哲学はどう学んでゆくか (三木 清)

哲学はどう学んでゆくかといふ問は、私のしばしば出会ふ問である。今またここに同じ題が私に与へられた。然るにこの問に答へることは容易ではないのである。これがもし数学や自然科学の場合であるなら、どういふものから入り、どういふ本を、どういふ順序で勉強してゆくべきかを示すことは、或ひはそんなに困難ではないかも知れない。それが哲学においては殆ど不可能に近いところに、哲学の特色があるともいへるであらう。哲学は何であるかの定義さへ、立場によつて異つてゐる。立場の異るに従つて、入口も異る筈である。しかも哲学的知識には、端初が同時に終末であるといふやうなところがあるのである。それにしてもどこかに手懸りがなければ、およそ研究を始めることも不可能であるとすれば、その手懸りが何とか与へられなければならぬ。これはどこに求むべきであるか。立場の相違は別にして、およそ哲学といふものを掴んでゆく最初の手懸りは、どこに、どういふ風に探してゆくべきか。質問がそこにあるとして、私の乏しい経験に基づいて、少し述べてみたいと思ふ。

いつも先づきかれるのは、哲学概論は何を読めば好いかといふことである。何でも好いから一冊だけ読んでみ給へ、といつも私は答へるのである。といふ意味は、概論といふ名前に拘泥してはならぬといふことである。哲学概論と称するもの、必ずしも哲学の勉強の最初の手引になるものではない。概論といつても哲学の場合、著者自身の立場が出てをり、著者自身の哲学への入門であつたり、著者自身の哲学の総括であつたりすることが多いのである。そのうへ概論といふもの、必ずしもやさしいとは限らない。世間には哲学概論と名の附く書物を幾冊も買ひ込んで、それに頭を悩ましてゐる人があるやうであるが、愚かなことではないかと思ふ。哲学においては、概論書から入ることを必ずしも必要としないし、またそれが必ずしも最善の道でもないのである。初めに概論が読みたいといふのなら、何でも一冊でたくさんだといひたい。何でもといふのは、私はそれにあまり重きをおかぬといふことである。哲学上の用語の意味を知らうといふのなら、哲学辞典がある。またどのやうな説があり、どのやうな傾向があるかを知るには、哲学史に依らねばならぬ。もちろん私は決して哲学概論といふものを軽蔑するのではない。私がいひたいのはただ、順序として先づ概論の名の附くものを読まねばならぬかの如く考へる形式的な考へ方にとらはれないといふことである。哲学に入る道はもつと自由なものと考へて好い。

私自身の経験を話すと、高等学校の頃、哲学に関心をもち始めたとき、わが国にはまだ哲学概論と称する種類の書物は殆ど見当らなかつた。私が哲学に引き入れられたのは西田幾多郎先生の『善の研究』によつてであつた。そして今も私はこの本を最上の入門書の一つであると思つてゐる。その頃の高等学校には、文科にも哲学概論の講義はなく、あつたのは心理と論理とだけであつた。また高等学校の時には、後に哲学を専攻する者も、心理と論理とを勉強しておくものだといふのが、私ども一般の考へでもあつた。そしてその頃は世界戦争の影響でドイツ語の本は全く手に入らなかつたので、私はジェームズの『心理学原理』とかミルの『論理学体系』とかいつたものを丸善から求めてきて、ぼつぼつ繙いてゐた。それは日本の哲学書出版に時代を劃した岩波の『哲学叢書』が刊行され始めた時期であつて、その中のヴィンデルバントのものを紹介した『哲学概論』を読んでみたが、正直にいふと、よく理解できなかつたのである。三年生の時、小さな会を作つて、ヴィンデルバントの『プレルーディエン(序曲)』の中の『哲学とは何か』を謄写版刷りにして速水滉先生から読んで戴いた。高等学校時代、私は直接には速水先生から最も多く影響を受けた。心理学の本を比較的多く勉強したのもそのためであるが、最も興味を感じたのは、ジェームズの『心理学原理』であつた。そしてこれは今も私が人に勧めたい本の一つである。ヴィンデルバントの『哲学概論』は概論中の白眉として定評のあるものであり、ぜひ目を通さねばならぬものではあるが、初めに読むものとしては少しむづかしいであらう。この人のものとしては寧ろ初めに『プレルーディエン(序曲)』を読むのがよいと思ふ。これはそれ自身立派な入門書と見ることができる。ヴィンデルバントの哲学概論と共にわが国で知られてゐるディルタイの『哲学の本質』も、重要なものではあるが、やさしいとはいへない。もちろん、場合によつては、難解な書物に直接ぶつつかつてゆくことも、意味のあることである。高等学校を卒業した夏、速水先生の紹介状をもつて京都に西田先生を初めて訪問した時、休みの間にこれを読んでみよといつて先生が私に貸して下さつた書物は、カントの『純粋理性批判』であつた。その頃はまだこの本の飜訳も出てゐなかつたので、ドイツ語の辞書を引きながら、一生懸命に勉強したが、わからないことが多くて困難したのを覚えてゐる。その後桑木厳翼先生の『カントと現代の哲学』が出たが、これも入門書として勧めたいものの一つである。

