哲学ノート (三木 清)

イデオロギーとパトロギー

スタンダールは一生の間「イデオロジー」を信奉した。イデオローグに対する彼の尊敬は非常なものであった。先ずコンディヤック、次にエルヴェシウス、カバニス、トラシなどの名は彼の著作において無数の機会に讃辞を尽して挙げられている。エルヴェシウスは「私のために人間の二枚扉の戸を開いた人」であるといい、トラシについては「その書物によって私が最も感心した人、私に革命を喚び起した唯一の人」と書いている。スタンダールがかくも尊重したフランスのイデオロジーとは如何なる科学であったであろうか。「この科学は、もしひとがその対象にしか注意しないならば、イデオロジー(観念学)と称せられ得る、もしひとがその手段をしか顧慮しないならば、一般文法学と称せられ得る、そしてもしひとがその目的をしか考察しないならば、論理学と称せられ得る。それに如何なる名が与えられるにせよ、その名は必然的にこれら三つの部分を含む、けだしひとはその一つの部分を、他の二つの部分を取扱うことなしに、合理的に取扱うことができないからである。」とトラシは定義的に述べている。イデオロジーというものの内容がこのように規定されるとすれば、それはつまり私のいうロゴス或いはロゴス的意識の科学にはかならないであろう。それは先ず一般文法学という意味で言葉(ロゴス)の学であり、それはまた論理学(ロジック)という意味でロゴスの学であり、そして更に根本的にそれは観念学という意味でロゴス(ギリシアの哲学者によると、ロゴスはすなわちエイドス、或いはイデーである)の学である。この場合イデーという語はなにも理想主義的な意味にとられることを要しない。私が花を見るとき、花の観念が与えられる、鳥を見るとき、鳥の観念が与えられる。見ることには見られたものがある、意識は何物かの意識である。意識の作用は対象を含んでいる。このように対象を含む、従って対象性もしくは客観性を有する意識を私はすべてロゴス的意識と呼ぶ。それには感性知覚の如きものから思惟し いに至るまでいろいろ種類と段階があるであろう。しかしそれらはおしなべて客体的な意識である。いわゆるイデオロギーとはかくの如き客体的な意識に関する科学であると解することができる。

もっともフランスの当時のイデオローグは単にいわゆる心理学の研究を企てたのではなかった。エルヴェシウスがその著書のひとつを『人間論』と名附けたように、イデオロジーはつまり人間学であった。そしてエルヴェシウスにとっては人間の研究は社会的革新を準備すべきものであって、人間学は政治学及び社会科学の予備の章を意味した。しかしその意図がどうであったにしても、彼等が「イデオローグ」であった限り、彼等は人間を単に客体的にしか捉え得なかったのである。彼等のイデオロジーは人間の主体的な意識をその主体性において理解することを知らなかった。このような主体的な意識を私はロゴスに対して一般にパトス或いはパトス的意識と称する。イデオローグにとってはパッション(パトス)はむしろ何か錯覚的なもの、リアリティをもたぬものであった。人間のパッションは悪い政治制度に、間違った社会形態に由来する附加物であり、従ってそれは政治的進歩によって消滅せらるべきもの、また消滅させられ得るもののように考えられた。ただトラシはこの点でいくらか例外をなしている。フランスの哲学においてかようなイデオローグに対してパッションの固有の意味を認めるに至ったのはメーヌ・ドゥ・ビランのアントロポロジー(人間学)であるといわれる。

しかしすでにスタンダールはすぐれた人間学者として、イデオロジーだけでなく、それにパッションの分析を附け加えなければならぬことを理解した。そしてそのことによって彼は単なるイデオローグでなく立派な小説家であり得たのである。スタンダールのパッションの分析は『恋愛論』において一応まとまった形を与えられている。私はいつかこのたぐい稀なる書物について書いてみたいと思う。彼のために「人間の二枚扉の戸を開いた」エルヴェシウスも、パッション、殊に愛のパッションの根源性、そのリアリティを認めなかったという点で彼には堪え難い人であった。スタンダールはいう、エルヴェシウスは乾いた心臓、冷い心の人であった、彼は全く間違っていた、イデオロジーは一定の対象に適用されると粗暴なものになる。「悪いことは、このような人々が美術に、それについて理窟をいうことによって、くちばしを入れようとする場合であり、更により悪いことは、それを実地にやることによって、喙を入れようとする場合である」。芸術の問題は何よりもパトスの問題である。スタンダールもパッションと芸術とは同じ根のものであると考えた。

