時代批評の貧困 (三木 清)

今日、日本の文壇で持て囃されているシェストフとかドストエフスキイとかジイドとかいう人は、基督教の宗教的思想的背景あって始めて在る人々である。随って、日本人のような、一種の広い意味の自然主義的、楽観的な性質の国民の間に、たといこれ等の人々の文学が輸入されても、根本的な理解が一般にどこまで可能であるかは、問題である。

現代のインテリが抱く社会的不安、生活不安の気持に、これ等の人々の文学が一致する所があって今日の流行を来しているのであろう。然しながら、かかる悲劇的な文学が日本の文学に本当に血となり肉となってゆくかどうかは大なる疑問であろう。

嘗て、白樺派盛んだった頃、人道主義と呼ばれた時代に、同じくドストエフスキイは流行った。それが今日再び流行っているが、その時代よりももっと深い暗い絶望的なものが人々の心に生じているので、嘗ての影響の仕方と今日の理解の仕方とは意味も違っていなければならない。

近頃の文学研究青年の一般的傾向は文学に対して非常に真面目になった事である。昔の、文学を遊蕩的にみていた時代に比ぶれば、今の若い青年達は文学に対して堅苦し過ぎる位に真面目だと思う。だから、一般的にいえば、悲劇的傾向をもつ外国作家が迎えられるのは、現代の青年に一致するものがある結果である。

然しながら、かかる傾向が、将来の文学、殊に日本の文学の方向を暗示しているか否か、或いは過去の伝統に照して見て文学の実となるかどうかという事は、一般的には可成り問題であろう。

ドストエフスキイの影響の如きは、日本に於ては単に心境的心理的小説に堕する危険があるであろう。

私は、純文学の今日ゆくべき道としては、どうしても、プロ文学が暗示した社会的なものに向って一応突破しなければ、前進は困難ではないかと思う。プロ文学は今日客観的状勢によって停頓した。然しその文学的意図の如き、社会的なものに対してもっていた態度の如き、余りに今日の純文学畑の人々によって無視されすぎてはいないかと考えるのである。

文学が何等かの意味で社会とか生活とかに対する時代批評を含むべきである事はいうまでもないが、そういう批評的な眼がプロ文学に於て今まで余りに抽象的であったり、政治主義にとらわれたりしていたのは事実である。然しかかる時代批評的要素はまた純文学に於ても当然生かされて来なければならない。

ニイチェはニイチェの時代、ジイドはジイドの時代、その時代時代の人生批評家である。日本にはまた日本特殊の社会、生活、伝統があり、そういうものに対する新しい眼をもった作家が出て来なければならない。

人道主義時代には白樺の運動なんか多少それをもっていた。然し今日、それに匹敵するような一種の批評をもっている青年が純文芸の方にいるかというと、それは疑問である。

元来、哲学や思想の方では、外国から影響されることが外国の模倣に終ってはならぬというように、随分やかましく云われて来た。然るに文学の方面では、外国文学を受け容れる我々日本人の立場が如何なるものであるべきかについての検討批判が、稍々おろそかでありはしないか?

明治大正期から今日までの外国文学の影響は、活溌な輸入時代、暴食満腹時代をすぎて、咀嚼の時代が今来ているとはいえない。

一般的教養が高まったからといって、それは正しい摂取の仕方とは限らない。依然として、輸入文学は輸入品であり、それを消化する者は日本人なのだ。

而も、今日の日本は、外国文学を盛んにとり入れつつも、一の営養不良に陥っている状態である。内部的苦悶をもつ人が恰も美味を求め、嗜好にひた向きに走りつつも、なお且つ消化と吸収のよからざる現象に似ている。

純文芸の人々は正に、こうした状態にあるのではないか。内部的貧困の為に、毫も、芸術的生産に溌剌たるものを示しえない。

この状態を救うものとしてシェストフ、ジイド、ドストエフスキイの情熱は、余りに日本人の精神力には異質的でさえあるのだ。そこに問題がある。いな内部的貧困は実は時代批評の精神の欠乏にあるのだ。

時代批評の貧困と敢えて私はいう。それは、純文学が今日充足すべき第一条件ではあるまいか。

(一九三四年七月)

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