先づ必要なことは、哲学に関する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲学的精神に触れることである。これは概論書を読むよりももつと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲学者の書いたものを読まなければならぬ。

そのためにあまり難解でなくて誰にも勧めたいものを一二挙げてみると、さしあたりプラトンの対話篇がある。そのいくつかは既に日本訳が出来てをり、英語の読める人ならジョーエットの飜訳がある。プラトンの対話篇は文学としても最上級のものと認められてゐる。近代のものでは何よりもデカルトの『方法叙説』を挙げたい。これもまた哲学的精神を掴むために繰返し読まるべきものであり、フランスの文学にも影響を与へた作品である。もし日本人の書いたものを挙げよといはれるなら、私はやはり西田先生の書物を挙げようと思ふ。

もちろん古典であるなら、どのやうなものでも、そこに哲学的精神に触れることができる。古典を読む意味、解説書でなくて原典を読む意味は、何よりもこの哲学的精神に触れるところにある。精神とは純粋なもの、正銘のものといふことができるであらう。美術の鑑定家は、正銘のもの、真正のものを多く見ることによつて眼を養ひ、直ちに作品の真偽、良否を識別することができるやうになるのであるが、同じやうに書物の良否を判断する力を得るためには、絶えず古典即ち純粋なものに接してゆかなければならぬ。書物の良否の本来の基準はこのやうに、純粋であるか否か、根源的であるか否か、精神があるか否かといふところに存するのである。もしそれが単に役に立つか否かといふことであるとすれば、書物の良否といふものは相対的であつて、絶対に良いといひ得るものもなく、絶対に悪いといひ得るものもない。或る人にとつては良書であるものも、他の人にとつては悪書であり得る。全く役に立たぬやうに見える書物から、才能のある人なら、役に立つものを見出してくることができるであらう。読書の楽しみは、このやうに発見的であることによつて高まるのである。

哲学の書物は難解であると一般にいはれてゐる。この批評には著作家の深く反省しなければならぬ理由もあるのであるが、読者として考へねばならぬことは、哲学も学問である以上、頭からわかる筈のものでなく、幾年かの修業が必要であるといふことである。そこには伝統的に用ゐられてゐる術語があり、また自分の思想を他と区別して適切に或ひは厳密に表現するために新しい言葉を作る必要もあるのである。しかし哲学は学問ではあるが、フィヒテがその人の哲学はその人の人格であるといつたやうに、個性的なところがあることに注意しなければならぬ。従つて哲学を学ぶ上にも、自分に合はないものを取ると、理解することが困難であるに反し、自分に合ふものを選ぶと、入り易く、進むのも速いといふことがある。すべての哲学は普遍性を目差してゐるにしても、そこになほ一定の類型的差別が存在するのであるから、自分に合ふものを見出すやうに心掛けるのが好い。その意味ですでに研究は発見的でなければならぬ。流行を顧みるといふことは時代を知り、自分を環境のうちに認識してゆくために必要なことであるけれども、流行にとらはれることなく、どこまでも自分に立脚して勉強することが大切である。そして先づ自分に合ふ一人の哲学者、或ひは一つの学派を勉強して、その考へ方を自分の物にし、それから次第に他に及ぶやうにするのが好くはないかと思ふ。最初から手当り次第に読んでゐては、結局同じ処で足踏みしてゐることになつて進歩がない。他の立場に注意することはもちろん必要であるが、先づ一つの立場で自分を鍛へることが大切である。広く見ることは哲学的である、同時に深く見ることが哲学的である。

ドイツは世界の哲学国といはれてをり、哲学を勉強するにはドイツのものを読まねばならぬが、ドイツの哲学には伝統的に難解なものが多いといふことがある。英仏系統の哲学になると比較的やさしく読めるであらう。やさしいから浅薄であると考へるのは間違つてゐる。ドイツの影響を最も受けてゐる現在の日本の哲学書を難解と思ふ人には、英仏系統の哲学の研究を勧めたい。ドイツの哲学者でも劃期的な仕事をした人は、英仏の影響を受けてゐるものが多く、カントがさうであつたし、近くはフッサールがさうであつて、彼の現象学にはデカルトやヒュームの影響が認められる。その場合、入門的な書物としてさしあたりベルグソンの『形而上学入門』とかジェームズの『プラグマティズム(実用主義)』の如きを勧めたい。フランスとかイギリスとかアメリカとかの哲学の真の意味は、日本では専門家の間でもまだ十分に広く発見されてゐないのではないかと思ふ。尤も、どこのものであるにせよ、外国の模倣が問題であるのでないことは云ふまでもないことである。

哲学を学んでゆくのに、自分に立脚すべきことを私はいつた。それはただ単にいはゆる瞑想に耽ることではない。私のいひたいのは先づむしろもつと具体的に、諸君がもし自然科学の学徒であるならその自然科学を、またもし社会科学の学徒であるならその社会科学を、更にもし歴史の研究者であるならその歴史学を、或ひはもし芸術の愛好者であるならその芸術を手懸りにして、そこに出会ふ問題を捉へて、哲学を勉強してゆくことである。プラトンはその門に入る者に数学の知識を要求したと伝へられてゐるが、哲学の研究者はつねに特に科学に接触することが大切である。古来哲学は科学と密接に結び附いて発達してきたのである。

この場合科学と哲学との橋渡しをするものとして科学概論といふものが考へられるであらう。科学もその方法論的基礎を反省する場合、その体系的説明を企図する場合、つねに哲学的問題に突き当る。そこで科学概論の書物も立場の異るに従つて内容を異にするのは当然である。いま立場の相違は別にして、先づどういふものを読めばよいかと尋ねられるなら、少し古いにしても、英語の読める人にはピーアスンの『科学の文法』を勧めたい。日本のものでは田辺元先生の『科学概論』が知られてゐる。この方面における石原純先生の功績は大きく、忘れられないものである。また文化科学の方面ではディルタイの『精神科学概論』、歴史の方面ではドゥロイゼンの『史学綱要』といふ風に、いろいろ挙げることができるであらう。リッケルトの『文化科学と自然科学』は、ともかく明晰で、最初に読んでみるに適してゐる。

ここに私が一緒に体験してきた比較的新しい日本の学界における出来事を囘顧すると、一時わが国の文化科学研究者の間に哲学が流行し、ヴィンデルバント、リッケルトの名を誰もが口にした時代があつた。それは主として左右田喜一郎先生の影響に依るものである。私自身、先生の『経済哲学の諸問題』に初めて接した時の興奮を忘れることができぬ。京都で聴いた先生の講義も感銘深いものであつた。いはば文学青年として成長してきた私がともかく社会科学に興味をもつやうになつたのはその時以来のことである。その後マルクス主義が流行するやうになつたが、それが日本の学界にもたらした一つの寄与は、それがやはり科学の研究者に哲学への関心を、逆に哲学の研究者に科学への関心を喚び起したことである。今日いはゆる高度国防国家の必要から科学の振興が叫ばれてゐるが、この際科学と哲学との交渉についても新たな反省が起ることを希望したいのである。

哲学と科学との間に生きた聯関が形作られることは日本の哲学の発展にとつて甚だ重要である。私はこのことを、これから哲学を勉強しようといふ若い人々に対して、特にいつておきたいと思ふ。

ところで既に哲学概論についていつたことが科学概論についてもいはれるであらう。つまり概論の名に拘泥して、先づ概論書に取り附いてこれを物にしなければならぬといふやうに形式的に考へる必要はないのである。殊に科学の場合、哲学者の科学論よりも科学者のそれから教へられることが多いであらう。例へばディルタイの精神科学論がすぐれてゐるのは、この哲学者が実証的歴史的研究においても第一流の人物であつたことに依るのである。また科学においては特殊研究が重要であることを忘れてはならぬ。元来、哲学が科学に接触しようとするのは、物に行かうとする哲学の根本的要求に基づいてゐる。哲学者は物に触れることを避くべきでなく、恐るべきではない。物に行かうとする哲学は絶えず物に触れて研究してゐる科学を重んじなければならぬ。

つねに源泉から汲むことが大切である。源泉から汲まうとするのが哲学的精神であるといひ得るであらう。物に触れるといふことも源泉から汲むためである。本を読むにも第一流の哲学者の書いたものを読むといふことは、思想をその源泉から汲むためである。哲学の研究者が科学者のものを見る場合においても、やはり第一流の科学者の著述に向ふことが肝要である。

かやうなものとして哲学を勉強しようとする人に勧めたい本は、私の乏しい知識の範囲でも、かなり多い。その一二の例を挙げると、例へばポアンカレの『科学と方法』その他である。マッハの如きも、マルクス主義流行の時代にはマッハ主義といつて軽蔑されたものであるが、見直さるべきものであると思ふ。少し方面を変へると、例へばクロード・ベルナールの『実験医学序説』である。更に社会科学の方面になると、マックス・ウェーベルの『科学論論集』の如きが先づ挙げられるであらうし、もつと方面を変へると、科学者とはいはれないにしてもゲーテの自然研究に関する諸論文の如きは勧めたいものである。

かやうに科学といつても範囲は広いし、その上各々の科学は次第に専門化してゆく傾向をもつてゐるとすれば、哲学の研究が科学と結び附かねばならぬことは分るにしても、人間は万能でない限り、どうしたらよいのかと問はれるであらう。その場合私はやはり自分に立脚すべきことをいひたい。一通り広く見ることは必要であるが、何か一つの学科を選んで深く研究し、できるなら、専門家の程度に達するやうにしたいものである。哲学は普遍的なものを目差すのであるが、普遍的なものは特殊的なものと結び附いて存在する。抽象的に普遍的なものを求むべきではなく、特殊的なもののうちに普遍的なものを見る眼を養はなければならぬ。数学的物理学は近代科学の典型であり、それを知ることは大切であるが、すべての人の才能がそれに適するわけではなからう。しかし種々の自然科学及び文化科学の中には、何か自分に興味がもて自分に適するものがある筈である。ベルグソンは、数学や物理学はギリシア以来その基礎が定まつてをり、現代の科学として哲学において注目すべきものは生物学と心理学である、といつてゐるが、この意見の当否はともかく、彼の哲学が生物学の研究に負ふところの多いことは一般に認められてゐる。論理主義を唱へて心理主義を攻撃した新カント派の哲学が一時わが国に流行してから、哲学を学ぶ者が心理学を勉強するといふ、それ以前の日本ではむしろ常識として行はれたことが次第になくなつていつた。しかし最近のゲシュタルト心理学の如き、或ひはまたプラグマティズムの哲学と結び附いて発達してゐるアメリカの社会心理学の如き、哲学の研究者の顧みなければならぬものであらうと思ふ。更に現代の科学として特に重要な意味をもつてゐるものに、社会科学、文化科学、精神科学、歴史科学等の名をもつて呼ばれるものがある。歴史的社会的実在が現代哲学の根本問題であるともいはれるのである。自然科学はガリレイ以来その基礎が定まつてゐるが、社会科学にはまだそのやうに定まつたものがなく、その基礎を明かにすることが現代の重要な課題であるともいはれるであらう。要するに学問においても、人生においてと同様、自分を発見することが大事である。その自分は同時に時代のうちに発見されるものであることは云ふまでもない。

哲学はもちろん科学と同じではない。しかし哲学は科学によつて媒介されねばならぬ。科学を万能と考へるのではない。そのやうに考へる人には哲学は不要であらう。無条件に科学を信じてゐる者はすぐれた科学者になることもできないであらう。科学的知識を絶対的なもののやうに考へるのはむしろ素人のことであつて、真の科学者は却つてつねに批判的であり、懐疑的でさへあるといはれるであらう。少くとも科学を疑ふとか、その限界を考へるとかいふところから哲学は出てくる。しかしながら懐疑といふのは、物の外にゐて、それを疑つてみたり、その限界を考へてみたりすることではない。かくの如きは真の懐疑でなくて、感傷といふものである。懐疑と感傷とを区別しなければならぬ。感傷が物の外にあつて眺めてゐるのに反し、真の懐疑はどこまでも深く物の中に入つてゆくのである。これは学問においても人生においてもさうである。容易に科学の限界を口にする者はまた無雑作に何等かの哲学を絶対化するものである。感傷は独断に陥り易い。哲学はむしろ懐疑から出立するのである。そのやうな懐疑が如何に感傷から遠いものであるかを知るために、既に記したデカルトの『方法叙説』を、或ひはまた懐疑論者と称せられるヒュームの『人生論』を、或ひは更にモンテーニュの『エセー(随想録)』を読んでみるのも、有益であらう。

多くの人々は人生の問題から哲学に来るであらう。まことに人生の謎は哲学の最も深い根源である。哲学は究極において人生観、世界観を求めるものである。ただその人生観或ひは世界観は哲学においては論理的に媒介されたものでなければならぬ。もちろん直観を軽蔑すべきではない。そして忘れてならないのは、直観も訓練によつて育てられるものであるといふこと、その訓練は論理的訓練にも増して厳しいものであるといふことである。哲学そのものが直観であるかどうかは意見の別れるところであるが、いづれにしても直観を軽んずるのは愚かなことであり、直観を育てることは努力に値することである。

人生の問題から直接に哲学に入らうとする人々に先づ勧めたいのはフランスのモラリストの研究である。パスカル、モンテーニュなど、日本語で読めるものも追々多くなつてゐる。私にとつて特にパスカルが啓示的であつた。彼等の人生論には独特の実証性がある。科学の実証性とは異つてゐるが、また相通ずるものがある。この実証性に目を留めねばならぬ。それらの書物はやさしく読めるからといつて、簡単に読み捨ててはならない。難かしい言葉を使ふことが哲学であるかのやうに考へてゐる者があるとすれば、笑ふべきである。それらの書物は立ち停つて考へようとする人に多くのことを考へさせるであらう。多くのことを考へさせる本が善い本であり、これは用語の難易には関係しないことである。モンテーニュ、パスカルなどから哲学の本筋に来てデカルトに行くもよく、或ひはスピノザの『エティカ(倫理学)』に行くもよく、或ひはまたマキアヴェリの『君主論』などに行つてみるのも面白いであらう。

考へてみると、私どもが哲学の勉強を始めてからこの二十年間に、著述飜訳を併せて日本における哲学書も次第に殖えてきた。広く多くの本を読むべきか、深く一冊の本を読むべきかといふ読書の方法論の問題が、哲学を学ばうとする者にも現実に生じてゐる。両者は共に必要であるが、いづれを先にするかといふ問題が実際にあるとすれば、私は先づ一冊の本にかじりついてそれをものにするやうにといひたい。その一冊はもちろんそれに値するものでなければならぬ。その点で、カントの『純粋理性批判』といふやうな古典は別にしても、新刊書よりも十年なり十五年なり生命を保つてゐるものを取るべきである。新しいものを見ることも大切ではあるが、先づそれから始めると、遂に一冊の本を深く読む習慣を作らないでしまふやうな危険があるといふのが、今日の読書人のおかれてゐる環境である。人生について深く考へようとする者に東洋の古典を読むことが大切であるのは云ふまでもなからう。

私は哲学を勉強しようとする者にも直観を育てることが必要であると述べた。しかし学問として哲学を学ぶことは思考すること、明晰に思考することを学ぶことである。もちろん直観にもそれ自身の明晰性と厳密性がある。しかし直観の明晰性や厳密性も、論理的に明晰に厳密に思考することを知らない者には達せられないであらうし、少くとも哲学的に重要なものとはならないであらう。明晰に思考することを学ばうとする者は先づ初めにどのやうな本を読めばよいであらうか。さしあたり私はリッケルトの『認識の対象』の如きを勧めたい。この本は私どもが哲学の勉強を始めた時分には殆ど誰もが入門書として読んだものである。今はどれほど読まれてゐるか知らないが、私は今もやはりこれを一つの適当な入門書であると考へてゐる。

すでに私は明晰に考へることを学ばねばならぬと述べた。考へるといふことは、元来、明晰に考へることである。もとより哲学には深さも大切である。しかし濁つてゐるために底が見えないに過ぎぬといつた場合もあるので、深さうに見えるもの必ずしも深いとは限らず、むしろ反対であることが多い。どこまでも澄んでゐて、しかも底の知れないものが、真に深いのである。真の深さにはつねに豊かさがある。尽きることなく湧いて出てくる豊かさのないものは真に深いとはいへない。この豊かさはまた広さともなるであらう。哲学に入る者が学ばねばならぬのは、物をはつきり考へること、広く考へることである。広く見、広く考へることは、独断や偏見とは反対のものであるべき哲学の基本的な条件である。深さに至つては、学び得るといふものではない。深さといふものは、結局、人間の偉さであると思ふ。それ以外深さうに見えるものはペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬ。深さといふものは学問を媒介とする学問以上の人間修業によつておのづから出てくるものである。単なるペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬいはゆる深さに迷はされることなく、それを突き切つてゆくところに哲学的精神がある。明晰な書物はつねに有益であるが、深さうに見える書物は学問にとつて有害なことが多い。真の深さについていへば、哲学することは真の人間になることである。そしてすべての人間がめいめい独自のものであるやうに、深さもそれぞれ独自のものである。一般的な深さといふものを私は信じない。もし何かそのやうなものがあるとすれば、それは明晰に直観され、明晰に思考され得るものでなければならぬ。

ところで思考については論理学の存在が考へられるであらう。哲学に入らうとする者が論理学に関する知識をもたねばならぬことは当然である。先づ普通に論理といふものについて知るには、速水滉先生の『論理学』を見るのが好いと思ふ。英語のものでは、ジェヴォンズの『論理学教科書』を勧めたい。少し大きいが、ミルの『論理学体系』は古典的なものとして、今もなほ多くの学ぶべきものをもつてゐる。ドイツ語のものでは、これも大きいが、ジグワルトの『論理学』なぞ、論理学から認識論への道を開くものとして適当であらう。

明晰に考へることを学ぶといふのは何よりも分析を学ぶことである。この頃分析を排する傾向があるが、しかし分析なしには学問といふものはない。東洋的な直観とか綜合とかいふものは尊重されねばならないが、しかしそれが学問となるためには論理をくぐつてこなければならぬ。哲学的な分析の修練のために勉強しなければならぬものとして挙げておきたいのは、アリストテレスの著作、その『形而上学』の如きもの、カントの著作、特にその『純粋理性批判』である。アリストテレスは形式論理といふものの完成者であり、カントは先験論理といふものの創始者である。これらの書物はもとよりその内容のためにもぜひ読まれねばならぬものである。内容のない思惟、何物かの分析でないやうな分析があるであらうか。しかしこれらの書物は特に我々を哲学的な思惟に対して訓練してくれるのである。これらの書物は読み易いものではないであらう。難解なものにぶつつかつてゆく勇気と根気とが大切である。考へることを学ぶには解説書によつてはいけない。問題をその根源において捉へた書物と直接取組んで勉強することが肝要である。

一〇

論理といふものにもいろいろ考へられるであらう。今日わが国では誰も彼もが弁証法をいふ。弁証法には確かに深い真理があるが、ただ、初めから弁証法にとりつかれると、マンネリズムに堕して却つて進歩がなくなるとか、折衷主義に陥つて却つてオリヂナリティが塞がれるとか、すべての問題を一見いかめしさうでその実却つて安易に片附けてしまふとかいつた危険があることに注意しなければならぬ。虎を画いて狗に類するといつたことは弁証法には多いのである。学問において尊いのは外見ではなくて内実である。難かしく見えても、また深さうに見えても、根が常識を出ないのでは、学問の甲斐はないであらう。そこで私は、結局は弁証法にゆくべきものであるにしても、先づアリストテレスの論理とかカントの論理とかをよく研究することを勧めたい。その方が間違ひがなく、またそれが順序でもある。新しい哲学は何か新しい論理をもつて現はれてくるものであるから、論理の問題に踏みとどまつて深く研究するのは大切なことである。

弁証法の最初の組織者はヘーゲルであり、弁証法を学ぶにはどうしても彼の書物に依らねばならぬ。その『論理学』の如き、ぜひ勉強すべきものであるが、なにぶん彼の書物は難解をもつて知られてゐる。そこでヘーゲルは何から入るのが好いかといふ質問によく出会ふ。比較的わかり易いものとして普通に彼の『歴史哲学』が挙げられるが、これも適当であるが、私はむしろ彼の『哲学史』を勧めたい。ヘーゲルの哲学史は、そのものとして今日も価値をもつてゐるばかりでなく、哲学は哲学史であるといふ立場からつねに哲学史的教養を予想してゐる彼の哲学を理解するために、またおよそ弁証法的な物の見方を習得するために、初めに読むに適当であると思ふ。ヘーゲルについて書いた多くの参考書を読むよりも、たとひ難解であつても、ヘーゲルそのものを幾頁でも研究することが一層大切であるのを忘れてはならない。正、反、合とか、否定の否定とかいつた形式を覚えることでなく、物を弁証法的に分析することを学ぶことが問題である、弁証法の形式にはめて物を考へるといふのでなく、物をほんとに掴むと弁証法になるといふのでなければならぬ。論理は物のうちにあるのでなければならぬ。

論理学は認識論につらなつてゐる、むしろ両者は一つのものである。その認識論といふものの問題が如何なるものであるかを知るために初めに読んでみるものとしては、先にも挙げたリッケルトの『認識の対象』などが好いであらう。或ひは趣向をかへて、ロックの『人間悟性論』とかヒュームの『人生論』とかから根気よく始めるのも好いであらう。ドイツあたりでは認識論の入門とか概論とか称するものがいろいろ出てゐるやうであるが、この種の書物はだいたい受験準備書としてできてゐるものが多く、読んで面白くなく、得るところも少いであらう。

哲学の主要問題はよく認識論と形而上学とに区分されるが、実際には両者は密接に結び附いてゐる。知識の問題は実在の問題を含み、実在の問題は知識の問題を含んでゐる。カントの『純粋理性批判』は普通に認識論の問題を取扱つたものと考へられてゐるが、それを形而上学の基礎附けであると見るハイデッゲルの如き見方も存在するのである。私どもが哲学の勉強を始めた頃には認識論が全盛であつたが、今日では反対に形而上学が流行して認識論はあまり顧みられず、論理といつても殆ど弁証法一点張りになつてゐる。これにも或る必然性があるであらうが、かやうな時代にむしろ認識論の問題から出直してみることが却つて新しい哲学の生れてくる契機になるかも知れない。哲学者には、時代の中にあつてこれを超え得る心のゆとり、精神の自由が欲しいものである。

