哲学と文芸 (三木 清)

哲学と文学とは根本において同じ問題をもっている。そのような問題は、例えば、運命の問題である、自由と必然の問題、道徳と感性との対立の問題である。或いは神と人間の問題、また人間と自然との交渉の問題である。或いは死の問題、愛の問題、そして家族、国家、社会等に関する問題である。文学作品を分析する場合、我々はつねにこの種の問題を見出すのであるが、それらの問題はまた哲学にとっての問題にほかならぬ。文学の取扱う問題はその実体からすれば哲学の問題と同じである。かような見地において文学はディルタイの云った如く「生の解釈」と見られることができる、それは現実的な生の、その諸問題に従っての解釈である。あらゆる文学作品は特殊なもの、限定されたものを描きつつ、いわばその地平線において無限なもの、一般的なもののうちへ流れ入る。歴史的に制約された状況から生じたもの、特定の生活経験から得られたものは、作家的体験において生の一般的意味との関係におかれる。文学は「生の理解の器官」となる。すべての偉大な作家の発展のうちには、生をその一般性において理解し、個々の具体的な経験を人間の一般的運命、事物の一般的連関とのつながりにおいて眺めようとする傾向が存在している。かくして文学は我々に世界の解釈を与える。

もとより、文学と哲学とはその問題が同じであり、共に人生及び世界の解釈であると云っても、その取扱いの仕方、その手段は同じでない。哲学が生の問題の論理的解釈であるのとは異って、文学はその形成的解釈もしくは解釈的形成である。言い換えれば、哲学が概念的であるに反し、文学はどこまでも具象的でなければならぬ。哲学は思惟の純粋な抽象性のうちに運動し得るとしても、文学は具体的な形象と体験の世界を離れることができぬ。しかしながら、そのことは決して文学が単に個々のもの、特殊なもののうちに留まるということを意味しない。却ってすぐれた文学作品にあっては、個々のものにおいてそれを越えた関係が見られ、個々のものが生のうちに捉えられた連関の象徴となり、個々のものが生の本質の表現となっている。文学は言語を手段とする芸術として絵画や音楽などに比して特にかくの如きことに適合している。なぜなら言語は感覚的なものに縛られることなく、実在と観念との全領域に亙って自由に運動することができる。かくて文学は多くの場合思想と事件との綜合を企てている。物語において事件が突然進行することをやめるかのように見え、思索が代る、人物の独白や会話が事件の意味を照らし出す。また事件の進行の中で人物が自分自身や事件そのものについてなす反省が現われて来る。そしてそれらの結合を通じて作家の人生観世界観が表現されている。

言語の芸術である文学は他の種類の芸術に対して「思想芸術」と称せられることがあるように、文学と哲学との間には密接な関係が見出される。それは先ず多くの哲学的文学の存在によって明瞭に示されているであろう。哲学者はしばしば自己の思想を文学的形式をもって表現した。詩の形式、対話の形式が好んで用いられた。ギリシアの初期哲学者たちの箴言詩を始め、ルクレティウスの有名な「物の本性について」という六脚韻の詩などはその例である。哲学的対話は、プラトン、ブルーノやバークリ、ライプニッツ、その他が試みている。これらの或るものにおいては文学的表現が哲学的思想の単なる外衣に過ぎないものもあるが、プラトンのいくつかの対話篇の如く、文学作品としても世界文学の傑作に数えられ得るものがある。また或る種の哲学者は、その思想の特異性のために、或いはその取扱おうと欲する対象の特殊性のために、概念的構成を斥け、文学的形式にその表現を求めている。ニイチェなどの場合がそれである。特にモンテーニュ、パスカル等、フランスのすぐれたモラリストたちの哲学がそれである。彼等の著作にあってはその思想と文学的表現とが全く内面的に結び付いていて、ひとは彼等を哲学者と見るべきか文学者と見るべきかに迷わねばならぬほどである。更に文学者が具体的な体験を次第に離れて一般的観念の領域の中へ足を踏み入れている場合も少くない。かくして文学者自身によっても哲学詩、哲学的対話、哲学的小説などが作られた。シラーの「理想と人生」、テニスンの「イン・メモリアム」その他、無数の例を挙げることができる。もしまたラスキン、ペーター、サント・ブーヴ等のエセエを取上げるならば、哲学的文学の領域は限りなく拡がるであろう。エセエは哲学的文学の代表的なものである。

しかし、このような哲学的文学もしくは文学的哲学は哲学と文学との密接な関係を端的に示すに足るにしても、それらは哲学としては本格的なものでなく、また文学としても純文学に属せず、いわば文学と哲学との「中間領域」に横たわるに過ぎない、と考えられるであろう。もしそうだとすれば、哲学と文学との関係は一層内面的なところに求められなければならぬ。それは根源的には作家がその取扱う個々の具体的な経験を一般的な連関に結合し、一般的な意味に関係づけようとする内面的要求そのものにおいて認められることが必要である。かかる内面的要求のうちには人生観世界観に向う傾向が内在しているのである。作家の有するこの内的傾向に対して、彼の周囲から種々の哲学がやって来るであろう。彼は或る場合にはそのいずれかを取上げて自己の目的に役立てるであろう。文学と哲学とは根本においてその問題が同じである故に、文学者の哲学研究は彼等にとってつねに有益であることができる。かくしてエウリピデスはソフィストを研究したし、ダンテはトマスやアリストテレスを研究した。ゲーテはスピノザを、シラーはカントを研究した。その研究は彼等の作品に大きな影響を与えた。

しかしながら文学はもとより哲学的世界観の単なる応用というが如きものであり得ない。もし作家がその世界観をただ外部から得ることですませるならば、彼の作品は真の文学作品でなくならねばならぬか、それともその世界観は彼の作品の全体との内面的な関連を有することなくただ個々の箇所から拾い出され得るに過ぎぬものとなるであろう。作家はその世界観を哲学乃至科学的に見て不十分な言葉をもって語ることに満足すべきではない。むしろ作家の真の世界観は、彼の取扱う多様なものを統一し、複雑な部分を結合して一つの有機的全体とするエネルギーに存するのである。かかる統一、結合、連関を作家はその制作活動を通じて形成するのであり、そのことにおいてまた彼はみずから一個の世界観を作り出す者である。文学は世界の解釈としてそれ自身の仕方でしばしば新しい世界観を作り出した。作家にとって世界観が外部から与えられた場合においても、それを作品形成の内面的エネルギーとするために、彼には無限の文学的努力が必要でなければならぬ。

文学が哲学から影響されるばかりでなく、哲学もまた文学から影響される。ギリシアにおいて詩は科学的哲学の成立を準備したし、ルネサンスの時代においても文学の復興は哲学の復興を準備した。哲学者は文学作品を研究することによって時代の新しい問題がどこにあり、また問題の新しい解決の仕方が如何なる方向に存するかを知ることができるし、また知ることが必要である。そればかりでなく、文学にとっても哲学にとってもその問題はまさに現実の生そのもののうちから与えられるのであるから、そこに意識的な移入・依存の関係が存在していない場合においても、同時代の文学と哲学との間には構造の類似関係が含まれるのがつねである。かくて一定の時代の研究者にとって文学は哲学の註釈として役立ち、哲学はまた文学の註釈として役立つという関係が見出されるのである。

(一九三五年一二月)

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