さしあたりひとは創作ということについて少しばかり考えてみるがい。天才という語と同じく、創造という語は現代には不向きであるように見える。この頃も或る人が私の文章を批評した際、私が創造という言葉を使ったことを非難するもののように、それは生産という言葉で置き換えるべきであると書いていた。しかしながら普通に文芸などにおいて創作といわれるものには何か創造的なところがあり、この面を除くことはできないと思う。作家が小説を作ることと工場で時計を生産することとの間には差異がある。後のものが客観的な過程であるのに反して、前のものに客観的なものに分解してしまうことのできないもの、客観的とは考えられない主観的なものを含んでいる。主観的といっても単なる気随きずいでないことはもちろんである。また創作も人間的な活動として、神の創造の場合における如く何物も、何等の物質的なもの、何等の身体的なものも予想しない純粋な創造活動であり得ないことは言うまでもない。しかしその物質的乃至ないし身体的なものが外的存在を意味するならば、創作というものは考えられないであろう。人間の意識は外部の存在を模写するとか反映するとかいわれている。けれども意識が単に外的存在を反映し模写するものである限り、その関係からは創作というものは出てこない筈である。しかも創作という活動も、如何なる意味においても身体或いは物質によって規定されない純粋な創作活動であり得ないとすれば、人間の創作活動の根柢こんていには何か、外的物質、外的身体とは異る意味における内的な身体或いは物質があり、このものによってそれが裏から、内部から規定されていると考えられねばならない。意識に対して二重の超越が考えられる。外に向って意識を超越する外的存在によって意識の規定される関係が反映とか模写とかいわれるならば、内に向って意識を超越する内的身体によって意識の規定される関係は表現とか表出とか呼ばれることができる。内に向って意識を超越するものは客体とはいわれず、主体といわねばならぬ。意識において主体は映されるというよりも、主体が意識のうちににじみ出てくるのである。主体は外に見られるのでなく、いわゆる absconditus cordis homo(心臓のうちに隠された見えざる人間)である。この内的人間も人間として純粋な精神というようなものでなく、身体的でなければならぬ。このように内に向って意識を超越する主体によって規定される限りの意識がパトスである。パトスは主体を模写するとはいわれず、それを表出し表現する。創作の問題は根本においてこのようなパトスの問題である。

デカルトは『情念論』のなかでエスプリ・ザニモオ(動物精気)について述べている。彼によると、動物精気というのは血液の最も微細な、最も動きやすい、最も熱した部分であって、心臓の熱気によって蒸溜されて生じ、他の部分とは違いこの部分だけは、非常に狭い路を通って脳髄の中へ入ることができる。動物精気は特に人間の情念(パッション)と関係をもっている。即ちデカルトによると、視覚、聴覚などの外的感覚や飢渇などの自然的衝動は身体の機関に関係するものであるが、喜び、悲しみ、愛、憎みなどという情念はどのような身体の機関にも関係なく、精神そのものの感動である。しかしこの精神の感動は精神みずからの能動作用にもとづいて起るのでなく、かえって精神の受動状態であって、肉体ことに動物精気の影響の結果であるというのである。情念は一方では視覚、聴覚、また飢渇などとは違って或る内的なものと見られている、それは精神の感動である。しかし情念は他方では純粋な精神活動ではなく、外的感覚や自然的衝動と同じく身体に依存するものと見られている。けれどもそれは後者のように身体の機関即ち或る外的身体に依存するのではなく、むしろいわば内的身体に依存するのである。情念がそれに依存するとせられ、眼や耳、胃腸などの身体の機関とは異る機能を有すると考えられた動物精気は、普通にいう身体即ち外的身体に対する内的身体の意味のものでなければならぬ。それをデカルトの如く血液の或る部分というように考えたのでは、結局それも外的身体の一部になってしまい、情念が外的感覚や自然衝動とは違って、身体に依存しながらなお或る内的なものであるという意味が失われるであろう。

かようにして人間は二重の意味において身体を有すると考えることができる。我々が喜び、悲しみ、愛、憎みなどさまざまの情念に動かされるということは、我々が外的身体とは異る内的身体を有するしるしである。人間の外的身体に個人によって強弱の別があるように、人間の内的身体にも個人によって強弱の別があるであろう。しかも両者の強弱は必ずしも平行し一致していない。いわゆるからだの弱い人にも動物精気のなかなか多い人があるのである。

