哲学の復興 (三木 清)

近来一部で哲学の復興ということがいわれている。もっともそれは何か限定された事実を指すというよりも、むしろある漠然とした感じ、または要求を現わしている。事実としては、真に哲学の復興と呼び得るに足る新傾向、新運動、新業績が見られるとはいい難いであろう。もちろん哲学界の大家たちの活動は継続され、発展している。しかし哲学の復興と称し得るものにとって決定的に重要な関係のある若い世代に属する哲学者たちのうちに、一般的にいって、時代に対するどれほど烈しい意志、哲学そのものに対するどれほど積極的な意欲が存在するか、疑問である。

けれどそれにも拘らず、何か哲学の復興といい得るような機運、少くとも雰囲気の生じているのが感ぜられるということが、今日の社会に特徴的なことである。この機運あるいは雰囲気は、ともかく哲学の復興にとってその地盤でなければならぬ。しかるに、かように社会の諸要求の中から生じた現在の哲学的現象は、この社会の状態を反映して、極めて複雑な内容をもっている。従ってそのうちに含まれる消極的なものと積極的なものとを、死すべきものと生きねばならぬものとを批判的に分析し、これに基いて現代における哲学の使命を自覚するということが、真の哲学の復興のために必要である。

先ず、今日の哲学的雰囲気を醸し出しているのは、この社会に特に知識階級の間に瀰漫している深いペシミズムである。かかるペシミズムこそ状態的に「哲学的雰囲気」と呼ばれるに適している。それが社会的不安に原因を有することはいうまでもない。この社会の不安は現在多くの人々をあの新興宗教と称するものに趨らせつつある。しかし一層智的な人々、或いはすでに自意識の過剰に悩む人々は、同様な理由から哲学に赴くであろう。社会の不安は人生についての反省を促し、人生観に対する要求を強める。そこに今日の哲学的機運の一つの要素がある。実存哲学、生の哲学、人間学等が依然として流行のテーマであることはこれを証するであろう。不安の時代は人生論的哲学の流行する時代である。

この現象は二つの面をもっている。一方それは、現代社会の不安に対して積極的な、実践的な態度を執らないで却って現実から逃避し、社会から切り離されたいわゆる人生についての思弁に耽るという傾向を含んでいる。社会からの游離によって自意識はますます過剰を来し、知性のぺシミズムはいよいよ深まるであろう。哲学は現実逃避の場所となるに特に適するように見える。現今の哲学的雰囲気がかかる一面をもち続けていることは否定できぬ。社会的不安の時はまた個人主義的人生観の生じ易い時である。われわれはもとよりそこに新時代を告げる哲学の復興を見出し得ない。

しかしながら他方、人生論に対する今日一般の要求のうちには、人間再生に対する健康な、能動的な意欲が動いている。この社会の転換期において根柢から動揺した旧い人間の観念を打ち破って新しい人間として生れるということはわれわれの切実な要求でなければならぬ。かかる人間再生の要求がヒューマニズムといわれるものの基礎であるとするならば、現今の哲学的機運は、このごろ注目されるヒューマニズムの台頭と内面的な関係をもっている。そこに求められるのは新しい人間の観念である。今日の哲学はこの要求に応えるものでなければならぬ。あのルネサンスのヒューマニズム時代には「ルネサンス的人間」といわれる新しいタイプの人間が社会のあらゆる方面に輩出し、その時代の哲学者はそのようなタイプに属する人間であったが、今日の真の哲学者といわれ得るものは、みずからこの社会における新しいタイプの人間として現われなければならない。新しい「哲学者」のタイプが生れることなしには、真の哲学の復興は不可能になっているのではなかろうか。彼がこの時代にもたらすべき唯一の人間の観念は、いうまでもなく、歴史的社会的な、行動的な人間のそれである。

現在の哲学的機運は必ずしも真の哲学の復興にとって望ましい方向にあるのではない。われわれはいわゆる哲学の復興とファッシズムとの関係を見逃すことができぬ。ファッシズムは先ず一般に非合理主義として哲学に接近する傾向をもっている。もちろん哲学は、本来、非合理主義のものでなければならないのではない。けれども、科学がすべて合理性の立場に立つに反して哲学には非合理主義をとるものもあり、また哲学は一般に科学とは性質を異にする学問であるところから、非科学的あるいは反科学的傾向に利用されがちである。哲学は科学からの韜晦の場所となるに特に適するように見える。ファッシズムは科学的でないにしても哲学的であると称するであろう。かくしてファッシズム的風潮は一種の哲学的機運を喚び起すことになる。この機運のうちに含まれ、隠されているのは、非合理主義、科学および科学的精神の没却、いわゆる智育偏重の排撃等であって、それらが哲学の名において主張され、もしくは容認されるのである。

かような傾向に属する哲学の復興は特殊的には日本主義または日本精神といわれるものに関して見出される。現在の日本の文化がすべての方面において西洋文化によって浸潤されていることは否定し難い事実である。西洋文化の輸入は単なる気紛れでも単なる流行でもなく、日本の発展にとって欠くことのできぬものである。ところで今日、このように西洋化している日本の文化的環境の中において日本主義が自己を主張し、自己を維持するためには、日本主義にしても、西洋哲学に自己の理論的基礎を求めざるを得ない。かくして国粋主義と称する日本主義は、自己に役立つように見えるあらゆる西洋哲学を召喚する。そこから一種の哲学の復興の現象が生ずるであろう。

けれどもファッシズムが真に哲学を復興させるものでないことは、すでにドイツの実例が明瞭に示している。多数の有力な哲学者が大学から追われ、国外に去ることを強要された。ファッシズム的思想統制は哲学を一定の政治的目的に利用することを欲しこそすれ、真に哲学の興隆を望むものではない。哲学の復興はこの場合単に仮象的であるに過ぎぬ。かような傾向に対して文化擁護の立場から今日ヒューマニズムが唱えられているのは当然である。批判的精神なくして哲学はなく、哲学とは批判的精神そのものである。

単に仮象的に止まる哲学の復興を排して実質的な哲学の復興が来るためには、現在の状況においては特に、哲学の合理性の強調されることが必要である。哲学は何よりも学問であり、学問として論理を含み、思惟の合理的要求に忠実でなければならぬ。もちろん哲学は学問として科学と性質を異にするであろう。しかしそのことは、まさに、哲学は科学に代ってこれを不要になし得るものでないということであり、科学をそれ自身の領域において、その固有の価値において認めねばならぬということである。それのみでなく、哲学は学問として科学に対して積極的な関係を結ぶことが大切である。これまでわが国の哲学に欠けていたのはこの科学との関連であって、今日真に哲学の復興が期待されるならば、先ずこの点における進歩がなければならぬ。科学の実証性に基づく「下からの哲学」が要求されている。もとより今日の哲学はいわゆる科学主義或いは単なる合理主義に止まり得ないであろう。それは単なる自由主義とともに批判されねばならない。新しい哲学に要求されるのは、抽象的な合理主義とこれに対する同様に抽象的な非合理主義とをともに止揚した最も深い意味での合理主義である。もしそれを絶対的合理主義と名附けるならば、かような絶対的合理主義が将来の哲学の立場でなければならぬ。

ところで今日、哲学の復興の諸前提はさらに一層広汎な事実のうちに与えられている。思想のない政治はもはや不可能になった。現在の芸術家を悩ます最も大きな問題は思想である。科学、とりわけ社会科学はもはや以前のごとく自己の哲学的前提を潜ませることなく却ってそれを前面に押し出そうとしている。あらゆる文化の動揺の中において哲学に対する要求はかくのごとく普遍的になりつつある。

この時代において哲学は、従来の専門的乃至職業的哲学者の集団の中から解放される。かかる哲学の解放は哲学の復興にとって一つの重要な前提である。丁度あの文学復興が叫ばれた時分に文壇解消論が唱えられたように、哲学の復興するためには、従来の哲学の世界における「文壇」に相応するようなギルド的存在が解消され、哲学が広い社会の中へ解放され、そこから生れることが必要である。これは単なる要求でなく、事実として次第に行われつつあることである。哲学は講壇から出て社会の現実に接触し、そこに新しいタイプの哲学者が生れるであろう。今日、学校が次第に中世の教会のごときものになりつつある時、新しいタイプの哲学者はいわゆる哲学界に属しない人々の間から現われ、彼等が真の哲学の復興の担い手となるであろう。かかる哲学の解放は、哲学が現実の歴史および具体的な文化領域と密接に関連した「下からの哲学」として生れるためにも必要なことである。

混乱と動揺とのうちにある現在の我が国の文化の状態を通して認められることは、個々の文化の間における相互関連もしくは相互作用が促進されているという事実である。哲学が科学に影響し、文学が哲学に影響するというような事実は、誰の眼にも次第に明かに見られるものとなりつつある。かくの如く個々の文化の間に作用連関が打ち建てられるということは、哲学が不毛性を脱して生産的となるために大切なことである。しかもこのように漸く活溌な相互作用を始めた種々の文化が混沌たる状態にあるということは、この時代において統一的な文化の理念が欠けているということを現わしている。哲学に対する今日の要求は、種々の文化の相互連関を設定しつつ文化の統一的な理念を与えるということであろう。

諸文化の相互連関についての反省はまた最近しばしば論ぜられた教養の問題のうちにも含まれている。教養というのは単に個々の専門的乃至職業的知識を得ることではない。教養は教養としてつねに普遍性への、普遍的教養への要求を含んでいる。かような普遍的教養が意味を有するためには、その根柢に文化の統一的な理念が存しなければならない。従ってこの文化の混乱の時代において必要なのは単なる教養でなく、むしろ教養の新しい哲学的理念である。このものを欠くとき教養は単なる趣味或いは単なる博識、ディレッタンティズムとなる。今日の如き反動期においては教養もかような現実逃避のディレッタンティズムに陥る危険が少くない。

しかも文化の問題は今日特に人間の問題である。教養の観念の根柢にもつねに人間の観念がある。教養とは如何なる専門家乃至職業人もが人間として真に人間らしくなるために要求される文化的状態に身を高めることである。そこに人間の観念が前提され、このものの変るに従って教養の意味も内容も変ってくる。新しい教養は新しい人間の観念を基礎としなければならぬ。かようにして教養の問題は必然的にヒューマニズムの根本問題に関係してくる。

現代ヒューマニズムはいうまでもなく社会的歴史的立場に立たねばならぬ。近来わが国でも社会哲学的研究の勃興の兆があるのは、ともかく喜ばしい現象である。それらの社会哲学的企ての一層多く「下からの哲学」として成立することが望まれるであろう。しかも社会そのものは歴史的に把握されることが大切である。ルネサンスのヒューマニズムの根本概念が「自然」であったとすれば、現代ヒューマニズムのそれは「歴史」でなければならぬ。歴史の弁証法について大いなるヴィジョンを有する哲学が、アウグスティヌスの「神の国」に比し得る現代の歴史哲学が待望されているのである。

(一九三七年一月)

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