人生論ノート (三木 清)

娯楽について

生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えることによって生活を楽しむということは可能になる。

娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴をそなえている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代りに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。

娯楽というものは、簡単に定義すると、他の仕方における生活である。この他とは何であるかが問題である。この他とは元来宗教的なものを意味していた。従って人間にとって娯楽は祭としてのみ可能であった。

かような観念が失われたとき、娯楽はただ単に、働いている時間に対する遊んでいる時間、真面目まじめな活動に対する享楽きょうらく的な活動、つまり「生活」とは別の或るものと考えられるようになった。楽しみは生活そのもののうちになく、生活の他のものすなわち娯楽のうちにあると考えられる。一つの生活にほかならぬ娯楽が生活と対立させられる。生活の分裂から娯楽の観念が生じた。娯楽を求める現代人は多かれ少かれ二重生活者としてそれを求めている。近代的生活はそのように非人間的になった。生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活の他のものとして娯楽を求めるが、その娯楽というものは同じように非人間的であるのほかない。

娯楽は生活の附加物であるかのように考えられるところから、それはまた断念されてもいもの、むしろ断念さるべきものとも考えられるのである。

祭は他の秩序のもの、より高い秩序のものと結び附いている。しかるに生活と娯楽とは同じ秩序のものであるのに対立させられている。むしろ現代における秩序の思想の喪失がそれらの対立的に見られる根源である。

他の、より高い秩序から見ると、人生のあらゆる営みは、真面目な仕事も道楽も、すべて慰戯(divertissement)に過ぎないであろう。パスカルはそのように考えた。一度この思想にまで戻って考えることが、生活と娯楽という対立を払拭ふっしょくするために必要である。娯楽の観念の根柢こんていにも形而上学けいじじょうがくがなければならぬ。

たとえば、自分の専門は娯楽でなく、娯楽というのは自分の専門以外のものである。画は画家にとっては娯楽でなく、会社員にとっては娯楽である。音楽は音楽家にとっては娯楽でなく、タイピストにとっては娯楽である。かようにしてあらゆる文化について、娯楽的な対し方というものが出来た。そこに現代の文化の堕落の一つの原因があるといえるであろう。

現代の教養の欠陥は、教養というものが娯楽の形式において求められることに基いている。専門は「生活」であって、教養は専門とは別のものであり、このものは結局娯楽であると思われているのである。

専門という見地から生活と娯楽が区別されるに従って、娯楽を専門とする者が生じた。彼にとってはもちろん娯楽は生活であって娯楽であることができぬ。そこに純粋な娯楽そのものが作られ、娯楽はいよいよ生活から離れてしまった。

娯楽を専門とする者が生じ、純粋な娯楽そのものが作られるに従って、一般の人々にとって娯楽は自分がそれを作るのに参加するものでなく、ただ外から見て享楽するものとなった。彼等が参加しているというのはただ、彼等が他の観衆とか聴衆の中に加わっているという意味である。祭が娯楽の唯一ゆいいつの形式であった時代に比較して考えると、大衆が、もしくは純粋な娯楽そのものが、もしくは享楽が、神の地位を占めるようになったのである。今日娯楽の大衆性というものは概してかくのごときものである。

生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。それらを抽象的に対立させるところから、娯楽についての、また生活についての、種々の間違った観念が生じている。

娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。生活と娯楽とが人格的統一にもたらされることが必要である。生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければならぬ。

娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ。

娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。

娯楽は他の仕方における生活として我々の平生使われていない器官や能力を働かせることによって教養となることができる。この場合もちろん娯楽はただ他の仕方における生活であって、生活の他のものであるのではない。

生活の他のものとしての娯楽という抽象的な観念が生じたのは近代技術が人間生活に及ぼした影響にるものとすれば、この機械技術を支配する技術が必要である。技術を支配する技術というものが現代文化の根本問題である。