およそ純粋性ということが問題になり、また問題にされねばならないような人間的活動の領域においては特に、その人の動物精気の量が問題になるのではないかと思う。文学や哲学などにおいては純粋性ということが問題になる。諸科学の場合には固有な意昧での純粋性の問題は存しない。文学や哲学などの領域における活動は内的身体の問題であるように考えられる。純粋なものの問題は動物精気の問題であり、従ってなんら精神の問題でなくて身体の問題であり、しかも形ある身体ではなくて形なき身体の問題である。こういうものに根差している故に純粋性が問題になるのだと考えられると共に、そういうものの中からだこそ純粋といわれるものも生じ得ると考えられるのである。内的身体は形なきものとして、外的身体よりも質料的、より物質的である。愛や憎みは盲目であるといわれる。しかしそのような情念も、それが依存するところの動物精気に比してはなお光あるものであろう。ゲーテは天才の活動のうちにデモーニッシュなものを見たが、デモーニッシュなものというのは動物精気のことであろう。ギリシア人の考え方とは反対に、形あるもの、イデア的なものよりも、質料的なもの、物質的なものがより原理的なものである。形ある身体よりも動物精気はより物質的なものである。このものの根源の上にイデア的なもの、即ち文学における表現、哲学における思惟し いは生れる。文は人なりといわれているが、文は動物精気であるといわねばならぬであろう。ただ感性的なもの、身体的なものの基礎の上にあるもののみが、このものの物質的な圧力を通して、人間に訴えること、迫ること、人間を捉えることができる。しかし多量なエスプリ・ザニモオを感じさせるような人間にも、書物にも、そうたびたび出会うものではない。「人間的な、あまりに人間的な」のがなげかれるのである。

ニーチェは情熱の心理学について無経験で無知なドイツ人に対して、スタンダールを称揚している。このニーチェは一生の間ソクラテスと格闘した。このいわば世界史的な格闘の意味はどこにあったであろうか。ソクラテスはロゴスの力を混り物のない純粋さ、明瞭さにおいて現わした人である。それに対抗してニーチェはパトスの根源性と高さとを主張した。ソクラテスはなかにも倫理をロゴスと結び附けた。それとは反対にニーチェは倫理上の諸概念をパトスから導いてくる。ニーチェはその反キリスト的な口吻こうふんにもかかわらずキリストとは格闘しはしなかった。彼はむしろキリストに対して嫉妬を感じたのである。思想上においてロゴスの高い価値を発見したのがギリシア人であったとすれば、パトスの深い意味を見出したのはキリスト教である。パトスは主体的な意識であるが、その主体性を掘り下げたのは、ニーチェと相通ずる魂を有したキェルケゴールであったであろう。キェルケゴールは主体性をもって人間の倫理的実存と考え、そして倫理とパトスとを結び附けた。かくの如きことはわが国でも近来問題になっている文学における倫理の問題にとって無関係ではない筈である。倫理をロゴスと結び附ける、従ってそれを理性の問題と見る、これまで普通の、そして自明のこととされている見方では、倫理の問題それ自体が根本的に失われてしまいはしないかということはしばらくくとしても、そのような見方から少くとも文学に関する限り倫理の問題は考えられないであろう。倫理の問題がパトスの問題であるところに文学と倫理との内面的な関連もあり得るのである。

さて私の意見によると、人間の意識はロゴスとパトスという相反する方向のものから弁証法的に構成されていると考えられねばならぬ。一方は客体的な意識であり、他方は主体的な意識である。そしてロゴス的意識にいろいろな種類と段階があるように、パトス的意識にもさまざまの種類と段階が区別されるであろう。ロゴス的意識が、感性知覚の如きものから思惟し いの方向に次第に高まるに従って、その対象性或いは客観性を次第に増してゆくのとは反対に、パトス的意識は、主体的方向に次第に深まるに従って、その対象を失い、次第に無対象になってゆくと考えることができる。そこに両者の対立が最も明瞭に現われる。一定の対象、従って一定の表象に結び附いているようなパトスはなお浅薄だといえる。深いパトスはむしろ対象を含まないものであり、かような無対象なパトスとして、たとえばあの運命の意識、原罪の意識などは解釈さるべきものである。我々が普通に意識といっているのはすべて何物かの意識であり、従って対象を含む意識であるとすれば、かような無対象なパトスは意識とは見られず、むしろ意識下のもの、いわゆる無意識と考えられるであろう。かような無対象なパトスに表現を与えるものが芸術である。またそのように表現を求めるところにパトスの主体性があるともいえる。かような意味において、ペーターが『ルネサンス』のなかでいった如く、「すべての芸術は絶えず音楽の状態に向って憧れる。」All art constantly aspires towards the condition of music. とも見られるであろう。そしてこの頃の文学の或るものが、意識の上層建築の無意識の土台を顕わにしようとするフロイトの精神分析学に結び附こうとしているのも、偶然ではないであろう。ただしかしフロイト流の考え方でパトスの問題が十分に解かれ得るかどうか疑問であり、また人間の意識においては単にパトスでなく、パトスとロゴスとの弁証法的構成が問題であることを忘れてはならぬ。文学においてパトスの表現が可能であるのも、我々の意識においてパトスとロゴスが弁証法的に構成されており、そこに知性がはたらき得るからでなければならない。

