哲学ノート (三木 清)

もっともあらゆる伝統的なものがすぐれた意味で歴史的と考えられるのではないであろう。歴史家にしても過去から伝わる無数の事実のうち語るに足り記すに足りるものを選択する。民衆にとっては特にそうである。歴史的なものはすべて伝統的なものであるとすれば、すぐれた意味で歴史的と考えられるのは大いなる伝統である。民衆の間で歴史的なものとして生きているのは、英雄とか偉人とか、何か偉大なものである。この意味において歴史と考えられるものがミュトス化(神話化)されたものであることは明かである。伝統と神話的意識との結合はここにおいて更に高昇する。一般に伝統といわれるものにおいて顕わでないミュトス化はこの場合顕わになる。かようにして「伝統」は特に「伝説」となる。伝説は歴史的伝承の最も生命的な形態である。一般の伝統においてはその根柢こんていにあってその妥当性を支えているに過ぎぬ神話的意識は、伝説においてはこのものの構造にまで作用する。ロゴスの組織作用に対してパトスの根本的な作用は結晶作用である。伝説はこの結晶作用を通じて形作られるのである。歴史は英雄の歴史として存在することを容易にやめるものではない。科学的な歴史家はもとよりそこにとどまることなく、英雄と共に大衆を、傑作と共に凡庸の作品を研究しなければならぬ。大衆の動きを認識しなければ英雄の活動の意義も把握されないであろうし、凡庸の作品を研究しなければ傑作が社会的に如何に準備され、如何に影響したかを知ることもできないであろう。しかしそれにもかかわらず歴史家にしても神話的意識を全く脱し得るものではないであろう。例えば文学史の研究において傑作が中心をなすということは種々理由のあることであろうが、その場合にしても歴史家は一々の作品をすべて自分で批評した後はじめて、どれが傑作であるかを定めるとは信じられず、コンヴェンションに、それ故に神話に従っていることが少くないであろう。かようなコンヴェンションが過去の歴史についても、それが社会的に生きているものである限り、秩序を与えている。過去の歴史のうちに秩序を建てるものもコンヴェンションである。

もとより伝統もまた変化し、一定の期間伝わっていたものもすたれて、その後には伝わらなくなるということがある。しかるに他方、従来忘却の海の中に沈んでいたもの或いは殆ど顧みられなかったものが新しい力をもって再生するのが見られるであろう。再生或いは復興ということは歴史のひとつの重要な方面をなしている。ひとはヨーロッパの歴史におけるあの華かな一時期をルネサンスと呼んでいるが、そのとき久しい間彼等の墓の中で眠っていたローマ人やギリシア人はさまされた。生きた歴史の発展が要求するに従って、死んでいた歴史は再びよみがえり、過去の歴史は現在となる。復興ということは単にあの文芸復興期を特徴附けるに止まらず、あらゆる歴史の本質的な一面である。もしルネサンス即ち再生或いは復興ということがないとしたならば、歴史というものもないであろう。次から次へ生起する事象がただ過ぎ去ってしまい、何物も若返り、再生することがないとしたならば、もと歴史というものはあり得ない。歴史的意識のうちには復興の意識が含まれている。

ところで復興の端初は現在にある。復興とは単に繰返すことではない。繰返すというとき、端初は過去にある。ひとは昔から今へと繰返すのである。しかるに復興とは手繰り寄せることである。手繰り寄せるというとき、端緒は自分の手先に、従って現在にある。普通に歴史は昔に始まり今に至るといわれ、従って歴史の端初は過去にあると考えられている。しかしながら生きた歴史の端初はかえって現在にあるのであって、そこから手繰り寄せられることによって過去の歴史も生きたものになる。さきほど我が国でいわれたヘーゲル復興にしても、現在の歴史を端緒としてマルクスを手繰り寄せ、これを通じてヘーゲルを手繰り寄せたということがあったであろう。また現代におけるプラトン研究の興起にしても、カント哲学復興の刺戟にち、人々はカントを通じてプラトンを手繰り寄せたのである。今日また我が国では文芸復興ということがいわれると共に種々の古典の復興が見られるが、この場合にも同様の関係があるであろう。かようにして歴史的意識は単に過去の意識でなく、根源的に現在の意識によって規定されている。同じことは歴史が教訓と考えられる場合においても認められるであろう。東洋では歴史は「かがみ」と呼ばれてきた。過去の歴史から学ぶということが単にそれを繰返すことでなく、手繰り寄せることであるのは明かである。

かようにして歴史的なものは過ぎ去ったものでなく、今なお生き、はたらくものである。歴史は現在の意識によって支えられている。そして神話的意識はあたかも現在の意識から生れる。我々は神話的意識の根源をパトス的意識のうちに見出す。これに対するロゴス的意識は対象的な意識であり、その対象性は「既に」という性格によって規定されている。対象とは、我々が何を始めるにせよ、つねに既にそこにあるものである。それは現にあるものであるが、この「現に」ということは「既に」という意味を離れず、従って或る過去性をもっている。パトス的意識が真の現在の意識である。それは対象的なものでなくて主体的なものの意識である。歴史的なものがさまざまに神話的意識によって担われているということは、歴史がその底においてある場所が現在であることを示している。学者はしばしばロゴスとミュトスという語を対立させて用いているがその場合ロゴスは理性的なもの、ミュトスは歴史的なものをいうのである。

もちろん、そこに伝わるという方面、それ故に過去から流れる時間を考えなければ、歴史は考えられないであろう。しかし上に述べた如く歴史にはまた手繰り寄せるという方面がなければならない。前の場合には現在は過去からの歴史の終である。後の意味においては現在は歴史の始である。従って歴史の始と終とは一致すると考えられる。そしてアルクマイオンのいった如く、「その始を終と結び附ける」ものとして、歴史は生命的なものである。後の意味における時間は、前の場合のように過去から未来へ向って流れる時間ではなく、未来から流れて来る時間と考えられねばならぬであろう。このいわば二つの方向の時間の相接するところが歴史の現在である。むしろ真の現在はかような二つの時間を包むものである。かようなものとして現在は永遠の意味をもっている。それは時間を包むのみでなく、時間はそれから生れるのである。ミュトスはここに根差している。歴史的なものについてこそ “Alles Vergängliche ist nur ein Gleichnis.” といい得るであろう。時間そのものがミュトス的なものであり、ミュトスの原始形態とも考えられるであろう。

パトス的なものは主体的なものであり、行為的なものである。人間の現実の行為は対象界において行われ、これによって規定されるが、単なる客体の運動は行為と考えることができない。歴史的行為は主体的に規定され、従って表現の意味を含んでいる。コンヴェンションにしても単に知的なものではなく、表現的なところがある。ただコンヴェンションは有用性に囚われ、インテレストと結び附いている。インテレストというのは人間が世界のうちにある interesse ということの存在的・存在論的規定である。即ちインテレストにもとづくコンヴェンションにおいては主体は客体のうちに縛られ、埋れている。コンヴェンショナルな行為はかようなものとして、現在の行為であってもつねに既に過去性を負うている。コンヴェンションは如何なる時にあるにしてもベルグソンのいう「流れた時間」のうちにある。真の現在はコンヴェンションに先立つ現実である。我々は如何にしてこのような現実に達し得るであろうか。この問にヴァレリイは、プルーストと同じように、芸術作品によってであると答えると信ずる、とモーロワはいっている。まことに芸術上の創作はそのようなものであろう。それにしても人間的創造はあらゆるミュトス的意識を離れ得るであろうか。芸術家の創造はインスピレーションにもとづくといわれるが、インスピレーションとはそれにおいてミュトスがはらまれることをいうのではなかろうか。ミュトス的意識は主体的な意識であるが、パトスがミュトス的になるということは主体的なものの客観的なものへの堪え難い欲求を現わすものである。かような欲求の現われとしてミュトスは表現的なものの根源形態である。その協力なしには芸術作品はないといわれるデモンとはかようにミュトス的になったパトスのことであろう。もとよりインスピレーションだけで芸術が出来ないのは、趣味だけで芸術が出来ないのと同様である。芸術家は何よりも作る者であり、作ることにおいて自己を証する者である。作るためには物体的なもの、たとえば詩においては語を操ることを知らねばならぬ、しかるに物体的な材料はそれ自身の固有の力をもっている。ひとは感情によって詩を作るのでなく、語によって詩を作るのである。ヴァレリイは、詩人は職人のようでなければならず、自覚的な、方法的な職人でなければならない、と力説している。「詩は知性の祝祭でなければならぬ。」とはヴァレリイのよく知られた言葉である。職人気質なしには詩的天才もない。 しかし芸術家と職人との間には本質的な差異がある。職人は彼の頭の中に予め存在するイデーに従って仕事をする。従って彼の製作は対象的製作である。しかるに芸術家の仕事は、純粋であればあるほど、無からの創造である。彼のイデーは作ることのうちにおいて生れてくるのである。「あらゆる思想の端には溜息がある」といわれる如く、イデーはこの場合パトスに活かされたものである。インスピレーションは詩その他の芸術において深く隠されているにしても存在する。いな、あらゆる歴史的行為はミュトスから始まるといわれ得るであろう。そしてそれは行為の主体というものが根源的に自然的なものの意味を含むことを示している。人間の行為は、どれほど内的に考えるにしても、つねに身体的である。そしてそれはまた人間の行為の根本的な受動性を意味するものである。身体はもとより単に受動的でないにしても、受動性の原理であることを離れるものではない。人間の行為にはその原理が自分のうちにあると共に自分のうちにないというところがある。歴史は我々の作るものであると共に我々にとって作られるものであるという意味をもっている。その運動の原理を自分のうちに有するものはアリストテレスがいった意味での自然、即ち植物の如きものであって、かように考えられる植物の生長の過程と人間の行為とが異るのは、人間の行為にとってその原理は自分のうちにあると共にまた自分のうちにないというところがあるためである。創造的なミュトスもパッシオ即ちかような根源的な受動性から生れるものである。

