行うところにおいて最もよく知られるということもできる。次に現実の世界観は何等かの世界像を含むのがつねである。従ってそれはその時代の有する世界像によって制約されている。哲学的世界観についていうと、それは特にその時代の科学の状態によって制約されている。そしてまた現実的であろうとする世界観は何よりもその時代の科学的世界像に結び附かなければならない。人間は単に主体的事実でなく同時に客体的存在である故に、この要求は根本的であり必然的である。それによって世界観は初めて真に体系的となることもできるであろう。従って世界観の発展のためには科学的世界像の発展が必要であるが、それには世界像の世界観からの相対的独立が確保されねばならぬ。科学がこのような独立を要求することは正当であり、それによって科学はかえって真に世界観の発展に役立つことができる。自然的な世界観においては世界像と世界観とは直接的な統一をなしている。 その統一の破れることが世界観の発展の契機となるのである。更に歴史的に見ると、社会の均衡の時期においてのように世界像と世界観との間に有機的連続が与えられている場合、世界観はドグマ的形態をとり、社会の危機的時期においてのように世界観が世界像から超越する傾向の存する場合、世界観はミュトス的形態をとるということもあるであろう。しかし、ここではもはやこれ以上内容的な問題に立ち入ることをやめて、最後に再び世界観学の立場について一言述べておこう。既に明かになったことは世界観の弁証法的構成である。それはパトス的意識とロゴス的意識との弁証法によって制約されている。言い換えると世界観は世界像との弁証法的関係において構成されつ発展するのである。しかるに人間の意識が弁証法的であるというのは人間が主体と客体との弁証法的統一であるからであり、かようなものとして人間は我々の言葉によると存在としての歴史に属すると共に事実としての歴史にあずかる。この二重の意味における歴史は弁証法的関係に立っている。歴史的自省はかくの如き弁証法の自覚でなければならない。もと歴史的自省というものが可能であるのも、二つの意味における歴史の関係が弁証法的、即ち単に連続的でなく、連続的であると共に非連続的であるからである。世界観は根本において事実としての歴史と存在としての歴史によって規定されているのであって、そこからそれは世界像と世界観との弁証法的構成を含み、そしてそのような弁証法のためにもと歴史的自省というものも可能であり、また必然に要求されるのでもある。ディルタイの如く世界像と世界観との関係を単に有機的連続的に見たのでは、何故にそこに歴史的自省が可能であるかも十分に説明され得ないであろう。

(完)

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