人間の意識はロゴスとパトスとの二つの方面を有するとすれば、意識の研究は単にイデオロギーにとどまらず、また特にパトスの研究、即ちパトロギーでなければならない。文学をイデオロギーの問題として論じることは今日の流行になっている。そのために創作態度の上でも観念、思想、客観的なものへの偏向、主体的なもの、パトス的なものの無視が生じ、作家が小説家でなくイデオローグであるというようなことがあってはならない。客体がその客観性において自己を顕わにする場面がロゴスであるとすれば、主体がその主体性において自己を顕わにする場面はパトスである。文学の問題は単にイデオロギーの問題でなく、また特にパトロギーの問題である。文学をイデオロギーと見る見方の限界がはっきり理解されねばならぬ。もちろん文学にイデオロギー的方面のあることを決して軽んずべきではない。しかしながら従来の哲学、心理学などにおいて少数の例外はあるにしても十分に、また正しい方向に理解されていなかったパトスの研究即ちパトロギーの重要性が認識されなければならない。今日文学をひとつのイデオロギーと見ようという動機のうちに含まれる問題そのものも実はパトロギーの方面から解決を与えられるのではないかと思う。現今用いられているような意味におけるイデオロギーという言葉の特殊な性質は、それがパトスによって規定されているというところにあるであろう。

歴史的意識と神話的意識

 一

アンドレ・モーロワは『ポール・ヴァレリイの方法序説』という書物の中で、ヴァレリイとデカルトを対照的に取扱っている。デカルトがあらゆる努力をもって「確実性」を求めたように、ヴァレリイはあらゆる用意をもって「厳格性」を求めた。前者が先ずすべてのものを疑ったように、後者は先ずすべてのものを払い退ける。我々は何を知っているか、とヴァレリイは尋ねる。そして形而上学、歴史、科学、常識など、何ひとつとして争われないもののないことが明かになる。黒板の上に書かれていたすべてのものは払い落される、一切はいわゆるタブラ・ラザ(白紙)となる。今やこの上に何を書き附けようとするのであるか。というのは、そこに「或る物」が存在するからである。人間は思考する、時には彼等の思想及び行為を一致させる。人間社会は生き、そして持続している。ひとはそこに秩序を建てる材料を見出す。その材料は何であるか。ヴァレリイは、コンヴェンション或いはフィクションがそれだ、と我々に答えるであろう、とモーロワは述べている。コンヴェンションとは何をいうのであるか。それは一人もしくは多数の人間によって承認された規則にほかならない。例えば私が諸君の前で講義するとき、この一時間のあいだ私が話しそして諸君が聴くように我々の間で一致している。この一致がこの室における秩序を建てるのである。我々は他のコンヴェンションを承認することもできるであろう、諸君が合唱団で歌いそして私が聴くということもあろう。このコンヴェンションはひとつの他の秩序を建てたであろう。かようなコンヴェンションは絶対的なものでなく、フィクションである。しかるに人間社会にとって固有なことは、それがかようなフィクションによってでなければ存在し得ないということである。人間社会に於ては本能はコンヴェンションによって征服される。社会が文明に向う運動は象徴や記号の支配に向っての運動であるとヴァレリイは考える。あらゆる社会はコンヴェンションのうち第一のもの、最も重要なものである言語の上に、文字の上に、習慣の上に横たわっている。我々は帽子をとる、我々は拍手をする、我々は銭を払いまた受取る。これらの行為はいずれも無数の古いフィクションを前提している。永い歴史を有する国民の生活は、彼等の銘々がもはやその起原を知らない、従ってその擬制的性質を認識しない、数多くの関係の糸で織られている。

コンヴェンションは秩序を建てる。そしてこの秩序のうちにおいて精神の自由は可能になる。秩序の創造者、自由の母、それはこのようなものである。しかるにそれはやがて自己の形成した秩序や自由によって脅かされる。批判的精神は大きくなり、コンヴェンションを破壊する。けれどもそうすることによって人間は不幸になり、やがて新たにコンヴェンションを欲するようになる。かようにして人間にとって最も必要なものは彼等の創造物のうち最も肆意し い的なものであるということができる。モーロワによると、ヴァレリイはその青年期にすべてを白紙にしたが、その成熟期において以前遠ざけられたコンヴェンションを再建した。しかし彼はそれを絶対的真理としてではなくどこまでもコンヴェンションとして再建したのである。この点においてヴァレリイの態度は、コンヴェンションを超越的真理であるかのように尊重するブールジェとも、またコンヴェンションに対して敵対的な、不信的な態度を持するジイドとも違って、オリジナルなものに思われる、と彼はいっている。