論理は具体的には特に科学の論理、或ひは認識論的意味における科学の方法論である。ここに哲学の一つの重要な領域が存在することは先にいつた通りである。もちろん哲学の問題は、論理の問題にしても、また実在の問題にしても、単に科学のみでなく、あらゆる方面に横たはつてゐる。各人は自分の立つてゐる所から問題を捉へて哲学に向はねばならぬことは既に述べておいた。従来哲学において問題とされてゐるものが何であるかを知ることも必要ではあるが、現代には現代の問題があるであらう。この転換期において哲学は生きるか死ぬるかの重大な危機に立つてゐるのではないかと思ふ。問題を発見することは既に半ば問題を解決したことであるといはれるが、大きな哲学はつねに大きな問題を提げて現はれてきた。これから哲学をやらうといふ人に期待されるものは大きく、それだけにまた大きな覚悟を要するのである。

一一

ところで如何なる創造も伝統なしにはあり得ないといふ意味において、哲学をやらうといふ者は絶えず哲学史を顧みなければならぬであらう。今初めて哲学史を見ようといふ人には、波多野精一先生の『西洋哲学史要』を勧めたい。もう少し詳しいもので、しかもわかり易いものを求める人には、フォルレンデルの『西洋哲学史』が適当であらう。ヴィンデルバントの『哲学史教科書』は問題史的な哲学史として特色があり、目を通さねばならぬ名著であるが、入り易いものとはいへないであらう。各時代についてはそれぞれ標準的な書物があるが、ここには煩瑣を避けて挙げない。またユーベルウェークの『哲学史』のやうな辞典として便利な書物もある。

西洋哲学の源泉として重要なものは、近代科学を別にすれば、ギリシア哲学とキリスト教である。私自身は特に波多野先生の講義や談話によつてこれらのものに対して眼を開かれた。西洋哲学を研究しようとする者はキリスト教の知識を備へなければならないが、とりわけギリシア哲学を研究することが大切である。その研究は現代において特に重要な意味をもつてゐるのではないかと思ふ。西田先生の思想の如きも、先生がギリシア哲学に深く入られるやうになつてから著しい発展があつたやうに思ふ。哲学史に就いて思想の歴史的聯関を見ることは忘るべきではないが、更に進んで、自分で原典にあたつて研究することが大切である。原語で読むに越したことはないが、たとひ飜訳であつても、古典は完全な形で読むべきである。何でも原語で読まなければ気がすまぬといつて、そのために読むべき本を読まないでゐる人もあるが、愚かなことであると思ふ。絶えず古典に接することが大切であるといつても決して、新しいものを読むことが不必要なわけではない。古典の中にばかり閉ぢ籠つてゐると、ひとりよがりになるとか、学問が趣味に堕してしまふといふやうな危険があるのである。古典も新しい眼をもつて見なければ生きてこないのであつて、それには現代の問題について深い関心がなければならぬ。もちろん古典をただ勝手に解釈すれば好いといふのではない。初めからかやうな態度をもつて臨めば、どのやうな本を読んでも益はないであらう。真の読書においては著者と自分との間に対話が行はれるのである。しかも自分が勝手な問を発するのでなく、自分が問を発することは実は著者が自分に問を掛けてくることであり、しかも自分に問題がなければ著者も自分に問を掛けてこない。かくして問から答へ、答は更に問を生み、問答は限りなく進展してゆく。この対話の精神が哲学の精神にほかならない。

哲学の個々の部門、例へば歴史哲学、社会哲学、芸術哲学、道徳哲学、宗教哲学、等々について、私の乏しい経験の範囲内でもなほいろいろ注意しておきたいことがあるが、与へられた紙数も尽きたから、ここでひとまづ筆を擱くことにする。

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