危機意識の哲学的解明

思想の危機に際して問題になるのは思想の性格である。思想がその性格において問題にされるということが思想の危機の時代のひとつの特徴である。思想の性格の概念は思想の価値の概念から区別されるであろう。思想の価値を表わすものとして普通に真理、それに関係して虚偽という言葉が用いられる。価値の見地から見ると、或る思想について問題になるのはただ、真であるか偽であるかということである。しかるに思想の危機の時代においては一定の思想について何よりもその真偽が問題にされるのでなく、むしろ主としてその思想が善いか悪いか、穏健か危険か、進歩的か反動的か、等々が問題にされる。すべてこの種の言葉は思想の性格を表わすものと見ることができる。思想の価値判断よりも性格批判ともいうべきものが特にこの時代においては問題になるのである。ここに危機意識のひとつの性質が現われる。

思想の性格を作り出すものは思想の効果であると考えられるであろう。それは思想そのものに内在する性質ではなくて、思想の外部に対する影響の仕方を現わすものと見られるであろう。確かにそのような方面がある。しかしそのとき思想の外なるものというのは精密には何を指すであろうか。思想の外部にあるものというと、普通の存在が、客体が、対象が考えられる。けれどもそれがただ単に存在、客体、対象の意味であれば、それとの関係において思想が特に性格という如きものを得ると考えることは困難であろう。客体との関係においてあらわになるのはむしろ思想の真偽即ち価値であると考えられるからである。クラシカルな定義によると、真理というのは物(客体、対象)と観念との一致――adequatio rei et intellectus――である。思想の客観的効果として現われるものは究極においてその真偽でなければならぬ。思想の性格から区別される限りにおける思想の価値はこのような客体的真理或いは対象的真理を意味している。私はいまこれを存在的真理 ontische Wahrheit という言葉で術語的に規定しようと思う。 ところでそのような客体的価値から区別される限りにおける思想の性格は根本においてその主体的意味にかかわるのでなければならない。即ち根源的には客体でなく主体に対する、従って私の『歴史哲学』における言葉を用いると、「存在」でなく「事実」に対する関係において、思想の性格は作り出されるのである。思想の性格は自然に対する関係においてでなく、人間、階級、社会等に対する関係において思想に賦与ふ よされるといわれる。このとき自然は単に客体と見られ、人間、階級、社会等は単に客体としてでなく主体として理解されているのである。思想の外にあるものが単に客体として外部でなく、かえって主体として内部であるのでなければ、それとの関係において思想が一定の性格を得てくることはできないであろう。思想の性格は思想の単なる外的性質ではない。自己の外なるものに対する効果として担わされる思想の性格がその外的性格でなくて内的性格であると考えられるのは、この外なるものがもと内なるものであるためである。思想の性格は内的な意味賦与によって生ずる。しかしこの内なるものは実は真に外なるものであるともいわれ得るであろう。主体と称するものは意識と同じでない。私のいう事実は意識よりも更に内なるもの、従って真に外なるものである。意識は客体と主体との双方に対して極限の意味をもっている。対象的価値から区別される主体的意味としての思想の性格はその単なる心理的効果をいうのではない。主体は内において意識を超越する。いわゆる心理は主体的意味のインデックスと見らるべきものであろう。思想の性格を表わすために用いられる言葉がすべて何等か主体的な表現であるということが右の事情をおのずから示している。しかし思想の外なるものはどこまでも存在或いは客体であり、これとの関係において思想が一定の性格を得てくるのは、この存在或いは客体が固定し静止するものでなく運動し変化するものであるためであると考えられるであろう。しかるにもしその運動し変化するものが単に客体の意味のものであるとしたならば、これとの関係において顕わになるのはまたどこまでも思想の価値即ちその真偽であって、性格という如きものであることはできないであろう。 歴史は変化する、これを変化するものと見る思想は進歩的であり、反対にこれを変化しないものと考える思想は反動的であるといわれる。その場合もし歴史というものが単に客体的なものであるとしたならば、一方は対象に一致する思想として明かに真であり、他方は対象に一致しない思想として疑いもなく偽であり、従って進歩的及び反動的という思想の性格はその実質において思想の価値にほかならぬことになるであろう。それだから思想についてその性格がその価値とは異る独自の意味で語られる限り、そのような変化し運動するものは単に客体的なものでなく、かえって主体の意味を有するのでなければならぬ。或いは思想の性格はその実践的意味を表わすといわれるであろう。しかしながらもし実践というものが単に客体的に考えられるならば、実践によって明かになるのはまさに思想の対象的真理性即ちその価値である。思想の性格はその実践的意味であるにしても、このとき実践というものは主体的なものとして理解されるのでなければならない。

思想の危機の時代には思想はその価値においてよりもその性格において問題にされる。しかるにちょうどこの事情のために、またこの時代ほど無性格な思想の横行することもないのである。かようにはなはだしく無性格な思想が跋扈ばっこするというのは、そこではあらゆる思想が性格的なものとして受取られる傾向の遍在しているためである。無性格な思想というのは主体的真実性のない思想である、確信を欠く思想である、運命的でない思想である。 無性格な思想というのはただ他人に対する効果をのみあてこんだ思想である。他人における主体的効果でなく、単なる心理的効果をあてこんだ思想である。そのような思想はその心理的効果によって他人を面白がらせ、景気附け、饒舌にするにしても、主体的効果を欠く故に、彼等を実践に駆り、或いは彼等において彼等自身の思想の生産を促すことはできない。自己自身にとって主体的真実性を有する思想のみが他人において主体的効果を現わすことができる。単なる心理的効果と真の主体的効果とは区別されねばならぬ。思想は外部に対する効果によってはじめて性格を得るのではなく、主体的真実性を有する思想は内においてそれ自身既に性格をそなえているのである。そしてかようにそれ自身に性格を有する思想はまたおのずから他に対して主体的にはたらきかけ、そのことを通じて自己自身の性格を現実化する。単に内的な性格というものはあり得ない、そのはたらきの全歴史においてはじめて性格は現実的に認識され得るのである。もっとも主体的真実性のない無性格な思想も、客観的価値の見地においてはそれ自身真理であるということもあり得るであろう。そのような思想もなお存在的真理であることが可能である。ここにおいて存在的真理の概念に対して先ず主体的な意味における真実性の概念が区別されねばならぬであろう。思想の性格は対象的な意味における真理性 Wahrheit によって規定されるというよりも寧ろ主体的な意味における真実性 Wahrhaftigkeit によって形作られる。しかるにそのような真実性は、実をいうと、より根本的な事実的真理もしくは存在論的真理 ontologische Wahrheit の主観的な、即ち意識における規定を現わすのである。ちょうど存在的真理の主観的な、従ってロゴス的な面を現わすものとして、存在的真理即ち普通にいう真理の概念から区別されて正しさ Richtigkeit の概念が規定されるのと同様である。そのような正しさとまこと或いはほんと即ち主体的真実性とは同じでない。或ることを正しく知るということとそれがほんとに分るということは別である。一方は客体的な関係を、他方は主体的な関係を意味するであろう。 いずれにしても正しさ及びまことは認識の内在的な面を表わしている。これに対して存在的真理及び存在論的真理の概念は認識の超越的関係を指すものと理解しなければならぬ。他の場合に論じた如く、意識に対して二重の超越が、一面では客体的に「存在」が、他面では主体的に「事実」が考えられるに相応して、二重の意味における真理の概念が与えられる。超越的なものへの関係を離れて真理はない。正しさが存在的真理の内在的インデックスであるように、まことは事実的真理の主観的インデックスである。真実性はもとより心理的なものでありながら単に心理的なものと考えられないのは、それが超越的な事実的真理のインデックスにほかならぬためである。意識は外において存在によって規定されるのみでなく、内において事実によって規定されている。正しいと知っただけではなお行為的に動かされない、ほんとに分ったときはじめて主体的にはたらきかけられ、かようにして実践に促され、或いは自己において自己自身の思想をはらまされるのである。