今日娯楽といわれるものの持っている唯一の意義は生理的なものである。「健全な娯楽」という合言葉がそれを示している。だから私は今日娯楽といわれるもののうち体操とスポーツだけは信用することができる。娯楽は衛生である。ただ、それは身体の衛生であるのみでなく、精神の衛生でもなければならぬ。そして身体の衛生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衛生は観念の運行を善くすることにある。凝結した観念が今日かくも多いということは、娯楽の意義とその方法がほんとに理解されていない証拠である。

生活を楽しむ者はリアリストでなければならぬ。しかしそのリアリズムは技術のリアリズムでなければならない。即ち生活の技術の尖端せんたんにはつねにイマジネーションがなければならない。あらゆる小さな事柄に至るまで、工夫と発明が必要である。しかも忘れてならないのは、発明は単に手段の発明にとどまらないで、目的の発明でもなければならぬということである。第一級の発明は、いわゆる技術においても、新しい技術的手段の発明であると共に新しい技術的目的の発明であった。真に生活を楽しむには、生活において発明的であること、とりわけ新しい生活意欲を発明することが大切である。

エピキュリアンというのは生活の芸術におけるディレッタントである。真に生活を楽しむ者はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。

希望について

人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっているゆえに、人生は運命なのである。

希望は運命のごときものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。

人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。

自分の希望はFという女と結婚することである。自分の希望はVという町に住むことである。自分の希望はPという地位を得ることである。等々。ひとはこのように語っている。しかし何故にそれが希望であるのか。それは欲望というものでないのか。目的というものでないのか。あるいは期待というものでないのか。希望は欲望とも、目的とも、期待とも同じではないであろう。自分が彼女に会ったのは運命であった。自分がこの土地に来たのは運命であった。自分が今の地位にいるのは運命であった。個々の出来事が私にとって運命であるのは、私の存在が全体として本来運命であるためである。希望についても同じように考えることができるであろう。個々の内容のものが希望と考えられるのは、人生が全体として本来希望であるためである。

それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。

希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味いたくない者は初めから希望を持たないのがい、といわれる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、かえって期待という如きものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。

たとえば失恋とは愛していないことであるか。もし彼或いは彼女がもはや全く愛していないとすれば、彼或いは彼女はもはや失恋の状態にあるのでなく既に他の状態に移っているのである。失望についても同じように考えることができるであろう。また実際、愛と希望との間には密接な関係がある。希望は愛によって生じ、愛は希望によって育てられる。

愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現わすとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。

希望というものは生命の形成力以外の何物であるか。我々は生きている限り希望を持っているというのは、生きることが形成することであるためである。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成に達する。生命の形成力が希望であるというのは、この形成が無からの形成という意味をもっていることにるであろう。運命とはそのような無ではないのか。希望はそこから出てくるイデー的な力である。希望というものは人間の存在の形而上学けいじじょうがく的本質をあらわすものである。

希望に生きる者はつねに若い。いな生命そのものが本質的に若さを意味している。

愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるというのは二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なものであるということである。それは二人が愛するときいわば第三のものすなわち二人の間の出来事として自覚される。しかもこの第三のものは全体的に二人のいずれの一人のものでもある。希望にもこれに似たところがあるであろう。希望は私から生ずるのでなく、しかも全く私の内部のものである。真の希望は絶望から生じるといわれるのは、まさにそのこと即ち希望が自己から生じるものでないことを意味している。絶望とは自己を抛棄ほうきすることであるから。

絶望において自己を捨てることができず、希望において自己を持つことができぬということ、それは近代の主観的人間にとって特徴的な状態である。

自分の持っているものは失うことのできないものであるというのが人格主義の根本の論理である。しかしむしろその逆でなければならぬ。自分に依るのでなくどこまでも他から与えられるものである故に私はそれを失うことができないのである。近代の人格主義は主観主義となることによって解体しなければならなかった。

希望と現実とを混同してはならぬといわれる。たしかにその通りである。だが希望は不確かなものであるか。希望はつねに人生というものほどの確かさは持っている。

もし一切が保証されているならば希望というものはないであろう。しかし人間はつねにそれほど確実なものを求めているであろうか。あらゆる事柄に対して保証されることを欲する人間――ひとは戦争に対してさえ保険会社を設立する――も、かけに熱中する。言い換えると、彼は発明された偶然、強いて作られた運命に心を砕こうとするのである。恐怖或いは不安によって希望を刺戟しげきしようとするのである。

希望の確実性はイマジネーションの確実性と同じ性質のものである。生成するものの論理は固形体の論理とは異っている。

人生問題の解決のかぎは確実性の新しい基準を発見することにあるように思われる。

希望が無限定なものであるかのように感じられるのは、それが限定する力そのものであるためである。

スピノザのいったように、あらゆる限定は否定である。断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。

形成は断念であるということがゲーテの達した深い形而上学的智慧ちえであった。それは芸術的制作についてのみいわれることではない。それは人生の智慧である。

旅について

ひとはさまざまの理由から旅に上るであろう。或る者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、また或る一人は親戚しんせきの不幸を見舞うために、そして他の一人は友人の結婚を祝うために、というように。人生がさまざまであるように、旅もさまざまである。しかしながら、どのような理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅としての共通の感情がある。一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感懐がある。あたかも、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるように。

旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅のうれしさはかように解放されることの嬉しさである。ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅においては誰も何等か解放された気持になるものである。或る者は実に人生から脱出する目的をもってさえ旅に上るのである。ことさら脱出を欲してする旅でなくても、旅においては誰も何等か脱出に類する気持になるものである。旅の対象としてひとの好んで選ぶものが多くの場合自然であり、人間の生活であっても原始的な、自然的な生活であるというのも、これに関係すると考えることができるであろう。旅におけるかような解放乃至ないし脱出の感情にはつねに或る他の感情が伴っている。すなわち旅はすべての人に多かれ少かれ漂泊の感情を抱かせるのである。解放も漂泊であり、脱出も漂泊である。そこに旅の感傷がある。

漂泊の感情は或る運動の感情であって、旅は移動であることから生ずるといわれるであろう。それは確かに或る運動の感情である。けれども我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情がいてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考えられないであろう。そして旅は、どのような旅も、遠さを感じさせるものである。この遠さは何キロと計られるような距離に関係していない。毎日遠方から汽車で事務所へ通勤している者であっても、彼はこの種の遠さを感じないであろう。ところがたといそれよりも短い距離であっても、一日彼が旅に出るとなると、彼はその遠さを味うのである。旅の心ははるかであり、この遥けさが旅を旅にするのである。それだから旅において我々はつねに多かれ少かれ浪漫的になる。浪漫的心情というのは遠さの感情にほかならない。旅の面白さの半ばはかようにして想像力の作り出すものである。旅は人生のユートピアであるとさえいうことができるであろう。しかしながら旅は単に遥かなものではない。旅はあわただしいものである。かばん一つで出掛ける簡単な旅であっても、旅には旅のあわただしさがある。汽車に乗る旅にも、徒歩で行く旅にも、旅のあわただしさがあるであろう。旅はつねに遠くて、しかもつねにあわただしいものである。それだからそこに漂泊の感情が湧いてくる。漂泊の感情は単に遠さの感情ではない。遠くて、しかもあわただしいところから、我々は漂泊を感じるのである。遠いと定まっているものなら、何故にあわただしくする必要があるであろうか。それは遠いものでなくて近いものであるかも知れない。いな、旅はつねに遠くて同時につねに近いものである。そしてこれは旅が過程であるということを意味するであろう。旅は過程であるゆえに漂泊である。出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしている、これが行動とか実践とかいうものの本性である。しかるに旅は本質的に観想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の実践的生活から脱け出して純粋に観想的になり得るということが旅の特色である。旅が人生に対して有する意義もそこから考えることができるであろう。