このようなコンヴェンションの思想は、あのホッブズなどの社会契約説に比して、或いは現代におけるファイヒンゲルの「アルス・オップ」(かのように)の哲学即ち擬制の説に比して、広くまた深いもののように思われる。それをベルグソンの哲学に比較して考察することも興味のあることであろう。先ずそのようなコンヴェンションの思想はホッブズ流の合理主義或いはファイヒンゲル流の実用主義の基礎の上に立つことができない。もちろんもし人間がただ本能的であって知性を有しなかったならば、コンヴェンションというものは作られないであろう。その限りコンヴェンションは主知的なものである。人間が本能から解放され、知性の自由を得ることによって初めて、コンヴェンションは作られるのである。しかしそれは単に知的産物でなくて、その底にはつねにパトス的意識があり、このものがそれを支えている。それは知性の自由な産物であるにしても、それがまさにコンヴェンションとして妥当するのはパトス的意識と結び附くからである。知性はベルグソンのいった如く実用主義的なものであろう。コンヴェンションはまことに実用性を有するにしても、ただそれだけではなく、モーロワの語を借りると「アンシャントマン」(魔術)である。「文明の最も堅固な支持物、それはアンシャントマンの建物である。」コンヴェンションを支えているパトス的意識は或る神話的意識である。それだからコンヴェンションは神話(ミト)とも言い換えられる。コンヴェンションは根源的な意味における神話的意味を含んでいる。人と人との結合の根柢こんていはパトス的結合であるが、かようなパトス的意識は神話的意識として外においてコンヴェンションを作るのである。「あらゆる社会はアンシャントマンの建物である」。コンヴェンションなしに社会は存立し得ない。そしてかようにして社会的意識が或る神話的意識を含むと同様に、神話的意識は歴史的意識というものの重要な要素をなしている。

歴史は時と共に流れる。そこでは何物ももとのままに止まらない。一切は変化し、時のさびは深く喰い入っている。万物は流れるとヘラクレイトスはいったが、このような事物の流転の意識が歴史の意識である。しかしながら一切がただ流れ去るもの、単に生成し推移するものであって、何物も留まるものがないとしたならば、歴史というものはないであろう。過去のものが現在に伝わるということがあればこそ歴史はある。伝統は歴史の重要な契機である。歴史は昔から今に伝わる。伝統の意識は歴史的意識の一面をなし、歴史家は伝統主義者乃至ないし保守主義者になりやすい傾向をもっている。伝統というと時間によって神聖にされたものと考えられるように、その根柢こんていになにか神話的意識がないならば伝統はその固有の意義を有し難いであろう。かようにして歴史的意識は先ず伝統の意識として神話的意識を含んでいる。伝統というものの多くはもとコンヴェンションである。ただそれにはつねに時間と歴史の意識が結び附いている。伝統はコンヴェンションとして人間の自由な生産物である。しかるにあの浪漫主義の有機体説的歴史観において見られる如く、歴史的意識は伝統の意識として、伝統的なものを何等か自然的なもの、一民族のうちにおける自然生的なものと看做み なし、まさにかように自然生的なものである故に価値を有するかのように考える傾向がある。これに対して歴史的意識は伝統をいわば単に伝統としてでなくむしろコンヴェンションもしくは約束として、或いは何等か自然的なものとしてでなくかえって人間の生産物として観察することが必要であろう、そしてそれをその起原と変化とにおいて明かにしなければならぬ。そのことはおのずから批判的意義を有するであろう。批判はこの場合任意の規準を持ち出してはかることでなく、事物をその起原と変化とにおいて明かにすることがやがてその限界を明かにすることになり、批判的意義を有することになるのである。歴史的意識は伝統の意識であると共に批判の精神である。かようなものとしてそれは神話的意識に対して破壊的にはたらくであろう。従って歴史的意識は神話を建てるものであると共に神話をこわすものであるということができる。しかしながら伝統の意識が伝統を何等か自然的なものと見ることも、理由のないことではない。伝統の意識は本来主体的に規定されたパトス的意識であり、そして主体は根源的に自然的なものの意味を含んでいる。いな、固有の意味で伝統と考えられるものは、人間の生産物のうち知性にもとづくよりもむしろ主としてパトスにもとづくものである。

著者: