哲学ノート (三木 清)

しかしながら存在論的認識の主観的性質を脱することの困難が注意されねばならぬ。従ってそれはつねに存在的認識に媒介されて客観的になることを要求されている。これは哲学などの如き特に思想といわれる種類の認識にとって格別に必要であって、哲学的認識は存在的認識と存在論的認識との弁証法的統一でなければならぬ。もと存在と思想という如き二つのものが弁証法的関係に立つとは考え難いであろう。弁証法的な関係において運動するのはむしろ存在的認識と存在論的認識とである。しかもこのような弁証法は私のいう存在と事実との弁証法、客体と主体との弁証法を認めてその根柢こんていにおいてはじめて考えられることができる。他の場合に述べたように、人間は主体と客体との弁証法的統一である。人間は単に主体でなく、同時に客体的存在の秩序に属している、そして主体は客体によって規定される方面がある。そこで認識の主体的条件、従ってまた存在論的真理或いは主体的真実性は、人間の客体的条件によって決定されるということがあるであろう。それだから一定の時代において、その客観的社会的条件に従って、或る階級は認識の主体であり得るのに反し、他の階級はそうでないということも生じ得る。ところでこのようにいわれる場合の主体は単に主体的なものでなく、かえって主体的・客体的なものである。 この意味における主体を我々は第二次の主体の概念と名附け得るであろう。第一次の主体の概念が、いわば単純に主体を意味するのに対し、これはかえって主体的・客体的なものである。例えば自然に対して人間が主体といわれる場合、かような主体が理解されている。この意味の主体もすでに主体的・客体的といわれる以上、主体と客体との対立を予想している。両者が単純に同一もしくは合一であるならば、それが認識の主体であることもできないであろう。自己における客体から主体への超越が認識の条件である。そのとき主体的・客体的なものが客体としてでなく主体として捉えられるのである限り、主体と客体との関係において主体の優位が認められるのでなければならぬ。これは主体を、かつて論じた如く、存在の根拠ともいうべき事実と考えることによって可能である。しかるにかような主体的・客体的なものとしての主体が固有の意味における実践の主体であるであろう。ここにおいて我々は行 Tat というものと実践 praxis というものとを区別しなければならない。主体は事実即ち行的なもの Tat-sache である。実践的主体は主体的・客体的なものという意味の主体として客体に対する主体を、そして主体の優位を予想するのであるから、その限り行は実践の根柢こんていである。しかし行的はなお実践的ではない。実践には必ず客体的意味が加わり、実践的なものは主体的・客体的なものでなければならぬ。それだからといって実践的主体は主体と客体との同一もしくは合一であるのではない。私はあの主客合一の立場において主体と客体を問題にしているのではない。主客合一というものはいわゆる自覚の形式において考えられる。即ち自覚においてはわれがわれを省み、かように省みられたわれ(客)と省みるわれ(主)とが共にわれとして同一であるということがある。かような自覚の形式において物を考えるならば、観念論が帰結するであろう。私はその意味における自覚の形式を世界形式にまで高めまた拡げるところの観念論の立場に同意することができない。実践においてはその意味の自覚におけるのとは反対に、私のいう二重の超越が明かになる。実践的主体は主体・客体の弁証法的なものであろう。それだから実践は認識と内面的につながり、存在的認識と存在論的認識との弁証法は実践を通じて現実的になると考えられねばならぬ。

思想の危機の時代には思想は主として性格において問題にされる。そこでひとは或る思想について客観的に真であるか否かを吟味することなく、ただその性格をのみ論議するようになる。そしてまたかような事情においては上に述べた如くひとは無性格な思想を撒き散らして恥じることを知らない。ひとは自己の思想の主体的真実性について顧みることをしないにもかかわらず、いたずらに他人の思想の性格を問題にする。かくの如きを我々はソフィストと呼ぶ。ソフィストには思想の存在的真理性も存在論的真理性も共に何等根本的に問題にならない。彼等は正しく知ろうとも、ほんとに理解しようともしない、彼等にとっては実践が問題でないからである。ソフィストの輩出、殊に彼等が批判家、批判の批判家の名において出現するということは思想の危機のひとつの徴候である。ソフィストはただロゴス(言葉)のうちに立てこもり、ロゴスをのみ楯とするものである。彼等には超越の問題が顕わでない。超越は実践の立場において二重の超越として現実的になる。実践は一切のソフィズムを粉砕する。

危機意識の性質をよりよく理解するために、危機というものが何であるかを明かにしなければならぬ。一般的にいうと、危機は特定の情勢を指すであろう。危機といわれる特定の情勢の、その特殊性の何であるかを規定するに先立って、いったい情勢というのは何であるかが哲学的に究明されねばならぬ。しかるに情勢が何であるかは、その概念を環境の概念と関係させながらこれと区別することによって適切に説明されるであろう。環境、情勢、危機という三つの概念は一定の連関において考えることができる。歴史的なものはすべて環境のうちにある。情勢は或る意味では環境と同じである。けれども環境という場合と情勢という場合とでは区別がある。そこで先ず環境の概念と情勢の概念との連関は次のように規定されねばならぬであろう。

第一、環境の概念がいわば静態的であるのに対して、情勢の概念は動態的である。言い換えると、情勢といううちには運動及び変化が含まれる。情勢は動き、変化する、動くもの、変化するものとして情勢なのである。情勢に関しては特にその動態が強調されているところから、環境というと普通直ちに自然的環境もしくは環境的自然が考えられるのに反し、情勢という場合には社会的情勢とか歴史的情勢とかが考えられるのがつねである。情勢のかような運動性乃至ないし変化性はその歴史性を意味するのでなければならぬ。しかるに歴史性の最も根本的な規定は時間性である。従って時間的ということが情勢の概念にとって構成的であって、これに対して環境の概念はむしろ空間的と考えられるであろう。環境が歴史的、時間的でないというのではない、ただ、環境の概念においては顕わでないような規定が情勢の概念においては前面に現われているのである。情勢はすべて時期的 epochal である、ひとはいつでも一定の時代、一定の時期の、特に現代の、現下の情勢について語る。歴史的時間的規定を離れて情勢は考えられない。この規定と関係して情勢の一回性ということが考えられる。情勢は一回的な、繰返さぬものとして現実的に情勢の意味をもっている。

第二、私は『歴史哲学』のなかで、環境といわれるものが客体的な存在を意味しながら主体的な事実を予想するということを、種々の方面から明かにしておいた。ミリュウ(環境)にとってミリュウ(中心)であるものはもと客体の秩序に属するのでなく、客体とは秩序を異にする主体でなければならない。このことは情勢の概念において更に一層明瞭になるであろう。情勢は或る客体的なものである、ひとは客体的情勢という。しかしながら単なる客体の秩序もしくは立場において情勢というものは考えられない。環境と情勢とを概念上区別するとき、後者においては前者にとって予想されているものが正面に現われ、前者にとって外にあるものが内に喰い込んでいる。かようなものは主体にほかならない。主体の概念を含めてでなければ客体的なものとしての情勢は考えられない。いわゆる主体的条件を除いて客観的情勢というものは情勢の意味においては存しない。環境は主体にとって外に或いはそばにある。これに反して情勢においては主体はその内に、一緒にある、しかも内に或いは一緒にということは、この場合静的な、融合的な関係を現わすのでなく、動的な対立的な関係を現わすのである。それ故に情勢は主体と客体との弁証法の上に立ち、この弁証法が客体の方面から捉えられたものが情勢である。私は情勢を運動的として規定したが、それは単に客体的なものの運動をいうのでなく、主体と客体との弁証法の意味において運動的ということが基礎的である。そしてかような弁証法は存在の歴史性の一般的規定である故に、情勢はすべて歴史的情勢といわれる。客観的情勢はもと歴史的情勢として情勢なのである。

第三、客体の方面から情勢として捉えられる弁証法は、主体の方面から捉えるとき実践である。具体的な意味における実践はつねに一定の情勢における実践であり、現実的な意味における情勢は実践を離れて考えることができぬ。情勢の概念にとって実践が構成的である。それだから植物や動物については環境のうちにあるといわれるにしても、情勢においてあるとはいわれない。植物や動物の運動は実践とは考えられないからである。人間の運動が実践であるのは、人間においては主体と客体との分裂、従って自己自身における客体から主体への超越があるためである。宇宙における人間の位置、その特殊地位は、これによって与えられている。かようにして自己自身を対象化することのできる人間は、自然の一部分として自然の内にありながら自然の外に立ってこれを対象化することができる。人間は自然の弁証法的対立物である。そしてかような人間の自己自身における超越は同時に人間のロゴスを可能にするであろう。或いはロゴスの媒介を通じて人間には客体から主体への超越が属している。そこでまた本来の意味における実践はアリストテレスがいったように πραξεις μετα λογουという規定をもっている。この μετα λογου ということは厳密に考えられねばならない。それはもと何等かの既成の理論をもってということではない、むしろ我々は実践するときロゴスの間にあるのである、実践と一緒にロゴスが生れるからである。というのは、ロゴスの可能になる条件は同時に実践の可能になる条件であり、そしてそれは人間における客体から主体への超越である。単に客体的な運動は実践でなく、実践にはロゴスをもって或いはロゴスの間においてということがなければならぬ。実践は主体と客体との弁証法の上に立ち、この弁証法が主体の方面から捉えられたものにほかならない。環境の概念も根柢こんていにおいて主体と客体との弁証法を予想するのであるが、いまだ顕わでなく、情勢の概念において、実践が構成的であることによって、それが顕わになるのである。

かくて要するに、環境の概念にとって予想されながらなお外的、抽象的であったものが、情勢の概念においては内的、現実的になると見られるであろう。しかるにいま危機の概念を分析するとき、我々は更にこの概念において、情勢の概念を環境の概念に対して特色附けたものが一段と顕わになってくるのを見出すであろう。

一、情勢が或る意味では特定の環境であるように、危機は特定の情勢である。客観的情勢といわれるように、客観的危機といわれる。しかしすでに述べたように情勢の概念は単に客体的なものとしては考えられず、主体と客体との弁証法を根柢こんていとして考えられる。危機の概念についても同様である。それのみでなくここでは、客体と主体或いは存在と事実との弁証法において、事実の存在に対する非連続的、超越的関係が顕わになる。これがちょうど危機といわれる特定の惰勢の特殊性をなしている。コントなどにならって歴史的時期を区別すると、危機的時期 époque critique は、有機的時期 époque organique に対し、後の場合その弁証法における存在と事実との連続的、内在的関係が顕わになるのと反対の特徴をもっている。およそ危機は変化を離れては考えられず、しかもその変化が全く有機的なものである限り考えられず、それが考えられるには変化乃至ないし発展のうちに非連続或いは飛躍が存しなければならぬ、従ってその変化乃至ないし発展は弁証法的なものでなければならない。危機は歴史の弁証法的発展における矛盾或いは対立の時期を意味している。しかしもしその弁証法が単に客体的に捉えられるならば、危機というものはあり得ないであろう。なぜなら単に客体的に見ると、危機的時期も一つの単なる過渡期に過ぎず、そのとき歴史の絶えざる推移の過程においていずれかの時期を特に危機としてこれに或る絶対性を認めるということはできない。単に客体的に見てゆく限り、アリストテレスの考えた如く、矛盾は反対として、反対は差異として、理解されることが可能であろう。絶対的な矛盾は主体との関係においてのみ考えられる。存在において現われる矛盾の根源は、他の場合に論究した如く、存在と事実との矛盾である。過渡期というものはどこまでも相対的なものである。これに反して危機は或る絶対性の要素、矛盾の、非連続の絶対性を除いては考えられない。そしてこのような絶対性はただ主体的にのみ捉えられることができる。危機は特定の情勢と見らるべきものであるから、その限りそれは客観的なものでなければならぬけれども、危機が特に絶対的な矛盾或いは矛盾の絶対性を意味する限り、それは根源的には存在と事実との弁証法における矛盾乃至ないし対立を意味しなければならぬ。そこからして危機として理解される特定の情勢のもとでは、客観的情勢のうちに現われる矛盾において、客体に対する主体の超越的、非連続的方面が一面的に強く意識されるということがある。これがまさに危機意識の根本的な特質をなしている。

二、危機の概念はつねに或る全体性の概念と結び附いている。危機は全体にかかわるものとして危機なのである。単なる個々の変化、個々の変化の量的増加でさえもが、いまだ危機の本質を語るものでない。そこには必ず全体にかかわる意味がなければならぬ。単なる量的増加でなく、いわゆる量から質への転化の意味がなければならぬ。危機のかかわる全体は単に量的な意味のものであることができない。量的な見方は客体的な見方である。客体的な存在はどこまでも量的に見てゆくことができるであろう。量的な客体的な見方に立つ限り、過渡期という如きものは考えられても、危機は考えられない。キェルケゴールがいったように、単に客体的に捉えられた弁証法は量的弁証法であり、量的弁証法においては危機は考えられず、危機は主体的に捉えられた性質的弁証法においてのみ考えられ得る。存在としての歴史は不断の生成変化のうちにあり、我々はつねにその途上にあるのであって、終局的な全体は与えられておらず、また仮に与えられておるとしても我々はそれを認識することができないであろう。歴史についての単なる客観主義は要するに単なる相対主義に終るのほかない。しかるに危機は全体の立場においてのみ考えられ得るとすれば、かような全体は何等かの客体的な、従ってまたイデーとしての意味においても客観的な、全体であることができぬ。危機の概念にとって構成的な全体の立場というのはそれだから客体的存在とは秩序を異にする主体的事実の立場でなければならぬ。事実は存在とは秩序を異にするものとして存在に対して各々の瞬間において全体性の意味をもっている。この全体はそれぞれの瞬間における性質的全体である。かような事実的全体の立場において存在が限定されるとき、存在も全体性の意味を担うことができる。その立場において限定されるのは弁証法的全体であって、実践にかかわるのはかような弁証法的全体である。それは有機的全体と混同されてはならぬ。有機的全体の概念をもっては危機は考えられない。有機的発展において危機が考えられないように、イデー的見方においても危機は考えられない。イデーはいわゆるノエマ的なもの、従ってすでに客体の意味を含むからである。主体が私のいう事実の意味のものであるところに危機も考えられ得るのである。

三、私は情勢の概念が時間的であり、時期的であることを述べた。ところで時期の概念は既に或る全体の意味を含んでいる。蓋し Epoche, époque(時期)などいう近代語はギリシア語の έποχη から出ており、その動詞の形は έπέχω であって、これは前続詞 έπι(時間的にはあいだを意味する)と持つ、把握する habere という意味の動詞 έχω とから成っている。それだからエポックは不断に流れてゆく時間を或るひとつの全体として把握することを意味するであろう。直線として表象されるような客体的時間を主体的に中断し、円環的に把握するという意味がなければエポックは考えられない。従ってそれは私のいう意味での歴史的時間、即ち事実的時間によって構造附けられた存在の時間である。しかるに危機においては存在に対する事実の超越と非連続にアクセントがおかれるところから、危機は時期的というよりも瞬間的である。元来いわゆる危機的時期があるのでなく、危機的瞬間 moment critique があるのみであるといわれるであろう。この瞬間は元来客体的時間における極小を意味するのではない。危機はつねに現在の危機であり、この現在は事実的時間の現在であって、瞬間として規定されるのである。危機がいつでも歴史的時間における現代と結び附いて考えられるのも、もとそれがこのような現在に属することを反映していると見られるであろう。現代は危機として捉えられることによって最もよくその現在性を顕わにすることができる。フィヒテは『現在の特徴』の中で地上生活の五つの根本時期を分ち、そして彼の現代をそれらの諸時期のちょうどまんなかの時期、即ち人類歴史の第三の時期にあたるとなし、これを「罪悪の完成した状態」として特徴附け、かようにして現代を危機と見ることによってその実践的重要性を力説しようとした。しかしながらもフィヒテのいう如く人類歴史の全時期が先験的に構成され得るものとしたならば、その中で特に現代が危機的時期であるということは理解され難いであろう。そこでは全体の時期が既にイデー的に与えられているのであるから、その中において現代は一つの過渡期であるにしても、特に危機という如き意味を有し得ない。現在が絶対的な意味を有するときはじめて危機も考えられる。危機は瞬間から瞬間へと飛躍する非連続的な時間において考えられ得るのであり、このような時間は主体的な事実的時間にほかならない。それ故に危機意識は存在に対する事実の超越の関係の一面的な意識として生じ得るものである。

かようにして危機を根本的に特徴附けるものは、主体と客体との弁証法において、主体の客体に対する超越或いは非連続が一面的に強調されるということである。矛盾の集中的表現といわれる特定の情勢としての危機において顕わになるのは、主体と客体との矛盾であり、両者の対立的関係である。従って危機意識の最も根源的な規定は、私のいうミュトス的意識であるということである。ミュトスはいわゆる神話、単に神々や英雄たちの物語をいうのではない。ミュトス的意識の根本的性質はおよそ次の如きものである。一、ミュトスは対立もしくは矛盾の意識である。しかもこの対立が単に客体における対立でなく、主体と客体との対立であるところにミュトス的意識は生れる。二、ミュトスはつねに生成及び変化の観念と結び附いている。しかもこのような変化が全体にかかわる意味を有し、単に連続的でなく、非連続的飛躍的であるところにミュトス的意識は生れるのである。生成乃至ないし変化の観念と結び附く故に、時間の観念がミュトスにとって構成的である。この時間の観念はもちろん客体的な存在の時間の観念ではない。むしろそこでは存在に対する事実の超越性が一面的に意識されるところから、この時間の観念は事実的時間の表現である。ミュトス的意識は現在性の意識であり、そしてその現在はもと瞬間として未来がそのうちに喰い入れる現在である故に、それはまた特殊な未来性の意識である。三、ミュトス的意識は客体に対する主体の超越の意識である故に、それは本来直観的である。直観的といっても、それは客体的直観的であるのでなく、主体的直覚的である。それは形あるものの形を見るのではなく、形なきものの形を見るのである。それはイデー的な直観でもない、かえって主体が根源的に自然的なものの意味を含むところに、ミュトスは生れるのである。主体が事実であってイデーでなく、むしろ、第一次の自然ともいうべきものであるから、ミュトスは生れるのである。ミュトスについて深い思想を述べた人は、シェリングでも、バコーフェンでも、ニーチェでも、すべてかような「事実」を根柢こんていとしたといい得るであろ。

ミュトスの哲学に深入りすることは他の機会を待たねばならぬ。そこで特に問題になるのは、右の如き根源的なミュトス的意識の発展形態である。なぜなら我々の見るところによると危機意識はつねに何等かこのような根源的なミュトスを含むのであるから、ミュトス的意識の種々の発展形態において、ひとが危機に対して如何なる態度を取るかが明瞭に認められ得るからである。Mythos の発展形態は一般的に Mythologie と呼ぶことができる。ミュトスの発展はロゴス的に客体的存在の表象と結び附いて行われるのほかないであろう。私はここでそのようなミュトロギーのすべての種類について論ずることはできない。いま思想の危機の問題に対して特に関係があるのは、ミュトロギーのひとつの種類としてのユートピアである。

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