何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向ってゆくことである故に。日常の経験においても、知らない道を初めて歩く時には実際よりも遠く感じるものである。仮にすべてのことが全くよく知られているとしたなら、日常の通勤のようなものはあっても本質的に旅というべきものはないであろう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。それだから旅には漂泊の感情が伴ってくる。旅においてはあらゆるものが既知であるということはあり得ないであろう。なぜなら、そこでは単に到着点あるいは結果が問題であるのでなく、むしろ過程が主要なのであるから。途中に注意している者は必ず何か新しいこと、思い設けぬことに出会うものである。旅は習慣的になった生活形式から脱け出ることであり、かようにして我々は多かれ少かれ新しくなった眼をもって物を見ることができるようになっており、そのためにまた我々は物において多かれ少かれ新しいものを発見することができるようになっている。平生見慣れたものも旅においては目新しく感じられるのがつねである。旅の利益は単に全く見たことのない物を初めて見ることにあるのでなく、――全く新しいといい得るものが世の中にあるであろうか――むしろ平素自明のもの、既知のもののように考えていたものに驚異を感じ、新たに見直すところにある。我々の日常の生活は行動的であって到着点或いは結果にのみ関心し、その他のもの、途中のもの、過程は、既知のもののごとく前提されている。毎日習慣的に通勤している者は、その日家を出て事務所に来るまでの間に、彼が何をし、何に会ったかを恐らくおもい起すことができないであろう。しかるに旅においては我々は純粋に観想的になることができる。旅する者は為す者でなくて見る人である。かように純粋に観想的になることによって、平生既知のもの、自明のものと前提していたものに対して我々は新たに驚異を覚え、或いは好奇心を感じる。旅が経験であり、教育であるのも、これにるのである。

人生は旅、とはよくいわれることである。芭蕉ばしょうの奥の細道の有名な句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず迫ってくる実感であろう。人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。それは何故であろうか。

何処どこから何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的ななぞである。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変ることがないであろう。いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊である。我々の行き着くところは死であるといわれるであろう。それにしても死が何であるかは、誰も明瞭めいりょうに答えることのできぬものである。何処へ行くかという問は、ひるがえって、何処から来たかと問わせるであろう。過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じるのである。漂泊の旅にはつねにさだかにとらえ難いノスタルジヤが伴っている。人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであろう。我々は我々の想像に従って人生を生きている。人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。旅は人生の姿である。旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粋に観想的になることによって、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されていた人生に対して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味わさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客観的な遠さや近さや運動に関係するものでないことを述べてきた。旅において出会うのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出会うのである。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。

既にいったように、ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。旅は確かに彼を解放してくれるであろう。けれどもそれによって彼が真に自由になることができると考えるなら、間違いである。解放というのは或る物からの自由であり、このような自由は消極的な自由に過ぎない。旅に出ると、誰でも出来心になりやすいものであり、気紛きまぐれになりがちである。人の出来心を利用しようとする者には、その人を旅に連れ出すのが手近かな方法である。旅は人を多かれ少かれ冒険的にする、しかしこの冒険といえども出来心であり、気紛れであるであろう。旅における漂泊の感情がそのような出来心の根柢こんていにある。しかしながら気紛れは真の自由ではない。気紛れや出来心に従ってのみ行動する者は、旅において真に経験することができぬ。旅は我々の好奇心を活溌かっぱつにする。けれども好奇心は真の研究心、真の知識欲とは違っている。好奇心は気紛れであり、一つの所に停まって見ようとはしないで、次から次へ絶えず移ってゆく。一つの所に停まり、一つの物の中に深く入ってゆくことなしに、如何いかにして真に物を知ることができるであろうか。好奇心の根柢にあるものも定めなき漂泊の感情である。また旅は人間を感傷的にするものである。しかしながらただ感傷に浸っていては、何一つ深く認識しないで、何一つ独自の感情を持たないでしまわねばならぬであろう。真の自由は物においての自由である。それは単に動くことでなく、動きながら止まることであり、止まりながら動くことである。動即静、静即動というものである。人間いたる処に青山せいざんあり、という。この言葉はやや感傷的な嫌いはあるが、その意義に徹した者であって真に旅を味うことができるであろう。真に旅を味い得る人は真に自由な人である。旅することによって、賢い者はますます賢くなり、愚かな者はますます愚かになる。日常交際している者が如何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分るものである。人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。

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