そこでまた理論の概念と思想の概念とが区別されるであろう。そして思想の危機というように、危機の時代において問題にされるのは特に思想であり、理論も思想として問題にされるというのがこの時代の特徴である。かように思想と理論とを区別するとき、理論は主として存在的真理に、これに反して思想は主として存在論的真理に関係すると見ることができる。それに応じて理論は性格と特に関係のないものであり、しかるに思想は本来性格的なものである。そのような意味で自然科学は高い程度において理論的であり、社会科学、哲学へとのぼるに従って、より思想的になるといわれるであろう。もっとも思想の危機の時代においては自然科学の如きもいわゆる思想問題のうちに引入れられる。けだし如何なる理論も何等かの程度で思想的要素を含んでいる。思想的要素は理論の主体的制約を現わすものであり、従って理論のイデオロギー的性質を現わすものにほかならない。イデオロギーという語は、厳密に考えると、理論が単に客体的にでなく、かえって同時に主体的に制約されていることを意味しなければならぬであろう。理論はイデオロギー的である限り性格的である。思想の危機の時代においては芸術、哲学等はもとより科学の如きもイデオロギーとして問題にされるのである。我々の思想はただ単に客体的に規定されると考えることはできない。もし絶対にそうであるとしたならば、例えば一定の階級に属しない人間がこの階級の思想を獲得し、生産しさえするということは不可能でなければならぬであろう。 それが可能であるのは人間の哲学的な根本的規定として、彼において主体と客体との分裂があり、従って自己自身において客体から主体への超越があるからでなければならない。このような超越はおよそ認識の可能になるための条件である。それによって我々は存在を対象化し、これをその客観性において知ることができる。即ちそれは対象的知識、存在的認識、従って理論的認識の条件である。それのみでなく、それは存在論的認識の条件でもある。そのことのあるために我々の思想は単に時代に束縛されないで時代を超越し、時代に先駆するということも可能である。存在的認識と存在論的認識との概念上における相違は、後者のこのような先駆性――その論理的意味では予料性――において認められ得るであろう。思想は思想として何等か先駆性を含むことが要求されているともいわれるであろう。そこからあのマックス・ウェーベルなどのいう予言者的哲学の理念も理解することができる。思想は主体的に規定されるものであるところに、それが文芸などと同じように創作的であるということも生ずるのである。客体的存在の模写という方面からは創作というものは考えられない。ところで思想の危機の時代においては、後に示されるような事情のもとに、思想の先駆性に対する要求が顕著になり、その結果としてユートピアの如きものも生産されることになる。これがまた危機の時代における思想のひとつの特徴である。

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